南天の日々


ひゅうっと刺すような冷気が吹き抜け、エアグルーヴは思わず耳を後ろに伏せた。今日は風が殊更に冷たい。
歩道の端に積まれた雪を一瞥し、マフラーに鼻先を埋める。東京郊外に位置するこの地域は、年に一、二度あるかないかの頻度で雪が降る。そのなかでも積もることは更に珍しかった。
どうやら今年は当たり年だったようだ。午前中は雪かきで終わってしまった。
事務処理やURAでの業務を明日に回す羽目になったが、おかげでスクールの営業に支障はきたずに済んだ。スタッフたちの手で作られた大きな雪だるまを放課後にやってきたスクールの生徒たちが見つけてはしゃいでいた姿を思い出せば、まあ悪くない一日だったと微かに目を細める。
「トレセン学園は……まあ、この程度であれば問題はないか」
寧ろ新たな雪像でも作られているのではないだろうか。母校のある方角を見上げて、エアグルーヴは小さく笑う。
自分たちが在籍している頃に企画した雪まつりは、今でも続いていると後輩から聞いていた。幾度か仕事で寄っているが、今も変わらずあの学園には個性豊かな生徒たちが集っている。現生徒会役員たちの苦労が偲ばれるな、と思わず微苦笑がこぼれた。
そのようなことを考えているうちに、見慣れた建物が視界に移った。マンションのエントランスに入り、ポストを確認してから更に奥へと進む。バッグからカードキーを取り出してオートロックを解除し、エレベーターに乗り込む。指定した階に到着すると、広い廊下とひとつの扉が現れた。エントランスで使ったカードキーをその扉の前でかざせば、静かな電子音が鳴って解錠される。
ドアノブに手をかけて中に入れば、同時にリビングに繋がる扉が開いた。
「エアグルーヴ、おかえり」
ふわりと暖かな空気と共にルドルフに出迎えられ、エアグルーヴはマフラーを下に引っ張りながら顔を上げた。
「ただいま帰りました、ルドルフ」
「滴水成氷(てきすいせいひょう)のなか、お疲れ様だったね。さあ、中に入って暖まってくれ」
柔らかな手のひらがするりと頬に触れ、目前で安堵を含んだ笑みが咲く。そのまま流れるような動作で唇を落とされ、「冷たいな」と眉を下げられた。
冷えきっていた顔にじわりと熱がのぼる。添えられた手に自分のそれを重ね、あなたは温かいですねと告げれば、ルドルフは相好を崩してエアグルーヴをリビングへと連れていった。律儀に閉じられていたドアが再び開けば、ほの甘いしょうゆの香りが鼻先を掠めた。
「今夜はすき焼きですか」
「ああ。今日はお互い、寒空の下で作業に勤しんだからね。滋養強壮も兼ねて、というわけだ」
コートハンガーに防寒着を掛け、ダイニングに移動しながら呟けば、くつくつと鍋の煮込まれる音を背景音にそんな答えが返ってくる。揺れる鹿毛の尻尾はどこか誇らしげで、思わず口元が緩む。加えて「今日の弁当から着想を得たんだ。スタミナ丼もスープもとても美味しかったよ」と感謝とともに言い添えられれば、こちらまで尻尾が同じように揺れるのを感じた。
「手を洗ってきます」
「ああ。その間に肉を入れておくよ。ブライアンのおススメだから、味はお墨付きだ」
「……ブライアンの分もあなたが買ったのですか」
「あ、いや……まあ……今日はブライアンの奮励努力で、除雪作業が早々に終わったんだ。その労いという意味でだな……」
疑問ではなく確認だった。あからさまに目を泳がせ、次いで耳を垂らしながらおずおずと頷いたルドルフに、エアグルーヴは大きなため息を吐く。じとりと半眼で睨みつければ、彼女はぎくりと肩を竦めた。
「ブライアンもURAに所属する職員のひとりです。業務を全うするのは当たり前のことでしょう。普段がサボりすぎなだけです」
「だ、だが、今日は本当によく働いてくれたんだ。そのおかげで各レース場も今日中に芝の整備まで行えたし、私も各所へ予定調整に専念できた。此度のブライアンの功績は大きい。君の言う通り彼女の職員のひとりだが、それに見合った褒賞を、私個人が贈りたかったんだ」
弁解するルドルフをじっと見つめる。彼女の双眸は、真実だと訴えるようにやや必死そうに自分を見返していた。
「……わかりました。私はその場に居合わせなかったのもありますし、あなたの言葉を信じましょう」
再度ため息をつきながらそう返せば、ルドルフはほっとしたように胸を撫で下ろした。学生時代から変わらない仕草に内心で苦笑いをこぼしつつ、でしたら、とやや強めの口調を意識して呟いた。
「私も、あなたからの褒賞をいただきたく存じますが」
挑戦的な笑みを乗せて詰め寄れば、ルドルフは虚を突かれたように目を丸くした。ぱちぱちと忙しなく開閉していた紅梅の瞳が、やがてゆるりと細めて笑み崩れた。
「ふふ、勿論そのつもりだったさ。私が今日、滞りなく業務を終えることができたのは、君がスクールのフォローや教育機関関係の調整に奔走してくれたからこそでもある。私の方こそ、君を存分に労わせてくれ」
詰めた距離がさらに縮まり、暖かい身体に抱き締められる。ルドルフはぽんと優しく背中を撫でたあと、「まずは食事でもてなそう」と笑顔で洗面所へと促した。
エアグルーヴも促されるままにダイニングから移動する。浴室が隣接している洗面所に辿り着けば、こちらもリビングと同じくらい暖かくなっていた。冬場に帰るといつもこうだ。
ルドルフの気遣いに感謝しながら、洗面台の前に立つ。鏡に目を向けると、随分と血色のいい顔が映っていた。
室内が暖かいだけが理由ではない。それを自覚しながら、自然と上がる口元をそのままに蛇口を開けた。



元からそのつもりだった、という言葉は真実だったようで(疑いなど尻尾の先ほどもなかったが)、ダイニングに戻るとテーブルには鍋の他に梅酒の瓶が置かれていた。しかも以前、エアグルーヴが興味を示していた銘柄だ。
鍋の具材もほどよく煮込まれていて、エアグルーヴはルドルフに配膳や調理を任せながら鍋と梅酒を充分に堪能した。
食事に関しては朝食と弁当はエアグルーヴが、夕食はルドルフが担当している。二人で暮らし始めてから、最初に決めたのが家事分担だった。
分担を提案したのはエアグルーヴだ。あらかじめ分担を決めておいた方がお互いに予定が組みやすいこと、のちのち起こりえるかもしれない衝突を避けられるため、というのが理由だった。
……と、いうのは家事全般においてのことで、食事に関しては主にルドルフの過労対策が目的である。ちなみにこの思惑をルドルフ本人には言っていない。
生徒会長だった頃と変わらず、ルドルフの働きすぎる悪癖は卒業後も健在だった。いや、企画や対象の規模が大きくなった分、社会人になってからは更に拍車がかかった。
ルドルフにとって、理想のため身を粉にして働くことは当然の理であり、同時に生き甲斐でもある。その気持ちはエアグルーヴにも理解できるし、彼女の眩いくらいの横顔を見ていれば好きでやっているのだとありありと伝わってくる。
そのひたむきな姿勢を、心底から尊敬していることも事実だ。自分も負けていられない、と奮起もさせられる。
しかし、だからこそ彼女のオーバーワークを見過ごすことはできなかった。自分が止めなければ、誰がこのひとを止めるのだ、と。傍らでルドルフが道を進む様を見続けてきたエアグルーヴのなかに、そんな使命感にも似た思いがいつしか生まれていた。
故に思いついたのが、この食事分担である。要はルドルフが定時で上がらざるを得ない状況を作ってしまおう、というものだった。
結果は見ての通り。方策は意外なほどに功を奏し、ルドルフの残業時間を大幅に減らすことに成功した。
持ち帰って仕事をすることもままあるが、職場と違い持ち帰った分だけしか仕事ができない環境であるため、必然的に業務時間は短縮される。在宅ワークはURAでも普及しているが、ルドルフや自分が担っている仕事は多くの関係者と連携が必要な案件が多い。セキュリティ面を鑑みても、持ち帰ることが可能な仕事は限られているのだ。
そういった副次的な効果も含めて、予想外なほど思惑通りに事が運んだ。あまりにも劇的な変化に、思わずエアグルーヴの方から理由をそれとなく尋ねたほどだった。しかし問いに対してのルドルフの答えが「君を待たせたくはない」、「君を出迎え、癒せる役目を担いたいから」という、エアグルーヴを想うがゆえの行動変容だと知り、頬が熱くなるほどむずかゆい思いをしたものである。

いつも以上にもてなされた食事が終わり、風呂を済ませてくれば、今度はリビングに移動していたルドルフに手招かれる。彼女の片手にはドライヤーがおさまっていた。
「洗面所にないと思ったら……」
「言っただろう? 今日は存分に君を労うと」
楽しげに尻尾を揺らしている姿に笑みをこぼしながらソファに座る。首にかけていたタオルで髪を軽く拭かれ、ひと言断りを入れられてから耳の水気も拭き取られる。
ひじ掛けに置かれていた二種のボトルのうち、ヘアオイル用のボトルをルドルフは手に取り、蓋を開けた。ふわりと花の香りが鼻先をくすぐり、細長い指先がエアグルーヴの髪に触れる。あたたかい指先が壊れ物でも扱うかのように、髪の根元から先まで丁寧にオイルを馴染ませていく。
ルドルフの手が離れたと思うと、今度はドライヤーの音が聞こえ始めた。温風を感じながら、再び優しい手つきで髪を梳いていく。
まるで幼子のようだ。いや、子ども扱いというよりもお嬢様扱いだろうか。恭しく触れられる指先に、エアグルーヴは目を細めながら身を委ねる。
「先日君が飾ってくれたシクラメンは、今日も意気揚々に咲き誇っていたよ。部屋の暖房が聞いていたから廊下に移しておいたんだが、多くのスタッフが足を止めて眺めていた。目に留まるところに花を設置するのも良いと、そんな話も出ていたよ」
「適切な対処、ありがとうございます。でしたら、今育てているシクラメンの株をいくつか持っていってみますか?」
「実は君にそれを頼もうと思っていたんだ。既に総務の方には話を通してあってね。庭園に百花繚乱に咲く君の花たちを、皆にも是非見てもらいたいと常日頃から思っていたんだ。花の選定も含めて、君に任せたい」
頭上から振ってくる穏やかな声音が心地いい。自然と上がる口角を自覚しながら、承知しました、と返答した。
自分が手塩にかけて育てた花を推薦してくれたこと、花の特性をルドルフが理解し対応してくれたこと、それらが髪を乾かす風と同じくらい、胸をふわりとあたたかくする。シクラメンが暑さに弱いのだと、他愛もない会話でエアグルーヴが話した内容を、ルドルフは覚えていたのだ。
耳の手入れまで終わると、今度は隣に座ってもう一つのオイルを手に取った。ルドルフに尻尾の手入れを任せながら、エアグルーヴは夕食から一旦途切れた会話の続きを話しはじめる。
今日の事務報告に、企画についての意見交換。それが一通り話し終えたら、互いの友人の近状や花やチェスなどそれぞれの趣味の話へ。傍から見れば面白味の少ない堅苦しい会話が、花と植物を混合したような香を纏わせて行き来する。
伴侶になっても、自分たちの話題はそれほど変わらない。変わらず心地よく楽しい。ゆえに現状のまま続いているのだろう。
それに、と穏やかに微笑むルドルフに返答しながら、エアグルーヴは思う。言葉を交わせば交わすほど、お互いの生活が重なっていく。そのような感覚が、ふくふくと身体の内側をくすぐって、満ち足りた気分になるのだ。
会話だけではない。ここで暮らしていれば、ふとしたときにその感覚はやってくる。

例えば、目が覚めた瞬間にあたたかな体温に包まれていること。
例えば、食後の水切りカゴに二人分の食器が並んでいること。
例えば、丹精込めて育てている植物を、自分と大切に扱ってくれる背中を見ると。
そんな、この部屋にすっかり溶け込んだ日常を見るたびに。

そういえば、と帰りがけに見た光景を思い出し、エアグルーヴは口を開く。
「近隣の公園を通った際に目に留まったのですが、蝋梅と紅梅が見頃を迎えていました」
「ああ、私も帰り際に見たよ。雪化粧が施されて、大層美しかったな。そうそう、ベンチに雪ウサギも飾られていたな。片手くらいの小さなもので、とても可愛らしいものだった」
「雪ウサギの方は気付きませんでした。入り口付近に雪だるまがあったのは見かけましたが……子どもが放課後にでも作ったのでしょうか」
終わったよ、と告げられて礼を述べながら振り返る。ルドルフ、と手に残ったオイルを自らの尻尾に塗っている彼女を呼び、鮮やかな紅赤が己を映すのを待った。
「よければ明日、見に行きませんか?」
合った視線の先で、梅の花がぱちりとまばたきを数回。軽く見開かれた瞳が、やがて喜色を滲ませて細められた。
「ああ、行こうか。以前、気になっている店があると言っていたね。昼食はそこでとろうか」
快諾の言葉に、手入れをされたばかりの尻尾がぱたんと揺れる。
「ええ、是非。ルドルフはそろそろ万年筆を新調したいと言っていましたよね。私もインクを補充したいので、そちらにも寄りましょう」
「うん、そうだな。あとはホワイトデー用の品を下見しておきたいから……」
とんとん拍子に明日の予定が組み上がっていく。そこまで行くならあの園芸店にも、久しぶりにあのカフェにも寄ろうか、帰りは惣菜を買って夕食のおかずにしましょう、ならば以前取引先に教えてもらった精肉店のコロッケを……。
ほら、また。ソファの上で会話を交わしながら、エアグルーヴは胸の奥底で波紋が広がるのを感じた。
明日もいつも通り起床して、けれど隣で眠る相手はいつもより遅めに起こそう。それとも自力で起きてくるのを待とうか。普段は一瞥で終わってしまう寝顔を、じっくりと堪能してもいいかもしれない。
身支度を整えたら外へ出て、二人で蝋細工のような黄色い花を鮮やかな紅の梅を鑑賞しながら、ゆったりとした時間を過ごして。雪が残っていれば、ルドルフが雪ウサギ作りに精を出すかもしれない。それを苦笑まじりに眺めながら、きっとエアグルーヴも便乗してしまうのだろう。南天の実と葉を飾った白いウサギを先客のいるベンチにそっと並べ、手が冷え切ったら暖をとりがてら昼食へと向かうのだ。
身の内のさざ波が、全身を巡っていく。楽しそうに耳を揺らすルドルフを見つめていれば、波がたぷんと音を立てて己に告げる。
──ああ、愛おしい、と。
当たり前のようにこれからも続くのだと信じられる日常に、エアグルーヴは薄く染まった頬を柔らかく綻ばせた。





南天の花言葉:福をなす、良い家庭、私の愛は増すばかり



あとがき
甘いの目指して書いたんですが見事に撃沈しました。難しい、難しいな…雰囲気で甘さを醸し出すのは…。
お互いに何気ない日々を愛おしいと思ってたら素敵だなと思います。会長も右腕も当たり前な日常に幸せを感じるひとなんじゃないかなと勝手に思っています。望みが叶うことの難しさを知っている二人なだけに。

【四字熟語補足】
滴水成氷(てきすいせいひょう):冬の厳しい寒さのたとえ。

23.2.24


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