笑顔が見たくて
発端は、エミールと他愛ない話をしていたときのことだ。
青い空が伸び伸びと広がる晴れの日。気持ちのいい天気の下、ニーアは滝の流れ落ちる川辺で釣りをしていた。
「え? カイネさん、けっこう笑いますよ?」
「え?」
目を丸くしたニーアに、エミールがまたえ? と繰り返す。
くん、と竿の先が曲がり、条件反射で引く。釣り糸の先にはびちびちと威勢のいいニジマスが釣れていた。
魚の口から針を外しながら、ニーアは困惑した面持ちでエミールを見た。
「え……そう、なのか?」
「はい。のんびりおしゃべりしてる時とかによく見ます」
「ほう……あの下着女が談笑とは……意外な一面だな」
それまで黙っていたシロも興味深げに呟く。シロの反応に、エミールは「そうですか?」と不思議そうに首を傾げた。
ぽちゃん、とエミールが差し出したバケツにニジマスが飛び込む。ニーアの手から逃れて狭い水の中をぐるぐると忙しなく回っていた魚は、やがて他の仲間と同じようにゆっくりと泳ぎ始めた。
「えっと、あのカイネが……?」
「はい。カイネさんですね」
エミールの言葉が信じられずもう一度問いかける。だが返ってきたのは先ほどとまったく同じ答えだった。
噂の人物はここにはいない。待つことに早々に飽きて狩りに行っている。
今日の夕食は豪勢になりそうだなどと思考の端で思いながら、ニーアはもう一人の仲間のことを思う。だがいくら思い返してみても、浮かんでくるのはいつもの不愛想な、怒っているような顔ばかりだ。
それが不機嫌な顔ではないことは、もうとっくに知っている。けれど、彼女の楽しそうな顔というのもなかなか思い浮かばない。
「寝る前によく、カイネさんとお話するんです。といっても、しゃべるのはもっぱら僕の方ですけど」
疑問符をまき散らすニーアを知ってか知らずか、バケツの中で泳ぐ魚を楽しそうに見つめながらエミールは話しはじめた。
「その時は心なしか力を抜いて、少し笑いながら聞いてくれるんです。僕、それが嬉しくて、ついつい話し込んじゃって……あ、でも僕が石になってたカイネさんにお湯をかけたって話をしたら、すごく笑われたんです。こっちはただ一生懸命だったのに、カイネさんてば……今でも時々蒸し返しては笑ってくるんですよ」
その時のことを思い出したのか、も〜、とエミールは怒りながら照れる。
二人のやり取りを想像すると微笑ましいのだろうが、ニーアは驚きと困惑でそれどころではなかった。もはや混乱に近い。
「ニーアさん、釣らないんですか?」
「もっと釣らねば、あの下着女に根こそぎ持っていかれるぞ」
「あ、いや、まだ釣るよ」
バケツから視線を上げたエミールに手が止まっていることを指摘され、ニーアは慌てて針に餌を付けて竿を振った。ちゃぷん、と川の中に浮きが沈み、ほどなくしてぷかりと赤い頭が浮かんでくる。
その様子を眺めつつも、心中は穏やかではなかった。
カイネが? あのカイネが、笑う?
思い出すどころか想像もつかない。笑う。カイネが。楽しそうに。時には声を上げて。
しかし頭の中にはやはり疑問符しか湧いてこなかった。そんな自分が何だか無性に情けない。
情けないし、それは、ちょっと。
くん、と竿が震える。身体が反射で足を踏ん張り、勢いよく腕を引いた。さばんと水飛沫を上げて現れたのは、魚ではなく錆びた塊だった。
少し後ろで浮遊するシロの前にそれを置く。ページを見開いた本は、瞬く間に金属塊を吸い込んだ。
「シロさんのその能力って、いつ見ても四次元ポケットみたいですねぇ」
「何だ、それは?」
「えっと、大昔のロボット漫画の話です。未来からやってきたロボットが男の子のために……」
のどかな会話がかわされるのを背中で聞きながら、ニーアはまた釣り糸を垂らす。
ふと、頭上に影が差した。次いでどすどす、と鈍い音が背後から響く。
エミールの短い悲鳴に視線を向けると、すぐ近くに二振りの剣が地面に突き刺さっていた。柄の部分には新鮮そうな肉が括られている。
その近くにとん、と静かな音を立てて人影が着地する。
「戻ったぞ。……何だ、まだやっているのか?」
「おい、下着女。そのように肉を投げるでない」
「別にいいだろう。投げても投げなくても肉の味に変わりはないんだ」
「そういう意味ではなく、我は食べ物を粗末に扱うなということをだな──」
「なぁ、カイネ」
シロの小言を遮って、ニーアは声をかける。
怪訝そうにカイネこちらを向く。ニーアを見上げる顔は、やはりどこか怒ったような、不機嫌そうな表情をしている。
そんな顔でもやっぱり綺麗だと思う。
けど。ニーアはぷかりと湧いた欲求のままに口を開く。
「ちょっと笑ってみてくれないか?」
こいつ頭大丈夫か? みたいな目で見られたのはけっこうショックだった。
◆ ◆ ◆
「今日もダメだった……」
帰宅したニーアは、疲れた顔をしてベッドに仰向けに倒れた。あとからついてきたシロが、呆れた様子でニーアを見下ろす。
「もう諦めたらどうだ?」
「それはイヤだ。諦めたくない」
「駄々をこねおって……」
やれやれと言わんばかりの本に、だって、と内心で呟く。聞かせようものならさらに幼子か、と追撃されそうなため声には出さなかった。
「カイネ、どうしたら笑ってくれるんだろうな……」
代わりにそう呟き、手の甲を額に押し当ててため息を吐く。
あれからカイネを笑わせようとニーアは奮闘した。肉や野菜を渡したり、料理を持っていったり、面白かった出来事を話してみたり。
とにかくヨナが喜んでくれたことを参考に片っ端から試してみた。だが、どれも尽く失敗に終わり、そして失敗するたびにカイネの警戒が強まっていった。
しまいには今日だ。足は床に投げ出したまま、ごろんと横に転がる。
「あんなに怒らせるとは思わなかったな……明日会ったら謝らないと」
「いや……あれは怒ったというより……」
「何だ、シロ?」
「……いいや、何でもない。開口一番に謝るのがよかろう」
「うん……そうだな」
今朝のことだ。ほぼほぼ無策から挑んだ行動は、やはり策が尽きるのも早かった。
そうして手詰まりになったニーアは、心配して声をかけてくれたエミールに相談に乗ってもらうことにした。エミールはきょとんと不思議そうな顔をしていたが、それでもこんなことでカイネは笑った、あんなことをしたら喜んでくれた、と色々と教えてくれた。
だがそのどれもがニーアも試したことのある行為で、エミールの時と自分の時とで反応が大分違うという事実に打ちのめされただけだった。
やっぱり俺じゃダメなのか。突き付けられた悲しい事実に落ち込んでいると、おろおろとしていたエミールが唐突にあっと声を上げたのだ。
「抱きしめてみるとか、どうでしょう?」
「え……カイネをか?」
「……エミールよ、本当にそう思うか?」
「はい! 僕はニーアさんに頭を撫でてもらったり、ぎゅーってしてもらえるとすっごく嬉しいので?」
そういう理由らしい。しかしそれでカイネが喜ぶだろうか。隣ではシロが「我にはもうオチが見えているがな……」などと呟いていた気がする。
自信満々に目を輝かせているエミールに何だか和んでしまい、気付いたらその丸い頭を撫でていた。するとエミールはきゃー! っと嬉しそうな悲鳴を上げて文字通りひゅんひゅんと宙に舞い上がった。
その様子を見て、そういえばヨナもよく嬉しそうにくっついてきたことを思い出した。それに自分もヨナに抱きつかれたり、母親に撫でてもらったときは確かに嬉しかった。ポポルやデボル相手だと少し気恥ずかしかったけれど。
もしかしたら、カイネも意外と喜んでくれるかもしれない。シロの不安に満ちた呟きを見事に聞き流し、ニーアはそう思い直した。
思い直したのがいけなかった。
「カイネ」
別れ際、野営地に向かうカイネを呼び止め、振り返ったと同時に彼女を抱きしめた。
今思えば唐突すぎたと思う。けれど、あの時は妙な緊張感に駆られて先に手が出てしまった。
「その、いつもありがとう。カイネが傍にいると、やっぱり心強いよ」
そして思った以上に華奢な背中に狼狽えながら、結った髪を崩さないように恐る恐る頭を撫でて、そう言ったのだ。
結果は散々だった。どうにも反応がなくて、どうしたのだろうと腕を緩めた直後、まず脇腹に蹴りを食らい吹っ飛ばされた。
地面に転がっているうちに魔法弾のような激しい罵詈雑言を投げつけられ、引き留める間もなくカイネは去ってしまった。慌ててエミールがあとを追ったから、きっと村から離れて野宿をしていることはないと思うが。
激怒したカイネを思い出し、ニーアはなおさらしょげる。そんなに嫌だったのか。そんなに。ちょっと泣きたい。
枕に顔を埋めるニーアに、シロがため息をつきながら近くに寄る。
「そこまで落ち込むことか? 別に見たこと自体はあるだろう。あやつはマモノと戦っているときなど、よく笑っておるではないか」
「そんなこと……うん、まぁ……そうだな。そうなんだけど、そうじゃなくて」
そうじゃない。ニーアは顔を上げ、のそのそと上体を起こす。
確かに巨大なマモノに村を襲撃された際、助太刀に現れたカイネはそれはそれはいい笑顔をしていた。
あの時はすごく目が輝いていた。きらきらというか、爛々(らんらん)と。わぁカイネのこんな笑顔初めて見たなぁ、などと場違いに感心していた覚えがある。
だがそういうことじゃない。ニーアは不満げに抱えた枕に顎を乗せる。
「エミールがよく見るっていう、その笑顔が見たいんだ」
エミール曰く全然違うのだと言っていた。マモノを狩るときの笑顔は怖いが、談笑中に見るカイネの笑顔はもっと優しくてあったかいのだと。
──『見てると、僕のお姉さんを思い出すんです』
エミールにそう言わせるような微笑みを、ニーアも見てみたい。
だが、ここまで失敗続きだと流石に気落ちする。何故エミールと自分では態度が違うのだろう。前はそんなこと感じなかったのに。
「そもそも、何故それほどまでこだわるのだ?」
頭上から降ってきた問いに、ニーアは目をしばたかせた。相変わらず呆れ声だが、先ほどまでの投げやりなものとは少し違う。
不思議に思いながらも、ニーアは問いかけに答えるために口を開く。
「だって、エミールは知ってるのに俺は知らないんだぞ。水臭いじゃないか。俺だって同じ仲間なのに」
「……ほう」
「カイネ、なんか前より冷たくなった気がするし……だから余計に悔しいっていうか、寂しいっていうか……俺にも見せてほしいんだ、そういう素直な表情をさ」
ぽつぽつと気持ちを吐露するニーアを、白の書は複雑な面持ちで聞いていた。
そこまでわかっていて何故自覚がないのか。甚だ疑問でならない。
この青年の境遇を思うと、確かに己に無頓着になるのもわからなくもない。わからなくもないのだが。
──無自覚にもほどがある。
白の書は言いたかった。そう思う理由は仲間だからではなく別にあるだの、その感情をもっと仔細に砕いて掘り下げて突き詰めて魂に問いかけてみろだの、言いたいことは北平原に広がる山々の如くあった。
だが、言ったところで伝わるだろうか? ──いや、伝わるまい。
自問自答は意図せず反語になった。
「でも、シロの言う通りかもな。急ぎすぎてカイネを怒らせたわけだし。無理強いしないで、もっと気長にいくよ」
「……そうか」
納得したようにさらりと笑ったニーアを見て僅かに逡巡したが、白の書はただ相槌を打つだけに留めた。
◆ ◆ ◆
一夜明け、ニーアは畑とニワトリの世話をしてから家を出た。行く途中で村人たちの依頼を請け負い、北平原へ続く門扉の前に立つ。
深呼吸をして気合いを入れ直し、ニーアは門を開ける。街の入り口には、いつものようにカイネとエミールが待ち構えていた。
「おはよう、二人とも」
「おはようございます!」
エミールの明るい挨拶は返ってくるが、カイネからは何も返ってこない。
まだ怒っているようだ。そっぽを向いて腕組みをしている彼女に軽く肩を落とす。そのまましゃがみこんで膝を抱えたくもなったが、それは意地でも耐えた。
「カイネ、その……昨日はごめん!」
顔の前で両手を合わせ、そのまま勢いよく頭を下げた。
「どうしてもカイネに笑ってほしくて……けど、流石に昨日はやりすぎた。カイネの気持ちを、全然考えてなかった」
そもそも歳の近い女の子相手に、妹や男同士で交わすやり取りと同じ感覚で接してはいけなかったのだ。今さらながらにそこに思い至る。
他人に、しかも突然抱きしめられたら誰だって嫌だろう。ニーアだって身に覚えがあるのに、あまりに煮詰まって失念していた。
「ごめん。仲間だからって、やっていいことと悪いことがあった」
もう一度謝り、カイネの反応を待った。
返答待ちの時間が辛い。無言がちくちくと刺さる感覚がする。
どれくらい時間が経ったのだろう。カイネさん、とエミールが促すように声を掛ける。そこでやっと渋々といったていでカイネは口を開いた。
「……エミールから事情は聞いた。私を笑わせたいだなんて、何故そんな血迷ったことを考えた? 疲れてるなら今から村に戻ってクソして寝てこい」
「それは……」
問いかけられて、思わず言葉に詰まった。それを図星と捉えたのか、カイネが眉を跳ね上げてニーアの襟元を引っ掴んだ。
「ち、違う違う! 別に疲れてるわけじゃないから!」
「ならどういうことだ? 下手に嘘ついたら※△☆に蹴り入れて村に叩き込む」
据わった目で睨みつけられる。ニーアは思わず頬を引き攣らせた。
「えっと……そ、それよりヨナが……ごめん待った蹴りはやめてくれ!」
踵を返したつま先が振り上げられる気配を感じて、反射的に足を閉じながら慌てて止めた。まずい本気だ。彼女がマモノ相手にどうトドメを刺しているか知っているだけに冷や汗がすごい。
ちゃんと言うから、と付け加えて、何とか一命を取り留める。
「その……何か、俺だけ仲間外れになった気がして……」
そうして首根っこを掴まれたまま、ニーアは観念してぼそぼそと白状した。言った途端、顔に熱が集まるのを感じる。
できれば言いたくなかった。シロ相手ならともかく、カイネたちに言うにはあまりにも情けない。
「は……?」
呆然とした声がそばで落ちる。そりゃ呆れるよな、と顔を覆いたくなった。
直後、カイネの手が襟から離れ、ニーアは地面に落下した。
「ぐっ?」
完全に不意だったため、受け身もとれずに思い切り背中を打つ。けっこう痛い。
頭を打たないだけよかった、と呻きながらもよろよろと立ち上がる。視線を滑らせれば、カイネが口元に手を当てて顔を俯けていた。
「カイネ……?」
呆れを通り越して怒ったのだろうか。ニーアは肩を落とし、もう一度謝ろうと口を重たく開く。
その時、ふ、と吐息がもれる音がした。
「……っ、はは!」
突如響いたのは笑い声だった。目の前で聞いていながら、けれどニーアは一瞬誰が笑ったのかわからなかった。
「お前、そんなしょうもないことで悩んでたのか?」
くつくつと笑いを噛み殺しながらカイネがニーアを見上げる。はっきりとした琥珀の双眸は、間違いなく愉快そうな色を宿して細められていた。
艶のある唇が綺麗な弧を描く。その唇から、おかしくてたまらないとばかりに次々と笑声がこぼれていく。
(カイネが、笑ってる……)
望んでいた光景は、思っていた以上の衝撃をニーアに与えた。
腹を抱えるほど笑っているのに、不思議なほど豪快だとは感じない。胸に湧き上がったものはと言えば、綺麗と、それから。
カイネの薄い肩が震えるたびに、前に垂れた銀色の髪と一緒に月の涙が小さく揺れる。その姿が不思議と花まで笑っているように見えて、ニーアは探していた言葉に辿り着く。
そうだ、まるで花が咲いたような。そんな例えが似合う笑顔で。
綻ぶように笑う、ただただ少女らしいカイネがそこにいた。
「もー! 笑いすぎですよ、カイネさん!」
「無茶を言うな。随分でかくなったくせに、ガキみたいにしょぼくれて……エミールもそう思うだろう?」
「そこがいいんじゃないですか! ちょっと抜けててかわいいというか、微笑ましいっていうか、ギャップにキュンとくるっていうか!」
「ただの間抜けだな」
「もぉ〜〜〜〜? カイネさんは全然! ちっともわかってないですっ!」
今夜は覚悟してくださいね! 速攻で寝てやる。
そんなやり取りをかわしながら、カイネとエミールは歩きだす。シロが「今日は神話の森に行くぞ」と声をかけると、エミールの元気な声が平原に響いた。
「……おい、行かぬのか」
馬にも羊にも蹴られるのは御免だとただ静観していた白の書は、先ほどから一言も話していないニーアに一応声を掛けてみる。しかし青年は歩いていく二人をぼんやりと眺めているだけで、そこから動く気配がない。
さり気なく様子を窺う。随分と呆けた顔がそこにあった。
とてつもなく嫌な予感がして、思わず表紙ごと目を逸らした。
「……シロ」
「……………………何だ」
正直聞きたくなかった。だが名を呼ばれたからには応じなければならない。叡智の書である己が礼を失してはいらぬ、という自負があった。
だから本当は聞きたくなかったのだが、謎の義務感に駆られて律義に返事をした。
しかし、次の一言で早々に後悔したのだった。
「……カイネって、笑うとすごくかわいいんだな」
「…………」
「エミールはよく平気だな……慣れてるのか……?」
──それを我に聞かせてどうしろというのだっ?
そう叫びたい衝動を白の書は必死に耐えた。ここで耐えないでどうする、耐えてこそ古より生まれし深淵なる智慧の書物なり、と意味のわからない言葉で己を鼓舞する。
もう一度言う。下手に手を出して馬にも羊にも蹴られるのは御免である。
「…………知るか」
そうして何とか心を鎮めた白の書は、ようよう声を絞り出してそう一蹴したのだった。