負けず嫌いの騙し合い


窓から暖かな陽光が降り注ぐ。外に出ればまだ肌寒さを感じるが、室内にいれば心地いい。そんな春先の気候。
帝国はまだ雪が降り続いていたのに、こちらは早いものだ。季節がコロコロと変わって忙しないなとさえ思う。
「いい天気だな」
そう何となしに思っていたら、向かいからそんな当たり障りのない平坦な声が聞こえてきた。
アラネアは頬杖をついたままちらりと彼を一瞥し、そうね、とそっけなく返す。会話を続ける気のない返事は、再び室内に静寂を呼んだ。淹れたてのコーヒーの香りと、それをすする音だけがやけに響く。
ゴト、とマグカップが置かれた音がした。顔を向けることもせずに音だけ拾っていると、アラネア、と名を呼ばれた。
「何か、言いたいことがあるのだろう?」
淡々と、けれど真剣味を帯びた声音。アラネアは彼の言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じ、同じくらい時間をかけて瞼を上げる。
「……流石。察しがいいね」
水彩画のような薄い雲を見つめたまま、一秒、二秒、三秒。間を置いてから、サングラスをかけた男に向き直った。
頬を乗せていた手をテーブルに付き、両手を握る。目の前の男も同じように手を組んで、じっとこちらの言葉を待っている。
表情に乏しいその顔を見返してまた数秒。静まり返った室内で、アラネアはようやく突然で悪いんだけど、口を開いた。
「別れたいの。あんた以外に、好きなヤツができたから」


(さぁ、どう出る?)
至って真面目な顔をしながら、アラネアは内心で目を光らせた。
何を隠そう今の発言は真っ赤な嘘だ。冗談にしてはタチが悪いとは自分でも思うが、今日はそんな少し度の過ぎた嘘も許される。
四月馬鹿とかいてエイプリルフール。午前中のみ誰かに嘘を吐いていいという、イベントと言うには少々些細だが悪戯しがいのある年間行事だ。
この行事の由来も何故午前中までなのかも知らないが、これはいい機会だとアラネアはそのイベントに乗ることにし、そして実行した。ちなみに理由は単に目の前にいる男の――イグニスの驚く姿が見たかったからという、純粋な気持ちから生まれた不純な動機だ。
不純ではあるが、その原因はこの男にある。気まぐれに部屋に上がり込み、その流れで食事を共にし、いつしかそれが日常にまで馴染んで数年。悲しいかな、男は年月の経過により、それはもうすっかり可愛げがなくなってしまったのだ。
あまつさえ認めたくはないが振り回されることの方が近頃は多くなっていると気付いてしまえば、何が何でもどうにかして動揺させてやりたいと思うのは当然の流れだろう。負けっぱなしは性に合わない。
黙した彼は、何を考えているのか顎に片手を添えて何やら思案している。
せいぜい面白おかしく狼狽えてサングラスでも落とせばいい。そう期待しながらもそんなことはおくびにも出さず、アラネアは彼の返事を待っていた。

「……ああ、今日はエイプリルフールか」
しかし、意表を突かれて崩れ落ちたのはこちらの方だった。
「あんたさぁ……」
納得したようにしきりに頷く彼を見てそのまま勢いよくテーブルに突っ伏した。期待も楽しみも悪戯心もその一言で全部ぶち壊された。
普通気付いたとしても一応恋人相手にそんなそっけなく言うものか?言わないだろう。なら相手が普通じゃないのか。そういえばなかった。
ああそうだったこいつはこういうヤツだった知っていたけれど忘れていた。気配は読めるが空気は読めない。それがこのメガネだ。
思い浮かんだ何十もの文句と、言っても無駄だという諦めを溜め息に変えて吐き出す。追撃よろしく元凶がどうした?と不思議そうに声を掛けてくるのがまた腹立つ。
消化しきれない苛立ちを拳に変えて男の顔面目掛けて突き出したが、難なく捉えられてしまった。そのまま軽く手首を引かれ、突っ伏した顔を上げるように促される。
「企みがバレたからといって拗ねないでくれ」
「拗ねてんじゃなくて腹立ってんの」
「どう違うんだ」
呆れた眼差しで見下ろれるが、呆れたいのはこっちだ。どこまで常識外れなのか。
サングラスを叩き落とすことを諦め、掴まれている手を振り払った。その腕でそのまま頬杖をついて、じとりと傷だらけの整った顔を睨み付ける。
「あんたがエイプリルフールのことを知ってるなんて予想外だったわ」
再びコーヒーをすする相手に不機嫌混じりに言えば、彼は軽く口角を上げた。
「ノクトに散々騙されたからな」
「ああ……なるほどねぇ」
少しだけ寂しそうな、けれどそれ以上に懐かしそうに目を細める姿に、一瞬だけ苛立ちも忘れて安堵する。痛みを伴わない思い出を語る声は、ただただ穏やかで優しい。
王子とは幼い頃から共にいたと聞いた。さぞバリエーション豊かに毎年嘘を吐かれたことだろう。騙し騙される子供二人を想像して微笑ましくなったが、しかしすぐに半眼になる。
「だったらあたしのにも騙されてくれたっていいじゃない」
自分は子供の頃の王子よりも嘘が下手だとでもいうのか。唇を尖らせて愚痴をこぼすと、イグニスは否定も肯定もせずに軽く肩を竦めた。
「最初から嘘だとわかっていて、騙されるも何もないだろう」
「……何でわかったのよ?」
「いつものあなたらしくない嘘を言うから何故だろうと考えて、思いついたのがエイプリルフールだったんだ」
もう大分長い付き合いだからな、と付け加え、ふと笑みを深める。
「それにオレがあなたに愛想を尽かされた覚えがないのと、あなたがオレを嫌っている節も見当たらなかったからだ」
……ほら、まったく可愛げがない。
空気は読まないくせに、まるで見透かすようなことを言ってくる。アラネアは得意げにこちらを見ている男から目を逸らし、再びテーブルに突っ伏した。
誰がベタ惚れだ。そう反論したところで、結局こちらの分が悪くなるのは目に見ているから言いはしないが。
「自信過剰が過ぎんじゃない?」
「事実だからな」
その代わりにトゲを刺すが、そんなつまらない返ししかしてこない。出会ったばかりの頃は打てば響くように、からかえば面白いほど動揺してくれていたというのに。あの頃が懐かしい。可愛かったお堅いメガネ君を返してほしいものだ。
コーヒーのおかわりはいるか、と尋ねる彼に、もういいと手を振る。そうか、とイグニスは軽く答えて静かに席を立った。それほど時間をかけず、香ばしいブラックコーヒーの香りを漂わせてアラネアの元に戻ってくる。
「しかし、そうだな。俺たちの関係が曖昧なのも原因か」
そして唐突にそんなことを言ってきた。一体何だと胡乱げに顔を上げれば、思案するように顎に指を添えて、真っ直ぐに見つめてくる薄緑の瞳とぶつかった。
視力を失って少しだけ白くなってしまった双眸が、アラネアを射抜くように見つめてくる。いつにも増して真剣な眼差しに、知らず肩に力が入った。
「アラネア。オレと結婚してくれ」

「……………………は?」
今、この男は、何と言った?
たっぷり十秒。長い間を空けて言えた言葉は、ただの一文字だった。
呆気にとられたまま固まるアラネアをよそに、イグニスは更に一方的に話を続ける。
「丁度二人とも休みでよかった。早速午後に指輪を買いに行こう」
待て。本当に待て。そう言いたいのに、彼が放り投げてきた爆弾に口が全く回らない。
「ちょっ、と」
「流石に復興途中に式は挙げられないが、報告くらいはすべきか……」
「なに、」
「ひとまずグラディオとプロンプトには先に知らせておこう。アラネアの知り合いには―――」
「ストップ!!」
ダンッ、と強めにテーブルを叩きながら勢いよく立ち上がる。顔が熱いのは気のせいだ。誰でもいいからそうだと言ってくれ。そうでなかったらこんなムードもロマンの欠片もない四月馬鹿の延長線からきた取ってつけたような言葉が少しでも嬉しかっただなんて思ったバカな女に成り果てる。
「何勝手に進めようとしてんだ!あたしは!――――、」
ようやっと機能を取り戻した生態をフルに使って叫びかけ、はたと気付く。
四月一日。エイプリルフール。
足を組んで椅子に腰かける相手を恐る恐る凝視する。眼下には口元に指を添えて、平然とした態度でこちらを見上げる男。
その細長い指で隠れた薄い唇が、愉快そうに吊り上がっていた。
―――こいつ!
カッと一気に頭に血がのぼり衝動のまま拳を飛ばす。しかし難なく受け止められ、心底腹の立つ笑みを正面から見る羽目になった。
「口より先に手が出るのは悪い癖だな」
「あ、ん、た、ねぇ……!冗談にしてもタチが悪すぎでしょーが!」
「あなたの嘘だってそう変わりなかったぞ」
やれやれとでも言いたげに肩を竦め、あまつさえ落ち着いてくれだなどと宥めてくる始末だ。誰のせいだこの野郎。こいつ本当に可愛くない。
「やはり何事も不意打ちが一番効くな」
「……ホンット性格悪いわ」
「策士と言ってもらいたいものだ」
まったく崩れない余裕綽々な態度の代わりに、アラネアはきっちりとセットされたその薄茶の髪をぐしゃぐしゃに掻き回してやった。


◆   ◆   ◆


「アラネア、この後出掛けないか?」
詫びのつもりか、アラネアの好物が並べられた昼食を食べた後、洗い物をしていたイグニスがふいにそう尋ねてきた。ちなみに髪は昼食ができる頃にはすっかり元通りにセットされていた。
ソファでくつろいでいたアラネアは、タオルで手を拭いている彼をちらりと一瞥してすぐに雑誌に視線を戻す。
「イヤ」
「そうか」
料理は美味しかったが機嫌が戻ったわけではない。そんな意図も込めて拒否を示すが、相手も顔色ひとつ変えず頷くだけだった。何だか癪で横目で睨み付ければ、そのまま隣に腰掛けてスマートフォンを淡々と操作をし始めた。何なんだ一体。
「オレだ。ああ、もうルシスには着いたのか?」
誰との電話だろうか。同じソファに座っているのだから、聞こうとしなくても当たり前に聞こえてくる。そうなれば必然的に意識はそちらに持っていかれた。
会話からしてルシスに在住しているわけではないようだから、彼の親友らやイリスあたりではなさそうだが。
「突然で悪いんだが、こっちまで来れないか?」
アラネアは怪訝に眉を潜める。こっち、とは。
電話越しの人物も疑問に思ったらしい。少しの間を開けて、イグニスがオレの家だ、と答えた。
「そうだ。王都城付近の……ああ、すまないな」
近くに来たらまた連絡をくれ。そう言って耳元からスマートフォンを離し、通話を切った。
どうやら誰かが来るらしい。無視を決め込もうと思ったが、彼が唐突に人を呼ぶという物珍しさに好奇心の方が勝ってしまった。
「何、誰呼んだの?」
「ディーノだ。レスタルムにいた頃、時々現れてはタルコットとよく話していた男がいただろう」
「……ああ、あの情報屋の」
「正確には新聞記者だな」
隣にいる男と違って、常に笑顔を絶やさないひょうきんな男のことを思い出す。前髪を上げたあの髪型が、当時のイグニスに似ていると思っていた。
確か時折、自前の装飾品も売っていた。見た目通りの手先の器用さで作られたそれをアラネアも気に入って、何度か購入した覚えがある。
「今はアクセサリーショップを開いているんだ」
「へぇ、とうとうそっちに本腰入れたんだ」
「そのようだな」
懐かしい。彼も何かと耳寄りな情報をくれたものだ。そういえばガーディナのシェフ兼情報屋のカクトーラとはどうなったのだろうか。
そっちのことも気になるが、それよりも。
「てか、何でいきなり呼んだの?」
相手はわかったが呼ぶ理由が見当もつかず、疑問をそのまま口にする。するとイグニスはスマートフォンを胸ポケットにしまいながら、妙に憎たらしい笑みを浮かべた。
「さっき言ったはずだが?」
「さっき……?」
「指輪を買いに行こうと。元々こっちが出向く予定だったんだが、あなたが外出はしたくないと言うから、家に来てもらうことにした」
「―――――、はぁぁあっ!?」
さて、もてなしの準備でもしようか。そうおもむろに立ち上がったイグニスを、アラネアは慌てて引き留める。腰当たりのシャツを掴んだせいできっちりとしまい込まれた裾が中途半端に出てしまったが、そんなこと知ったことではない。
「待ちなさいよ!さっきのは嘘じゃないかったの?!」
「否定はしていないが、嘘だとは一言も言っていないぞ」
それはそうかもしれないが。あんな含み笑いをしながら愉しげに眺められたら騙されたのだと思うだろう。相手は策略参謀はお手の物の軍師だ。尚更そう思わないわけがない。
というか今の発言は。思い返してひとつ浮かんだ推測というか確信に、アラネアは頭を抱えたくなった。
ならこいつは、最初から今日がエイプリルフールだということを知っていたのか。知っていてわざと知らないふりをしていたのか。
前言を撤回する。気付いて空気を読まずに言ってしまう方がまだ可愛げがあった。タチが悪いどころの話ではない。このメガネ性格が悪いにも程がある。
「それにしても」
アラネアが声も出せずに呻いていると、ふとイグニスがシャツを握りしめていた手を包み込むように己の手を重ねた。突然のことについシャツを離し、そのままもう片方の手も掴まれて迫られる。アラネアは反射的に身を引いた。
吊り上がった唇が、何かアラネアにとってよくないことを今にも言い放ちそうだ。思わず身構える。……身構えても、結局無駄なことだと長年の経験でわかってはいるが。
「あなたの嘘があれでよかった」
彼の言っている意味がよくわからず、どういうことだと首をひねる。あれが嘘でよかった、ではなく、嘘があれでよかった、とは。
胡乱な顔をしていると、イグニスは意外そうな声で知らないのか?と問いかけてきた。からかうためではない、素のそれだ。
「この日についた嘘は、今年中には叶うことはないと言われている」
「は?そんなルール帝国にはなかったわよ」
「そうか?オレが子供の頃にはあったから、ルシスで変化したのだろうな」
帝国にはないのか。そうか。まぁここはインソムニアだ。ルシス式の方が効力を発揮することだろう。
しきりに頷きながらぶつくさと呟いている男に、訳がわからないアラネアは何なんだと苛立つ。
だからつい、自分から墓穴を掘ってしまった。
「だから?そこから何であれでよかったに繋がるのよ?」
眉間にしわを寄せて不機嫌さをあらわに尋ねると、勝手に独りごちていたイグニスが、ああ、と不敵に微笑んだ。しまったと、そこでやっと自分の過ちに気付くがもう遅い。
「あなたは言っただろう?別れたい。オレ以外に好きな人ができた、と」
教え込むように、ゆっくりとした説明口調でイグニスが話す。それは今朝、他ならぬ自分がついた嘘だ。
それにルシスのルールを当てはめるのなら、その意味するところは。
「つまり、あなたはこの先一年、惚れている相手はオレだけだと、そう宣言してくれたようなものだからな」
頭によぎった考えをそのまま彼の口から伝えられる。それだけだったら、まだよかったのに。
―――ああもう、完敗だ。
予想外にそんなことを、子供のような顔でいうものだから。
ただただ嬉しそうなその表情を間近で見てしまい、アラネアは手を掴まれたまま、一気に火照った顔をただ俯けることしかできなかった。



あとがき
エイプリルフールと見せかけたジューンブライド話。嘘です。ジューンブライドに見せかけた二か月遅れのエイプリルフール話です。計 画 性 。
最初はエイプリルフールを全力で楽しむ大人の男女がさてどれが嘘でどれが本当かわかるか?的な言葉遊びをするのをイグアラで見てみたいなと思って書いてたら私の中のイグニスが空気を読んでくれませんでした。ほくそ笑む軍師ところころ表情(機嫌)が変わるアラネアが見れたのでこれはこれでおいしかったです。今までからかわれてからかう立場だったのが段々形勢逆転してくるっていいですよね!何度も言ってる気がするけど!
付き合っているかつインソムニアで半同棲してる設定です。ついでにディーノさんも名前だけ出てきます。できたら夜明け後の世界でも生きていてほしいなと…荒廃したガーディナに服があったけど…い、生きて…



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