12時の鐘が鳴る前に

それが非日常の最中で見たものであったら、そこまで驚愕しなかっただろう。
しかしそれは日中の、学園のエントランスで起きた。正面玄関から入って直線状にある、吹き抜けの広場。その一角に設置された休憩スペースに座り、他愛のない会話をしていた。
普段通りの、穏やかな時間だった。相手の第一声が挨拶ではなく祝いの言葉で、こちらも挨拶ではなく感謝を述べて会話が始まったこと以外は。
「……門限の、間際で構わない。生徒会室へ顔を出してはくれないだろうか? 鍵は必ず、開けておく」
けれど突如、鮮やかな紅梅が風に吹かれたように揺らめいた。
精巧な顔立ちは珍しく感情を露わにして、目線は忙しなく泳ぐ。そして余裕のない声色が切々と、そう言葉を紡いだ。
その姿に、私は心臓を穿たれたような衝撃を味わったのだ。常日頃から泰然自若とした彼女とは、あまりにもかけ離れていたから。それこそ、平静を装うのに努めなければならないほどに。
ただ、それでも。理解と共に湧き出した喜びを、隠すことはできなかった。



トレーニング時間もとうに過ぎ、すっかり夜の帳が下りた学園に私は戻ってきていた。
校舎は昼間の賑やかさとは一転して、ただただ静寂が満ちている。職員室やトレーナー室は擦りガラス越しにちらほらと明かりがついているのようであるが、生徒のいない学園はこうも静かだ。パンプスに履き替えていたから、いつも以上に靴音がよく響いた。
靴だけでも替えてくればよかったか。いや、どれを履くか悩んでいるうちに、時間が押してしまっただろう。そうなれば門限内に帰ることが難しくなってくる。
我々生徒会が門限を破っては、生徒らに示しがつかない。それに夜間外出届を片手に笑顔でいらんことを吹き込んできたフジを調子付かせたくもない。……と、その気持ちに嘘はないが、本音は別にあることもまた自覚している。ただ時間が惜しかったのだ。
できるだけ音を立てぬように歩きながら階段へと向かう。目的地は三階の中央──生徒会室だ。
コツ、コツ、とヒールの音が校舎内に木霊する。夜間に学園を歩くことは、私にとっては別段珍しいことではない。が、それでも日中と夜間で反転する雰囲気には、毎度妙な感慨を抱くものだ。
──『この学園が、生徒によって彩られている証左だろうな』
ふと以前、会長がそう仰っていたことを思い出す。我々副会長が揃って間もない頃だ。
ゆえに彼女らの輝きを支えられるように活動していこう、と、そう語るあの方の瞳こそ、強く輝いておられたのをよく覚えている。
ふいに、脳裏に浮かべていた横顔がこちらを向いた。微笑みを浮かべた面差しが、けれど途中で別の表情へと塗り替えられていく。
強い輝きを放つ双眸が波打ち、自信に満ちた笑みは寄る辺のない子どものように不安げなものに。
その急変に私は息を呑む。そして、あの方の幻影は躊躇いがちに口を開いた。
──『忙しさは承知の上だが、どうにも──今日中に祝いの品を手離せないのは、惜しい』
またか。思わず頭を抱えたくなったが、寸でのところで留まる。半ば押し切られたとはいえ、折角ファインが髪を編んでくれたのだ。乱すわけにはいかない。
代わりに下唇を噛んで堪えようとして、こちらはこちらで母から贈られたリップを塗ったばかりだと気付く。結局ため息を吐いてやり過ごした。まったく、と呆れ果てた声も足音に紛れて落ちた。
あれを聞いたのが、皆と会う前でなければよかった。
──『先輩、何か嬉しいことでもあったんですか?』
──『これからとびっきり楽しいことが待ってるって顔ね』
おかげで今日、何度似たような言葉をかけられたことか。
友人に、後輩に、母やファインなどにはその理由まで言い当てられる始末だ。そしてお母様は私にメイクを、ファインはヘアメイクを施した。
まるで魔法使いにでもなった気分だと、何故か示し合わせたわけでもないのに二人は言っていた。言われる身にもなってほしい。面映ゆくて仕方ない。
階段の前で立ち止まった足を見つめる。私服に合わせて履いてきた黒のパンプスは、何度見てもガラスの靴には見えない。落としたらすぐに割れてしまいそうな靴など御免であるが。
いや、しかし。それはそれとして。
「そんなに顔に出ていたか……」
小さく呟いて、いたたまれなさに額を押さえた。じわりと伝わる熱が皆の指摘を裏付けているようで、思わず拳に力が入る。
ああ、そうだ。嬉しいさ。嬉しいに決まっている。憎からず思っている相手に会いたいと請われて、嬉しくない者などいようか。
だが母のときのように、喜びを露わにするには羞恥と鼓動が邪魔をする。何故鼓動が早まるのかと言えば、深さは同等なれど核となる想いが母と会長とでは異なるためだ。
そのくらいとうに理解している。そしてそれゆえに、あの方の言葉一つでこんなにも思考を占領されているのだとも。
あれを聞いたのがファインと別れた直後で、スマホから届いたメッセージであったならよかったのだ。
そうしたら、皆の前であのような醜態を晒さずに済んだというのに。ああだが、文字だけではあの表情は見れなかったのか。あの声音も……何より、あの方から伝わってきた想いも。
「余裕の構えでいられぬ私は笑ってくれ」と、会長は続けた。我儘を叱ってくれても構わない、とも。無論笑う気も叱る気もなく、何故そんな結論に行くのかとつい苦笑いをこぼしてしまったが。
確かにあのとき、すぐには答えられなかった。ゆえに会長はあんなにも自信なく、困ったように微笑まれていたのだろう。普段はあれほどまで迅速かつ、果断に物事を決められるというのに。
そう、だから──ひどく驚いたのだ。会長が私に対して、あんなにも必死になることなどないと、思っていたから。
だから、何よりも先に驚愕がやってきた。そして会長の言葉を聞き終えて、ようやく胸が熱くなるほどの歓喜がやってきた。
平静を装いながら彼女の頼み──会長曰く我儘だそうだが──を承諾したが、以降は溢れ出してしまいそうなそれを押し留めるのに四苦八苦することになった。
本当に、交わした約束が頭から離れなくなるなど、一体誰が予想するか。
後輩たちから祝われているときも、友人たちから祝いの言葉と共にプレゼントをもらったときも、あの方との約束が終始頭に貼り付いていた。ファインと出掛けている間も、母を前にしているときでさえもだ。
あのときの会長の、言葉と表情、その声音が、脳裏に焼き付いて離れなくなってしまったのだ。
結果、事あるごとにその出来事を思い出しては喜びが溢れ、良いことでもあったのかと逐一問われる羽目になってしまった。祝ってくれるのが嬉しいのだと、紛れもない本音だというのにいたたまれなさを感じたのはこれが初めてだった。
ああそうだ。母に会う前から、ファインに髪を編まれる前から、私は魔法をかけられていたのだ。
つま先から顔を上げ、階段を上る。カツ、コツ、と響くヒールの音が徐々に感覚を狭め、気付けば二段飛ばしに階段を駆け上がっていた。
ああやはり、私にはシンデレラなど似合わない。待つのは性分ではないのだ。繊細なガラスの靴よりも、ウマ娘の脚力に耐えうる靴の方がよほどいい。
会いたいと願うなら会いに行くまで。遠い存在であるならば、自らを磨いて近付くまでだ。
三階の廊下に出る。真っ直ぐに伸びる床の先には、見慣れた両開きの木製扉が佇んでいた。
会長。あの方の呼称を口の中だけで呟く。それだけで胸がひとつ、調子外れに高鳴った。

──それほどまでに、あなたにとって私は特別ですか。

誕生日を祝いたいと願うほど。それを切り出すのを躊躇うほど。──普段から己を律するあなたが、我儘だと自覚してこいねがうほどに、私が特別だと。
もしそう尋ねたら、あなたは頷くのだろうか。困ったように眉を下げ、きめ細やかな頬をうっすらを赤く染めて、柔らかく微笑みながら。
靴音を立てながら歩く。今度は足音があなたに聞こえるように。艶やかな髪の上で鹿毛の耳がぴんと立つ様を想像して、思わず笑みがこぼれた。
手鏡を取り出して身だしなみを整えてから、いつものようにノックを二回。どうぞ、と普段と変わらない返答が耳朶に届く。
こんこんと奥底から湧き出る幸福感に、更に笑みが深まるのを自覚する。
既にプレゼントなど、もらったも同然だった。何故ならあの時に、最も欲しかったものを手にできてしまったのだ。

──私が思っている以上に、私はあなたに愛されているのだと。
そんな自惚れを、今夜の約束と共にあなたから贈られたのだから。



あとがき
今年の女帝誕生日ボイスから思いついた話。会長が右腕に対してあんなにも必死な顔をするのも、会長の我儘に対して右腕が満面の笑みで承諾したのも衝撃でした。これが…公式だと…?
(例えば)日中に交わした約束がずっと頭の中にありながら一日を過ごすのも、祝われるのがわかってて待ち合わせ場所まで赴くのもすごくエモいなって思います。二人してそわそわしてたら可愛いですね。会長の方はきっとブライアンとか昭和組に指摘されてる。
嬉しそうな顔してるってみんなに指摘されながら会いに行ってほしい。

23.5.4



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