名もなき花は知らずに咲く
忙しない日々にそっと転がっているような他愛もないひと時が、本当はかけがえのないものだった。
そういう大切なことを、人はなぜ失ってから気付くのだろう。
雲一つない晴れやかな空。快晴であるな、と清々しそうに呟いた白の書の言う通り、眩しいほどの陽射しが平原を明るく照らしていた。
邪魔なマモノもいない、絶好の狩り日和だった。
「よーし、今日一日でがっつり稼いでやるんだ!」
朝からニーアはそう意気込んだ。「我の魔法は羊を狩るためにあるのではないのだがな」とぶつぶつと文句を言っているシロを受け流し、最近仲間になったカイネ──恐る恐る頼んでみたら、意外にも彼女はあっさり引き受けてくれた──にも付き合ってもらいながら、その日は羊狩りに精を出した。
最初はとても順調だった。シロの魔法と、カイネの剣技のおかげだろう。村近くの羊をある程度狩り、午前中だけ肉が持ちきれなくなり、一旦村へと売りに行くほどだった。
一度ヨナを様子を見に行って、また外に出る。この調子ならヨナの薬にも当分困らないくらいに稼げるかもしれない。そう思ったニーアは今度は北平原の橋向こうまで足を延ばし、時折日陰に群がっているマモノを始末しながら狩りにいそしんだ。
そして順調だったがために、つい夢中になりすぎてしまった。
簡潔に言えば不注意だった。羊狩りをしているときに、うっかりイノシシに剣が当たってしまったのだ。
しまった、と青ざめたときにはもう遅く、怒り狂ったイノシシにニーアたちは追いかけ回される羽目になった。
最終的には堪忍袋の緒が切れたカイネが仕留めてくれたが、不運はさらに続いた。
助かった、と思った矢先に、今度は雨が降ってきたのだ。
「うそぉ……」
「まさに踏んだり蹴ったりであるな……」
猪に追いかけられているうちに、神話の森の近くまで来てしまっていた。村へ帰るにしても、全身ずぶ濡れになるのを覚悟しなければならない。ただでさえへとへとなのに。
どうしよう……、と途方にくれたその時だった。おい、とカイネが声をかけてきたのは。
「ぼーっと突っ立ってるな。さっさと来い」
「カイネ?」
言うが早いか、カイネはつかつかと歩き出してしまう。
あんな踵が尖ってる靴を履いているのによく普通に歩いたり走ったり出来るよなぁ、と場違いに感心しながらも、ニーアは目のやり場に困る背中を慌てて追いかける。あんな薄着でカイネは寒くないのだろうか。
「ま、待ってよカイネ」
「おい、下着女。一体どこへ行くつもりなのだ」
シロの不満げな問いかけに、カイネはやっと立ち止まった。少しの間をおいて、どこか躊躇いがちの声音がニーアたちに届く。
「……私の家だ。雨くらいはしのげる」
「え……雨宿りさせてくれるの?」
ニーアは意外な面持ちでカイネを見つめる。初めて会った時、無断で家の物に触れようとして怒られてしまったから、てっきり警戒されていると思っていた。
「別に、嫌ならいい」
何か誤解させてしまったのだろう。小さくそう呟いた彼女に慌ててそんなことない、と口にしようとして、それより先にシロが偉そうな言葉を放った。
「確かに。あんな今にも崩れそうな廃家でも、野外よりかは幾分かマシだな」
「川にぶち込むぞクソ本!」
「シロ、失礼だよ!」
もう、とため息をついて、ニーアもカイネの傍へと駆け寄った。
「カイネがいいならお邪魔させてもらうよ。ありがとう」
「……なら、とっととついてこい」
ふいと顔を逸らしてカイネはそっけなく言った。不機嫌そうな仕草だが、その後ろ姿に怒っている雰囲気はない。
「うん!」
カイネの気遣いが嬉しくて、ニーアは自然と笑顔で返事をした。ずっしりと重い肉の束を背負いなおして、二人と一冊は崖の村へと急いだ。
◆ ◆ ◆
崖の村の家を横倒しにして、半分に割ったものを直さずにそのまま使ったあばらや。それがカイネの家だ。
棚やタンスなどの家具はなく、食料や水は床にそのまま積まれてある。ベッドだって木箱を寄せ集めて布を敷いただけの、簡素というより粗末なものだ。
ベッドの上に吊るされている大きなボロ布が掛け布団なのだろうか。ニーアは渡された(というより投げつけられた)大判の布を羽織りながら、なんとなしに部屋を見回す。
(シロじゃないけど……)
本当にボロボロだ、と改めて思う。こんなところにひとりで、カイネは暮らしているのだ。
カイネの強さは身に沁みてわかっている。自分よりずっと強い。シロと二人がかりでも苦戦したのだから、大抵のマモノや獣は彼女に太刀打ちできないだろう。
それでも、何とかならないのかな、と心配する思いがニーアの中で渦巻く。これでは野宿とそう変わらないのではないだろうか。
ふと、視界の端で白い何かがちらちらと動いた。視線を滑らせれば、色とりどりのクレヨンで描かれた似顔絵の隣で、幻と呼ばれる月の涙を束ねた花飾りが美しい花びらを小さく揺らしていた。
カイネの家に来た瞬間、真っ先に目に飛び込んできた花。ところどころいびつな形をしていながら、それでも美しい。どこもかしこも傷んで錆びついている家の中で、ひときわ異彩を放っていた。
「やらんぞ」
ふいに声が降り注いだ。声がした方を向けば、ベッドで眠っていたはずのカイネが、猫のような目をぱちりと開いてニーアを見ていた。
「そんなつもりじゃないよ。ただ、何度見ても綺麗だなぁって……」
「うむ。流石は伝説の花よ」
ヨナが好きなのもわかる気がする。図鑑で見せてもらったときはぴんとこなかったが、確かにずっと眺めていたくなるような魅力がこの花にはある。見つけたら大金持ちになれるという伝説は、入手困難な貴重な花という理由だけではないように思う。
「この花飾りは、カイネが作ったの?」
尋ねると、いや、と首を振りながらカイネは身を起こした。
「作ったのはおばあちゃんだ。……私のために、作ってくれた」
白い花飾りを見つめながら、カイネはくすんだ琥珀を眩しそうに細めた。遠くを見つめるような柔らかい眼差しに、ニーアは胸を突かれるような切なさを感じた。気付けば息を潜めるようにカイネを見つめていた。
「そう、なんだ……」
月の涙を見つめる線の細い横顔から、何故か目が離せない。逸らしたら最後、白い面差しがそのまま透き通って雨の中に溶けていってしまいそうな、そんな儚さを覚えた。
無性に逸る気持ちをどうしていいのかわからない。焦るような、そわそわと胸がざわつく。
「ふん、そうであろうな。かような芸当、粗野で大雑把な下着女にできるとは思えぬ」
「肥溜めに沈めてやろうか、クソ拭き紙」
不可解な思いを持て余しているうちに、また二人の口論がはじまった。普段と変わらない憎まれ口の叩きあいに、ニーアはなんとなくほっとした気分になった。
「そういえば、あの時のこと謝ってなかったね。ごめん、カイネ。そんな大切な花なのに、勝手に触ろうとして」
「……いい、もう気にしてなどいない」
改まって謝ると、カイネは一瞬戸惑ったような顔をしたあと、ふいとニーアから視線を逸らした。
一見つっけんどんに見えるその仕草と口調は、機嫌を損ねたからそうしているわけではないようだ。カイネの性格を、ニーアは少しだけ理解しはじめていた。
ぶっきらぼうだけど、すごく優しい。ニーアは表情を緩ませ、再び月の涙に目を向ける。
亡き祖母の手で編まれた花の輪は、ちょうどカイネの頭に綺麗に収まりそうな大きさだ。そう思った途端、半ば無意識に口が動いた。
「この花飾り、カイネが付けたらすごく似合うんだろうな」
自分で言いながら、そうに違いない、と内心で深く頷く。眩しいほどに真っ白な花飾りは、カイネの少しだけ青みの差した白銀の髪にのせれば、それはそれは綺麗だろう。
──見てみたいな。ふとそんなことを考えている自分に気付いて、ニーアは困惑する。
半ば誤魔化すようにカイネを見上げた。しかし、結局別の意味で更に戸惑うことになる。
「カイネ……?」
カイネは悲しそうな、傷付いたような顔をしていたのだ。しかしそれはまたたき一つほどのことで、すぐにいつもの無表情に彼女は戻る。
気のせいかとも思うような一瞬の表情は、けれど何故だかニーアの目に鮮明に焼き付いた。どうしてそんな顔をしたんだろう。嫌なことを言ってしまっただろうか。それとも辛いことを思い出させてしまっただろうか。
狼狽える頭でぐるぐる悩んでいると、やがてカイネは長い睫毛を伏せた。艶のある唇が開いた瞬間、訳もなく緊張して背筋を伸ばす。
「……そんな綺麗な花、私には似合わない」
諦めたような、感情を抑えたような声だった。
独り言のようにぽつりと落とされた声音に、ニーアはいつの間にか勢いよく立ち上がっていた。
「そんなことないよ!」
そして、気付けばそう声を張り上げていた。ニーアを見上げるカイネは、驚いた顔をして目をしばたかせている。丸く見開かれた瞳が、大人びた彼女をいつもより幼く見せた。
「カイネのおばあちゃんが、カイネのことを想って作った花飾りでしょ?似合わないわけないじゃないか」
寧ろカイネ以外の誰に似合うというのだ。他の誰でもない、カイネにこそこの花飾りは相応しい。
「……それは、昔の話で……」
「今だって似合うに決まってるよ。カイネは美人なんだから」
自信満々にそう言うと、カイネは何故か固まってしまった。それに気付かず、ニーアはシロに同意を求めて振り返る。
「絶対に綺麗だよ。ね、シロ?」
「……まぁ、黙って立っていればそれなりなのではないか?」
「またそんなこと言って……素直じゃないなぁ」
こういう時でも素直に褒めようとしない本に半眼になる。ふん、とシロは鼻を鳴らし、それから促すように表紙を外へと向けた。
「それよりも、雨が上がって来たぞ。今なら帰れるのではないか?」
「あ、ほんとだ!よかった、まだ日が出てる」
日の傾き方からして夕方あたりだろうか。全力で走れば夜には村に帰れそうだ。
「ありがとう、カイネ。今度羊料理をご馳走するから」
「待て。私も行く」
「え?そんな、いいよ。せっかく家に帰ってきてるんだから……」
「いい。今日は野宿の気分だ。イノシシの肉も手に入ったことだしな」
そういうものだろうか。カイネの考えていることがよくわからない。
問いかけるようにシロを見るが、偉大らしい本はただふよふよと宙に浮いているだけだった。
肝心な時に何も喋らないんだもんな。心の中で思ったはずの台詞なのに、思った途端に本が頭に降ってきた。
「いったぁー!」
「今、我に対して失礼なことを考えただろう、バレておるぞ」
「だからって角はやめてよ!」
角は本当に痛いのだ。せめて裏表紙にしてほしい。
「おい、ニーア」
そう抗議しようとしたその時、やや低めの落ち着いた声で名を呼ばれた。シロと揃って顔を向けると、オレンジの陽射しが降り注ぐなかにカイネは佇んでいた。
「……ありがとう」
短い、囁くような感謝の言葉と共に、ひどく穏やかに目を細めて彼女は微笑んだ。初めて見る柔らかな、ひときわ綺麗なその表情に、ニーアはまた呼吸を忘れて彼女を見つめた。
それは、何に対しての礼なのだろう。わからない。わからない、けれど。
──見つけられたら、百年に一度の幸運を手に入れたも同然。
伝説の花の謳い文句が脳裏によぎり、そして理解する。
(似ているんだ。カイネと、月の涙)
そこにあるだけで目で追ってしまう。ずっと見ていたくなる。
凛と咲き誇る姿に圧倒されながらも、手を伸ばしたくなるような。──そんな、惹かれてやまないところが。
「いつまでも呆けておるでないわ」
「いっ?」
再度容赦のない角突きが頭に落ちた。一気に現実に引き戻されたニーアは、だから痛いって!とシロに詰め寄る。
何かがわかりそうな気がしていたのに。ニーアは唇を尖らせる。掴みかけた名も知らぬそれは、シロのせいですっかり消えてしまった。
「ほれ、村に帰るのであろう。口よりも足を動かさぬか」
「シロにだけは言われたくないんだけど」
頬を膨らませながらも、その通りではあるので渋々歩き出す。シロと言い合っているうちに先に行ってしまったカイネは、村の出口で待っていてくれた。
傍に駆け寄りながら、ニーアはちらりと彼女を見上げる。
カイネの顔には、すでに笑顔は消えていた。ニーアとシロを認めると、無言で外へと歩き出す。
雨上がりの平原は空気がひんやりと湿っていた。少し肌寒いが、走るには丁度いいくらいだ。
冷気を帯びた風が吹き、片側だけ垂らしたカイネの前髪をさらさらとたなびかせていく。
夕日に照らされて輝く白銀の髪に、一輪の白い花が挿し込まれている姿を思い描きながら、ニーアは無意識にそれを呟いた。
「……やっぱり、綺麗だろうな」
その横顔に注がれる少年の眼差しが、どんなものであったか。
彼らのなかで唯一それに気付いた白の書は、ただ黙ったままページをぱらぱらとめくっていた。
[newpage]
◆ ◆ ◆
さざ波のような雨音がずっと響いている日だった。
ニーアは椅子に座りながら、かじりつくような姿勢で机に向かっていた。
父母が残してくれた石造りの家は、部屋のあちこちに蝋燭を灯していてもそれなりに薄暗い。それでもその明かりを頼りに、成長した体を窮屈そうに丸めて集中していた。
真剣に手元を見ていた瞳が、険しく細められる。あと少し。もう少し。そう繰り返していた脳内で、ふいにぷつりと糸が切れるような感覚がした。
まずい。そう思ったときには既に遅く、指先は白い花弁を無残に引き千切っていた。
「ああ、クソ!」
「……見事に真っ二つに裂いたな」
ある種の才能ではないか、と相棒の皮肉に言い返す気力もなく、ニーアははらりと散った月の涙を見つめてがっくりと肩を落とした。突っ伏した木製のテーブルには、数輪分はあると思われる白い花が雪のように散らばっていた。
幻の花と呼ばれる月の涙も、こうなるとそこらの花と変わらない。いや、ポポルに渡せば生薬の材料になるから、決して無駄にはならないのだが。ニーアが作りたいのは薬ではない。
「これで何度目だ?いい加減学習せんか」
その机を覗き込むようにしていたシロが、情けないと言わんばかりに身体を揺らす。ニーアはちらと本を見上げて唇を尖らせた。
「意外と力加減が難しいんだよ。けど、いま形を整えておかないといびつになるし……乾かすとかなり頑丈になるけど、形が固定されて直せなくなるし」
そもそも綺麗に乾燥させること自体が難しい。枯らさないようにすることは勿論、色褪せなどで変色させないように花を乾かさなければならない。
それに、作りたいのは白い花びらの先端から根本の先まで真っ白なものなのだ。そこは妥協したくなかった。
「まぁ、どこぞの下着女ほどではないが、存外馬鹿力であるからな、おぬし。毛皮もまともに剥ぎ取れぬほどに」
「シロなんて肉も綺麗に捌けないじゃないか」
「我の偉大なる魔法をハサミや包丁と同列に語るでない!そもそもマモノをまとめて屠れるほどの甚大な魔力に、針に糸を通すような細かな制御などできるわけがなかろう!」
「はいはい、わかったわかった」
シロと言い合いながらニーアはぐっと腕を伸ばす。長いこと座って作業していたせいだろう、そのまま伸ばせばぱきぽきと関節が鳴った。
「疲れた……少し休憩だ」
肩を回しながら台所へと向かう。中に茶葉を入れて火にかけておいたケトルを取り、カップに注ぐと芳ばしい香りが部屋に満ちた。
茶葉はポポルから貰ったものだ。ニーアが成人してからも、村の長的な存在であるデボルとポポルは相変わらず気に掛けてくれていた。
年々食糧不足もマモノの被害も悪化して、これまで以上に村の切り盛りで忙しいだろうに。それに彼女たちだけではない。村の人たちも、マモノ退治や狩り以外の小さな雑用を頼んでは、お礼だと言って金銭や食料を渡してくれる。
彼らの優しさと気遣いのおかげで、ニーアは完全に荒みきらずにいられたのだ。その自覚がニーアにはある。
湯気が立つお茶をゆっくりとすすれば、身体の内側から暖まってくるのがわかった。ほっと息をついていると、再びシロの声が耳に届いた。
「やれやれ、髪飾りが完成するまで、あと何年かかるやら」
「そんなにかけるつもりはないさ」
ニーアは目つきを鋭くして返す。紡いだ言葉は、思いのほか冷たく響いた。
「今年こそ取り戻すんだ。ヨナも、カイネも」
思い出す度に、腹の底から煮えたぎった憎悪が湧き上がる。五年前のあの日。魔王にヨナを連れ去らわれた。マモノを封じるためにカイネは自ら石になった。
取り戻す。ヨナも、カイネも、奪われた何もかもを。
マモノを殺して、皆殺しにして、絶対に取り戻してやるのだ。
「……そうか。そうであったな」
どこか独り言のように呟いたシロは、浮かぶ身体をすいすいと動かしてニーアの周りを飛びかった。
「ならば、さっさと完成させることだ。再会の場面で情けない思いをしたくなければな」
「そうだな」
相棒に喝を入れられ、ニーアは口の端を上げる。独りではないことが、とても心強い。今やシロが傍らにいることは、ニーアにとって当たり前になっていた。
カップを傾けながら、しばらく外から響く雨音を聞いていた。ぼんやりと四角くくりぬかれた窓の向こうを眺めながら、ふと思い出す。
そういえば、あの時もこんな雨の日だった。
カイネの家で雨宿りをした日。カイネのことを少しだけ知れたと思った、五年前の雨の日。
過ぎ去った日々が駆け巡り、ニーアはそれを追いかけるように目を閉じる。瞼の裏で、少しだけいびつで、けれどとても綺麗な花飾りが凛と揺れた。
思い返せば、あの頃の日々が一番楽しくて、安らかな時間だった。
噛み締めるように大切な記憶をそっと抱き、ニーアはあの時と同じように目元を柔らかくした。
よし、と気合いを入れて、お茶を一気に飲み干す。
「再開か?」
「ああ。カイネのおばあちゃんに負けないくらい、綺麗なやつを作らないと」
「……なにゆえ、そう思うのだ?」
「え?」
はりきって机に向かった途端、シロに突然そう問いかけられてきょとんと目をしばたかせた。
何故、なんて。そんなこと、考えたこともなかった。
「なぜって……そりゃ、着飾るものなんだから、綺麗な方がいいだろうし……」
自分で言いながら、どうにも違和感があった。間違ってはいない。けれど何か違うような気がしてならない。
自然と言葉尻が弱々しくなるニーアに、シロは呆れるように言葉を返す。
「あの大雑把を絵にかいたような下着女が、そんな些細なことを気にするとは思えんがな」
「シロ、カイネだって女の子だ。それにカイネは美人だから、釣り合うような立派なものを作りたいじゃないか」
ニーアは少し眉を潜めて抗議する。そうだ。カイネは綺麗だから、ちゃんとしたものを贈りたい。ヨナだって綺麗な髪飾りの方が喜んでくれるはずだ。
きっとそういうことだと、勝手に納得しようとしている青年を、白の書はふわりふわりと眺めていた。
「……そうか」
──我は何故そこで祖母のものを引き合いに出すのか、と聞いたのだがな。
続く言葉を、しかし白の書は飲み込んだ。きっと聞いても無駄だろう。この青年は、未だ自覚に至らずにいる。
また花飾りに没頭し始める背中に、小さく、おそらく正解であろう答えを青年の代わりに口にする。
「祖母のものと同等以上に大切にしてほしいからだと……そう思い至らぬものか」
祖母の花飾りに張り合おうとするほどに、カイネには特別なものを贈りたいのだと。
目覚めた時から、白の書はずっとこの青年を見てきた。ヨナの看病をしているときも、海の見える街で釣りをしている時も、砂漠の街で理解に苦しむ掟に翻弄された時も。
カイネやエミールと過ごしたひと時にも、白の書は傍らにずっといた。そしてヨナの行方と、カイネの石化を解除する方法を探し続けたこの五年間も。
ゆえに白の書は知っている。ニーアがカイネに対し、どのような想いを抱いているか。
しかし白の書は知っている。妹のことを優先するあまり、己の感情にすらとんと無頓着なことを。
やれやれ、と繊細な装飾が施された本の内に、何百万という数多の語彙を記憶しながら、偉大な書物は同じ言葉をまた繰り返す。
「まったく、いくつ歳を取ろうが世話の焼けるやつよ……」
「シロ、何か言ったか?」
「いいや、何も」
一体いつになれば気付くのやら。思春期真っ盛りの息子を持つ父親のような気分で、白の書は静かにため息をついたのだった。
──青年が恋を自覚したのは、その行方をひそかに見守っていた口うるさい相棒が、世界から消えた後のことだった。