Afternoon Teaを一緒に
今日はいい天気だから散歩でもしよう。そのくらいの軽いノリで、マンションのとある一角にふらりと立ち寄った。掃除の行き届いたフロアを機嫌よく歩いて、シンプルだが品のある黒い扉のひとつを開ける。途端、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
美味しそうな匂いに頬を緩ませながら入っていけば、案の定お目当ての青年がキッチンで黙々と作業していた。
「何作ってんの?」
「チーズケーキとキッシュだ」
挨拶よりも先に彼の手元に興味がいったアラネアは開口一番にそう尋ねると、イグニスも先にその疑問に答えてくれた。
ふぅん、と相槌を打ちながら、彼が泡だて器で混ぜているボウルを覗き込む。薄い黄色をしたクリーム状の塊からほのかに漂ってきたバターの香りに、自然と口元が弧を描いた。
この育ちのいい青年の趣味は、趣味というレベルを超えた料理だ。ここルシスの料理はもちろん、魚介類をふんだんに使ったガーディナ料理や甘辛い味付けが特徴のレスタルム風、果ては海も国境も超えたテネブラエやアラネアの故郷であるニフルハイム風の料理まで完璧に作ってみせる。
しかも食べて覚えるならまだしも、ある程度の料理なら見ただけで作れるというのだからもはや意味不明だ。見習いの料理人なら喉から手が出るほど欲しい才能だろう。
ゆえに、彼が料理をしていること自体は珍しくはないのだが。
「何か妙な組み合わせね」
おかずにデザート。それとも主食にデザートか。どちらにしてもランチというより軽食の部類だ。
「ノクトがこの間、オルティシエの祭りで食べたそうだ。昨日急にそれが食べたいと言ってきてな」
基本的に栄養バランスも考えて作る彼にしては偏ったラインナップに首を傾げていると、イグニスからそう答えがあった。
なるほど。あの賑やかだが上品さが漂う美しい水の都を、丸ごと可愛らしく飾り立てた。
「ああ、あのお祭り。モーグリとチョコボの」
「行ったのか?」
「仕事でね。アコルド軍だけじゃ手が回りきらないときは、時々あたしらが駆り出されるんだ」
そういえば警備中に王子に遭遇したことを思い出す。見晴らしのいい塔の上から不審者がいないか監視していたら、いきなり瞬間移動してきてよっ、とのんきに挨拶してきたのだ。まさかいるとは思わず、それ以上にあの祭りのTシャツと派手な帽子を身に付けて見るからにはしゃいでいる姿に目を点にした覚えがある。
いや、というかそれよりも。
「ねぇ、レシピは?」
「ない」
「……あんたってほんと苦労性ね」
「…………」
それらしきものが見当たらないから聞いてみたら、まさか本当になかった。それで作ろうと思っていたのか。相変わらず王子に甘すぎるというかなんというか。
「ノクトが言うには、チーズケーキはアイスで果物が入っていた。キッシュは美味いハムが入っていたとは聞いている。食べたいと言ってきたくらいだから、あいつの嫌いなものは入っていなかったんだろう。あとはノクトに試食させて、さらに具体的に詰めていくつもりだ」
「凝り性ねぇ……王子ってそういうの気にしなさそうだけど」
「そうだな」
彼の付き従う主人の人柄を思い浮かべながら呆れ気味ににそう呟くと、イグニスもその意見に同意する。それから苦笑いをこぼして、どちらかというとオレの性分だ、と付け加えた。
「ノクトはああみえて味の違いがわかるからな。尚更完璧に再現してみたくなるというか」
「なるほどね、それで拍車がかかっちゃってるワケ。てか、お側付きが『ああみえて』とか言っちゃっていいの?」
「事実を言ったまでだ」
にやりと口端を吊り上げて指摘すると、イグニスも同じような笑みを浮かべて眼鏡を軽く持ち上げた。
遠慮のない物言いがおかしくて、アラネアはひどい言い草、と声を立てて笑う。こんなところで笑いの種にされているなんて、あの王子は知りもしないだろう。
「そうねぇ……」
だが、それだけの情報では流石に不憫だ。聞く限り、王子は味はわかるが表現力には乏しいらしい。このままでも彼なら確実に再現してみせるだろうが、完成が早くなるに越したことはないはずだ。
そう思いながら、アラネアは指を顎に添えて思考を巡らせる。
「ケーキは甘さ控えめだった気がするね…中に入ってた果物は多分ベリー系」
「あなたも食べたのか?」
「まぁね。差し入れでもらってさ。それに甘いものは好きだし。あと柑橘系の何かも入ってたかも」
「そうか…ブルーベリーは入れるつもりだったんだが……ダスカオレンジとウルワートベリーも入れてみるか」
「なんだったらオレンジの皮くらい剥いとこうか?」
「いや、大丈夫だ。生地を寝かせている間に時間があくしな。それよりもすまない、お茶も出せないで…」
「ふっ、何言ってんの今更」
おそらくそのキッシュの土台だろう。ゴムべらで粉混じりの生地を混ぜながら申し訳なさそうに眉を下げる青年の生真面目さに、アラネアはからからと笑った。
「それこそ大丈夫よ。飲みたかったら自分で入れる」
この家の物は大体把握している。迷いのない足取りでイグニスの後ろにある棚を開けて、目当ての物を手に取る。
アラネアが最近気に入っている茶葉だ。以前美味しいと言ったら、いつの間にかここに常備してくれるようになった。
だからなおのこと気に入っているのだなんて、きっとこの男は知らないだろう。
「あんたは?エボニー?」
「ああ。…いや、今日はあなたと同じものをもらおう」
「んじゃ紅茶ね」
短いやり取りをかわしながら、茶葉の瓶の横にあるティーポットを取り出す。シンプルだが華やかさのある二つのカップも一緒に。
鼻歌を歌いながら電気ケトルのスイッチを入れ、お湯が沸く間に茶葉を掬って白い磁器に入れていく。二人分だから、たしかさじは二杯。
「これってどれくらい蒸らすんだっけ?」
「その茶葉なら二分半か三分だな」
「りょーかい」
「タイマーは使うか?」
「いい。壁の時計見てはかるから」
簡潔な会話がいくつか続いて、やがて沈黙が訪れた。その瞬間を見計らって、アラネアは息を潜めるようにそっと目を閉じる。
室内に漂う、バターのほの甘い香り。くつくつと音を鳴らしはじめたケトル。
絶えず軽快なリズムで生地を混ぜる音。そして背中に意識を向ければ、警戒も何もない穏やかな気配。
ゆるりと、アラネアは猫のように目を細める。
この空間すべてがアラネアを優しく包み、ぬるま湯の中に沈むようにその部屋の一部として溶け込ませていく。
自分という存在を受け入れてくれているような、そんな感覚がくすぐったくて、けれどやみつきになるくらいにこのひと時が好きだ。
流石に柄じゃない考えだとわかっているから、この部屋の主にそんなこと言えやしないが。
「何だかんだ満喫していたんだな」
そんなやさしい空気に浸っていると、ふいに彼がぽつりと言葉を落とした。
どこか不満げな口ぶりにアラネアはきょとんと目をしばたかせ、次いでおかしそうに吹き出した。
「なぁに?残念だった?」
「ああ。いると知っていたら行っていた」
「ふふ、来てたらコキ使ってやったのに。まぁカップルばっかだったから、メガネ君はあてられてたかもね」
「カップルというならオレたちも同じだろう。それにどこだろうが、あなたとだったらオレは楽しめる」
「……あー、そう」
ゴムべらを置いてさらりとそう返してきたイグニスに、アラネアは瞼を震わせて彼から視線を逸らした。
珍しく拗ねている彼をからかってやるつもりだったのに、あまりにも素直に肯定されて逆にこっちが照れる羽目になってしまった。
いつもそうだ。彼は不意打ちで、時折こちらの調子を狂わせる。
頬の熱が治まってきたところでまたちらりと彼を盗み見る。彼は平然とした様子で、今度は粉を振るった台の上で丸くまとまった生地を伸ばしていた。
一緒に出掛けたかったと言われるのは、こちらだって嬉しい。が、なんだかしてやられた気分で複雑だ。
はぁと息を吐いて、お湯の沸いたケトルを持ち上げた。目分量でお湯を注いで蓋をする。
壁掛け時計の針を見ると、丁度長針が真上をさしたところだった。あと一時間で正午だ。
「…………」
ふと、アラネアは口端を吊り上げて、ケトルを台座に戻す。
「ねぇ、イグニス」
「なん……」
肩を軽く叩いて振り向かせた相手の頬を両手でやさしく包みこむ。切れ長の瞳を軽く目を見開いた彼を、強引にこちらにひき寄せて声音ごとその薄い唇を奪った。
自分は元来、負けん気が強いのだ。やられっぱなしは性に合わない。
だから湧き上がってきたやり返してやりたい衝動に、アラネアは素直に従うことにした。
「……っ…、」
僅かな隙間から舌をさし込んで、彼のものと触れ合わせる。一瞬慄くように引っ込んだが、また躊躇いがちに寄ってきたことに気をよくして堪能する。
ちゅ、とわざとリップ音を立ててゆっくりと離せば、目の前にはいつもの、けれど少し困惑した様子の顔。無意識に、アラネアはぺろりと己の唇を舐めた。
「甘いわね」
「特に菓子は食べてないが…」
「あらそう?じゃあ香りのせいかしら」
「そんなことより、いきなり―――」
たしなめる声を封じるためにまたキスをする。さっきよりも緩くなった唇の隙間からまた滑り込ませてからめた舌は、やはり甘いように感じた。
イグニスの方も一旦諦めたようで、タオルで手を拭う仕草をしたあとアラネアの腰に腕を回した。冷えた手の感触に少し身動ぎながら、更に深く口付けていく。
互いの温度が同じになっていく気持ちよさに酔いしれながら、頬を挟んでいた手を短い髪に触れつつ後頭部に回す。そのまま首筋を撫でると、ぴくりと僅かに肩が跳ねた。
肩甲骨や脇腹にまでするすると手をおろしていけば、自分が与える刺激に堪えるように身体が強張っていくのがわかって、合わせたままの唇が弧を描いていくのがわかった。
艶を帯びた息をこぼして、悪戯にほどよく引き締まった上半身を撫でまわしていると、ふいにぐいと力強く肩を押された。
ちょっと、と不満を込めて見上げると、怒ってるような困っているような、微妙な表情をした青年と目があった。
澄ました顔が崩れたことに、何より吐息にこもる熱さに、損ねていた機嫌がすぐさま元に戻る。ああ本当にいい性格をしている。
「アラネア…」
「ゴメンゴメン、ちょっとからかっただけだって」
咎めるように名を呼ばれ、アラネアは笑みを浮かべたまま肩を竦める。
流石にキスだけではダメか。少し残念に思いながらも、この青年の堅物さは最初から知っているので早々に諦める。
ちらりと時計を見れば、長針は一と二の間辺りを示していた。少し蒸らしすぎたか。まぁでも飲めなくなったわけではないし、別にいいだろう。
両肩に乗った手をどけてお茶を入れようとして、しかし触れた腕が中々動かないことに気付く。
不審に思ってイグニスを見れば、彼は物言いたげにじっと自分を見下ろしていた。
「メガネ君?」
「……あなたは、」
待つこと数秒。無言だった彼がようやく口を開いた。
「オレも男なのだということを、もう少し理解してくれないか?」
真剣な、理性で自分を抑え込んでいるような声音。
確かな欲をはらんで警告するその言葉の意味に、一瞬にして駆け抜ける身体の芯から痺れるような歓喜を味わった。
「……何言ってんの」
喉の奥でくつりと笑いながら、アラネアは蠱惑的に微笑む。
ああもう、この男は本当に、本当にたまらない。
「男だってわかってるからやってるんじゃない」
挑発的なその言葉にイグニスの目付きが変わった。
紳士的な彼とは真逆の、獲物を狙うようなその眼差しにぞくぞくする。きっと自分も同じような目をしているのだろう。
「どうなっても知らないぞ」
「望むところ」
一切の遠慮がなくなった口付けに、アラネアは嬉しそうに喉を鳴らした。
◆ ◆ ◆
ふわりと水底から浮かび上がっていくように、ゆるゆると意識が覚醒していく。
横になっていた身体をごろんと仰向けにして、白い天井をぼんやりと見上げる。素肌に感じるベッドのほどよい柔らかさが心地よかった。
いつの間にか眠ってしまったらしい。というかまだ瞼が重い。
日中の照りつけるようなものとは違った柔らかな日差しに、あれから大分時間が過ぎたことを知る。シーツに四肢を投げ出したまま窓を見れば、空は見事な黄昏色に染まっていた。
アラネアは身体を起こそうとして、しかし思うように力が入らずまたベットに身を沈める。
「う〜……ダメだわ、むり…」
怠い。重い。身体が動かない。
目線だけ動かして横を見る。隣にいたはずの人はいなかった。
代わりに、すぐそばに転がっている大きめの枕を見つけ、それに向けて何となしに拳を落とす。腕はぽすん、と気の抜けた音を立てて枕に埋もれた。
あのままベッドにもつれこんで、いつもよりも長い時間身体を重ね合わせた。
「………っ、」
落ちる前の情事を思い出して、今度は意味を込めてぼすぼすと枕を叩く。
ーーー彼の宣言通り、本当にどうにかなってしまいそうだった。
激しくされること自体は嫌いじゃないが、こっちの体力が尽きるほどされるとは思わなかったというか。
意識が朦朧としてきたあたりで、らしくないことも口走った気がする。段々いたたまれない気分になってきて枕を引き寄せて顔に押し付けた。
あの身体のどこにそんな体力があるのか。とりあえず今まではかなり気を遣われていたということはわかった。年下のくせに。
悔しさや照れや嬉しさが入り混じった感情をぐだぐだと持て余していると、ガチャリと寝室のドアが開いた。
「起きたのか」
「イグニス…」
ベッドに手を置いておはようと言ってくる相手に、だいぶ間を開けてからおはようと返す。自分と似た色の目に宿っていた獰猛さはすっかりなりを潜め、いつもの澄ました顔に戻っていた。
本当に、一体どんな体力をしているのだ。それとも自分の体力が落ちたのか。……やめよう、考えたくない。
「体調は大丈夫か?」
「腰、痛い」
「…すまない、無理をさせたな」
照れたのか、イグニスは眼鏡を上下させて視線を逸らす。その姿に少しだけ胸がすいた。そもそも誘ったのは自分の方で、彼が謝る必要はないのだが。
「丁度キッシュとチーズケーキができたところなんだが、食べるか?それとも先にシャワーを浴びてくるか?」
「んー…食べる。お腹すいた」
話題をそらされたのか詫びの印に気遣われているのか判断のつかない問い掛けに、アラネアはゆっくりと頷いた。別に気を悪くしたわけではないし、何より昼食を食べ損ねた事に気付いて空腹感が押し寄せてきたのだ。
「わかった。少し待っていてくれ。切り分けて持って来よう」
「ありがと。あとさっきあたしが入れた紅茶、残ってる?」
「ああ、まだあるが…新しく淹れ直そう」
「いいよ。もったいないし、全部飲む」
自分の言葉に躊躇を見せていたが、やがてもう一度わかった、と返してイグニスはキッチンへと戻っていった。
視線だけでそれを見送ったアラネアは、彼が戻ってくるまでと気怠そうに瞼を閉じた。
まずはキッシュを、と差し出された小皿を受け取り、ベッドに座って二人でいただく。焼きたてのこうばしいタルトの香りに誘われるままに、フォークで切ったそれを口に運んだ。
さくさくとしたタルトの食感に、ふわりと柔らかな卵ベースのクリーム。その中に入ったハムと一緒に、口の中で複数の味と食感が広がっていく。相変わらず彼の料理は絶品だ。
「ん、おいし」
「……常温で放置しすぎたな」
だが、満足げに微笑むアラネアに対して、彼女に肩を貸しているイグニスは不満そうに眉間にしわを寄せていた。
「そう?充分いけるわよ」
「中身はともかく、生地が縮んで固くなっている。もう少し冷やしてからの方がよかったな」
そう言いながら、難しい顔をして口を動かす。彼は礼儀作法が身体に染みついているような人間だが、面白いことにタルトや菓子類は手で持って食べるのだ。
「いいじゃない。今日だけの味ってことで」
彼にもたれてその様子を眺めつつ、アラネアは添えてある黄色いクリームをつつく。かぼちゃのクリームか。滑らかで美味しい。
少し苦い紅茶を飲みながらもくもくとキッシュを食べていると、耳元でそうだな、と囁く声がした。
「アラネアとオレだけしか知らない味、というのも悪くない」
ふ、と笑みをこぼした吐息を感じて、甘く穏やかに紡がれたその言葉に、思わず呼吸を止めた。
だから、なんで、そういう。
「どうした?」
「……あんたずっるい。ホンットずるい」
「心当たりがないんだが…」
心底訳が分からないといったような顔をするイグニスを睨め付けながら、やっぱり先にシャワーを浴びると言って食べ終わった食器を押し付けた。
戸惑った表情のまま彼が姿を消してから、アラネアは勢いよくベッドに突っ伏して打ち震える。
顔が熱い。耳まで熱い。してやられた。
いつもいつもいつも。主導権を握ろうとして、どうしたって最終的に振り回される。
あの素直さは卑怯だ。浮かべた淡い微笑みも、好意を隠すことなくのせた心地良い低音も。反則すぎる。
また枕を視界の端にとらえて、行き場のない衝動を発散させるためにぼすぼすと力いっぱい叩く。何度か繰り返し、ようやくその感情が治まったところで、アラネアは深い深いため息をはいたのだった。
まだ重たい身体を何とか動かしてシャワーを浴び終わった後キッチンに赴けば、飲み物は何がいい?といつものように男が聞いてきた。赤やオレンジが散りばめられた白いアイスチーズケーキを切り分けている姿に、やり返してやろうと思っていた気持ちがもうどうでもよくなって、アラネアはあんたのお任せで、と投げやりに答えることしかできなかった。