あなたの色彩
他者の心情を真に理解するには、同じ状況を体験することが迅速かつ合理的である。
そのことを、まさかこんな形で実感するとは思わなかった。
本日分の生徒会の業務を終えて顔を上げた先では、星のまたたく夜空が窓の向こうに広がっていた。
もうそんな時間か。軽く息をついたエアグルーヴは、執務机の奥にある窓に近付いてカーテンを閉める。今日はエアグルーヴが最後のひとりだった。
生徒会室を施錠し、職員室へと鍵を返却する。失礼します、とドアを閉めてから、エアグルーヴはコートとマフラーを着込んだ。
二月は暦の中で最も冷え込む時期だ。降雪量の少ないトレセン学園でも、この月の前後は雪が降ることさえある。現に先週末は雪が積もり、学園スタッフと生徒らが手を取り合って雪かきをおこなったばかりだった。
中には雪合戦やかまくら作りをはじめる輩もいたが。雪かきをサボって遊んでいた者たちを思い出し、エアルグ―ヴはため息をつく。元気が有り余っているのはけっこうだが、時と場を弁えてほしいものだ。
「まったく……あれでは雪像を作っても、ものの数日で壊されそうだ」
ふと、いつだかに耳にした言葉を思い出して呟く。生徒会長であるシンボリルドルフが、学園でも雪まつりが行えないものかと思案していたのだ。
が、一部の奇行に走る面々を見るに果たしてどうなるか。壊されるだけだけならまだいい。それが動き出したり発光したりでもしたら大惨事である。……その危険性を考慮しなければならないのもどうかと思うが。
善は急げだ。明日彼女に会った際、懸念事項として伝えるとしよう。そう決意して足を踏み出した。
コツコツと革靴の音が廊下に響いていく。日中は賑やかな学園内も、今は嘘のように静けさに満ちていた。
学園の七不思議などに興味を抱いて肝試しに来る生徒らも時折いるようだが、今日はその気配もない。時間的にもまだ早いので当然だろう。
階段を下りたエアグルーヴは、そこでふと足を止めた。吹き抜けの空間を見つめ数秒、それからまた階段をくだる。
一階に辿り着いたあと、エントランスの中央のやや手前で再び立ち止まる。足元を見つめ、ゆっくりと視線を上へと向けた。
先日のことだ。再び秋川理事長より記念ライブの開催することを通達され、学園内もライブ仕様の装飾が施されることとなった。
前回の試みが、内外を問わず予想以上に好評を博したのだ。此度も是非にと、今度は秋川理事長からの申し出を受け、元からそのつもりであった生徒会もすぐに快諾した。
そうして先週末。業者と生徒会役員総出で、エントランスは再び大掛かりな模様替えがなされたのである。
「こう見ると、今回のも負けず劣らず色鮮やかだな」
今回のテーマ色は赤だ。といっても彩度の低い、落ち着いた色を選んだつもりだった。が、改めて眺めてみると思いのほか鮮明に映る。
金色の直線やツタ模様に縁どられた深い紅が、エントランスの床や天井を中心に飾り立てていた。メインの布はところどころで白い垂れ幕と重ねて使われていて、それがまた深紅をより印象づかせる。
対して柱や階段横の壁には、濃紺色の壁紙が貼られていた。細い金のラインが一筋入ったその暗色が良いアクセントとなり、きらびやかでありながらも落ち着きのある雰囲気を醸し出していた。
いや、場を支配していると表現した方がより正しいか。
全体を見渡しながら、エアグルーヴは内心でそう独り言ちる。
エントランスの装飾を眺めてから、今度は玄関口の上部に飾られた校章へと視線を向ける。普段は鈍色に輝く蹄鉄は金色に塗り替えられ、天井に吊り下がる翡翠色のガラス細工と同色の校章がはめ込まれていた。
「……似ているな、やはり」
浮かんだ言葉が、するりと唇からこぼれ落ちる。
デザインの原案を見たときから、これは、と思っていた。それは共に確認していた彼女も同じだった。軽く目を見開いた横顔が、やがて戸惑い気味の苦笑いに変わっていったのを、エアグルーヴはよく覚えている。
前回と同様、こちらからデザイナーには細かい注文は付けていない。今回のテーマ色とタイトルを伝え、それに合ったロゴやデザインを依頼しただけだ。
記念ライブでは、衣装やステージも専用のものが用意される。その際に重要なのは全体的な統一感だ。ならばデザイナー側で詳細を詰めてもらったほう方が擦り合わせもしやすいだろうと、そう考えてのことだった。
ゆえに想定などしていなかったに違いない。そもそも彼女の勝負服の色、つまりはイメージカラーといえば、深い緑色がまず思い浮かぶ。
だからこそエアグルーヴも……そしてシンボリルドルフも、そのデザイン案は予想外であった。
──色合いというよりも、まず装飾に目がいった。
似ている、と思った。勝負服を纏った、”皇帝”シンボリルドルフに。思った瞬間、デザインの一つ一つがルドルフに繋がった。
だが、同時に納得もした。相応しいとさえ思った。
ルドルフはこのトレセン学園で、生徒会長という肩書きを持つ。名称の通り生徒の代表であり、学園の顔としても広く知れ渡っている。
であれば学園主催の記念ライブに、ルドルフをモチーフに選ぶのは当然の流れだろう。
そう思ったからこそ、ルドルフがこのデザインについて尋ねられた際、エアグルーヴは素直に賛成の意を示したのだ。
(あの時は、その程度の認識だったんだが……)
寧ろ職権乱用だと苦情を受けやしないかと、躊躇っていたルドルフの背を押したほどに。そのくらい、エアグルーヴの意識は薄かった。
軽く俯き、深く静かにため息を吐く。身勝手に速まりだした鼓動を宥めるように胸を押さえた。
「……これほどは、思わなかった」
単なる色だと思っていた。ただの装飾だと。我々ウマ娘をモチーフにしたグッズなどとうに見慣れていたから。
だから。
──視界全てが、あの方の色に染まる。
それがこれほどまでに、情動を揺さぶられるものだとは思いもしなかったのだ。
失敗した。あまりにも浅慮だった己を呪うしかない。だがこんなにも厄介なものだとは本当に考えもしなかったのだ。
これが数日も続くというのか。エアグルーヴはエントランスを見上げて、唇を噛む。そうでもしないと腑抜けた顔をしてしまいそうだった。
「──エアグルーヴか?」
と、ふいに頭上から降ってきた声に、エアグルーヴは短い悲鳴を上げて飛び上がった。勢いよく振り仰げば、見慣れた一対のマゼンダが驚いた様子でまばたきを繰り返しているのが見えた。
「か、会長……」
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだが……」
「い、いえ……」
無様な姿を晒してしまった。羞恥に赤らむ頬を隠すように顔を逸らし、しかしはたと気付いて二階にいるルドルフを見上げる。
「会長は何故こちらに? 本日はトレーニング後に直帰の予定では?」
まさか仕事をしにしたわけではありませんよね? と言外に滲ませて訪ねると、彼女は困ったように眉を下げて笑った。
「教室に忘れ物をしてしまってね。取りにいったところだったんだ」
そう言ってから、ルドルフは軽やかに踵を返して一階へと下りてくる。まもなくしてこちらに到着した彼女は、先ほどのエアグルーヴと同じくエントランスを見渡した。
ルドルフ自身は、この装飾を見てどう感じるのだろう。気になってちらと覗き見ると、何かを思い出したように端正な横顔がふとほろ苦い笑みを刷いた。
「日中、ここでテイオーと会ってね。私を見るなり飛びついてきて、私の色だと言って大層はしゃがれたよ。さらにはこれは私の勝負服のここだ、あれだと事細かく説明してくれてね……」
流石に気恥ずかしかった、と目元をほのかに染めて耳を伏せるルドルフに、エアグルーヴも苦笑する。当の本人に力説したのか。
「それは……テイオーらしいですね」
「まったく……しかも通りすがりの生徒にまでその話をするものだから、それを止めるのにも苦労した」
その姿は容易に想像がついた。目をこれ以上なく輝かせ、道行く生徒を捕まえては興奮気味に捲し立てたに違いない。テイオーにかかればクリスマスでさえ「赤と緑でボクとカイチョーの服の色じゃん!」とルドルフに繋げてしまうのだから。それを聞いた当時は流石にこじつけすぎだろうと思わずツッコんでしまった。
エアグルーヴは再び装飾に視線を戻す。だが、今回ばかりはテイオーの意見に同意せざるを得なかった。
「ですが、こうして飾り立てられたエントランスを眺めると、よく考え抜かれたデザインだと思います」
本当に。見れば見るほどにそう思う。その道のプロの手腕に、ただただ感服するばかりだ。
エントランスの装飾が芝生の香りを引き連れて記憶を掘り起こす。青々としたターフの上に、威風堂々と君臨するその姿を。
波打つ紅の垂れ幕は、背中ではためくマントに変わる。天井を横切るガーランドは肩にかかる飾紐を。翡翠色のガラス細工は頭上で揺れる耳飾りを。
垂れ幕の下部を飾るフリンジも、金のラインが入った濃紺の柱も、ひし型の金飾りも。
全てだ。全てがルドルフが纏うもので、この場は飾り立てられていた。
(細部まで覚えているものだな……)
それほどまでによく見ているという証左でもある。それはきっと、あの時エアグルーヴの色だと言ったルドルフも。
あの時は、青を基調とした白と金の装飾でここは彩られていた。テイオーを彷彿とさせる色だと、彼女は嬉しそうに呟いていた。
その微笑んだ横顔が、あまりにも慈しみに溢れたものであったから。つい、対抗心が湧いてしまった。
ちりりとささくれだった心は喉を震わせ、湧いたばかりの不満を訴えた。驚いた彼女は、その次には見惚れるような笑顔でほしい言葉をくれた。
それでも自分以外にその視線を向けていることが不服で、結果、柄にもないことを口走ってしまった。それについては今でも恥じている一件だ。
けれど、今ならわかる。あの時のルドルフの気持ちが。
頬に熱が走るのを感じ、エアグルーヴはそっと目を伏せた。それでもまばたきをしたあとには、また瞼を上げて眺めてしまう。
どこを見ても彼女の勝負服が脳裏にちらつく。しかも窓の向こうにはよりにもよって白い三日月が穏やかに輝いていて、なおさらに重なって仕方がなかった。
──見上げれば、まるであなたに包まれていると錯覚してしまうほどに。
そう、認識してしまってからのこの景色は、あまりにも──。
そのとき、ふいに片手を握られた。弾かれたように振り向けば、ルドルフが真っ直ぐに自分を見つめていた。
あまりにも強い視線にたじろぎつつも呼びかければ、強さは変わらず、けれどどこか縋るような色を紅梅は宿す。
「エアグルーヴ、私はここだ」
「は、あ……?」
それはその通りである。意図がよくわからない。
もしや新作のダジャレだろうか。咄嗟にその可能性を考えるようになってしまった己の思考に、次の瞬間には何とも言えない気持ちを覚えた。
こちらの困惑に気付いたのだろう。ルドルフは我に返ったように目を見開き、ぱっと手を離した。
「すまない。妙なことを言ってしまった」
気まずそうに頬を掻く彼女に、エアルグ―ヴはいえ、と首を振る。気を悪くしたわけではないと暗に告げれば、彼女はほっとしたようにへにゃりと表情を緩めた。その顔は少し心臓に悪い。
「君があまりにも熱心に眺めているものだから、つい」
「それは、どういう……?」
「うん。端的に言うと嫉妬したようだ」
「は?」
理解する前に再び視線が向けられる。先ほどよりも穏やかな眼差しを小さく揺らめかせて、弧を描いた形のいい唇が動いた。
「私の色と思って、この装飾を見てくれるのは素直に嬉しい。思わず有頂天外になってしまうほどにね」
しかし、と一度言葉を区切り、彼女は眉をハの字に下げる。ばつの悪そうな、どこか途方に暮れたような表情だった。
「……装飾などではなく、私自身を見てほしい、と。先ほど、そんな傲慢不遜なことを思ってしまったんだ」
それで君の手を掴んで、思考するよりも先にああ言ってしまった。そう白状された動機は、適温を維持された室内で聞くには熱すぎるもので。
コート越しに背をはたかれる。それが己の尻尾であることは自明だった。
「……前回の意趣返しですか?」
耳や首まで熱くなってきた。顔を見られたくなくて、手の甲で口元を覆いながら苦し紛れにそう問えば、ルドルフはきょとんと目をしばたかせた。
「……ああ。いや、違うよ」
『前回』が何を指すのか、正しく理解した彼女は首を横に振る。それから笑声をひとつこぼして、ふわりと嬉しそうに目を細めた。
「なるほど。あの時の君は、こんな気持ちだったのか」
しまった。墓穴を掘った。これはいいことを聞いたと言わんばかりに微笑む彼女を、思わず強く睨みつける。
しかしルドルフは意に介した様子もなく、ただただご機嫌なままエアグルーヴに手を差し伸べた。コートから覗く手のひらが、穏やかにエアグルーヴを促す。自分のものよりも少しだけ大きいその手は、重ねればひどく優しい力加減で握り返してくれることを、エアグルーヴはよく知っていた。
「帰ろうか、エアグルーヴ。そうすれば、帰路の間は君の視線を独占できるだろうからね」
「やはり意趣返しではないですか……!」
「はは、さて、どうだろうな? だが本心であることは間違いないよ」
くすくすと笑う姿が愛らしくも憎らしくて、エアグルーヴはわざと靴を鳴らしてルドルフを置いて歩き出した。
エアグルーヴ、と笑いまじりの呼びかけを無視して進む。たっ、と駆ける音が聞こえてきて、次の瞬間には手を掴まれた。
離してください、私は怒っているんです。そう苦情を訴えようとして、視線を合わせた途端に目の前の顔を見て言葉を失う。
そこにあったのは、あまりにも幸せそうに笑み崩れるルドルフの姿だった。
何て顔を見せるのだ。何て顔を、自分に。
装飾を眺めていたときとは比べ物にならないほどに心臓が暴れ出す。耳朶にまで響くそれがうるさくて仕方がない。
捕らえられた手のひらに指を絡めとられ、また鼓動がひとつ跳ね上がった。柔らかな手は熱いくらいにあたたかくて、それがまたエアグルーヴの不満や怒りをするすると溶かしていってしまう。
結局、エアグルーヴは真っ赤になった顔を俯かせ、「寮に戻るまでにはその顔をどうにかしてください」と当初とは異なる小言を言う他なかった。