あなたと花とチョコレート
寮へと帰る途中、鮮やかな色が視界の端を掠めた。
エアグルーヴは思わず足を止めて首を上げる。そして正体を知ってああ、と納得した。
「紅梅が咲いているのか」
一軒家の塀の向こうから顔を覗かせていた細い枝に、ぽつりぽつりと濃い桃色をした花弁が連なっていた。まだまだ寒さの厳しい日々が続いているが、植物たちはいち早く春の訪れを察知しているらしい。
二月もそろそろ半ばを過ぎる。あと半月もすれば、今度は桃の花を見かけることが多くなるだろう。
丸い姿が可愛らしい梅の花は、つい先ほど目にしていた一対の色とよく似ていた。エアグルーヴは無意識に細めていた目を閉じ、ゆっくりと開いてから再び歩き出す。
学園の花壇も、そろそろ春植えの準備をした方がよさそうだ。今年はどんな植え付けにしようか。白い息を吐き出しながら、脳内で園芸品のカタログを広げる。
学園にある花壇は、エアグルーヴが所属する美化委員が菅理している。委員が個々に管理しているものと、美化委員が共同で管理する区画、それから温室の一部もそうだ。
そして共同管理の花壇は校門前や来客が通るような、外部の者が頻繁に出入りする場所にある。ゆえに、四季ごとにテーマを決めて植え付けを行っていた。
「共同管理の花壇については、今回は公募でテーマを募集するのもありだな」
先日ニシノフラワーと交わした会話をふいに思い出し、小さく呟く。脳裏に浮かぶのは、影に潜んで花を見守っていた者たちの顔だ。
美化委員には、花を育てることが好きな者たちが多く集まっている。だが、自分たち以外にも花を愛でる者も少なくない。中にはわざわざひと気のない時間を見計らって花の世話を焼く者もいるのだ。
そういった者たちも、匿名であれば要望を言いやすいのではないだろうか。影の花守り人たちは、どちらかというと日陰を好むようだから。
早速美化委員の会議で提案し、意見を募ってみるか。議題の追加やリクエスト用のフォーム案など、二日後の会議について歩きながら思考をまとめているうちに、気付けば栗東寮に辿り着いていた。
ひゅるりと通り過ぎる北風に反射で耳を伏せながら、コートのポケットに手を入れる。静電気対策用のゴム製キーホルダーを取り出して、ドアノブにしっかりとつけた。静電気体質のエアグルーヴにとって、冬場の時期には欠かせない対策グッズだ。
息を詰めながらドアに触れる。あの嫌な痛みは襲ってこない。ほっと安堵の息を吐きながら、寮の扉を開く。
「あらエアグルーヴちゃん、おかえりなさい」
「寮母さん。ただいま戻りました」
玄関前には、この寮の寮母を務める女性が佇んでいた。彼女は「丁度良かった!」とにこやかに笑って、靴を履き替えたエアグルーヴにダンボールを持ってくる。
「さっき宅配便が届いたばかりでね。仕分けてたところだったのよ。はいこれ、エアグルーヴちゃん宛ての荷物」
「いつもありがとうございます。よければ手伝いましょうか?」
「ありがとうね。でも大丈夫、もうほとんど終わったから。それよりその荷物、要冷蔵みたいよ。早く冷蔵庫に入れてきなさいな」
受け取った荷物は小さく軽かった。宛名を確認してすぐに得心し、お言葉に甘えさせていただきます、と中へと入っていった。
自身の部屋の前で立ち止まり、ドアをノックをする。返事はない。ファインモーションはまだ帰ってきていないようだ。
鍵を開けて中に入れば、室内はすっかり冷え切っていた。スクールバッグを置き、暖房のスイッチを入れる。
ひとまずは手洗いだとコートをハンガーにかけ、エアグルーヴは再び部屋を出ていった。
どこから聞きつけたのか、企画者は、エアグルーヴが花好きと知って依頼してきた。
ふた月ほど前のことだ。大手百貨店のとあるイベントの広告塔になってほしいと、エアグルーヴに打診がきていた。
広報期間は二月の初めから中旬。とくれば、内容を聞かずとも何のイベントに合わせているのかは想像に難くなかった。
正直、エイシンフラッシュやヒシアケボノなど適任がいるのではないかと初めは思った。だが企画者は、冒頭の理由で己を指名してきたのだった。
先ほど受け取った荷物の宛名には、その依頼を受けた企業と企画者の名前が記載されていた。何より今日は二月十三日──そう、バレンタインデーの前日である。
「──ああ、やはりな」
緩衝材を取り除いた先に現れたのは、見覚えのある正方形のギフトボックスだった。
「こちらが、エアグルーヴさんに出演いただきたい、バレンタインイベントのプロモーション案です」
企画者との顔合わせで紹介されたのは、宣伝用の動画とWebコンテンツだった。企画書に記されたタイトルは『花とチョコレート』。
食用花として育てられたエディブルフラワーと、カカオの生産から力を入れた新規精鋭のチョコレートブランドによるバレンタイン限定のチョコレートなのだそうだ。ちなみに企画者は、エディブルフラワーの生産者だった。
「ご覧いただいた動画と、Webコンテンツの紹介用の動画、それから広告用のポスターに、エアグルーヴさんをぜひ起用させていただきたいのです」
Webコンテンツは、三種のチョコレートと数十種類のエディブルフラワーを選んで、自分だけのチョコレートを作成できるのだという。選んだ花によって四十種類以上のメッセージが生成され、ウマッターやウマスタでシェアして楽しめる企画だそうだ。
その最初の花選びを、宣伝PVとしてエアグルーヴにやってもらいたい、ということだった。
「花は飾り、愛でる"だけ"ではない。ときには想いを伝える手段として、またときには料理に風味や香りを加えるスパイスにもなるのです。私たちは花に秘められた様々なポテンシャルを、多くのひとに広めていきたいのです」
だからあなたにお願いしたいと、そう真剣な眼差しで語る企画者に共感したのが決定打となった。彼女の花に対する熱意に感じ入り、エアグルーヴは依頼を承諾した。そうして動画とポスターの撮影が始まったのだった。
とても満足のいくものが撮れたと嬉しそうに笑う企画者を思い出し、エアグルーヴは口の端を緩める。
彼女との仕事は、エアグルーヴとしても楽しいひと時であった。方向性は異なれど、花に対する興味関心の強さには胸を打たれたものだ。食用花の可能性について語る彼女の知識の深さと行動力には、こちらも学ぶものが多くあった。
良い機会に恵まれたものだ。撮影自体に苦手意識のあるエアグルーヴにしては珍しい感想を抱きながら、箱に添えられたカードを手に取る。
色鮮やかな花弁で着飾られた、九つのボンボンショコラが平面的に描かれていた。これが箱の中身ということだろう。
そのイラストには見覚えがある。当然だ。これはエアグルーヴが、撮影時にデザインしたチョコレートなのだから。
企画者がエアグルーヴを起用したかった理由は、もう一つあった。彼女が着目したのは、エアグルーヴがレースを志す競技者であるという点だ。
──『チョコレートのデザインは、担当トレーナーさんに贈ることを想定して作っていただきたいと考えております』
URAが運営する公式レース──トゥインクル・シリーズは、トレーナーと専属契約を結ぶことで初めてデビューできる。しかしそこはスタートラインに過ぎない。レース界の頂点を目指すためには、デビュー戦を勝ち抜いたひと握りのウマ娘たちとしのぎを削り合わなければならないのだ。
特に重賞で最も格式の高いGⅠクラスのレースは、観客ごと刹那の熱狂に包まれるほどに、きらびやかで熾烈を極めるレースが巻き起こる。その高みに上り詰め、かつ頂いた宝冠を守り続けるためには、ウマ娘自身の実力は勿論、トレーナーの才覚も必然的に問われてくるのだ。
夢に向かって走るウマ娘と、彼女たちの夢を叶えるために支えるトレーナー。彼女は、その関係性を花とチョコレートで表現してほしいのだと言った。
その理由を聞いたとき、企画者が競技者として、そしてウマ娘のレースがどのように成り立っているのかを知ったうえでエアグルーヴを起用したのだと理解した。ゆえにいたく感心したものだ。
カードを裏返せば、撮影に対する感謝と賛辞が丁寧な文章で綴られていた。おかげでチョコレートの売り上げも上々だという。
エディブルフラワーに関しても注文が増えているという一文に、エアグルーヴの唇は自然と弧を描く。
いい仕事ができたという自負はあった。だがこうして実績に繋がっていることが知れると、より一層喜ばしかった。
さて、とエアグルーヴは綺麗に包装された箱に視線を戻す。折角前日に届けてもらったのだ。明日は休養日だが、奴の仕事が終わる頃に渡しに行くとしよう。
あのトレーナーのことだ。また仕事にかまけて、バレンタインのことなどすっぽり抜け落ちているに違いない。思い出させてやるという意味でも、当日に渡した方がいいだろう。
「……ん? 何だ、もう一つ箱が……」
箱の中身が描かれたカードとチョコレートの箱を取り出すと、もう一つ同じ箱が現れた。色違いのリボンが結ばれた二箱を眺め、エアグルーヴは首を傾げる。
もしや、エアグルーヴの分も用意してくれたのだろうか。とりあえずその箱も取り出して──エアグルーヴは尻尾が跳ね上がるほど絶句した。
「なっ……! は⁉︎」
ダンボールの底にはもう一枚、チョコレートのイラストが貼り付いていた。
先ほどのカードと同じもの。しかし描かれているデザインが異なっていた。
しかも、この花の配置は。
ぼっと顔に熱が集中するのがわかった。机の上に二つの箱を置いたエアグルーヴは、焦りながら底にあるカードを手に取る。
『僭越ではございますが、あの時エアグルーヴさんがテスト用のWebコンテンツで作成していたデザインを、チョコレートにさせていただきました』
裏返せば、先ほどと同じ筆跡でメッセージが記されていた。何故そのことを彼女が、と思い、しかしすぐに額を手で押さえる。
当たり前だ。企画者が、担当コンテンツのデータを見返せないわけがない。間抜けにもほどがあると、エアグルーヴは唇を噛む。
”それ”は、休憩時間中、戯れに作ったものだった。
撮影した動画をスタッフがチェックしている間のことだった。唐突に生まれた待機時間に、例の花のチョコレートをデザインできるWebコンテンツを手慰みに触っていた。
そうだ。確か作り終わった直後に呼ばれて、そのまま。
『差し出がましい真似をしてしまい、誠に申し訳ございません。ですが、この花々に込められただろう想いを考えますと、見て見ぬふりをして泡沫に溶かしてしまうことが、どうしても私にはできませんでした。どうか──』
メッセージを読み終えたエアグルーヴは、よろよろと椅子に座り込む。両手で顔を覆いながら、肺が空になるほどに息を吐き出した。
エアグルーヴは誰かに花を贈る際、『花言葉』の意味まで考えて花を選ぶ。相手に伝わらずとも、先人が花に込めた意味や願いごと大切にしたいと、そう考えるからだ。
だからこそ、トレーナーに向けて考えたデザインは、細心の注意を払って選んだのだ。あらぬ誤解を招かないよう、余計な火種を撒かぬように。
だが、あの時Webコンテンツでデザインしたものは。手にしたままのカードを表に戻し、指の隙間からそれを見る。
「まさか、気付かれるとは……」
想定外だった。だがあの企画者の花に対する知識量と察しの良さを考えれば納得もする。いつの間にか垂れていた耳まで熱い。
花言葉というものは、一輪の花に数種類の意味が込められているものが多い。ゆえに同じ花が使われていたとしても、添えた花次第で読み取れる意味は変わってくる。
例えば、バラには『愛情』や『情熱』、『美』といった花言葉が付けられている。バレンタインというイベントでその花を渡せば、贈られた相手はそこに『愛』を見出すだろう。
しかし共に添える花に、『勝利』や『困難に打ち勝つ』という意味をもつナスタチウムが、『慈愛』や『献身』の意味が付けられたカレンデュラが添えられていたらどうだろうか。
何よりこれは、"女帝"が担当トレーナーに贈る花束だ。それらの要素を鑑みれば、バラは『愛』から『美』へと変換されることだろう。事実エアグルーヴは日頃の献身に対しての労いと、これからも皆の理想であり続けるという決意をこのチョコレートに込めた。
しかしそれはエアグルーヴが個人的に考えていることであって、一般常識ではない。……と、思っていたのだが。
そういえば、とエアグルーヴは打ち合わせ時のやり取りを思い返す。企画者は、エアグルーヴがデザインしたチョコレートに対し、説明するよりも先に意図を汲み取っていた。返す返すも何故気付かなかったのか。
机に項垂れながらうぅと呻き声を上げる。エアコンからの風がふわりと肌を撫でる。顔が火照っていて、一瞬冷房に押し間違えたかと思うほどだった。
──戯れに作ったものだ。同じ企画のなかで作られたコンテンツなら、触っておいた方がいいだろうと、その程度の気持ちだった。
だが、だからといって適当に作っていたというわけでもなかった。何故なら、そのときに想定していた贈り主は。
『どうかエアグルーヴさんの想いが、甘いチョコレートに乗ってその人に届きますように』
メッセージに綴られた終わりの文字を思い返し、再び大きなため息をこぼす。
「どうしろというのだ……」
答えが出ないまましばらく机に突っ伏していたエアグルーヴは、ふと『要冷蔵』の文字を思い出して慌てて立ち上がったのだった。
◆ ◆ ◆
二月十四日。この日の生徒会室は、甘い香りと可愛らしいラッピングで埋め尽くされる。
毎年恒例の景色だ。少なくともエアグルーヴが副会長に就任した頃には既にそうなっていた。
その日の生徒会長及び副会長の業務は、積み上がったダンボールの仕分け作業から始まる。各々の担当トレーナーが手伝いにくる年もあるが、基本的には贈られた者が責任をもって仕分けるというのが、エアグルーヴ達の間では暗黙のルールであった。
普段であればこういった作業を面倒くさがるブライアンも、しかめ面をしつつも自分宛てのチョコレートを探しては黙って箱に仕分けていた。
「……さて、これで整理し終わったな。二人ともお疲れ様」
「会長もお疲れ様です」
「やっと終わったか……ったく、これが肉だったらいくらでも食えるんだがな」
「こら、贈り物にケチをつけるな」
やれやれと首を振るブライアンを注意する。すると彼女は眉間にしわを寄せたまま息をついた。
「別に迷惑だとは言ってない。チョコだと食える量にも限界があるってことだ」
「……まあ確かに、この量を見ると、いささか辟易するのは否定せんが……」
エアグルーヴは腕を胸の前で組みながら、仕分けしたばかりの山を見上げる。
ウマ娘といえど、無尽蔵に食事を食べられるわけではない。ブラックホール胃袋の異名を持つウマ娘ならともかく、エアグルーヴたちの食事量は平均的だ。
自分たちに憧れ、慕ってくれるその気持ち自体は嬉しく思う。が、期限内にこの量を食べきらなければならないことを考えると、ブライアンの気持ちもわからなくはなかった。
「そうだな。ありがたいことではあるが、年々量も増えている。ふむ……来年は生徒会から、何か働きかけてみようか」
「それはそれで面倒だな……」
「だったらお前が対策案を考えろ。いちいち文句を垂れるんじゃない」
「そういうのはアンタたちの得意分野だろ。それこそ面倒だ」
そっぽを向くブライアンにさらに詰め寄ろうとして、「まあまあ」とルドルフが間に入る。
「確かに企画や対策を練ることに関しては、私やエアグルーヴに一日之長(いちじつのちょう)があるだろう。だが、より最善の策を練るには、君の視点からの単刀直入な意見も必要だ。その際はぜひ君の考えも聞かせてくれ、ブライアン」
諭すようにルドルフがそう言うと、ブライアンは返事の代わりにふんと鼻を鳴らした。そして仕分けた三つの山のうちのひとつを持ち上げ、ドアの方へと歩き出す。
「おい、どこへ行く」
「トレーナー室に置いてくる。そろそろトレーニングの時間だしな」
「まだ業務時間は終わって──」
「外回りもしながら、だ。これで文句ないだろ」
本当にやるんだろうな? と疑問が湧いたが、ルドルフが「いってらっしゃい」と手を振ったために口にはできなかった。
尻尾をひと振りしてドアの向こうに消えていくブライアンを見送ってから、エアグルーヴはため息をこぼす。隣からは苦笑まじりに笑声が聞こえてきた。
「気を遣われた、かな……」
「会長?」
「いや、何でもないよ。私たちも少し休憩しようか」
ぽそりと囁きのような呟きを拾いきれずに聞き返すと、彼女はゆるく首を振ってそう返答してきた。少し腑に落ちない気持ちになったが、続く「お茶を淹れてくるよ」の一言に、エアグルーヴは慌てて口を開く。
「いえ、お茶でしたら私が」
「いいや、今日は私に淹れさせてくれ。先日、家からディンブラの茶葉が送られてきてね。君にも是非味わってもらいたいんだ」
耳を揺らしながらにこやかに言われれば、それ以上食い下がれない。彼女の厚意に甘えることにして、先にソファに腰掛けた。
給湯室の奥に隠れたルドルフをしばし見つめてから、エアグルーヴは静かに息をついて背もたれに重心を預けた。そう間を置かず、水音や茶器が擦れる音が仕切り壁一枚を隔てて聞こえてくる。
迷いの感じられない音だ。きっと手本にしたくなるような所作でお茶を淹れているのだろうなと、何となしに思った。
先ほどよりもずっと静かになった室内で、エアグルーヴはちらりと横のスクールバッグを見下ろした。
普段は運動着が収められているスペースに、今日は保冷バッグが入っている。中身は昨日届いたチョコレートだ。──トレーナー宛てのものではなく、もう一つの。
エアグルーヴは忙しなく耳を動かす。今が好機ではないだろうか。いやしかし、やはり迷惑では。
今朝と同じ葛藤が頭の中を埋め尽くす。じわじわと頬に広がる熱に、ぐっと手のひらを握りしめた。
Webコンテンツでデザインしたチョコレートは、ルドルフに向けて作ったものだった。
ここまできたら渡せばいい。そう理解はしているが、どうしても二の足を踏んでしまう。
何故なら、エアグルーヴはルドルフに、今までチョコレートを渡したことがないのだ。
だってそうだろう。ブライアンがぼやいていた通り、ウマ娘といえど胃袋には限界がある。このチョコレートの山を期限内に食べきるには相当骨が折れることを、エアグルーヴ自身もよくよく理解しているのだ。
ルドルフのことは尊敬している。共に生徒会役員として活動できることを誇り思っている。今ではそこに別の感情が伴うようにまでなるほど、彼女に対して並々ならぬ思いを抱いているのだ。
だが一方で、エアグルーヴは毎年このチョコの山を目の当たりにしている。そしてこのあとの苦労もまた、エアグルーヴは身をもって知っていた。
知っているからこそ、ただ渡すだけのことがとんでもない難題に思えて仕方なかった。
「お待たせしたね」
やはり持って帰って自分で食べようか、しかし折角の厚意を無下にするというのも…などとうだうだと悩んでいるうちに、後ろから声をかけられた。
我に返ったエアグルーヴは慌てていえ、と振り返る。次いでぱちりと目を丸くした。
「会長、これは……」
応接用のテーブルに置かれたトレーをまじまじと見つめて、エアグルーヴは問いかける。やや間が空いた後、ルドルフは気まずそうな声音で口を開いた。
「その、よかったら受け取ってくれないだろうか?」
白い陶磁器で揃えられたティーセット。茶器に注がれた褐色の紅茶。
その横に置かれているのは、数種類の花が飾られた、九つのボンボンショコラだった。
「君が出ていた、チョコレートのPVを見たんだ」
ルドルフはそう口火を切る。しかしエアグルーヴは、チョコレートから目が離せなかった。
「それで、迷惑かとは思ったのだが……どうしても贈りたくなってしまってね。花と言えば、私が真っ先に思い浮かべるのは君だから」
正方形のギフトボックスには、五種類の花が添えられていた。
真ん中に咲くのはビオラ。その周りをナデシコと千日紅、青と白のバーベナが囲んでいる。
そして右下の角には、そっと控えめに飾られた、赤いバラの花弁。
チョコレートからゆっくりと顔を上げれば、ルドルフは困ったように眉を下げて笑っていた。揺れる紅梅の瞳は不安げに、僅かに赤みを帯びた頬が照れているのだと窺い知れる。
──どんな気持ちで。
あなたは、これらの花を選んだのだろう。今、どんな気持ちで、自分にこのチョコレートを贈ってくれたのだろうか。
カップから立ちのぼる湯気のように、そんな思考がふわりと熱を伴って通り過ぎる。
「すまない。君に贈られたチョコの量を思えば、余計な負担を掛けてしまうのは重々承知していたんだがね。だからせめてお茶請けとして出してみたんだが……その……」
普段であれば明瞭によく通るはずの声音が、歯切れの悪い言葉をぽつりぽつりと落としていく。次第に声は尻すぼみになり、しまいには二輪の梅の花がちらりとこちらを伺ってきた。
そわそわと落ち着きなく動く毛長の耳に、エアグルーヴは段々と唇が緩むのを抑えきれなくなってしまった。
「……っ、ふ……!」
くすくすと笑声を立てるエアグルーヴに、ルドルフはきょとんと目をしばたかせる。驚きと戸惑いを露わにしたその様子に、すみません、と笑いまじりに謝罪する。
ルドルフのことを笑ったわけではなかった。たった今味わったばかりの何とも奇妙な体験が、あまりにもおかしかったから。
だってまさか、己に自らの背を押されるとは思わなかった。あんなにも難題だと思っていたのに。こんなにも呆気なく飛び越えられるとは。
ひとしきり笑ってから、エアグルーヴはルドルフに向き直る。
「会長、実は私も──」
もうひとつ、わかったことがある。
──きっと私は、このチョコレートの中に、私のチョコレート(想い)が埋もれてしまうのが嫌だったのだ。
見てほしかった。あなたの幸福を祈る白と桃のバーベナを。あなたの瞳を彷彿とさせる千日紅を。
私を焼き付けたいと願い咲いた、青いビオラと黄色のナスタチウムを。──その中心で花開く、深紅のバラを。
甘く、ほろ苦いチョコレートを糧に、あなたへの想いで咲き乱れる花たちを──ただ私だけを、見てほしかったのだ。
取り出した箱を目にした途端、嬉しそうに顔を綻ばせるルドルフを見て、エアグルーヴは胸に満ちた熱とともにそう気付かされたのだった。