錦色の子
早朝の河川敷は、夜半に降りたらしい霜が道一面を覆っていた。
「もうそんな時期か……」
そろそろ生徒会から注意喚起を出した方がよさそうだ。うっすらと白くなった歩道を見て、エアグルーヴは階段を下って川表へと移動する。
霜の降りたアスファルトはよく滑る。ウォームアップで怪我でもしたら元も子もない。
スズカにもあとで言っておかねば。エアグルーヴは親友を思い浮かべて息を吐く。彼女は雪景色が特に好きらしく、積もれば嬉々として走りに出掛けてしまうのだ。
「せめて私が言わずとも、厚着をして走ってくれればいいんだがな……」
しかしそれを忘れてしまうのがサイレンススズカというウマ娘である。自分も気を配りつつ、同室のスペシャルウィークにも気に掛けておくように……流石にお節介がすぎるだろうか。
だが風邪を引いてからでは遅い。もしスズカがそれで体調を崩してしまったら、結局忠告しなかったことを悔いることになるのだ。
そう思案しているうちに枯れ草の原っぱに降り立つ。凍り付いた草が体温で溶けだして、ひやりと雫の感触が足首から伝わってきた。熱くなった脚には丁度いい冷たさだ。
この枯れ草も、春になればまた新芽を出して、やがては青々と生い茂っていくのだろう。地面の感触を軽く確かめ、滑ることはなさそうだと判断して再び走りはじめる。
トレセン学園にやって来てから、またひとつ季節が巡るのだ。そう思うと感慨深い。
今年も色々なことがあった。川辺を走りながら、エアグルーヴは賑やかな日々を振り返る。
学園での忙しない日常、花壇で育てた花の彩り、友人らと出掛けた楽しい思い出に、レースを駆け抜けた熱き日々。それら全てが、今のエアグルーヴを形作っている。
そして来年も、多くの出来事が待っているのだろう。冬が終われば春が訪れ、夏が過ぎればやがては秋に。それらもまた己の糧とし、理想をこの手に掴み取るのだ。
(……そういえば)
ふと、エアグルーヴは視線だけを横に向ける。急な斜面は、同じように枯草が霜に覆われて白く染まっている。けれどエアグルーヴの目には、それとは違う景色が映っていた。
(あの子と出会ったのは、この辺りだったな)
まだ青々とした草花が生い茂っていた頃の出来事を思い出し、微かに目を細める。
秋先のことだ。今とは真逆の、夏の名残が続く蒸し暑い気候だった。
草むらに身を隠しながら、懸命に鳴く小さな小さな姿を見つけた。
元気でやっているだろうか。ころころとした容姿を脳裏に思い浮かべた、その時。
──……。
「──っ!」
ぴんと耳を跳ね上げ、エアグルーヴは立ち止まる。まさか、勢いよく振り返った先には、しかし先ほどと何も変わらない枯れ草の岸辺があるだけだった。
「……幻聴、か」
そばだてていた耳が無自覚に前へと垂れる。自嘲気味にこぼした声は、思った以上に情けない音を発していた。
◆ ◆ ◆
東京の郊外に位置するトレセン学園にも、時折ではあるが雪が降ることがある。年に数回、あるかないかの頻度ではあるが、あるのならば積雪に備えておかなければならない。
そして積雪への対処には、学園スタッフはもちろん、生徒会もその役目の一端を担っていた。
「備品の点検を行ったところ、雪かき用の道具に劣化が見られました。そちらがリスト化したものと、全てを新調する場合の見積もりになるのですが……」
「あきらかに予算オーバーだな」
資料に目を落としたまま呟いたシンボリルドルフの一言に、向かいに立つエアグルーヴはええ、と相槌を打つ。
「元々あまり予算を取っていない箇所でしたから。ですが、だからといって疎かにしていい点でもありません」
「ああ。有備無患、事前の備えこそ緊急時にはものを言う」
生徒会が加わっている理由は様々であるが、主な理由としては人員確保がまず挙げられる。
基本的に学園周辺の降雪は、道が薄っすらと白くなる程度の積雪量で終わるのだが、稀に大雪に見舞われることがある。
ダートコースであれば除雪車で雪を撤去すればいい。しかし、芝のコースだとそうはいかない。
車両の通行は芝生が傷む原因になる。そのためレース場と同様、芝コースは機械は使わずに手作業で行うことになる。つまりは人海戦術に頼るほかないのだ。
学園スタッフだけでは到底人手が足りない。ゆえに生徒会を通じて生徒たちへと声を掛け、雪かきを行うのが通例であった。スコップなどの除雪道具も、必然的に人出の数だけ大量に必要になる。
「理事長に願い出れば、臨時予算を捻出してくださるだろうが……あまり頼りすぎるのも忍びない」
「他から予算を引っ張ってきますか?」
「そうだな……」
ふむ、と熟考に入ったルドルフを見てとり、エアグルーヴは口を閉じて待機する。無言で考えはじめたときは大抵すぐに回答がくる。時間を要する場合は、彼女の方から「検討してから後日回答する」、「座って待っていてくれ」などと口にするのだ常だ。
どうするのが最善かつ合理的であるか、常人よりもはるかに優れた思考速度でシミュレートしているのだろう。鹿毛に覆われたルドルフの耳が、それを表すかのように忙しなく動いていた。
ふいに、別の姿が重なった。彼女のようにふさりとした、彼女よりも明るい色の毛並みが脳裏によぎる。
(……元気で、いるだろうか)
今朝にも思った言葉が、再び浮かぶ。日に日に寒さが増してきている。あの子にとっては初めての冬であるはずだ。体調を崩してなければいいが。
わん、と幻影のあの子が元気よく鳴く。寮から帰ってくれば、あの子は嬉しそうに駆け寄ってきた。ぴすぴすと鼻を鳴らして足元に寄り、顔を上げてもう一度わん、と鳴く。まるでおかえりとでも言うように。
そんな健気な姿を見る度に、胸がふわりとあたたかくなった。尻尾を大きく振って全身で好意を表す姿に自然と笑みが浮かんで、期待に目を輝かせるその子の頭を毎日のように撫でてやったものだ。
あの子の毛並みは、軽く指が沈むほどふっくらと弾力があって──。
「うん、君の意見に従うのが良さそうだな。予算に余裕のある箇所のリストアップは、エアグルーヴに任せる。その間に、私は学園スタッフに掛け合ってみるとするよ。援助してもらうか、道具を共同購入するという手も──」
そう、初めは今のようにぴんと耳を立てて、それが撫で続けているうちにゆっくりと伏せていくのがとても愛らしかった。
「ええと……エアグルーヴ?」
「はい?」
困惑しきった声に呼ばれ、半ば無意識に返事をする。少し視点を下げると、戸惑いに揺れる瞳と目が合った。
エアグルーヴは訝しげに目を細める。あの子の瞳は黒だったような。紅梅やツツジの花を彷彿とさせる、鮮やかなその色は、まるで──、
「──っ!? も、申し訳ありませんっ!」
今の今まで撫でていたのが誰であるかに気付いたエアグルーヴは、弾かれるようにルドルフの頭から手を離した。
「失礼しました! 会長の耳が、あの子と重な……い、いえ、本当にご無礼を……!」
「いや……私も驚いただけだ。そんなに気に病まないでくれ」
苦笑いを浮かべながら声を掛けてくるルドルフに、恐縮しながらもう一度すみません、と謝る。申し訳ないやらいたたまれないやらで、エアグルーヴは熱を持った頬を隠すように手を押し当てた。
「その……以前預かっていた子犬を、思い出しまして。あの子のことを考えていたら、いつの間にか……」
「ああ。君が拾ったと、以前に見せてくれた」
合点がいったように頷いたルドルフは、次いでほっとしたように頬を緩める。
「あの子犬といるときの君は、とても優しい顔をしていたのをよく覚えているよ。思い返して、寂しく思うのも無理はないさ」
「で、ですが、あの子と会長を間違えるなど……!」
「別に構わないよ。ほら」
「わっ、か、会長っ……!?」
手首を掴まれ、先ほどのように彼女の頭に手が置かれる。相手がルドルフだと認識したうえでの触れ合いに、今度は別の意味で顔が熱くなる。
しかしエアグルーヴの動揺など知りもせずに、ルドルフは耳を揺らしながらエアグルーヴをちらりと見上げてきた。整った顔立ちに浮かぶ表情があまりにも無邪気で、不覚にもまたあの子の面影が重なる。
「どうだろうか? これでも毛並みには、多少気を遣っているつもりなのだが……」
さらには少しだけ弾んだ調子の声が、こんな質問を投げかけてきた。毛並みだなんて、と思わず吹き出し、エアグルーヴの緊張は一気に解けてしまう。
「尻尾ではないのですから……」
「今の私はあの子の代わりだ。それで、感触はどうかな?」
あの子は自分の毛並みの具合など聞いてきませんでしたよ、とは思ったが、言わないでおくことにした。その代わりにくすくすと笑いながら、彼女の髪をゆっくりと撫でる。
艶やかなルドルフの髪は、目で見るよりもずっと柔らかい。やや癖のある鹿毛は、けれど引っかかることなどまるでなく滑らかに指をすり抜けていく。いつまでも手で梳いていたくなるような髪質だ。
「素晴らしい手触りです。髪のケアも完璧でいらっしゃいますね」
「君のお墨付きがもらえて光栄だな。あの子の方が、もう少し硬い毛質だったかな?」
「そう、ですね……。ですが、ふわふわした感触は似ています」
「そうか。……君が甲斐甲斐しく世話をしていたから、毛艶もかなりよかった記憶がある」
「ありがとうございます。毎日ブラッシングをしていた甲斐がありました。ちょうど換毛期に拾いましたから、毎日のように毛が抜けて……」
ルドルフの言葉に促されるように、気付けばあの子の話をぽつぽつと語っていた。
怪我している時は包帯を取ろうとして大変だったこと。野良だったためか拾い食いをする癖があり、それを矯正するのに苦労したこと。それでも一度叱れば同じ失敗は繰り返さなかったこと。
元来人懐っこい性格ゆえに、生徒だけでなく教師や寮母さんにも大人気だったこと。とても賢い子だったため、躾にはほとんど手間がかからなかったこと。
「聡明で、とても愛嬌のある良い子でした。元気にやっているといいのですが……」
「君が育て、信頼できるひとへと託されたんだ。無事息災でいるに決まっているさ」
手首に添えられた手に軽く力を込められ、ルドルフがそう断言する。何故だろう。根拠などないに等しいはずだが、彼女が言うのなら大丈夫だと思えてしまう。
それは絶対を見せつけてきた皇帝の言葉であるからか、それとも。
「それにしても……ふふ、聞けば聞くほど、まさに"わん"だふるな犬だったのだな、その子は」
「………………」
「っ!?、え、エアグルーヴ、どうした? 力加減が、その……君の爪が少々頭皮に刺さってだな……うわっ!?」
困惑した声も無視して、エアグルーヴは無言でルドルフの頭を掻き回した。それはもうわしゃわしゃと音が聞こえるほどに。
情緒も何もあったものではない。別に何かを期待したわけではないが。あれはないだろう。
「ありがとうございます。気が晴れました」
「あ、ああ……どういたしまして……?」
ぱっと手を離せば、ルドルフは疑問符を浮かべながらも律義に返事をした。いつも以上にふわふわに散った髪のせいか、それとも目を白黒とさせているせいか、その表情はどこか普段よりも幼い。
そして乱れた髪をそのままに、彼女は安心したように目を細めた。
「まあ、君の調子が戻ったようで何よりだ」
よかったと笑うルドルフに、はたと気付く。どうやらあのダジャレは、自分を気遣って発したものだったらしい。
ぱちぱちとまばたきをして、それから苦笑しながら脱力した。まったくこのひとは。
(いつもこのくらいの意図だったら、わかりやすいのだが……)
まだまだダジャレの意図を理解するのは難しい。小さく息をついて、エアグルーヴは弧を描いたまま唇を開く。
「かえで、と言います。その子の名前は」
「かえで……うん、可愛らしくて優しい、良い名前だ。もしかして、名付け親は君かい?」
「ええ。受け渡しの際に、トレーナーが口を挟んで……」
調子を狂わされたが、いつまでも悩んでいても仕方がないのは確かだ。幸せであることを信じよう。いいや、幸せでいるに決まっている。
どこに出しても恥ずかしくないように育てたのは、他ならぬ自分なのだから。
「──失礼します。いた、グルーヴさん!」
その時、部屋の扉が叩かれ、開いたドアからファインモーションが現れた。彼女はエアグルーヴの姿を認めた途端に目を輝かせ、挨拶をしながら駆け寄ってくる。
「ねえねえ聞いて。私ね、とっても素敵な出来事に巡り合ったの! グルーヴさんも来て!」
「お、おい待て、ファイン! いきなり何なんだ。まず要件を言え!」
そしていきなり腕を引っ張るファインを慌てて止める。彼女が見かけによらず唐突かつ大胆な行動に出る性格なことは知っているが、それにしても突拍子がなさすぎる。
「あ、そうだったね。ごめんなさい」
指摘されてやっと足を止めたファインは、困ったような笑顔で謝罪をする。だがすぐにぱっと顔を明るくして事情を話しはじめた。
「時間がないから手短に話すね。あのね、さっき学園近くの公園で、かえでちゃんとその飼い主さんに会ったの!」
「なっ、なんだと!?」
「飼い主さん、学園の近くに住んでいらっしゃるんですって。今ならまだ公園にいるよ! だからグルーヴさん、行こう!」
確かに住所は聞いていなかったが、それほど近所にいるとは思わなかった。まさかすぐ会えるような距離に……いや違う。今気をとられるところはそこではない。
「ま、待て! 私はまだ業務中で……」
「なに、生徒会のことは気にせず行ってくるといい」
再び腕を掴んでぐいぐいと引っ張ってくるファインを止めようとすると、今度は背後から声をかけられる。
「会長……で、ですが」
「会長さんの言う通りだよ。かえでちゃんも、グルーヴさんに会いたくて仕方ないって顔してたよ。グルーヴさんだってそうでしょう?」
それは、とエアグルーヴは言葉に詰まる。
会いたくない、わけがない。ずっとあの子のことが頭から離れないでいる。本当は心配で仕方ないのだ。
だがもう、あの子は自分の手から旅立った。新しい飼い主、新しい家、新しい環境で暮らしているのだ。新たな居場所に馴染んでいるであろうあの子に、果たして自分が会いに行ってもよいものだろうか。
「エアグルーヴ」
名を呼ばれる。いつの間にか俯いていた顔を上げれば、穏やかに微笑むルドルフと目が合う。
その表情に、ひどく狼狽えていた心が不思議と凪いでいくのを感じた。
「千載一遇のチャンスだ。一期一会の縁にしないためにも、行っておいで」
とん、と声で背中を押される。ルドルフのその一言に、エアグルーヴの心は完全に定まった。
そうだ。あの子との出会いを、一生に一度の交わりになどしたくない。もう一度会いたい。会って、また縁を繋ぎたい。
迷いに揺れていた薄青の瞳が、決意に満ちて固まる。ゆっくりとまばたきをして、エアグルーヴはすぐさまドアノブに手をかけた。
「ありがとうございます。すぐに戻ってまいりますので、いい子でお留守番をしていてくださいね!」
「は──」
そう言って、ルドルフが目を丸くして固まっているのにも気付かず、エアグルーヴは勢いよく生徒会室を飛び出していったのだった。
二人が去っていった生徒会室で、ルドルフはぽかんと口を開けたまま固まっていた。
流石はエアグルーヴとファインだ。今のスタートダッシュは素晴らしかった。足音もすぐさま遠のいていく。
しかし……しかし、先ほどの、あれは。
やがて喉が震える感覚がやってくる。その衝動に抗おうとしたのだが、運悪くもう一度彼女の言葉を反芻してしまった。
「くっ……ははは!」
結局耐え切れず、ルドルフは声を上げて笑った。
いい子でお留守番。まさかそのようなことを言われるとは思いもしなかった。本人は無自覚だろう。自分が不在の間に仕事を独占しないようにと、おそらくはそんなところか。
驚愕と動揺、そして先ほどまでの会話がないまぜになって、意図せず口走ってしまったに違いない。
これは黙っておいた方がよさそうだ。告げた途端、顔を青くも赤くもさせて謝罪する姿が目に浮かぶ。いやしかし、その前にファインモーションが指摘しそうな気がしなくもない。その時はその時だろうか。
「しかし、どうしたものか……」
くつくつと笑いを噛み殺しながら、ルドルフは己の前髪に触れる。手荒く掻き回された髪は、鏡で見なくとも乱れているのがわかった。
撫でられた手の感触が、未だに残っている。細い指先が、さらさらと髪を梳く感覚。労わるような手のひらの動き。
頭上から降り注ぐ優しい声音。時折耳朶を震わせる、吐息混じりの柔らかな笑い声。
──参った。どうにも癖になりそうだ。
幼少の頃にも撫でられた記憶はあるが、あの時とはまた違う心地良さだ。いや、それよりももっと刺激の強い。
まるで脳が痺れるような、もしくは波打つような。
「おーい、ルドルフ……って、どうしたの、その髪? まるでレースを走ったあとみたい」
ノックもなしに開いたドアに、ルドルフの思考はぱちんと弾けた。急いで引き締めた表情は、しかしひょっこりと覗かせた顔を見てすぐに緩む。
「君か、シービー。何の用だい?」
「うん。併走のお誘いに来たんだ。それ終わったら、ひと勝負しない?」
それ、とミスターシービーが指さしたのは、先程までエアグルーヴと話し合っていた除雪道具に関する資料だった。相変わらず唐突だな、と苦笑いをこぼし、けれどルドルフは首を横に振る。
「いつもなら願ってもない申し出だが、今日は難しそうだ。また今度にしてくれ」
「えー、折角ルドルフと走りたい気分だったのに……見た感じ、急な案件があるワケじゃないでしょ?」
「まあな」
「じゃあ何で?」
頬を膨らませて不満を露わにする彼女に、ルドルフはしたり顔をして問いに答える。
「待てができるいい子なんだ、私は」
何それ? ときょとんと首を傾げるシービーを尻目に、髪の乱れた皇帝はくすくすと楽しげに耳を揺らすのだった。