寂しがりの憂悶
『あとは時間の許す限り、お楽しみください。息抜きも時に必要のはずです』
『確かまだ屋台も回ってなかったよね』
口々に言ってきた彼女たちの言葉が、思いやりゆえのものだとは理解していた。
「テイオーと喧嘩でもしたのですか?」
休憩時間だと告げられ、後ろ髪を引かれる面持ちでやり途中の書類から手を離してソファへと移動した時だった。湯気の立つティーカップを受け取った際に、そのような問いが降ってきた。
忙しなくまばたきを繰り返しているうちに、もう一つのティーカップがことりとテーブルに置かれる。お茶を用意してくれたエアグルーヴは、そのまま向かいのソファへと腰を下ろした。
品のある所作でカップに口をつける姿をまじまじと見つめていると、視線に気付いたらしい彼女とかちりと目が合う。
「それとも、また必要以上に仕事を片付けておしまいになられたとか?」
冬場の淡い空を思わせるような怜悧な双眸は、疑いようもないほどに真剣だった。その眼差しに、シンボリルドルフは戸惑いの色を浮かべながら微笑する。
「……エアグルーヴ、すまない。話が見えないのだが……」
ちなみにどちらも身に覚えはないよ、と一応の弁明はしておく。昨日も会ったテイオーは普段通り明朗快活な姿を見せてくれていたし、ここ数週間を思い返した限りでは他の者の仕事を横取りしてしまった記憶もない。……はずであるが。
説明を求めるように見つめ返すと、エアグルーヴはカップを置いてから軽く姿勢を正した。その際に細長い耳がぴぴ、と微かに揺れるのを視界の端で捉える。
「ここ最近、どこか塞ぎ込んでいるように見えましたので。何かあったのかと」
「……ああ、なるほど」
そういうことか、とルドルフはほっと息をついた。知らぬうちに何か失態でも犯してしまったのかと思った。
「勘違いでしたら申し訳ありません」
その仕草をどう受け取ったのか、エアグルーヴが眉を下げる。その様子を見て、ルドルフは安心させるように首を横に振った。
「あながち間違いではないよ。私自身に何かあったわけではないのだが……少し、気がかりなことがあってね。どうやらそれが顔に出てしまったようだ」
だから気にしないでくれ、と続けようとしたが、それより先にエアグルーヴが問いかけてきた。
「今後の行事に、何か懸念事項でも? それともまた無茶な依頼でも来ましたか?」
「いや……ううむ……」
「おひとりで抱え込むのはなしですよ」
返事をする前に先手を打たれ、思わず苦笑いがこぼれる。自業自得ではあるが、この点に関しては一向に彼女から信用を得られない。
確かに抱えていると言えば抱えている。だが悩みというにはあまりにも些細な私事で、ゆえに自らで落としどころを見つけるべきだと、そう結論付けていた。
(いや、しかし……これは好機だろうか?)
カモミールの優しい香りが鼻先をくすぐり、幸いとばかりにハーブティーに視線を下ろす。面と向かって尋ねるには、少々言い出しづらい案件だった。
「……君はトレーナー君と、よく連絡を取り合っているのかい?」
ティーカップを手元に引き寄せながら、ルドルフは平素通りを装って問いかけた。向かいに座るエアグルーヴが、ぱちぱちと目をしばたいてから首を傾げる。
「連絡、ですか? そうですね……トレーナーとは頻繁に会っておりますし、打ち合わせなどはトレーナー室で行うので、メッセージでのやり取りはそれほどではありません」
淡々と答える彼女に、言い回しを誤ったことをすぐに察した。今のはこちらが悪い。『トレーナー』という名称のみでは、誰しも自身の担当を真っ先に思い浮かべて当然だ。
「いや、すまない。君のトレーナーではなくて、私のトレーナーと、という意味で聞いたんだ」
「会長の?」
「先日の駿大祭で、君たちは私に屋台を巡る時間を用意してくれた。その手際があまりにも鮮やかだったものだから、いつの間に打ち合わせをしたのかと……そう思ってね」
わけを話せば、エアグルーヴは納得したように頷いた。次いで表情を曇らせる。しまった、とルドルフは肩を強張らせた。
「申し訳ありません。会長の許可も取らずに、担当トレーナーの連絡先を伺ってしまい……事前に話を通しておくべきでした」
「ああいや、待ってくれ。そうではないんだ。そういうことではなくて……」
謝罪する彼女に対し慌てて弁明しようと口を開くが、適切な言葉が見つからない。訝しげな視線から逃れるように、ルドルフは咄嗟にカモミールティーを口に運んだ。
適温な熱さとほのかな渋みが舌に広がり、果実のような甘い香りが鼻腔をすり抜けていく。立ち上る湯気にふわりと前髪を撫でつけられ、急いだ気が少しだけ鎮まった気がした。
「私の許可などなくてかまわないんだ。私には私の交友関係があるように、君には君の、トレーナー君にはトレーナー君の交友関係がある。無闇矢鱈に踏み込む気は……いや、すまない。これが本題な訳でもなくてだな……」
と、思ったのだが、お茶の一口では到底足りなかったようだ。己の口から滑り出てくる平静さを欠いた台詞の数々を途中で自覚し、ルドルフはこめかみに手を当て首を振る。
失礼、と訳もなく断りを入れてもう一度カップに口を付ける。ちらりと目線だけでエアグルーヴのことを窺えば、どこか腑に落ちないような顔をしつつも、こちらの言葉を待っている様子だった。
彼女の耳が後ろに倒れていないことに内心で安堵し、カップをソーサーに戻す。咳払いをひとつしてから、ルドルフは口を開いた。正面から目を合わせるのは、やはり少々躊躇われた。
気にしているのはそこではではない。それに本当に聞きたかったことも、連絡先の件ではなかった。
「……呆れられても、仕方がないのだが」
そう前置きをし、次の言葉を探すために区切る。両の耳が惑うようにぱらぱらと動いているのが、鏡を見ずともわかった。
「君とトレーナー君が、私の知らぬ間に交流を深めていたことが、その……少し意外だったというか、驚いたというか……」
そう、初めは驚いた。仲が悪いわけではないのだろうとは思っていた。トレーナーはエアグルーヴのことを非常に優秀だと手放しに褒めていたし、エアグルーヴもルドルフの担当のことは何だかんだ言いつつも認めている様子だった。
だがそれは──今にして思えば厚顔無恥な考えではあるが──、ルドルフが間にいることで成り立っている関係なのだと、少なからず考えていたのだ。
ゆえに驚き、そして。
ルドルフはエアグルーヴの顔色をちらと窺い、すぐに微かに波打つ琥珀色の液体に視線を戻す。
「君たちが友好関係にあることは、私も嬉しく思っている。駿大祭での心遣いもとてもありがたかった。それは紛れもない本心なんだ。……しかし、」
白いティーカップの縁に指先を滑らせながら、ルドルフは口を噤んだ。
「君たちのそのような姿を目の当たりにして、どうにも……」
再び言葉を探しあぐねて、結局適切な回答を見つけられずに尻切れトンボになってしまう。
どうしたものか。言葉を尽くせば尽くすほど、どうしても婉曲な言い回しにしかならない。
悩んだ末、ルドルフは小さく息を吐き、数多に浮かぶ台詞を全て切り捨てた。心底呆れられるだろうが、誤解されるよりはいい。
「──寂しい、と。そう感じてしまったんだ。私がいなくとも、君たちは互いに歩み寄れるのだと……その事実に、筋違いな孤独感を抱いてしまった」
そう覚悟を決めて、胸の奥で燻っていた本音を吐露した。
孤影悄然(こえいしょうぜん)。まるで自分だけ置いてけぼりにされたような、そんな心境だった。
自分の知らない時間を共有し、二人で計画を立てて実行するほどに距離を縮めて……その変化を、ルドルフは目にすることができなかった。
そうしてまた、此度のように遅れて気付く羽目になるのではないか。そう思うと。
──いつか二人とも、私から離れていってしまうのではないかと。そのような不安がつい、脳裏によぎった。
踏み込むつもりはない、などと、どの口が言うのだろう。舌の根の乾かぬうちに、と己の浅ましさに自嘲するしかない。
エアグルーヴに対してなのか、それとも自身のトレーナーに対してなのか、それは曖昧で。ただ疎外感を感じていることだけは明白だった。
「すまない。非常に自己中心的な感情であることは、重々承知しているよ。本当に詮無きことだろう? ……だが、君に心配されてしまっては本末転倒もいいところだ。今後は態度に出さぬよう、一層気をつけ──」
「なるほど、つまり拗ねたわけですね」
「ああ、そう……──うん1?」
しかし思いもよらぬ指摘を受け、ルドルフは逸らしていた顔を勢いよく正面に戻した。混乱と困惑を同時に浮かべるルドルフを、エアグルーヴはただ真っ直ぐに見つめていた。
「拗ねたのでしょう?」
そして真顔で同じ台詞を繰り返される。その表情と眼差しからは、彼女が何を思っているのか全く読めなかった。
「……まあ、有り体に言えば、おそらく……」
問いかけと言うには確信的な口調に、しどろもどろになりながらも頷く。一理ある……どころではないと、そこでようやく自覚に至った。
なるほど自分は拗ねたのかと、納得と同時に情けなさと気恥ずかしさが湧いてきて、再び目を合わせられなくなってしまった。
「まったく、あなたというひとは……」
呆れたような声音に、尚更いたたまれなくなる。すまない、ともう一度小さく謝罪を述べ、ひたすらに身を縮こませた。
かち、と茶器の重なる音聞こえ、ルドルフも逃げるようにしてカモミールティーを手にした。淡い琥珀色に視線を固定したまま、あたたかいお茶で唇を湿らせる。
ふ、と吐息が落ちる音を拾った直後、会長、と涼やかな声音がルドルフを呼んだ。ぴっと反射で耳が立ち、おそるおそる視線を向ける。時計の音すらよく響く生徒会室で、聞き逃したふりなどできるはずもなかった。
しかし顔を上げた先の彼女は、予想に反して優しげな表情でルドルフを見つめていた。見惚れるほどに美しい微笑みに、ルドルフはまばたきすら忘れてエアグルーヴを凝視する。
「今回内密で話を進めたのは、会長が知れば屋台の方々に迷惑はかけられない、と遠慮なさるだろうことが目に見えていたからです。それでは意味がありません」
「それは……」
「ですが、それでも仲間外れにされて寂しかったのだと、そういうことですね」
「う……」
「そもそも我々が協力関係を結んだのも、『あなたを休ませたいから』というのが理由なんですよ。筋違いとおっしゃいましたが、孤独感を覚えること自体がまず見当違いです」
だが放たれる言葉は容赦がなかった。反論の余地もないほどの正論がずばずばと胸に突き刺さり、ろくな返事もできずに呻く。
エアグルーヴから指摘されればされるほど、それが如何に子どもじみた感情であるかを浮き彫りにされるようで、ルドルフはとうとうがくりと首を垂れた。
「それにしても……まさかあなたが、そのような可愛らしいことで悩むなんて……」
「……エアグルーヴ、もうよくわかった。反省もしている。だから、頼むからそのくらいで勘弁してくれ……」
「そのようですね。ご理解いただけて何よりです」
熱をもった顔を隠すように両手を頬に当てて降伏すれば、くすくすと軽やかな笑声とともにエアグルーヴは頷いてみせた。羞恥に堪えないが、彼女の楽しそうな顔が見れたのだからよしと思うべきか。
あとでトレーナーにも謝っておかなければ。ここ最近、彼女にも妙な態度を取ってしまっていた。訊ねられはしなかったが、おそらく気付いているはずだ。
そう考えていたところで、ふいにソファが揺れた。視線を向ける前に、ぽすんと右肩に重みがかかる。
首を巡らせると、黒みを帯びた鹿毛の耳が目前にあった。己のものよりも短い毛並みのそれがぺたりと頬に触れ、ルドルフは目をしばたかせた。
「エアグルーヴ?」
公私混同を嫌う彼女にしては珍しい。名を呼ぶと、ルドルフにもたれたまま彼女はゆっくりと顔を上げた。
鮮やかな赤に縁取られたセレストブルーが、照明に照らされて星のように輝く。吸い込まれるような美しさに目を奪われているうちに、形の良い唇がそっと開かれる。
「あなたがきちんとお休みしてくだされば、我々もこのようなことを画策せずに、あなたのことを存分にかまえるのですが……如何ですか、ルドルフ?」
そしていたずらっぽく告げられた言の葉に、心臓を強く殴打された。
「ふふ、尻尾が上がってらっしゃいますよ」
「──っ!」
思わず後ろに手を回せば、指摘された通りに上向いた尾が揺れ動いていた。表情筋と耳には咄嗟に力を込めたのだが、尻尾の方は完全に盲点であった。
肩を震わせて笑うエアグルーヴに、ルドルフは言い訳すら思いつかずにため息を落とした。敵わないな、と内心で呟き、照れの残る顔で微笑む。
「まったく……君は本当に、私の扱い方がどんどん上手くなっていくな」
「ええ、おかげさまで」
さらりと肯定する笑顔が大変愛らしい。ルドルフは参ったと言わんばかりに苦笑して、同じように相手に寄りかかった。
胸の内に、穏やかな熱がふわりふわりと広がっていく。触れ合う耳が互いに動いて少々こそばゆい。絹糸のように滑らかな毛並みを撫でながら、ルドルフは目を閉じた。
良いように乗せられている、とは思う。だが、決して悪い気はしない。
踊らされた相手が想い人であるから、というのは勿論あるのだろう。古今東西、惚れた弱みとはそういうものだ。そうだと実感させられた、ともいう。
何よりも、とルドルフは右側の柔らかな重みに意識を向けながら、ゆったりと笑みを深める。
それが彼女の優しさからもたらされるものだと、よくよく知っているから。
だからこそ、こんなにも心地良いのだろう。真綿にくるまれるような安らぎに満たされながら、ルドルフは瞼を開く。
「……わかった。君たちの貴重な時間をもらえるのであれば、磨穿鉄硯(ませんてっけん)の心積もりで最大限の努力をしよう」
無意識におこなってしまう悪癖を治すには時間を要するだろうが、それでも。そう決意して答えれば、呆れ気味のため息を落とされてしまった。
「できれば確約をいただきたいところでしたが……期待していますね」
けれどエアグルーヴはすぐに柔らかく目を細めて、再び身体を預けてくる。一応の及第点はもらえたらしい、とほっと肩の力を抜く。
さて、その期待にはいくつの意味が込められているのだろうか。そのようなことを思いながら、ルドルフは愛しきぬくもりに擦り寄り、束の間の休息を堪能したのだった。
それ以降、ルドルフのワーカホリックは改善された……と、そう簡単にはいかなかった。それほどまでに彼女の仕事熱心ぶりは筋金入りだったのである。
つい興が乗って没頭しすぎては一人で業務を完遂してしまい、改善の余地を見つけたら時間も忘れてとことん突き詰めてしまう。諫言を受ければしばらくは気をつけるのだが、ふと油断している頃に再びやりすぎる、ということを相も変わらず繰り返していた。
しかしひとつだけ、変わったこともある。時折であるが、ルドルフは何の前触れもなく生徒会室から姿を消すようになったのだ。視察でも急な案件が飛び込んできたわけでもなく、何の用事もなしにふらりと。
居場所はその時々に応じて様々だった。渡り廊下で見かけた者もいれば、グラウンドで見かけた者も、はたまた学園の外周を走っている姿を見たという者もいる。
気になった生徒が見回りかと声を掛ければ、生徒会長は朗らかな笑顔で一様にこう答えるのだそうだ。
「息抜きをしていてね。このあとに楽しみが待っているんだ」
その何とも曖昧な返答に生徒が首を傾げているうちに、またどこかへ去っていくのだという。
さらに余談であるが、息抜き中の生徒会長を発見した日には、ため息をつきつつもどこか優しげな面差しで学園を見回る副会長の姿もまた、見かけるようになったのだとか。