夜迷言
「私ね、子どもの頃はうんと可愛がられて育ったの」
そう言うと、謝必安はぽかんと口を開けてまじまじと見つめてきた。
唖然と困惑、それから驚きに満ちた顔。彼にしては珍しい表情にしてやったりという気分になり、エミリーは笑みを浮かべながらワイングラスを傾ける。ぶどうの爽やかな香りに誘われるまま一口飲めば、喉がきゅぅっと絞まるほど濃厚な甘みが舌に広がって思わず目を細める。
そろそろ終わりを迎える今日は、エミリーの──正確にはリディアの──誕生日だ。ほんの数時間前まで、自分を祝うパーティが開かれていた。
おそらく今も続いているのだろう。時折、扉の向こうから賑やかな声が聞こえてくる。
一応エミリーは主役であるが、明日は早いから、ともっともらしい理由を言って先に戻っていた。居残り組は単に騒ぎ足りない、もしくは飲み足りない面々だ。飲んで騒げればそれでいいのはエミリーもわかっていたから、エマたちと一緒に抜け出してきたのだ。
謝必安がワインボトルを片手に現れたのはそのあと。ちょうど就寝の準備が終わった頃だった。
彼の訪問を予想していたエミリーは、やっぱり、と苦笑いをこぼし、そうして小さなテーブルを囲んで密やかな二次会が始まった。エミリーは椅子に、謝必安はベッドに座り、ぽつぽつと他愛のない話をしながらワインを飲み交わしていた。
そしてエミリーは、何の前触れもなく今の言葉を投げかけたのだった。
「父も母も、使用人も。みんな優しかったわ。遊んでいれば食事やお洋服が用意されて、お願いすれば欲しい物はほとんど与えてもらえた。可愛い靴も、分厚い辞書だって」
白ワインの甘さに浸りながら向かいの相手をちらと窺えば、彼は未だに驚きと困惑の最中にいた。けれど、静かに向けられる視線が傾聴する姿勢を示している。
「そんなに真面目に聞かないで。酔っ払いの世迷い言なんだから」
冗談交じりに言えば、彼は戸惑いを見せつつも、困ったような笑みを浮かべてわかりました、と肩の力を抜いた。
素直に従う謝必安に気分を良くして、エミリーはくすくすと笑声を立てる。いつもより陽気になっている。その自覚はある。けれどいつもなら気を引き締めなければと働く理性が、今日は全くと言っていいほど機能しなかった。
「今日のお祝いで、ご家族のことを思い出したんですか?」
ふ、と彼の瞳がやわらぐ。アメジストによく似た色彩が優しく色づくのが綺麗で、ほとんど無意識に笑みが深くなる。その眼差しが注がれる瞬間を、エミリーは密かに好ましく思っていた。
「ええ。今日の方がずっと大勢で、とても盛大だったけれど。あんなに沢山のクラッカーを鳴らされたのは初めてだったわ」
思い出すだけでも楽しかった。食堂に入った途端、異口同音の「おめでとう!」と同時に至る所から弾けた音が一斉に鳴り響いて、エミリーは一瞬にして紙吹雪の雨に見舞われた。
各々が選んでくれたプレゼントをありがたく受け取り、いつもより豪華な料理に舌鼓を打って、デミの用意した酒で調子づいた者たちが歌って踊って、果ては宙に浮いたり消えたりの大騒ぎだ。
「バーメイドさんのお酒ですか。私も飲みたかったですね」
「あなたがくれたこのワインもすごく美味しいわ」
「それは良かった。……あなたには少し度数が強すぎたようですが」
「そう……?ふふ、そうかも。とっても甘いから、するすると飲めちゃって」
「みたいですね。いりますか、水」
「まだへいき」
もう少しこのふわふわとした気持ちよさに浸っていたい。水の代わりにおかわりと要求すれば、謝必安は苦笑しながらもこれで最後ですよ、とワインボトルを傾けてくれた。マスカットをそのまま絞ったような透き通った色が、卵型の器にゆっくりと注がれていく。
どうぞ、と戻ってきたグラスを受け取る。口に含めば上質な味わいに自然と唇が吊り上がった。美味しい、と思ったことがそのまま声に出て、そんな自分が妙におかしくて笑う。
ああ本当に、相当酔っている。わかっていても止められない。甘い。楽しい。危機意識などとっくにアルコールに溶かされてしまっていた。
廊下からどっと大きな笑い声が聞こえてくる。この声はウィリアムだろうか。会話までは聞き取れないが、まだまだ居残り組は大いに盛り上がっているようだ。
規模も賑やかさも、家とは全然違う。それでも、おめでとうと言ってくれたみんなの笑顔は不思議なほど同じだった。
それが引き金になって、ふいに思い出した。あの頃の、世間知らずな自分を。
「……幼い頃の私は、そういう何不自由ない生活が、どこにでもあるものだと、当たり前のようにそう思っていたの」
エミリーの家は他の家庭よりも殊更に自由だった。両親が、女性だからとエミリーを学問から遠ざけるようなことはしなかったから。
故に知識としては知っていた。だが実感が湧かなかった。エミリーの周囲は優しい家族と、同じように愛されて育った友人ばかりだったから。
それが身近な話だと気付いたのは、家の中だけだった世界が外へと広がりはじめた頃だ。自分がいかに恵まれた環境にいて、誰もがその生活を享受しているわけではないのだと気付いた。
そう、はじめは、そういった視野の変化がきっかけだった。
「他人と自分との違いが気になって、どうしたらその差が埋まるのかしらと……完全に埋めることはできなくても、何かできることはないかって」
土埃にまみれた衣服をまとってうずくまる人。物乞いで露命を繋ぐ浮浪者。学校に行けずに道具のように働かされる子ども。風邪を引いても病院にかかるお金もない、日々の食事すらままならない生活。
いつも歩いている大通りから一本外れた道を通る。普段は流し見ている景色を注意深く見てみる。それだけで、そういった世界がどこにでもあった。
「誰かを助けたい、助けられるような人になりたいって……そのうち思うようになって……」
悩んで、迷って。そんな時に出会った。これが自分の進むべき道だと。エミリーの……リディア・ジョーンズの核に今でも存在する、大きな転機。
『どんなことがあろうとも、老若男女誰であろうとも、目指すのは「患者の幸せ」、それだけだ』
だから、その誓いを胸に、医師を目指した、のに。
──私は、何のために生まれてきたのだろう?
今は振り返ると、そんな疑問が渦巻いている。
これは、聞いてもいいことなのだろうか……?
滅多に見せない無邪気な笑みで語る彼女に、謝必安は耳を傾けつつも内心で大いに狼狽えていた。
自身の過去など、少なくとも素面のエミリーでは絶対に話すことのない内容のはずだ。酔いが醒めたら悶絶するのではないだろうか。どうか忘れてほしい、と懇願されるのが容易に想像できる。
(しまったな……度数なんて見てなかったから……)
酔いつぶれさせようという意図はなかった。この館にある酒蔵で何本か試飲して、この酒がいっとう甘くて、けれど上品で、彼女が好みそうだったから。
食事は祝いの席で済ませてくるだろう。ならば食後のデザート代わりに、あわよくば晩酌を共に、と。そう思っただけだ。……そこに多少の下心がなかったとは言い切れないが。
何より彼女がこんなに酔うなんて思わなかった。少なくとも人前では酒量をわきまえ、いつだって自制しているから。
誕生日で気が緩んでいたのだろうか。ぽろぽろと語る彼女はあまりにも無防備で、そしておそらく失言だらけで、どんな返しをすればいいかわからない。
もう酔いを醒まさせた方がいいかもしれない。謝必安は自分に注いでいた酒を一気に飲み干して、ベッドサイドに置いてある水差しを手に取った。
「エミリー、少し水を……エミリー?」
水を入れたグラスを差し出して、謝必安は目をしばたかせる。
目線に彼女がいない。いつの間に、と思ったところでやや下方で何かが動いた。こくりこくりと酒を飲んでいた彼女は、いつの間にか腕を枕にして机に突っ伏していた。
「大丈夫ですか?気分でも悪く……」
「どうして、こうなっちゃったのかしらね……わたしはただ、みんなを幸せにしたくて……」
ぽとり、と。
弱々しい、途方に暮れた声が部屋に落ちた。
ああ、やはり。謝必安はグラスを持ったまま動きを止める。これは、聞いてはいけないものだったのだ。
今さらけ出されているのは、エミリーの奥深くに存在する傷だ。傷跡になどなっていない、未だ血が流れ続けている傷口の。
どんな理由かは知らない。けれどその言葉に宿る感情は痛いほどわかってしまった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうすればよかったのだろう。
そんな痛みを、謝必安も持っている。悔やんでも悔やみきれないほどの、けれどもう元には戻せない。そんな深い悔恨を。
自分など存在しなければ彼は、平穏な生涯を生きていたかもしれないのに。あんな最期を迎えずに済んだのに。
自分のせいで。自分がいたばかりに。
──自分なんて、生まれてこなければよかった。
胸に痛みが走り、謝必安はきつく目を閉じる。ベッドに横たえた鎮魂傘を手探りで触れれば、友の気配が感じられた。
今なら、わかる。
大切に思う相手が、そんな鬱屈した思いを抱えているのは、ひどくかなしい。
范無咎が窺うような気配を伝えてくる。その様子に少し気持ちが和らいだ。
瞼を開き、顔を上げる。そこには、微かに震える小さな小さな肩があった。
──誕生日おめでとう。
──産まれてきてくれてありがとう。
そう祝われるはずだった命を、自分はいくつ摘み取ってきたのだろう。
診療所を盛り返せるチャンスに、目がくらんでしまったのは確かだ。自分はその愚かさを生涯忘れない。
だがあの時の選択を間違っていたとは思わない。ああしなければ、彼女達は不幸のどん底から抜け出せなかっただろう。でなければ最初からエミリーに助けを求めてこなかった。彼女たちの不安と絶望に?まれ、追い詰められた顔も、手術を終えて憑き物が落ちたような顔も、絶対に忘れてはならない。
けれど、同時に思うのだ。自分が手術を行わなければ産まれる命があった。人ひとり分の人生を、この世に誕生する瞬間すら奪ったのも、他ならぬ自分だと。
ぐっと無意識に唇を?みしめる。
その事実が、時折背負いきれないほど重くなる時がある。
例えば、今日のように。
「……少なくとも、あなたがこの世に生まれ落ちたことを感謝する者は、ここにいます」
ふと、頭上から掛けられた声に、ぼんやりと顔を上げた。
そうだ、彼がいたのだった。すっかり思考の海に沈んでいたエミリーは、謝必安を見てようやく気付く。
彼が長い腕をこちらに伸ばす。骨ばった手が、壊れ物を扱うかのようにそっと頬に触れた。
「謝必安……?」
「どうか、エミリー。あなたが生まれた日を、罪を確かめる日にしないで」
ゆるく固定された目線は、痛みに堪えるように揺らいだ紫紺を映し出す。彼がそんな表情をしていることに驚いて、少しだけ酔いが醒めた。
もの悲しい瞳のまま、謝必安は寂しそうに微笑んだ。
「強い思いは、行き過ぎれば呪いにもなってしまいますから」
すり、と細長い指先が目元を優しく撫でる。その感触に、エミリーは無性に泣きたい気持ちになった。そう思ったら本当に涙がこみ上げてきて、慌てて彼の手のひらに顔をうずめる。
「エミリー?」
呼び掛けには答えなかった。代わりに大きな手に自分の手を重ねる。こちらの意思を察したらしい謝必安が、小さく笑声を立てる音が聞こえた。何となくむっとして爪を立ててみるが、くすぐったいですよ、と笑い声が増しただけで、止めることを早々に諦めた。
謝必安の手はひんやりとしていて、ほてった顔に心地いい。冷たいのに確かなぬくもりを感じて、穏やかな気持ちがしみこむようにほとほとと湧いてくる。押しつぶされそうだと思っていた重さが不思議と和らいでいくような気がして、エミリーは小さな暗闇の中でゆっくりと目を閉じた。
朝になれば、絶対に後悔する。今夜のことをふいに思い出して、激しく自己嫌悪する羽目になるだろうけど。
「お誕生日おめでとうございます。あなたと出会えたことに感謝を」
優しい祝福と過ぎた熱を吸い取る体温に、今だけは浸っていたい。
もう少しだけ、とエミリーは子どものように大きな手のひらにすり寄った。