フラッシュ厳禁



生徒と学園を繋ぐ窓口として日々忙しなく活動している生徒会にも、いわゆる閑散期というものが存在する。
暦でいえば九月の頭から十月半ば頃。ちょうど夏合宿を終えたあたりだ。生徒会主催の年間行事が一旦落ち着き、新入生も学園生活に馴染んでくるのがこの時期だった。
そして今年も例年通り、このひと月ほどは緩やかな業務が続いていた。といっても目が回るほどの忙しさから、そこそこ定刻通りに終わるようになった程度の緩み具合ではあるが。
それでも夏合宿という大仕事を終えた生徒会面々は、いつもより多く取れる自由時間を休息に、追加トレーニングにと各々が満喫していた。

そんな折のことだ。
とある噂が、生徒の間で広まり始めていた。


「通り魔、か」
定例会の前に議題を確認していたシンボリルドルフは、書類に記された文字を目で追いながら呟く。
「はい。目安箱からも、かなりの被害情報が集まっています」
「寮長からも話が挙がってる。そろそろ何とかしないと、アマさんあたりが暴れ出すぞ」
向かいに座るエアグルーヴが頷き、隣のナリタブライアンも続けて言い添えた。ソファにもたれかかる彼女は、幾分か疲れた表情をしている。
珍しくブライアンが生徒会室に現れたのはそういう理由か。ルドルフは思わず苦笑いをこぼす。
「それはそれは……彼女が剛毅果断となる前に、早急に手を打たねばならんな」
大方、何度も勢い勇んで詰め寄られでもしたのだろう。美浦寮寮長の彼女は、とても情に厚い性格をしている。寮生が被害にあったのなら、居ても立ってもいられなくなるのは当然のことだ。
ルドルフは再び資料に視線を落とす。エアグルーヴがまとめた被害者リストには、五人、六人の話ではない名前が載っていた。ざっと見た限りでも裕に二十人は超えている。
「……多いな。まさかここまでの被害になっていたとは」
「そうですね……学園の性質上、校内には日常的に外部の者が出入りします。カメラを所持しているだけで警戒する者は、あまり多くはないかと」
「ああ。まさしくそこが仇となったのだろうな」
エアグルーヴの指摘した通り、このトレセン学園には開放的にならざるを得ない事情がある。実力以外にもファンの獲得やトレーナーのスカウトが必然となるこの競技の性質上、致し方ない面だ。
それ故に、どうしても害のある者の侵入を完全に防ぐことができない。それはどこのウマ娘養成所でもそうであるが、ここは中央に君臨する最大の学園施設だ。集まる母数が桁ほども違う。
であれば、必然的に不逞な輩も増えるものだ。
そして通り魔と言っても、凶器や露出魔の類ではない。それが余計に事件を難解なものにしていた。
「突如目の前に現れ、フラッシュ撮影をして逃亡する不審者……何とも厄介な相手だな」


ルドルフがその噂を初めて耳にしたのは、己を慕ってたびたび生徒会室に遊びにくるトウカイテイオーからだ。
曰く、彼女のクラスメイトが寮の帰り道で突然現れた男に道を塞がれ、写真を撮られたらしい。
らしい、というのは、その際にかなり強い光を浴びて目を閉じてしまったためだそうだ。ただカメラ特有のシャッター音は聞こえたから、フラッシュ撮影だろうと思ったのだという。
『ひっどいよねー! いくらファンでも突然撮ってくるなんて、やっていいことと悪いことがあるよ!』
お菓子とつまみながらぷんすこと怒るテイオーに、まったくもってその通りだと深く頷く。その子に大事はなかったかと尋ねると、全然元気だよ、とぱっと笑顔になって彼女は話を続けた。
『その子、すっごく眩しくてしゃがみ込んじゃったけど、犯人は何もしないで逃げたって言ってたよ。一応保健室にも寄ったけど、特に怪我もなかったって』
それならよかった、と安堵する一方で、生徒を驚かせた犯人に怒りを禁じえなかった。
決して多くはないが、悲しいことに礼儀を知らない輩は毎年必ず現れる。どうにかできないものかと常日頃から思考錯誤しているが、如何せん打開策は浮かばず今も頭を悩ませていた。
いや、前々から画策しているものはあるにはあるのだが。それなりに根回しが必要なため、なかなか踏ん切りがつかずにいるのが現状だ。
結局その日も気を付けて帰るようにとテイオーに言うだけに留まり、伝え聞いた話を警備員や職員に報告して警戒してもらうように要請することでこの一件は終わった。
しかしそれから日を置かず、再び通り魔が現れたのだ。


「被害報告を見る限り、特定の誰かを狙っているわけではなさそうだな」
「ああ。完全に無差別だ」
面倒なことにな、とブライアンは不機嫌そうに口を曲げた。エアグルーヴも眉間にしわを寄せて書類を見つめている。
「被害に遭った場所も校門前、校舎裏、広場、寮近くとまばらです。しかも未だ顔を見た生徒はおりません」
「ふむ……学園の構造を熟知し、気配を消すのも上手い。逃げ足も相当速いときたか」
組んだ両手に顎を乗せ、ルドルフは顔も知らない犯人を思い浮かべる。
目的はウマ娘の撮影、ただそれだけ。被害状況や出没場所から察するに、覗きやストーカーの類ではない。
断りも入れずに写真を撮るということは、無断で侵入しているか、撮影許可を取っていないかのどちらかだろう。フラッシュをたくのは顔を見られたくないためか、それとも他に何かあるのか。
知らず、両手に力がこもる。
人間にしてみればその程度のこと、と思うのだろう。だが、ウマ娘からしてみれば非常に悪質な行為だ。
ウマ娘は脚力を筆頭に、筋力的な身体能力が非常に優れている。それは周知の事実であるが、それ以外の視覚・聴覚なども人間のそれよりも遥かに鋭敏にできているのだ。
特に瞳に関しては"タペタム"という器官があり、この機能によってかなり夜目も利く。おかげで視界の悪い雨天時でも、問題なくターフを駆け抜けることが可能だ。
故に、である。だからこそ大音量の音や閃光のような強い光には、人間以上に弱い。最悪それらの機能を失ってしまう可能性だって充分にあり得るのだ。
「──ひとまず、寮長二人には改めてこの件を伝え、寮生に気を配ってもらうことにしよう。生徒たちにも集団行動を心がけるよう生徒会から通達する。寮長にはブライアン、注意喚起はエアグルーヴに任せる。職員と警備員への連絡は私が行こう」
資料から顔を上げて指示を出せば、向かいの二人は力強く頷いた。
ここまで噂が広まっているのであれば、不安に思う生徒も多いだろう。生徒会長として、そして彼女らの幸福を願う者として、早急に解決せねばならない。
「では、私は注意喚起のポスターと配布プリントの作成にかかります。庶務の彼女をお借りしてもよろしいですか?」
「ああ、かまわないよ。不幸中の幸いか、今は生徒会も少しばかり余裕がある。しばらくは外回りを強化しよう。ローテーションは私が作る」
「アマさんとフジにも協力してもらったらどうだ? ついでに頼んできてやるぞ」
ひらひらと書類を振りながらブライアンが提案する。そこまで迷惑はかけられない、とルドルフは断ろうとして、しかしそれを遮るようにエアグルーヴが賛同を示した。
「私もブライアンと同意見です。監視の目が多ければ、それなりの抑止力にもなるかと」
思わず彼女を見やると、赤いアイシャドウを乗せた瞳がそうはさせません、と言わんばかりの眼差しでこちらを見つめていた。
無言で釘を刺され、ルドルフは苦笑する。参った。二対一では分が悪い。
「……そうだな。負担をかけてしまうのは忍びないが、ここは手を貸してもらおう」
早々に降参すれば、エアグルーヴはほっとしたように表情を緩めた。
彼女の笑みに釣られるようにして微笑めば、ブライアンが何故かげんなりとした様子で肩を落としたのが視界の端で見えた。


◆  ◆  ◆


そう簡単には捕らえられないとは思っていたが、通り魔は予想以上に尻尾を掴ませてはくれなかった。
だが、姿を現さなくなったわけではない。こちらの動きなどお見通しだと嘲笑うかのように、一人、また一人と被害者は増え続けていた。
弄ばれている。そう感じているのは周囲も同様らしく、生徒会や有志の見回り班もぴりぴりと神経を尖らせる者が多くなっていた。

「少し手立てを変えよう」
このままでは埒が明かない。そう判断し、ルドルフは作戦の変更を伝えたのが昨日のこと。
理由は二つ。ひとつは、犯人がこの状況を明らかに楽しんでいるということ。
スリルを味わっている、とでも言えばいいのか。そのようなものを犯人の動向から感じとり、ならば下手に警戒を強くするより、現状維持をしつつ迎え撃った方が早いのでないかと考えた。
もうひとつは、学園内に協力者がいると予想されたこと。
生徒による見回りはともかく、プロの警備員が目を光らせる警戒網を、これほどまでに易々とくぐり抜けてきているのがどうにも不可思議でならなかった。ならば内通者がいると考えるのが妥当だ。
故に、この変更を知るのは生徒会と寮長、そしてたづな秘書のみに留めることにした。そこに理事長が含まれていないのは色々と察してほしい。
そこからトレーニング開始までのギリギリの間、ルドルフたちは学園の見取り図を広げて話し合った。


そうして迎えた今日。こちらの心情とは裏腹に、清々しいほどの秋晴れが広がっていた。

「天高バ肥、とはよく言ったものだね。澄んだ空気が気持ちいい」
いわし雲が悠々自適に泳ぐ上空を見上げて、ルドルフはゆっくりと息を吸い込んだ。
この空模様が現れると、昔はいわしが大漁に獲れる前兆と言われていたのだったか。ことわざといい雲の名称といい、古人と自然の付き合い方は非常に風流だ。
「確かに、ここ数日で随分と秋らしい気候になりましたね」
「ああ。スポーツの秋、読書の秋……何をするにしても過ごしやすい季節だ」
「ええ……食欲が増して、つい食べ過ぎてしまう者もいるようですが」
世話を焼いている後輩にその手の子がいるのか、呆れた様子で小さく肩を竦めたエアグルーヴに、ルドルフは微苦笑を浮かべた。
「それも風物詩というのかな。わからなくもないよ。これだけ心地いいと、つい気が緩んでしまう」
空は澄み渡るほどに天高く、涼やかな秋風が肌を心地よく撫でてくる。収穫を迎えた豊穣の実りは、人間もウマ娘も皆等しく肥えさせ、各々の力の糧となるだろう。
そうした自然の偉大さを感じるたび、自分もこうありたいものだとルドルフは思う。
「本当にいい天気ですね。これが見回りでなければ、良い散歩日和なのですが」
「違いない」
隣に並ぶエアグルーヴの一言に、ルドルフは微苦笑を浮かべる。互いに気を抜いた風を装っているが、実際は周囲の警戒を怠っていない。
何せ今回の餌は自分たちだ。特にエアグルーヴは己がフラッシュを嫌っていることは周知の事実だからと、自ら囮役を買って出た。
無論はじめは反対したのだが、ルドルフでは隙がなさすぎて務まらない、これが最も効果的だ、と正論を説かれ、終いには「私を信じられませんか?」と凄まれてしまって何も言えなくなった。彼女は過度な心配をどうも嫌うのだ。
作戦を立案した手前、今さら撤回するわけにもいかず、結局二人で囮になることで落着したわけである。
エアグルーヴの言う通り、こんな状況でなければもっと気を休めて、散策を楽しんでいただろうに。
そう思って、いや、と思う。何もなかったらなかったで、自分たちはコースを駆け回ることに専念してしまいそうだ。
心地のいい陽光に目を細めながら、ルドルフはくすりと笑みをこぼした。それが気になったのか、「どうしました?」と横から声をかけられる。不思議そうな顔をしたエアグルーヴに、ルドルフは笑みを浮かべたまま今思ったことを口にする。
「……いえ、そうでもないと私は思います」
しかし彼女は予想とは違う答えを返してきて、おや、と思う。てっきり同意してくれるかと思ったのだが。
「こうしているうちは、会長もお休みになられるでしょう? そうであれば散歩もやぶさかではありません」
「これは……手厳しいな」
右腕の辛辣な一言に、ルドルフは笑ったまま眉を下げる。ワーカホリックという自覚はあるが、そう容赦なく言われると少々いたたまれない。
実際、今回の件がなければ散歩などしなかっただろう。当てもなく出掛けるというのは、ルドルフにはどうにも苦手分野にあたる。
これは分が悪い。そう思ったルドルフは、話題の転換を図る。
「それで、花壇拡張の件だったね。温室植物用のハウスを設置したいのだったかな?」
だが、話の逸らし方がわざとらしかったらしい。エアグルーヴの切れ長の瞳が、呆れを露わに半眼になってしまった。
形のいい唇から嘆息がひとつ。その音を捉えた耳が、ルドルフの意思とは別にぺそりと垂れかける。
「……はい。予算的には問題ないのですが、スペースの確保が……可能なら理事長の大農園を少しお借りできないかと」
けれど苦言は返ってこなかった。乗ってくれた彼女に、ルドルフはほっと息をついて話を続けた。
「ふむ……ならば理事長に相談する必要があるな。それにあの畑を利用している料理長にも話は通しておくべきだろう」
「理事長はともかく、料理長が一番問題ですね。ただでさえ昼食の品切れが頻繁に起きていますし……」
「……できるだけ畑は削らない方向で進めたいな」
「同感です」
普段通りの会話に努めながら、巡回ルートを歩いていく。ああでもないこうでもないと議論を重ねているうちに、丁度話題の中心である花壇へと足を踏み入れた。
その時、微かな風が頬を撫でた。同時に上品な甘い香りが鼻腔に届く。
釣られるように視線を滑らせて、ルドルフははっと目を瞠った。
「これは……すごいな」
「恐れ入ります」
すぐそばで満足そうな声音が鼓膜を揺らした。ちらと目だけを動かせば、誇らしげに微笑む秀麗な横顔が見える。緩やかに揺れる黒い耳に、自然と口元が綻んだ。
気付かれないように視線を戻す。そこには色鮮やかに咲き誇る、小さな花園が広がっていた。
パンジー、リンドウ、コスモスにダリア……ルドルフの中で見た目と名称が一致するのは、この程度がせいぜいだった。
炎にも鶏のトサカにも見える、あの鮮やかな花は何だろう。小さな紫の花は丸くて非常に愛らしい。鉢に植えられた茎の長い植物はまだ蕾のままで、尚のこと何の花かはわからない。それほどまでに多種多様な花々が咲き乱れていた。
その姿は、ただひたすらに美しい。花に疎いルドルフでも、それだけは正確無比に感じ取った。
「君が生徒会室にコスモスを飾ってくれたから、秋の花が咲きはじめたのは知っていたが……見惚れるほどに可憐で美しいな。[[rb:千紫万紅 > せんしばんこう]]の景色を、この花壇に詰め込んだかのようだ」
「それは流石に褒め過ぎですが……花瓶に飾られたものとは、また違った華やかさがあるのは確かですね」
「ああ。咲き誇る花のひとつひとつに、強い生命力を感じるよ。まさに圧巻だ」
土に根付いた花々は、降り注ぐ陽光を一身に浴びて非常に生き生きとして見える。これが本来の姿なのだと、誇らしげに胸を張るかのように。
「美しいな……」
思わず直截な言葉がはらりと落ちる。こぼした声音は傍らの右腕にも届いたようで、吐息混じりの笑声がルドルフの耳をさらさらとくすぐった。
「……景色を眺めながらゆっくりと歩くのも、本当に良いものですよ」
少しの沈黙のあと、再び先ほどの話題に彼女は触れた。
まさかここで蒸し返されると思わず、ルドルフは目をしばたかせてエアグルーヴを見る。
「自然は様々な風景を見せてくれます。特に花は、四季折々の表情を鮮やかに魅せてくれる」
涼やかな目元がふ、と和らいだ。穏やかな風が肩口で切り揃えられた黒髪をさらりと揺らし、雪のように白い輪郭が露わになる。
「前にも似たようなことを言ってくれたな。春には新しい生命の芽吹きを、夏には厳しい環境にも負けぬ力強さを……だったかな?」
過去を思い返してそう告げれば、彼女は驚いたようにこちらを見た。それから喜色を滲ませ、「憶えていてくださったのですね」と目を細める。
「この花壇しかり、道端に生えた植物しかり……強さや希望といった大切なことを、花は思い出させてくれます。実際に私も、その姿に何度も救われてきました」
そう言って淡い陽光に照らされながら、エアグルーヴは花壇に視線を戻して微笑んだ。
慈しむような、柔らかい横顔。怜悧な黒曜も同じ色彩を湛えていて、ルドルフはまばたきすら躊躇う己を自覚した。
──美しいな。
同じ言葉を、今度は口の中だけで呟く。
「ですから、まずはこちらの花壇に時折訪ねてみるのはいかがでしょう? 花の名前や花言葉を知っていると、鑑賞するのがより楽しくなりますよ」
「そうか……手ずからこの花壇を育て上げた君に言われると、なかなかに説得力がある」
「何でしたらガイドも承ります」
「ふふ、それはありがたい。是非ともお願いしようか」
やはり自信に満ち溢れた彼女の返しに、ルドルフはとうとう笑み崩れた。そう間を置かずに、彼女の方からも軽やかな笑い声が聞こえてくる。
さぁ、と強めの風が通り抜け、二人の髪を揺らしていく。軽く髪を押さえた拍子に、ひときわ甘い香りが鼻先を掠めた。どこかで金木犀も見頃を迎えているらしい。
──花見に誘えば、先刻の言葉通り彼女は付き合ってくれるのだろうか。
小さな橙色の花弁を思い出し、ルドルフはふとそんなことを考えてさらに笑う。それはとても楽しいことのように思えたのだ。
人気のない校舎裏に、密やかな笑い声が響く。きっと彼女らを崇拝し遠巻きに眺める者たちが見たら、大層驚いたことだろう。
それほどに、二人は年相応の少女らしい面差しで笑い合っていた。

「……うん。確かに良いものだな。こうして穏やかな時間を共有するのは」
ひとしきり笑ったあと、ルドルフは噛みしめるようにそう言葉を紡いだ。
目を閉じれば未だにむず痒い感覚が胸に残っていて、堪えきれずに喉が鳴る。これほど肩の力が抜けたのは随分と久方振りだった。
「会長……?」
問うような呼びかけに瞼を持ち上げ、身体ごと彼女に向き直る。
軽く首を傾げたエアグルーヴに、ルドルフはゆるりと微笑みかける。それは彼女の無意識下で、ひどく柔らかなものになった。
「こんなにも心が安らぐのは、君が隣にいるからなのだろう。ありがとう、エアグルーヴ」
ふわりと胸をあたためる気持ちを素直に伝えると、エアグルーヴは切れ長の瞳をこれ以上ないほど大きく見開いた。
彼女にしては珍しいその表情は普段よりもどこか幼く、あどけない。それを目にしたルドルフは、どうしようもなく笑みが深まるのを感じた。
唖然とした表情の彼女が何かを言おうと口を開く。しかしその時、微かな足音をルドルフは捉えた。
ぴくりと耳が跳ねる。同じく音に気付いたエアグルーヴも即座に視線を鋭くした。
──かかった。
音がした方向に目を向ける。すると小さな舌打ちが聞こえ、がさりと近場の木が揺れた。
刹那、生い茂る葉の中から、人影が飛び出してきた。
落ちてくる男を見据えながら、ルドルフは冷静に分析する。中肉中背の男性。目にはサングラス、髪色は目深にかぶる帽子で不明。そして手にはストロボ付きの一眼レフカメラ。
随分と大胆な犯行だ。そして人間にしては身体能力が高い。
そこまでは想定内だ。エアグルーヴに目配せをし、着地して動きを止める瞬間に狙いを定める。
だが、そこで予想外のことが起こった。通り魔は、宙に浮いたままカメラを自分達に突き出してきたのだ。
こちらが身構えるよりも早く、男は驚くような速度でシャッターを切る。
「きゃっ……?」
「エアグルーヴ!」
パシャ、と軽い音と共に強烈な光を浴びせられる。
咄嗟に目を眇めたルドルフは、悲鳴を上げるエアグルーヴを引き寄せた。閃光から遮るようにして彼女の頭を肩口に押し付け、そのまま片手を犯人に向け鋭く伸ばす。
「うおっ……!」
かわされた。指先は男ではなくフレームを掠め、サングラスがあらぬ方向に弾き飛ぶ。
ルドルフの手を寸でのところで避けた通り魔は、再度舌打ちをして走り去っていく。
みるみるうちに小さくなっていく背中を睨んだまま、苦々しく息を吐く。
「逃したか……」
惜しいことをしたが、仕方がない。元々捕らえるのが目的ではなかったのだ。ルドルフは空を掴んだ手をおろす。
被害が収まらなかった理由がよくわかった。カメラを取り出してからシャッターを切るまでの動作が、予想以上に早かった。あれではピントがずれてまともな写真など撮れないはずだ。
寧ろそれも通り魔にとっては都合がいい、ということだろう。捕まってカメラを確認されたとしても、誰だか判別できないような写真ばかりで証拠にもなりにくい。
そして撮影に慣れている学園の生徒たちは、いつもと異なるタイミングに咄嗟に反応しきれなかった。顔を見ることができなかったのも当然だ。
(なるほど……合点がいった)
目的は隠し撮りではない。いきなり強烈な光を浴びたウマ娘の反応を──驚き、悲鳴を上げ、身を竦める姿を見て、愉しんでいるのだ。
──随分と舐めた真似をしてくれる。
すぅ、と心が氷のように冷えていく。不思議なことに、腹の底からふつふつと熱が煮え滾ってくるのも同時に感じていた。
「会長、あの、もう大丈夫ですから……」
犯人が逃げ去った方向をじっと睨み続けていると、ふと腕の中でエアグルーヴが身じろいだ。
「ああ、すまない」
一旦腕を緩め、改めて彼女に向き直る。自省のためか、艶のある黒い耳は前へと折りたたまれていた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「かまわない。それより君の容態が心配だ。どこか異常は?」
言いながら、そっと白い頬に触れてこちらを向かせる。
途端、エアグルーヴは目元を赤らめ、うろうろと視線を泳がせはじめた。戸惑う気配は伝わってきたが、ルドルフは構わずその顔を覗き込んだ。
「い、いえ……大事ありませんので、その……」
「やせ我慢はよくない。目が少し潤んでいるじゃないか」
「それは……っ!」
よく見ようとさらに顔を寄せると、逆にかたく目を閉じられてしまった。それでは確認ができないのだが。
エアグルーヴ。促すように呼び掛けてみるが、彼女は目も耳を伏せたまま応じてくれない。
「まだ目が眩むのか?」
労わるように目元を親指の腹で撫でると、ぴくりと身を強張らせた。恐る恐るといった様子で再び目を開けて「本当に大丈夫ですから……」と返した彼女の声は、先ほどよりもずっと弱々しい。
本当に大丈夫なのだろうか。無理をしがちな彼女を思うと、やせ我慢の可能性を否定しきれない。いっそのこと病院で精査してもらうべきだろうか。
「──おい、そういうのは私がいないところでやれ」
保健室か病院かと思案していたそのとき、ふいに校舎側から聞き覚えのある呆れ声が飛んできた。
開いた窓をひょいと飛び越え、ナリタブライアンが姿を現す。彼女を認めた瞬間、エアグルーヴはばっと勢いよく自分から離れてしまった。
スタートダッシュもかくやとばかりの速度に一瞬呆然とする。
(……もしや、相当威圧的な態度になってしまっていたのだろうか?)
ぬくもりの消えた手のひらに言い表しがたい空虚さを感じながら、ルドルフは己の行動を振り返って反省する。心配のあまり険しい顔つきになってしまっていた自覚はあった。
落ち着いてよく見れば、エアグルーヴの動きに不調は見られない。どうやら相当に心を欠いていたらしい事実に、知らず自嘲がこぼれる。
気を取り直して、ルドルフはブライアンに顔を向けた。彼女がここに居合わせたのは偶然ではない。
「ブライアン。どうだった?」
「ああ、アンタらが引き付けてくれたおかげで撮りやすかったぞ」
頷き、彼女はスマートフォンを見せてくる。液晶画面には、丁度サングラスが外れた男の横顔が鮮明に映っていた。
「流石だな。犯人の顔がはっきりとわかる」
「それで、これを警察に渡すのか?」
「……いや、それはまだしない。とりあえずその写真を私に送ってくれ」
「会長? ですが、我々だけで犯人を確保するのはリスクが……」
「少し考えがあるんだ。一旦生徒会室に戻ろう。そこで話す」
二人の意見に首を振って、校舎の上階へ視線を向ける。
本当はブライアンの言う通り、警察に証拠写真を渡して後は任せようと思っていた。警察が動いていると知れば、犯人も流石に身を引くだろう。
そう穏便に済ませようと思っていたのだが……予定変更だ。──その程度では生温い。
これから忙しくなる。後でトレーナーにも報告して、色々と予定を組み直してもらわなければ。
「……何を企んでるんだ、アンタ?」
「なに、今回は随分と後手後手に回されてしまった。その分、名誉挽回といきたくてね」
そのうえ、と呟きかけ、ルドルフは口を閉じる。怪訝そうな眼差しを受けながらも、そのまま黙殺して校舎へと歩き出す。
「さて……迎撃開始と行こうじゃないか」
ぽつりと呟いたその唇には、獰猛な笑みを浮かんでいた。


◆  ◆  ◆


『勝ったのはシンボリルドルフ! シンボリルドルフだー! 上空の厚い曇を突き破るような勢いでシンボリルドルフゴールイン! やはり皇帝は強い! 圧巻の走りでレースを制しましたぁー?』

ワァァァァ────?
ひときわ大きな歓声がレース場に湧き上がった。GTレースを見事勝利したルドルフは、己が走りを称賛する呼びかけに笑顔で手を振って受け止めていく。
鳴り止まない拍手喝采を浴びながらスタンド付近のウイナーズ・サークルに入っていく。スタンドに目を向ければ最前列に自身のトレーナーがいて、労いの言葉と共にタオルとドリンクを差し出してきた。
礼を言って受け取り、汗を拭って軽く喉を潤す。その間も横からは、光の明滅とシャッター音が絶え間なく向けられていた。
一息ついてようやくそちらに顔を向ける。そこには、多くの記者たちが興奮を露わにしてひしめいていた。
「おめでとうございます!」
「是非今のお気持ちをっ!」
競い合うように質問を投げかけてくる取材陣にいつものように対応しながら、ルドルフは彼らの顔を一人一人眺めていく。
目を輝かせる若手の女性記者、無言でこちらを撮り続けている大柄なカメラマン、年季の入った顔つきでペンを握りしめる中年の男性……不審がられない程度に視線を動かし、探っていく。
「……ああ、やはり来てくれたか。流石はトレーナー君だな。読みが鋭い」
そして──見つけた。ルドルフは朗らかな笑みを浮かべながら、意識してよく通る声を作った。
インタビューとはまったく関係のない台詞を唐突に投げかけられ、記者らは一様に怪訝な顔をする。その中で一人だけ、明らかに顔色を変えた人物がいた。
「君は最近、我が学園を騒がせている通り魔くんだね。その局に所属していたのか。今日はあの時のカメラとは違うが、あのストロボ付きカメラは私物なのかな?」
つらつらと一方的に言葉を連ねると、男は見る見るうちに青褪めていく。
予想外だったのだろう。まさかこう来るなどとは毛ほども思わなかったに違いない。
ルドルフはふわりと目を細める。普段の凛々しさとはかけ離れた柔らかな笑顔に、困惑していた大衆たちは思わず息を呑んだ。
けれど彼女はその反応を気にも留めず、ただただ集団の中央にいる男を見つめ続けた。
「ふふ、どうした? 随分と驚いているようだが。……ああ、そういえば公では言ったことがなかったかな」
周りが呆けている中で、男だけは先に気付いていた。否、あえて気付かされていた。
逃げられない。避けられない。捕まってしまった。
その可憐な笑みの裏に何が潜んでいるのか、それを理解しながらも、男はその一太刀を浴びるしかない状況に立たされていた。
きらめく赤紫の双眸をより一層細めて、レースの勝者は歌うような優雅さで恐ろしい言葉を口にする。
「私は今まで、一度でも見た相手の顔を忘れたことがないんだ。だからひと目見て、すぐに君だとわかったよ」
ルドルフと男がどういった経緯で知り合ったのか、彼女の台詞で察しだした大衆たちが、男に対して刺すような視線を向けはじめる。
これで完全に退路を絶った。内心でほくそ笑みながらも、それをおくびにも出さずにルドルフは苦笑まじりに肩を竦めてみせる。
「まぁ、特技というにはあまりにも地味なものだがね。……さて、話を戻すが」
ここからだ。ルドルフは軽く顔を伏せ、皆が己に注目するのを待つ。
一拍もすれは、誰も彼もが声を潜めて事の成り行きを見守っていた。衆目を一身に浴びながら、ルドルフは顔を上げて男を鋭く睨みつけた。
「あえて犯行、と言わせてもらおう。君にとってあの犯行は、無邪気な悪戯の延長線上のつもりだったのだろう。法には触れていないのだからと高を括っていたのだろうが……」
レース上では皇帝だ、怪物だなどと呼ばれていても、所詮は小娘の集まりだと思っていたのだろう。最後は泣き寝入りをするしかない、いたいけな少女ばかりだと嘲笑っていたのだろう。
残念だったな。その侮りが自らを致命傷に導いた。
さぁ、既に断頭台の上だ。その首を直々に狩りとってやろう。
捕らえたと確信した心が高揚感に湧く。レースで先頭に立った時とよく似た、その燃え上がるような高ぶりに、自然と口元が吊り上がった。
「己の悦楽をただ満たすためだけの君の行いは、多くのウマ娘たちの選手生命が絶たれてしまう可能性を大いに秘めていた。君は運良く犯罪者にならずに済んだ、ただそれだけのことなんだよ」
逃げきったと油断していた相手は、それこそひ弱な小動物のように竦み上がっていた。
恐らく随分と攻撃的な顔をしているのだろう。取材陣どころか背後の観客席からも怯えた気配がする。それを感じながら、一層笑みを深めてみせた。
今回ばかりは一切容赦しないと決めていた。先に手を出したのは彼の方なのだから。
テイオーのクラスメイトに、ヒシアマゾンが可愛がっている寮生に、ルドルフが愛しく思う学園の生徒たちに。
──そのうえ、大切な我が右腕に危害を加えたのだ。それ相応の報いを受けるのが道理というものだろう。
「故に、私は突き付けよう。越俎代庖 ……君の犯行がどれほどの悪事であったか、身をもって思い知るといい」
強い敵意を持ってそう宣告すれば、男はひっと引き攣った悲鳴を上げて集団の中に埋もれた。
腰でも抜けたのだろう。男の周囲にいた記者たちは、迷惑そうな顔をして足元を睨んでいた。
ふと、遠くで獣の唸り声に似た音が聞こえてきた。まだ遠いが、少し急がなければならなそうだ。
「……だが、私も今回の件で色々と考えさせられた。その点については感謝すべきかもしれない」
頭の中で残りの時間を計算しながら、ルドルフは取材陣の視線が男からこちらへ向いたところで口を開いた。
再び注目が自分に集まる。いつの間にか、眼前に並んだカメラはひとつたりともフラッシュをたかなくなっていた。
そう、今日この舞台に立ったのはもうひとつ。これを宣言するためでもあった。
「今、非道を裁くルールがないのなら、新たに法を作ればいい。そんな答えを導き出せたのだから」
ざわりとレース場にどよめきが走った。刹那、遠くの空で稲光が起きる。
遅れて小さな雷鳴が耳朶に響いた。ああ、やはり彼女を連れてこないで正解だった。きっとやせ我慢をして、客席に留まり続けただろうから。
ルドルフは数歩ほど後退し、取材陣とスタンドができる限り見渡せるような位置に立つ。ギャラリーは、先程の大歓声が嘘のようにすっかり静まり返っていた。
固唾を呑んで見下ろす彼らの前で、ルドルフは左腕を横に掲げてマントを翻す。
「私は、あの記者が起こした行為を許し難いと思う。この神聖なレース場に足を運んだ諸君らは、私のその思いに共感してくれるだろうか?」
そうして雨の匂いを強く漂わせる曇天の下、ルドルフは凄絶な笑みを浮かべて問いかけた。
日頃から近寄りがたいと思われてしまう己の威圧感は、充分にその効力を発揮したようだ。ルドルフが見渡せる限りの人々が、皆一様にこくこくと首を縦に振っていた。
「頷いてくれてありがとう。これほど多くの者たちが私と同じ気持ちでいてくれて、とても嬉しく思う」
目元と緩め、ルドルフは左腕を下ろす。丁度その拍子にぽつりと頬に雫が落ちてきた。
そろそろ時間切れだ。手首で水を払い、ルドルフは真っ直ぐに前を向く。
「であれば、諸君らを信じるからこそ私は頼みたい。ターフの上を走る者、我々の走りを見届けてくれる者全てに、同じ大舞台に立つ者として」
ウイナーズ・サークルの横に集った記者諸氏を見る。スタンドからこちらを見下ろす観客を、配信越しにこれを見ているであろう人々を、真摯に。
「自らの行いが相手に、周囲にどのような影響をもたらすのか。それを各々が熟慮断行のうえで行動してほしい。レースをこよなく愛する同志の一人として、私は切に願っている」
再び空に光が走った。今度はあまり間を置かずに雷鳴が轟く。
それを合図に、レース場に激しい雨が降り注ぎ始めた。
「……さて、かくいう私も、傲慢不遜な態度で話の腰を折ってしまいました。申し訳ありません。屋根のあるところに移動したら、改めて取材をお受けしましょう」
ふぅ、と息をついたルドルフは、それまでの気迫をぱっと解いた。苦笑いを浮かべたその表情は、いつもの温和で品法公正なシンボリルドルフそのものであった。
しかし彼女が歩き去った後も、大多数の人々は呆然と固まったまましばらく動けずにいたのだった。


数分前のスタンドにて。その最前列で成り行きを見守っていたナリタブライアンは、あまりにもえげつない所業を目の当たりにして思わずうわ、と声をもらした。
「ガチギレじゃないか、うちの皇帝サマは……」
ひょっとして猛獣の類なんじゃないか、アイツ。そう思わせるほどに、ルドルフは空気を震わせるほどの覇気を放って周囲を圧倒していた。
あれではウマ娘というよりもライオンだ。きっと種族を間違って生まれてきたヤツだ。
温厚だと思っていた獣にいきなり牙を剥かれ、丸腰同然で油断していた人々はすっかり竦み上がってしまっている。流石にとばっちりを受けている者たちがかわいそうだ。
「いや〜美人が怒ると迫力満点だなぁ」
隣で場に不釣り合いな声がして、ブライアンは呆れた眼差しを向ける。あのウマ娘にしてこの専属か。怒髪天にきている担当ウマ娘を眺めながら、そのトレーナーはこの状況で呑気に笑っていた。
「言ってる場合かよ……どうすんだ、あれ?」
「うーん……エアグルーヴの説教が一時間を超えるに一票」
「いや、そうじゃなくて。その程度で済むのかって話だよ」
下手をすれば炎上騒ぎではないだろうか。シンボリルドルフはトレセン学園の顔でもあるのだ。そこから蹴落としてやろうと、明確な悪意を持ってパッシングをしてくる者だって少なからず出てくる。
それを懸念しているのだと言うと、トレーナーはやはり軽い調子でああ、と笑った。
「そこは大丈夫。たづなさんには事前に承諾もらって、もう色々と動いてもらってるんだ。乙名史記者にも協力してもらえる手筈になってるし」
「なるほどな……用意周到なことだ」
つくづくどんな頭をしているのか。この短期間で完全に外堀を埋めてきたその手腕に、若干の薄ら寒さすら覚える。
けど、とブライアンは眉を潜める。
だからこそ、ルドルフならもっと波風を立てずに事を進められたはずだ。その方が彼女らしく、実際途中まではそのつもりだったのだろう。
なのに、こんな度肝を抜くような強硬手段に出た。その原因は何だと考えれば、今日はここにいない一人のウマ娘の顔が頭に浮かぶ。
「大事な右腕が被害に遭って、そんなに頭にきたか」
「そういうことだね」
「で、アンタも頭にきたと」
「そりゃあもちろん。こちとら大事な大事な担当のために日々神経すり減らして最高のコンディションになるよう頑張ってるんだよ。それをただの破滅的アホ馬鹿愚者のせいで台無しにされたらたまったものじゃない。ちなみにこれは我々トレーナー一同の総意です」
「時々エアグルーヴのやる気下げてるどこぞの生徒会長もいるがな」
「それ今言う? い、いや、それに関しては誠に申し訳なく……その場で気付けば基本問題ないのでどうか……」
ぎくりと身を縮めてもごもごと弁明しはじめたトレーナーをよそに、ブライアンはルドルフに視線を戻す。
彼女は堂々たる佇まいでスタンドを振り仰いでいた。先程の獅子じみた威圧感はなりを潜め、代わりに王者たる貫録を身に纏い、朗々と観客たちに語り掛けている。
──エアグルーヴをさらいでもすれば、向こうも本気で噛みついてくるだろうか。
ふとそんな考えが頭によぎり、しかしすぐにないな、と否定する。
まずそんな真似をする自分が想像できない。本気でやり合いたいなら、真っ向から勝負した方が手っ取り早い。
そもそも、あのエアグルーヴがそう簡単にさらわれるようなタマではない。例え万が一にもそんなことがあったとして、絶対に自力で抜け出したうえで正当防衛という名の大義名分を高らかに掲げて敵を締め上げ屈服させ、更に縄で縛り上げて警察の手土産にするくらいの気概と強さはある。女帝の二つ名は伊達では決してない。
ルドルフが妙に心配しすぎているだけだ。過保護にもほどがあると以前指摘したことはあるが、返ってきた答えはこうだ。
──『エアグルーヴ相手だと、どうにも考えるよりも先に心配が勝ってしまうというか……君と同様に深く信頼しているのにね。まったく、心というものは本当に複雑怪奇だ』
エアグルーヴにも??られるから、これでも直す努力はしているのだがね。そうして困ったように笑うルドルフを思い出し、ブライアンは口をへの字に曲げた。
ふっと周囲の空気が弛緩する。見れば、ルドルフは完全にいつもの温和な姿に戻っていた。
雨に降られながら屋内へと戻っていく姿を確認して、ブライアンとトレーナーも移動を始める。このまま帰ってもよかったが、一応挨拶くらいはしておくべきだろう。
未だ呆然とした様子の人混みをすり抜けていく。ギャラリーを出て地下に下りれば、人もぽつりぽつりとまばらになった。
黙々と歩いていたブライアンは、控え室が見えたところでぽつりと言葉をもらす。
「なぁ……あれで自覚がないとか、タチ悪くないか…?」
「……うん、まぁ……」
示し合わせたわけでもなく、互いに揃って遠い目になる。おそらく清々しい顔で待っているだろう皇帝を思い浮かべながら、二人は目的の部屋の前で立ち止まった。


◆  ◆  ◆


先のレースでシンボリルドルフに批難された記者は、所属していたテレビ局を解雇され、マスコミ業界からも永久追放されることとなった。
元々ウマ娘に対して軽んじるような発言が目立っていた人物だったらしい。後日所属していた局と彼の上司にあたる人物から謝罪を受け、その旨を聞いた。
また、疑われていた内通者の存在も無事に判明した。あの後、屋内に戻ったルドルフがそういえばと踵を返し、呆然自失の犯人を捕まえて聞き出したそうだ。当然、犯行に加担した者としてその警備員も解雇処分となった。

そして今回の起こった事件を受け止め、レースを運営するURAも立ち上がった。
内容は競技規定の変更・及び追加である。
新たに追加された内容を要約すれば、パドックやトレーニング場でのフラッシュ撮影の全面禁止、その他ウマ娘に対してフラッシュ撮影を行う場合は必ず許可を取ったうえで行う、というものだ。
此度の騒動に加え、これまでにウマ娘がフラッシュでパニックを起こしてしまった事例がトレセン学園やレース関係者からも報告されたのも決め手となったらしい。これらの禁止事項は、URAから直々に発足される運びとなった。
これでレース前に調子を崩すウマ娘も減ることだろう。理事長をはじめ学園の面々は喜びを分かち合い、こうして一連の事件は無事解決に至ったのだった。



「何をやっているんですかあなたは?」
そして平和が戻ったトレセン学園の生徒会室では、窓ガラスが震えるほどの激しい怒声が響き渡っていた。
生徒会長用の執務机を挟んで睨みつけてくるエアグルーヴを、シンボリルドルフは笑みを引き攣らせながらおずおずと見上げる。
「何をと言われても……事前に説明した通りだ。君だってこの件は了承してくれただろう?」
そう釈明しつつも、その弁が弱いことはルドルフ自身もわかっていた。
元々叱られるだろうなとは思っていたのだ。だが、まさかこんなに怒るとは思ってもみなかった。
尻尾が丸まった気配がする。激怒した彼女はなかなか迫力があるのだ。
「ええ、確かに承諾しました。しかしそれは逃亡犯を逃げ場のないレース場にて追い詰め、以後気を付けるようにと注意を促すだけの話だったはずです。相手を再起不能なほどに吊るしあげた挙句、レースを観戦していた不特定多数の者たちにまで脅しをかけるのでは全く話が違います!」
「いや、まぁ、うん……確かに君の怒りもわからなくないが、これはレースを志すウマ娘たちの将来のためでもあって……結果的に上手くいったのだからいいだろう?」
「よくありませんっ!」
しかしぴしゃりと跳ね除けられ、あまりの剣幕に耳がびゃっと勢いよく跳ね上がった。ふさりとした鹿毛のそれは、すぐにしょぼしょぼと前に垂れ下がっていく。
「そう怒らないでくれ、エアグルーヴ……しっかりと釘を刺す必要があったんだ。本気の脅しだと思わせるくらいでなければ、またあのような愉快犯を生むことになる」
「……百歩譲ってその理由はわかります。ですが、あなたひとりが汚れ役をかぶってまでやるべきことではないでしょう!」
「だが、これが一番迅速かつ効果的だと……」
「その迅速さと効力を引き換えに会長ご自身が損なわれるような選択をするなと言っているんです!」
「いや、それは……その……すまない……」
参った。これはもうとことん謝るしかない。そう悟ったルドルフは、とうとう二の句が継げなくなって頭を垂れた。

「まるで形無しだな……」
「あはは……怒ったエアグルーヴ相手じゃ、ルドルフも太刀打ちできないね」
扉の近くに佇んでいたナリタブライアンは、入った時点で既に始まっていた説教現場を半眼になって見つめていた。
姉のビワハヤヒデに生徒会室に持っていってやれと朝っぱらから押し付けられたから一応足を運んだが、どうやら不要だったようだ。生徒会長の机の上には、同じものが置かれている。
ブライアンが持ってきた新聞には、先のレースでのシンボリルドルフが一面を飾っていた。目立たせるためなのか、何故か背景がどことも知れない白い城内に加工されている。玉座を背に赤いマントを翻す姿は、まぁそれなりにあの時の威圧感を表現していた。
しかし、タイトルに『汝、皇帝の神威を見よ』と付けたのはどうかと思う。何だそのゲームやらトレーディングカードやらに出てきそうな台詞は。
誰だこれ作ったヤツ。ルドルフだから妙に様になっているが、もし自分の写真でこれをやられたらと思うとたまったものじゃない。
そしてその皇帝殿は、あの時の覇気が嘘のように背を丸めている。テイオーたちには見せられない姿だな、となんとなしに思う。別に見られようが自分には関係のない話だが。
ため息をつき、ブライアンは踵を返す。用は済んだ。さっさと朝練に行こう。
「もう行くの?」
「面倒事に巻き込まれるのはごめんだ」
「そっか」
そう言って、ブライアンはトレーナーに新聞を押し付けて数分で生徒会室を出ていった。私も買ってあるんだけどなとは思ったが、折角なのでもらっておく。スクラップとは別にトレーナー室にも飾っておこうか。
そんなことを考えている間も、室内には凛々しくも厳しい声が絶え間なく響いている。時折挟まれる謝罪や相槌が何とも心もとない。
視線を滑らせれば、赤いアイシャドウが縁取る瞳を吊り上げたエアグルーヴの横顔が僅かに見えた。やはり美人は怒っても美人である。
次いで怒涛の叱責を受けるルドルフを見て、思わず苦笑いをこぼしてしまう。彼女の両耳は、髪と区別がつかないほどぺしゃんこになってしまっていた。
まるで借りてきた猫のようだ。そう思うのは流石に無礼だろうか。
「おい、貴様もこっちに来い!」
「えっ、私も?」
「当たり前だ! 此度の件、貴様は最初からすべて知っていたのだろう。トレーナーとして、担当ウマ娘に危険な橋を渡らせるとはどういう了見だ!」
完全に他人事として捉えていると、予想外のとばっちりがやって来た。これはマズい。思わず自分が支えるべきはずの相手に縋るような眼差しを向ける。
「る、ルドルフ……!」
しかし、彼女は完璧に白旗を上げてしまったようだった。諦めてくれ、と既にその目が物語っている。
「……すまない、トレーナー君。一緒に叱られてくれ」
そう言って、ウマ娘レース界改革の立役者になった皇帝・シンボリルドルフは、怒れる女帝のそばで眉を下げたまま情けなく笑ったのだった。




あとがき
フラッシュ苦手なエアグルーヴとライオンを垣間見せてくるルドルフとレース外でも活躍している生徒会三人が見たくて季節感ガン無視して全部入れたらこうなりました。色々とねつ造しています。



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