今日という貴女におめでとう
「エミリーの食べたいものを教えてほしいの!」
そう誰かに尋ねられたのは、随分と久しぶりで。
返事に迷って、ようやく出した答えは「何でもいいわ」だった。
サンドイッチ、ローストチキン、フィッシュ&チップスにスコッチエッグ、ワインにビールに、ジュースもいくつか。生ハムとチーズの盛り合わせと、それから……。
「……こんなものかしら」
日記の片手間に思いついた料理を書き連ねていたエミリーは、ある程度の品数が出たところでふぅと息をついた。
今日の分を書き終えた日記帳を閉じ、緩くまとめていた髪をほどく。燭台の傍に置いた懐中時計を見れば、そろそろ日付が変わろうとしていた。
またこんな時間になってしまった。カルテをいくつかまとめるつもりだったのだが、今からやるとなると夜が明けてしまいそうだ。主に一度作業をはじめると、時間を忘れて没頭してしまう自分の悪癖が原因で。
諦めるしかなさそうね、とため息をついてぐっと伸びをする。今日は仕方ない。急な予定が入ってしまったのだから。明日こそは溜め込んだ仕事をまとめて片付けてしまおう。
腕を降ろして頬杖をつき、何となしに書いたばかりのメモを取る。箇条書きに書かれた料理名は、どれもパーティには必ず並んでいる定番の料理だ。
「こんなことなら、皆の好みを把握しておけばよかったわね」
燭台の火がメモを照らしてちらちらと揺れる。数日前、「エミリーの食べたいものを教えてほしいの!」と勢いよく迫ってきたエマを思い出して、エミリーは微苦笑を浮かべた。
皆の誕生日を祝おう、と言い始めたのは誰だったか。発端の人物は今も不明だが、イライの誕生日を皆で祝ったのが最初のお祝いだったことは覚えている。
それ自体は喜ばしい変化だった。皆が打ち解けた証拠に他ならない。
ちなみにその話を聞いたハンター達は、ならばと各々の記念日を祝うようになったと後々知った。雪が降り積もる冬の日に、エミリーも美智子に贈り物をしたことは記憶に新しい。
ハンターにまで馴染み始めているというのは何とも奇妙な話だと思う。だがこの話を他人にすると「それ、エミリーが言う?」というようなニュアンスでほぼほぼ返されるため、この頃は口にしなくなった。脳裏に白と黒の影がよぎる程度には心当たりがあった。
そんな風に、淡々とした作戦会議ばかりではなく、ただの他愛ない雑談を繰り広げることが多くなった。誕生日の話で盛り上がるのも、自然な成り行きだったのだろう。
しかし、それが自分にも回ってくるとは、正直思っていなかった。
「誕生日なんて、すっかり忘れていたわ……」
呟き、頬杖をついたままかくんと首を傾ける。もちろん自身の誕生日がいつだったかはちゃんと覚えている。ただここしばらくは記憶の片隅に転がったまま、思い出すこともなかったのだ。
それを拾い上げて皆にも知られたのは、マルガレータが持ってきた占いの本で女性陣が盛り上がっていた時だった。
女性陣でテーブルを囲んで盛り上がっていたところに声を掛けると、図書館から見つけてきたのだというその本を皆で試している最中だった。エミリーもその手の話には人並みに興味がある。だから「エミリーのことも占ってあげる」とマルガレータの誘いに素直に応じた。
「まず初めに十二星座ね。エミリーは何座?」
「うお座よ」
だから、彼女の質問に特に気にすることもなく答えたのだ。その直後だった。
「────、えぇええ?」
「嘘でしょ?」
「エミリーうお座なの?」
二拍ほどの空白を開けたあと、彼女達は一斉に叫び出したのだ。何故そこまで驚くのか訳が分からず、エミリーは目をしばたいて固まった。
「待って、じゃあもう誕生日は過ぎたの?」
「何で言ってくれなかったのー!」
その間に復活したマーサとエマに身を乗り出して迫られる。慌てて我を取り戻してまだだと返すと、じゃあいつだと更にのめり込むように尋ねられ、彼女達の勢いに呑まれて自分の誕生日を白状することになった。
「あと一週間もないですね……食材の取り寄せとかはまだ間に合うでしょうか?」
「えーと、えーと、パーティの準備にプレゼントに……えぇぇぇ機械人形何体出せばいい?」
「その、無理に祝わなくてもいいのよ?気持ちだけで充分だから」
ばたばたと慌てだした彼女達をそう宥めようとしたのだが、声を揃えて絶対に祝うから!と一刀両断されてしまった。
こうして、異様なほどにやる気を見せる女性陣に流される形で自分の誕生日会が決定され、何か食べたいものはあるかと尋ねてきたエマに何でもいいと返してしまったがために、誕生日までに食べたいものを考えてくるよう宿題を出されてしまったのである。
結局これといったものがなかなか思い浮かばず、期限ぎりぎりで捻り出した品目はパーティによく出るものばかりだった。大人も子供も食べられるようなもの、と考えるとどうしてもこういったものしか浮かばなかった。
これ以上考えても無意味だろう。とりあえずこれを明日エマに渡すことにして、とメモをボードに貼り付け椅子から降りる。明日が何の日であろうとゲームは行われるのだ。
そろそろ寝なければ。そう思い火消し道具を手に持ったその瞬間、ひゅん、と風を切る音がした。同時に黒い影が頭上に差す。
ああ、やっぱり。そう思い呆れ混じりに上を向く。来るのではないかと思っていた。
「……あら?」
しかし宙に浮かんでいた黒傘から現れた人物に、エミリーはぱちりとまばたきを繰り返した。
「……"?上好"」
「"?上好”……あなたが来るとは思わなかったわ」
まじまじと見つめながら呟くと、長い三つ編みを垂らした長身の男──范無咎は不機嫌そうに顔をしかめた。
「俺が来ようが必安が来ようが別に変わらんだろう」
「そうね。ただ、”こういう時”に訪ねてくるのは謝必安の方だと思っていたから」
思ったことを口にすると范無咎は押し黙った。彼にもその自覚はあるようだ。
もしかして謝必安に唆されたのだろうか。思わず苦笑いをこぼすと、鋭い目つきでぎっと睨まれた。そのままずい、と一歩を踏み出し迫られる。
「"生日快?"」
笑うな、と怒られるのかと思った。けれど飛んできたのは怒声ではなくやや決まりの悪そうなそれで、何故か四角い箱を一緒に突き付けられた。えっ、と戸惑っているうちに押し付けられる。
「あの……?」
「渡したからな」
早口に何事かを呟き、事情が呑み込めないエミリーを置いて范無咎は傘を上に投げた。制止の声をかける間もなく彼は黒い水に溶け、すぐさま白い水が盛り上がる。
「──……おや、もう交代ですか?」
水の中から現れた謝必安は、手に持った黒傘に向けて無咎、と問いかける。いつもなら多少の反応があるはずなのだが、今は微動だにしない。
無反応な友にやれやれと肩を竦めた謝必安は、エミリーに向き直って微笑んだ。
「こんばんは、エミリー。お誕生日おめでとうございます」
時計を見れば、文字盤上の針は12を過ぎて回っていた。日付が移り変わった証拠であり、エミリーが年をひとつ重ねた瞬間でもある。
これが范無咎の行動にしては珍しく、そして謝必安だったら実行しそうだと思った理由だ。そしてこの箱も。
「ありがとう。なら、これは私へのプレゼントということでいいのね」
エミリーは眉尻を下げて笑いながら、今しがた渡されたものを掲げてみせた。リボンも何もない、現物をそのまま持ってきたと言わんばかりのシンプルさが范無咎らしい。去り際に呟いた言葉は、多分「おめでとう」という類のものだったのだろう。
その一言で范無咎がどのようにエミリーに渡したのか、色々と察したらしい。謝必安も困ったような笑みを浮かべながらええ、と頷いた。
「無咎は本当にこの手のことは苦手ですね。もっとゆっくりしてくれてかまわなかったのに……」
「最初からあなたが来ればよかったんじゃないかしら?」
「私から無理やり交代するより、自分で赴いた方が腹を括るかと思ったんですよ。……開けてみてはいかがですか?」
促され、エミリーは頷いてもらった箱に手をかける。開け口に爪をかけて蓋を開くと、ほんのりと厚紙の匂いが鼻先を掠めた。
明かりの近くに寄せて中を覗き込み、そしてそこに収められたものを見てエミリーは目を見開いた。
飾り気のない箱の中から現れたのは、驚くほど美しい陶磁器のティーセットだった。
「まぁ……」
滑らかな白い肌に、深い青一色で描かれた繊細な花模様。あまり見かけない柄だ。深さのあるティーカップの形も。小さく平たい器はカップ用の蓋だろうか。
上品に並んだカップを一つ取り出してゆっくりと眺め、エミリーはその美しさにため息をこぼす。思わぬ贈り物に感嘆するしかなかった。
「綺麗……」
「ああ、流石は無咎。相変わらず趣味がいい」
「范無咎が選んだの?」
「ええ。無咎は物を選ぶのがとても上手いんですよ。ああいうのを
目利きというのでしょうね。本人は無骨なものを好みがちですが」
肯定しながら、謝必安は誇らしげに胸を張った。まるで自分が褒められたように喜ぶ彼らを、もう何度見たことだろう。その度に仲が良いのね、と自然と笑みが浮かんでしまうことも。
打ち解けるわけだと思いつつ、でも、とエミリーはもう一度ゆっくりとティーセットを眺める。意外だ。彼はこういったものには無頓着なイメージがあったから。
打ち解けても、初めて知ることはまだ沢山ある。
本人の性格と元来の素質は別ということかしら、とひとり納得する。言ったら機嫌を損ねるだろうか。褒めたら褒めたで複雑そうな顔をされる気がする。
「とても素敵なものをありがとう。范無咎にも、今度改めてお礼を言わせてちょうだい」
カップを丁寧に戻してそう告げると、謝必安は是非そうしてください、と快く頷いた。
そして次の瞬間、言葉と共に突然抱き上げられる。驚く間もなく紫苑の瞳と間近で目が合う。
「これは私からです。よければ受け取ってください」
自然と見下ろす形になった白い面差しが柔らかく笑んで、おめでとうございます、と再び祝いの言葉を紡ぐ。
彼の不意な行動にもう慣れてしまった(諦めの境地に入ったともいう)エミリーは、ため息を落としながらも礼を告げた。ずしりと大きさに比べて重みのあるそれを受け取り、開けてみてください、とにこやかに促される。
范無咎からもらった箱を膝の上に置き、リボンと包装紙で綺麗に包まれたプレゼントを解いていく。
中から出てきたのは数冊の本だった。珍しい紐で閉じられた冊子に触れ、その表紙に記された題名を読んでエミリーはあっと声を上げた。
「これ……中医学の英訳書?」
「一応レオさんにも確認していただいたので、誤訳はないかと思うのですが……終わりの方は急いで書いたので、文字の読みづらさには目を瞑っていただけると」
「あなたが訳したの?」
驚いて謝必安を見る。人並み外れた整った顔が、エミリーを見上げたまま柔らかく緩んだ。
「以前、この本を読んでみたいと仰っていたので」
「でも、それって相当前の話よ?」
「ええ、ですからようやく訳し終わりました。……その様子だと気に入っていただけたようですね」
ふと、切れ長の瞳に自分が映っていることに気付く。その顔が年甲斐もなく、まるで子どものように目を輝かせていた。あからさまに浮足立っている自身に、エミリーは恥じ入るように視線を泳がせた。
「……ありがとう。とても嬉しいわ」
本当に、と照れ混じりに礼を言えば、謝必安は嬉しそうに紫紺の瞳を細めた。その表情におずおずと視線を戻して、頬を染めたまま笑みを返す。
どのような医学がここには載っているのだろう。時間ができたら……いや、時間を作ってでも早く読みたい。うずうずと湧き立つ好奇心を、本を抱きしめてやり過ごす。
「あとこちらも。赤ワインです」
と、どこに隠していたのか、謝必安は一本のワインボトルを謝必安は掲げてみせた。
「エミリーの好きそうな銘柄を見つけまして。それからワイングラスも」
「ま、待って。もらいすぎよ。そんなに受け取れないわ」
慌てて首を振るが、受け取ってくださいの一点張り。彼は一切譲る気のない笑顔で更に続ける。
「私が祝いたいから贈っているのです。私のためを思うなら、どうか受け取ってください」
そう言われてしまえば、エミリーは受け取るしかない。その言い方はズルいんじゃないかしら、と悔し紛れに呟くが、事実ですから諦めてください、と妙な返しをされてしまった。
渋々受け取ると、満足げに彼は薄い唇を吊り上げた。頬に口付けられ、鼻先がうなじに触れる。吐息がかかってくすぐったい。
「それにしても、いつにもまして甘い香りがしますね。夜食ですか?」
「香り……?あ、きっとこれの匂いね」
首に埋められた頭をぽんぽんと軽く叩いて視線を誘導する。同じように顔を向ければ、持ってきた時と変わらず、チェストの上には埃よけのクロッシュがかぶさった大皿が乗っていた。
首を傾げる謝必安に降ろすように促し、エミリーは床に降り立る。クロッシュの取っ手を掴み、ぱかっと持ち上げて皿の中身を見せると、彼は暗がりでもわかるほどにぽかんと驚いた顔をした。
「焼き菓子、ですか?随分と手が込んでいますね」
「そうでもないのよ。焼いたカップケーキにクリームを絞っただけだから」
「あなたが作ったんですか」
すごいですね、と謝必安は感心したように呟く。素直に褒めていることが伝わってきて、無意識にそっと頬に手を当てる。
「よかったら食べる?」
「いいんですか?」
照れを誤魔化すようにそう言えば、すぐに答えが返ってきた。瞳の奥に好奇心を宿して見下ろしてくる謝必安に、エミリーは表情を緩めた。
「私たちの国では、自分の誕生日にケーキやお菓子を配るのよ。エマのお誕生日の時にもらわなかったかしら?」
そう尋ねると、彼はずらりと並んだカップケーキを眺めながらああ、と手のひらをぽんと叩いた。
「そういえば、年の瀬あたりにレオさんからお菓子をいただいたような……それでこんなに山のように作ったのですね」
「そういうこと。人数分を作るだけでも一苦労ね。最初に比べて、すっかり人が増えたから」
使用人の人達には頭が上がらないわ、と付け足すと、謝必安も「まったくですね」と肩を竦めた。十人ほどだった招待客は、今や優に二十人を越えてなお外から訪れ続けている。一体荘園の主はどれほどの人に招待状を送ったのだろうか。
「そういえば、無咎は気付かなかったんですか?」
来るだろうと思って用意しておいた小皿にカップケーキを取り分け、それを謝必安が受け取ったときだった。ふと思い出したように彼はぽつりと疑問を投げた。
はた、ともう一つの小皿にケーキを乗せていたエミリーも思わず動きを止め、謝必安と顔を見合せる。
「……そうみたいね」
そんなに緊張したんですね、と謝必安は小さく笑い声を上げた。エミリーも釣られてくすりと笑う。
謝必安の言う通り気を張っていたのだろう。不器用というか何というか、いっそのこと微笑ましい。本人の耳に届いたら確実に怒られる感想が頭に浮かぶ。
謝必安はサイドテーブルにワインとグラスを置き、そのままベッドに腰かけた。カップケーキを手に取り、長い指で器用に型紙を?いでいく。
ハンターの分は大きめに、と作ったつもりだったが、手のひらにすっぽりと収まった姿を見ているともっと大きく作ってもよかったかもしれないと思う。サバイバーとハンターの体格差は子供と大人ほどの差があるのだ。
ぱく、とケーキが大小に分かれて割れる。小さい方を口に入れた謝必安は、カップケーキを咀嚼しながら嬉しそうに目を細めた。
「とても美味しいです。クリームとケーキの甘さがほどよくて」
「そう、よかった」
「ただ、無咎には少し甘すぎるかもしれませんが……」
「だと思ってクリームなしのも作ったわ」
「流石エミリーですね。無咎もきっと喜びます」
指先についたクリームを舐めとりながら機嫌よく笑う。エミリーは一瞬目をしばたかせるが、すぐにくすりと笑みを返した。
基本的に礼儀を弁えている彼であるが、たまに今のような、いわゆる行儀の悪い仕草をすることがある。気が緩んだときにそういった癖が出るのだと、以前范無咎に教えてもらったのを思い出す。
今は気の抜けているのだろうかと、そう思うと何だかおかしかった。
「ご馳走様でした。本当に美味しかったです」
「どういたしまして。お皿はデスクの上に置いといてもらえるかしら?」
「わかりました」
とりあえず人の──ではないのだが、少なくとも味覚に関しては人と同じだと判明している──口にも合う出来になっていたようだ。自分でも試食はしたのだが、やはり誰かに美味しいと言われると安心する。
范無咎の分は持ち帰ってもらった方がいいだろうか。取り分けた一つに紙で包んでいると、おや?と不思議そうな声が届いた。
「エミリー、これは?」
「これ?……ああ、明日の料理のリストよ。エマたちが私の食べたいものを作ってくれるらしいの」
「それにしては脂っこいものが多いようですが……」
「ケンカを売っているのかしら?」
「だって好みではないでしょう?油の多い料理は胃もたれすると、以前」
何でそんなことを覚えているのだろう。エミリーは軽く額を押さえる。いつ言ったのか本人でさえ思い出せないほど些細な呟きだったはずだ。
「……そうね、言い方を間違えたわ。確かに特に好きというものではないけれど、どうせならみんなが食べられるようなものの方がいいと思ったの」
「あなたの食べたいものを、と言われたのでしょう?」
「それで素直に好きなものばかりを言えるのは子供の特権よ」
それはそうだ。子どもが周りのことなど慮る必要はない。だが大人は違う。少なくともエミリーはそういった意識がある。
好きなものを、とエマは言ったが、皆が祝ってくれるのだ。折角ならその場にいる誰もが楽しんでもらえる席にしたい。
ならば大多数の人が好きなものを。自分の好みを押し付けるよりも、皆が喜んでもらえるもの方がいい。そう思ったのだ。
「大人も一緒ですよ」
けれど落ち着いた低い声音が、エミリーの考えをやんわりと否定した。
視線を上げると、紫紺の瞳と目が合った。薄暗がりでもはっきりと見える不思議な色をした双眸が、ついと穏やかに細められる。
「あなたを祝いたいと思うのは、別の言い方をすればあなたに喜んでほしいと思っているからです。ならばあなたは、あなた自身が喜ぶようなことを考えなければ」
蝋燭の光がゆらゆらと青白い顔に影を落とす。謝必安はちらとデスクを見て、先ほどエミリーが書いていたメモ用紙を手に取った。紙片は片手の中に隠れ、開かれた時にはどこかに消えてしまっていた。
さっと手を払ってから視線をエミリーに戻し、口の端を上げて彼は微笑む。
「それが一番、祝う側も望んでいることですよ。大人であるからこそ、ですね」
「……それは、屁理屈というものではないかしら?」
「そうかもしれません。ですが事実でもありますよ」
ささやかな反論は、しかしやんわりと返されて丸め込まれる。むっと口を噤むエミリーに、謝必安はくすりと笑って腰を折った。
「屁理屈ついでにもう一つ言いましょうか。あなたを祝いたいと、そう思っている私が言うのです。これ以上ないほど信憑性のある理由ではありませんか?」
そして追い打ちをかけられた。
どうです?と言わんばかりに微笑んでいる謝必安に、とうとう深い溜息を吐いてエミリーは肩を落とした。
「降参よ。ちゃんと一から考え直すわ」
もうほとんど時間がないのに、とメモを消してしまった犯人を睨みつける。けれど彼は笑んだまま、「余裕がないほど本音が出るものですし、丁度いいのでは」などと返してくる。間違ってはいないがこのような時に使う言葉ではないと思う。
はぁ、もう一度ため息をつく。本音というのなら、特別食べたいというものがなかなか思いつかなかかったのも悩ませていた理由なのだ。
頭上でくつくつと喉を鳴らす音をさせながら、謝必安はさて、と呟き、再びエミリーを抱き上げた。
「ですが、今日はもうお休みになられた方がいい時間ですね」
苦言を呈する間もなくベッドに降ろされ、思わず呆気にとられる。見上げた先の顔がゆるりと微笑み、姿勢を正すと流れるような動作で傘を広げた。
くるりと大きな傘が回る。露先を伝い、白い雫がぽたりと垂れる。
彼が自室へ戻るときの、いつもの動作だった。
「それでは、素敵な一日を」
「あ、ねぇ、待って──」
はし、と。伸ばした手が翻る服の裾を咄嗟に掴む。
ハンターからすれば自分の腕力など無に等しい。けれど、白い服を引っ張る己の手は、彼の動きを止めた。
「その……早く寝た方がいいのは、わかっているのだけれど……」
何を言っているのだろう。言った傍から自分自身に疑問が浮かぶ。
顔に熱が集まってくるのがわかる。自分らしくない言動なのは、自分が一番よくわかっていた。
ちらりと見上げると、謝必安はぽかんと驚いたような顔をしてエミリーを見ていた。その視線がまた恥ずかしくて目を伏せる。
じじ、と蝋燭の芯が焦げる音が、静まり返った室内に落ちる。もう一度おずおずと謝必安を見上げた。
見開いたまま固まっていた紫紺の瞳が、ゆるゆると柔らかく細められていく。次第に深くなる笑みが、喜色を露わにエミリーに降り注ぐ。
「ええ、喜んで」
一言、快諾されて強張っていた身体から力が抜けた。そして全身を包む安堵と喜びが、羞恥を飲み込んで更に口を滑らかにした。
「料理も一緒に考えて。……あなたがメモを消してしまったのだから」
本当は書き連ねた料理くらい全て覚えている。それに自分の好きなものだというのに、彼にも考えてもらうというのは奇妙な話だ。
謝必安もそれはわかっているのだろう。それでも彼はその矛盾だらけの言葉を指摘することもなく、「それもそうですね」とただ同意を示しただけだった。
「では、思いつくまで一緒に考えましょうか。折角ですし、持ってきたワインも開けますか?」
一瞬悩んで、こくりと頷く。冗談で言ってきたのであろう彼はまた目を丸くした。
「たまにはいいのでしょう?」
袖を掴む手に力がこもる。
そう言った。他ならぬ彼が。
今日くらい、子供のように素直になってもいいと。
言外にそれを含ませて見つめる。忙しなく瞬きを繰り返していた謝必安は、やがて嬉しそうに相好を崩した。
「もちろん。たまにと言わず、毎日でもいいくらいです」
「冗談はよして」
「本気ですよ」
傘を閉じた彼が再びベッドに腰掛けた。伸びてきた腕がエミリーを囲う。機嫌よくボトルを開ける姿を見つめながら、もたれるように背を預けた。
誕生日とはどんなものだったか。そんなことも忘れてしまうほど独りで過ごしてきた身体にひんやりとした、けれど確かに伝わるぬくもりは、ひどく安心できるものだった。
◆ ◆ ◆
「ええと……これは……?」
飾り立てられた食堂の間に通された瞬間、エミリーは困惑しながらテーブルを見渡した。
食堂の中央にあるテーブルには、溢れそうなほどに所狭しと置かれた料理の数々。どれも美味しそうに盛り付けられて並んでいる。
ヨークシャープディングが添えられたローストビーフに、ベーコンやトマトが挟まった具だくさんのサンドイッチ、大盛りのフィッシュ&チップスと、持ち手に白い紙飾りがついたフライドチキンにその他諸々。
そしてその隙間を縫うようにして置いてある──明らかに人数分以上はある大量のケーキ。
料理のうちのいくつかはエマ達に頼んで作ってもらったエミリーの好物だ。そしてケーキも、自分からリクエストしたものだった。
「ショートケーキが食べたいの」
誕生日、と改めて考えて思い浮かんだのは、小さかった頃のパーティの風景だった。
いつもは使用人が用意してくれる食事を、家族が誕生日の時は母もキッチンに立って料理を作ってくれた。その時に食べた素朴な、優しい味のケーキを思い出したのだ。あたたかくて幸福な気持ちもまとめて思い出したものだから、無性にあのケーキが食べたくなった。
子どもっぽいかしら?と迷いつつも思い切って伝えると、エマたちは喜んで引き受けてくれた。彼女たちの嬉しそうな顔を見て、正直に言ってよかったと思った。
そう、思ったのだが。
この景色は予想外だった。何せ置かれているケーキの全てが違う種類なのだ。
戸惑いを芦原に後ろを向く。エミリーの反応は予想通りだったのだろう。すぐ傍にいたエマとマーサが、顔を見合わせて困ったように笑った。
「えっとね、エミリーからショートケーキが食べたいって聞いて、使用人の人にも手伝ってもらってみんなで作ったの。最初にエマたちが作ったのはこれなの」
エマが一番手前にあった皿を指差した。丸く焼き上げたショートブレッドに、たっぷりの生クリームと苺が挟まったものだ。
「でも、みんなが知ってるショートケーキはこれじゃないって話になって……」
「詳しく聞いたら、ただフルーツが違うだけのものから作り方そのものが違うものまで、本当に色々でてきたのよ。私が思ってたショートケーキはこれ」
マーサが示したのは少し奥にあるケーキだ。エマのものとほぼ同じだが、苺の代わりにブルーベリーが散りばめられている。
「それでエミリーが本当に食べたいのはどれなの?って話になったの。でも、エミリーはお仕事が忙しそうだったから」
「で、聞けないなら全部作ればいいって、トレイシーが言いはじめて」
「だってその方が楽しそうじゃん!色んなケーキも食べれるし」
「本音はそれか」
ひょこ、と人の波から飛び出し目を輝かせてそう言ったトレイシーに、マーサは半眼になって腕を組んだ。後ろからゆっくりと歩いてきたヘレナがくすくすと肩を揺らす。
「でも、どれも本当に美味しそうです。甘くて、とてもいい香り」
目の見えない彼女は、杖をつきながら食堂を見渡した。室内に漂う香りを吸い、幸せそうに唇を吊り上げたヘレナは、エミリーに向きなおると微笑んで首を傾げた。
「エミリー先生の食べたかったケーキは、この中にありますか?」
問われて、改めてテーブルを眺める。
煮詰めたリンゴがクリームから顔を覗かせているケーキや、はたまたふんわりとしたスポンジを生クリームでデコレーションしたホールケーキが、更には苺のジュレとクリームの層が見事なムースケーキまで本当に様々だ。さながら洋菓子店でも開けそうな数だった。
これを、エマ達と使用人の方々が作ったのだ。朝から今まで、代わる代わるゲームに参加しながら。
そうね、と呟いて、エミリーは胸に満ちる感情につられるように目を細めた。
「ヘレナの言う通り、どれも本当に美味しそうで……何だか全部食べたくなってしまったわ」
選ぶのが勿体なかった。だってこのケーキの数は、自分を喜ばせようと考えて作ってくれた人の数だ。
エマが、マーサが……キッチンに集まった人達が、自分のために。こんなに嬉しい気持ちにさせてくれたご馳走の中に、正解でないものなんて一つもなかった。
──『あなたを祝いたいと、そう思っている私が言うのですよ。これ以上ないほど信憑性のある理由ではありませんか?』
内心で苦笑しながら、昨夜の彼の言葉を思う。何だか悔しいが、謝必安の言ったことは正しかった。
「ほら!エミリーだってそう思うよね!」
両手をぐっと握りながらトレイシーが明るい表情を見せた。それに頷いて、でも、と再び料理を見回す。
「それにしても量が多くないかしら?」
ケーキに合わせるように料理もかなり多い。テーブルが見えないほどだ。これでは取り皿を持って食べるようだろう。
食べ盛りの子がそこそこいるが、果たしてこの量は食べきれるのだろうか。その問いに答えたのはエマだった。
「そうなの。だから今日は、ハンターさんたちも招待したの!」
え?とエマを振り返ったときだった。食堂の広間に、いくつもの大きな影が現れた。
「よっと……どうやら丁度いい頃合いだったようですね」
周囲に霧を漂わせて現れたのはリッパーだった。何もない部屋の角にいつの間にか現れた美智子とジョゼフが、こちらに向かってしとやかに礼をした。そして、黒傘からはにこやかに微笑む謝必安が。
他のハンターたちも窓を飛び越えたりドアから堂々と入ってきたりと続々と集まってきた。
「ハンターの皆さん、本日は来てくれてありがとうございますなの!」
呆気に取られているうちに、エマが笑顔で彼らを迎えた。ハンターを代表するように一歩前にでたリッパーが、彼女に向かって恭しくお辞儀をする。
「こちらこそ。この度は素敵なパーティにお招きいただき感謝いたします、エマ・ウッズさん」
「エミリー!」
そんなやり取りをぽかんと眺めていると横から声がかかった。振り向けば頭が袋で覆われた子どもがとたとたとこちらに駆け寄ってきていた。
「僕、美味しいものは食べれないけど、おめでとうって言いに来たんだ。おめでとうって言われるのは、すごく嬉しいから。だからエミリーにもおめでとうって言いたくて」
「ロビー君……」
丁度口の辺りにある袋の裂け目をぱくぱくと動かしてロビーは言う。それに続くようにヴィオレッタも足を鳴らして近付いてくる。
「私も、皆におめでとうって言われて嬉しかったわ!いい言葉よね、おめでとうって。幸せをお裾分けしてる気分になるもの」
「先生、この間は素敵なプレゼントをありがとう。実はうちも手伝ったんよ、お料理」
先生の口に合うとええなぁ。そう言って小首を傾げ、端麗な面差しが照れまじりに微笑んだ。
まるで夢を見ているような心地で、エミリーは彼らを見回す。ここにいる人達は、エミリーを祝うために集まったのだ。そうではない人もいるだろうが、それでも、こんなにも沢山の人達が。
「お誕生日おめでとうございます」
聞き慣れた声音が耳朶を震わせる。頭上に差した影の方を見上げれば、謝必安が笑みを浮かべて自分を見下ろしていた。
エミリーが自分に気付いたことを確認すると、彼は目線を合わせるように腰をかがめる。耳元でぼそりと何事かを囁いたあと、再び背筋を伸ばしてエマ達が集まっている場所へと歩いていく。
ぱち、とまばたきを数回。それから先程のように、今度は胸の内に留められず苦笑いをひとつ。
「そうね、あなたの言う通りだったわ」
自分にしか聞こえないほどの声量で小さく呟く。やはり少し悔しいが、今はそれ以上に喜びの方が勝っていた。
「エミリー」
マーサの声に呼ばれる。振り返れば頼もしい仲間達が、それからゲームでは敵対しているハンターたちが、皆こちらを見て笑っていた。
「誕生日おめでとう!」
祝福の声と共に、室内にクラッカーの音と花吹雪が踊るように飛び出した。
──私の言ったことは間違っていなかったでしょう?
──ええ、本当に。
素直になってよかった。心からそう思いながら、エミリーはありったけの感謝を込めてありがとう、と微笑んだ。
おまけ
おめでとう。あなたに多くの祝福があらんことを。
そう言ってくれるひとがいるから、誕生日というものに意味が生まれる。
そのことを、私は初めて知った。
「誕生日おめでとう!」
広い食堂の間に、沢山の祝う声とクラッカーが大きく弾ける。
違う音色の同じ言葉。飛び出した紙テープがふわふわと舞い落ちて髪とからまる。同時に一歩分空いていた距離が詰められ、取り巻いていた彼らが一気に押し寄せてきた。
エミリー!と真っ先に飛び出してきたのはトレイシーとヴィオレッタだった。
「何がいいかなって、二人で考えたの」「きっとエミリーの仕事が楽になるよ!」
そう言ってオレンジ色のリボンでぐるぐると巻かれた機械を自信満々の笑顔で渡される。何だろう。あとで解くのが楽しみだ。
「いつも助かってる」「これからもよろしくね」
ナワーブとマーサの言葉に、こちらこそと笑みを返す。実用的なプレゼントと一緒に、明日のゲームで勝利を贈るからと頼もしい宣言ももらう。二人の言葉から伝わる信頼が、何よりのプレゼントだと思った。「先生ー!」と突進してきたウィリアムを見事な反射神経で取り押さえ、頼もしい二人はテーブルの方へと向かっていく。苦笑しながらそんな三人を見送っていると、ガウィンとホセが恭しく手の甲にキスを落としていった。それが様になっていて、さらに苦笑いがこぼれた。
「本当はね、カッコいい虫がいっぱいの標本にするつもりだったんだ。だけどルキノが、女の子には花のがいいって」
そうなの?とロビーは袋で覆われた頭をこてんと傾けた。一緒に選んだのだという種が植えられたプランターをありがたく受け取りながら、彼を肩車しているルキノに視線だけで感謝する。トカゲの姿をした彼はひょろりと細長い舌を出して、「何が咲くかはお楽しみだ」としゅるしゅると笑っていた。
ヘレナからは暖かい手のひらと共に祝福の言葉とレコードを、パトリシアからはむっつりとした表情で(きっと照れ隠しだ)籠いっぱいの薬草をもらう。こんなにたくさん、どこから摘んできたのだろう。気になって尋ねれば、「今度教えてやる」とぶっきらぼうな、けれど嬉しい答えが返ってきた。
「あとでとっておきのショーを見せるから!」とはりきるマルガレータとマイクが微笑ましくて自然と笑みが浮かぶ。道化師のジョーカーまでここに来たのは、マルガレータたちにお願いされたからなのかもしれない。
人の波が押し寄せて、次第にぱらぱらと収まっていく。「おめでとうございます。これは私と無咎から」そう言って差し出された細長い箱(白黒の万年筆)を謝必安から受け取ったとき、パァンっとクラッカーが再び弾けた。
「誰だ料理に向けてクラッカー打ったバカは!」奥からそんな声がする。視線を滑らせれば、テーブルを囲んで賑やかに話す皆の姿が目に映った。
なぁーもう食べていいか?ダメに決まってんでしょ最初に食べるのはエミリーよ。先生ー早く来てくれー!我慢しなよウィリアムー僕だってお腹ペコペコなんだから。
つーかケーキ作り過ぎだろどんだけあんだよ。まぁまぁジョーカーさんだから我々にもお誘いがきたわけですから。ボンボン、バルクシンパイ。誰が糖尿じゃオイル抜くぞこいつめ。コウケツアツトアルチュウモダヨ。うるさいわ!
けーきはどう切り分けるん?私切るの得意よ美智子!美智子僕も僕も!あらわたくしもやってみたいわ美智子。おい誰かあの刃物三人組止めろ。呪えばいいか?ワープで飛ばす?ナワーブを彼らに向けて弾き飛ばせばいいのかい?もう視えています!視なくてもわかるわやめろお前ら!
賑やかな音が広間中に響き渡って飽和する。誰かが鳴らしたクラッカーのように、楽しげな声が弾けて飛び交っている。
「エミリー!」
名を呼ぶ声に振り返る。麦わら帽子をかぶった女の子が、晴れ晴れとした笑顔で駆け寄ってきていた。彼女が手に持つ人形には少し潰れたナースキャップが付いていて、自分を模して作ったのだとすぐにわかった。
頬をほんのりと染めて、エマは勢いよく抱きついた。よろめいた身体を、彼女もろとも倒れる前に大きな手のひらが支える。
「私と出会ってくれてありがとうなの、エミリー。ずっと、ずーっと大好きなの!」
いつもより高めの、喜びに満ちた声が鼓膜を震わせる。ぎゅっと抱きしめられる腕の力。弾んだ声音。眩しい笑顔。その全てが、偽りのない本心なのだと知らせてくる。
じわり、じわりと、春の陽射しを浴びるように、柔らかなあたたかさが全身に広がって満ちていく。溢れ始めたそれは、やがてくすぐったさに変わって唇を震わせた。
耐え切れなくなって、うんと大きくなったエマの背中に腕を回す。あの頃、自分の胸くらいまでしかなかったあの子は、いつの間にか肩に顎を乗せるくらいまで伸びていた。
「ありがとう、エマ」
私もよ、とエマの背中に手を伸ばす。何の意義もなくなっていた誕生日に、もう一度意味を与えてくれた。
ありがとう。夢のような『今』をプレゼントしてくれたあなたたちに、言葉で伝えきれないほどの感謝を。
嬉しそうな笑声を耳元で聞きながら、エミリーは溢れる心のままに笑み崩れて彼女をぎゅうっと抱き締め返した。