異文化観光録
ふと、何気なく巡らせた視線の先で珍しいものを見つけた。
ハスター特製のたこ焼きをもくもくと味わっていたイライは、思わず赤い布の奥で目をしばたかせる。
「へぇ……」
逢瀬かな、と思わず声に出てしまった。ちら、と後方を見やるが、屋台に夢中になっている彼女達には幸い聞こえなかったようだ。ほっと口元から手を外し、誤魔化すようにたこ焼きをもう一つ放り込んだ。
どうやって承諾を得たのだろう。あまり目立つことが好きではないだろう彼女を、ここまで連れ出すなんて。
もぐ、と口を動かしながらさり気なく上を見上げ、屋根の上に留まっている相棒の眼を借りる。
ぱっと視界が瞬く間に俯瞰風景に代わり、イライは素早く永眠町を見回した。今自分がいる場所、彼女達が歩く道、それから思い思いに祭りを楽しむ仲間の姿。
その中で、赤や黒の魚が泳ぐ屋台で、大きな男と小さな少女の親子が楽しげに魚を眺めているのが目に留まった。
「……うん、見つけた」
よし、と視点を戻し、イライは残っているたこ焼きに小さな串を刺す。そしてヨーヨー釣りを楽しむ女性二人に声をかけた。
「フィオナ、マルガレータ。あそこにもゲームの屋台があるみたいだ。えーと…「キンギョスクイ」?だってさ。その辺にして、次のところにも行ってみないかい?」
「キンギョスクイ?何のゲームかしら?」
「面白そう!フィオナ、行ってみましょうよ」
華やかな二人が同時に振り返り、好奇心を滲ませて頷いた。ボウルに入っていた二、三個の水風船から一つ選別して水槽に戻し、立ち上がる。その手首には吊る下がった紫と赤のヨーヨーは、彼女達の感情を反映するかのようにゆらゆらと揺れていた。
「じゃあ行こうか。こっちだ」
イライは先導するために一歩前を歩く。談笑しながらついてくる二人を確認しつつ、こっそりと先ほどの人影がいた場所に視線を滑らせた。しかし、彼らは既にその場にはいない。
イライは小さく息をつく。自分にできるのはこのくらいだ。あとは本人達の運次第。
(楽しい時間を、先生)
彼女の優れた医術に何度も世話になったひとりとして、これはささやかな恩返しだ。
顔を前に戻せば、先ほど見えた屋台の看板がもう間近だった。その下ではフウロウから見た景色そのままに、楽しそうに庭師の少女とハンターの男の姿があった。
それにしても、とイライは歩きながらぽつりと呟く。
「黒無常のあんな顔、初めて見たなぁ」
しみじみとこぼれた彼の言葉は、背後の女性二人と少女の再会の声に消えていった。
◆ ◆ ◆
風船のような紙製の赤いランタンが夜空に並び、からんころんと涼しげな音を立てる足元を照らす。吊るされたランタンの先には、紅白の布を垂らした細長い建物。上からはティンパニとはまた違う、打楽器が町中に音を響かせている。
石造りではない木造の建築物に沿って立ち並ぶ屋台。見知った顔、見慣れない人。
いつもはゲームで走り回ることばかりの閑散とした不気味な町は、今は多くの仲間や出し物が集い、様変わりするほど活気のある町になっていた。
未だ姿を見たことのない荘園の主によって開催された、一風変わった夏祭りだ。
(……夢でも見ているのかしら?)
その町中で、エミリーは目の前の光景を信じられない面持ちで見つめていた。感極まるあまり……ではなく、想像と現実の乖離に目眩がする類のものである。
「何だ、これでも速いか?」
視線に気付いた范無咎がこちらを見る。普段の装いではなく、黒い浴衣と紅の羽織の姿だ。大人と子どもくらいに差がある自分達は、床に座ってでもいない限り、自然と彼の方が見下ろす形になってしまう。
いいえ、とエミリーは小さく首を振る。彼はちゃんと歩調を合わせて歩いてくれている。最初に勢いよく屋台に飛んでいった際に、これでははぐれると苦言を呈してから速いと思ったことはない。
そうではない。そうではなくて。
(あなたがそんなに笑っているのが、とても珍しくて……)
喉元まで出かかった言葉を、エミリーは寸前で飲み込んだ。言ったら気分を害してしまいそうだと思ったのだ。
そうして、またいつもの怒ったような顔に戻ってしまうのが勿体なくて。
「その……そんなに買って食べきれるのかと……」
代わりにもう一つの疑問を口にする。これも思っていたことだから決して嘘ではない。
芳ばしい香りのするパスタ、ハスターの下僕だと言われたら信じてしまいそうな形をした魚介類の串焼きに、パスタと似た香りのするころころとまん丸い焼き物。十字の切れ込みが入った茶色いキノコのバター焼き、野菜の挟まった鶏や豚肉の串焼き、それから透明な飴で覆われたりんごのお菓子に三色団子。
それらが一人ないし二人または三人分。ウィラが近くにいたら、匂いの大奔流に悲鳴を上げてしまいそうだとひっそりと思う。ちなみにエミリーの分も彼が持ってくれているのだが、それはごく一部だ。
片腕で抱える初めて見る料理の数々を見つめながら言うと、彼はふん、と鼻を鳴らした。
「当たり前だ」
「……そう」
食べきれるのか。
お腹を壊さないといいけれど、と胃腸薬諸々を忍ばせた巾着にそっと触れる。他の子たちも、見慣れない料理の数々に眼がくらんで食べ過ぎていなければいいのだが。
しばらく白黒無常とは当たりたくない、と仲間達が手当てを受けながら口々に零していたのを思い出す。ここ最近いつにも増して彼らが容赦のなかった理由を、エミリーはようやく知った。この祭りで使えるコイン(美智子曰く彼女の故郷の通貨らしい)は、ここ二週間ほどのゲームの活躍に応じてもらえる報酬だったのだ。
おっ、と黒が声を上げた。初めて聞くような弾み気味の声色だ。
「月餅もあるのか」
行くぞ、と祭りに来てから何度目かの台詞に、エミリーは頷き范無咎と屋台に向かう。どこから呼んできたのか、屋台の主は明らかに異形の彼を見ても愛想のいい表情を崩すことなくいらっしゃい、と声をかけてきた。
「こいつを三つ包んでくれ」
「あいよ」
「待って、私の分は……」
「いいから食ってみろ。美味いから」
切れ長の瞳がエミリー向けられ、やわく細まる。いつも不機嫌に眉間にしわを寄せている継ぎ接ぎの顔が、懐かしさと自信を映して屈託なく笑う。
「お待ちどう。三つで30銭だ」
エミリーははっと我に返った。慌てて彼から視線を外し、店主に硬貨を渡す。渡してから、結局自分の分も買ってしまったことに気付く。
しまったと思っているうちに、包まれた菓子は店主から黒い手へと渡っていた。これで何度目だろうか、エミリーは思わずため息をこぼす。仕方ない、食べきれなかったら持って帰ろう。
まいど!と威勢のいい声に范無咎が謝謝、礼を返す。普段は気圧されてしまいそうな鋭い眼光を放つ金の瞳は、今は少年のような眼差しできらきらと輝いていた。
──本当にお祭りが好きなのね。
彼と、彼の持つ傘に宿る魂に語り掛けるように胸の内で呟く。もちろん聞こえるはずもない声だったが、傘が嬉しそうにええそうなんです、と同意したような気がした。
隣を歩きながら細い横顔をちらと見上げて、また逸らす。
何だか調子が狂うわ、とエミリーは熱を持つ頬にてのひらを当てた。
人のざわめき。鼓の音色。焦げ付いた鉄板と焼き物の匂い。どれも既視感を覚えながらも、どこかしら違う。
提灯のぼんやりとした明かりに照らされながら、范無咎は屋台を巡り、食べ歩き、ゲームに興じては景品をかっさらいと、騒ぐ血のままに祭りを満喫していた。自分が祭り好きであると知ったうえで、先に人格を譲ってくれた親友には感謝しかない。
長椅子に座り、買ったばかりのお好み焼きにかぶりつく。表面にたっぷりと塗られた白と茶のタレと、中に混ぜられた紅生姜の味が舌に広がる。濃い味付けが美味い。
(案外と懐かしく思うものだな)
故郷の味ではないが、使っている調味料が似ているのだろう。基本的に西洋の料理が出ることの多い荘園では久しく食べていない味だった。
悪趣味な荘園主だと思っていたが、この祭りを開催したことに関してはよくやったと言わざるを得ない。活躍に応じてこの祭りで使える通貨を多く獲得できるよう、祭りとゲームをからめてきたのは上手いがやはり趣味が悪いと思ったものだが。
手のひらの上で転がされているようで癪だが、確かにそのおかげでここしばらくのゲームには力が入ったも事実だ。サバイバーにとっては災難な話であるが、それはお互い様だ。ロビーなどゲーム後に范無咎に飛びついてみんな怖いと大泣きする始末だった。
しゃくしゃくと涼しげな音にふと隣を見る。目線を大分下に下げれば、白地に青い瓢箪模様の浴衣を来た女が姿勢よく座りながら、青く染まったかき氷をちまちまと食べていた。
「食うか?」
細長い筒状の匙(ストローというらしい。本来は飲用の道具なのだそうだ)がその唇から離れたところで、透明の容器に入ったそれを差し出す。伽羅の色に似た双眸と一度かち合い、それから范無咎の手元に視線が落ちる。
ぱちぱちと二回、瞼を上下させたのちに、いただくわ、と一言告げて手を伸ばした。気になると目で訴えておきながら遠慮する相手に半ば押し付けるように渡すことを繰り返した結果、ようやく医生の動きに躊躇いがなくなった。
「……これは、どうやって使うのかしら?」
困惑した面差しが范無咎を見た。やわな手に収まる箸に目を止め、そういえばここでは箸など出たことがなかったかと思い至る。
説明するよりも自分がやった方が早い。そう結論付けて小さな手から箸を取り上げ、二つ折りにされた半月型の生地を小さく切り分ける。ちなみにいくつか前に食べた焼きそばの時は、遠慮の押し問答が面倒になり無理やり口に突っ込んでやたら怒られた。
「こんなものか?」
「ええ、ありがとう……そんな難しい使い方をなのね」
箸を返すと、女はそう言いながらまじまじと二本の棒を見つめた。医生という職業柄か、それとも元々の性分なのか、この女は大人しそうな見た目とは裏腹に意外と好奇心が強い。
そのうち教えを乞われにきそうだ。多分予測は当たる。
その時は謝必安に任せよう。礼儀作法は相棒の方が熟知している。寧ろ范無咎はそういったことは苦手な部類なのだ。
流石に一度見ただけで使いこなせないと判断したのか、エミリーは二本をまとめてお好み焼きに突き刺した。口元を手で隠し、もぐもぐと口を動かす。それからゆっくりと飲み込んだあと、ことんと不思議そうに小首を傾げた。
「さっきもらったたこ焼きと同じ味がするわ」
確かに。二人は半分とひと欠片分がなくなったお好み焼きを見つめる。
「中身はほぼ同じなんだろう。タレの味も」
「具がタコかお肉とキャベツかの違いかしら」
「生地と水の配分もだな」
手を口元から顎先に移動させて呟く声を聞きながら、お好み焼きを手元に戻してもう一度かぶりつく。切り取った部分はその一口で綺麗になくなった。
「そういえば」
ふと思い出したようにエミリーは口を開く。目線だけ向けると、相手もこちらを見ていた。
「あなたがさっき演奏していた楽器。あれはあなたの故郷にもあったの?随分と慣れた様子だったけれど」
「……ああ。俺たちの国では”鼓”と呼ぶ。祭りや儀式、[[rb:戦場 > いくさば]]でも使われていた」
美智子の故郷では『太鼓』という呼称だったはずだ。やぐらでの出来事を思い出し、范無咎は愉快そうに口の端を上げた。
やぐらで鼓を力任せに叩いていた道化師に会った。それではただ闇雲に殴っているだけだと言ったら怒りだし、ならお前がやってみろと乱暴にばちを投げ渡された。だから、記憶を頼りに一曲演奏じてみせたのだ。
そのときのあいつの面ときたら。
いつも耳を塞ぎたくなるほど騒がしい道化師が、范無咎の演奏を聞いて呆然と押し黙っていた。あれは痛快だった。
また騒がしくなる前に医生を連れてさっさと退散したためその後のことは知ったことではない。時折聞こえる鼓の音が、范無咎の真似をしようとした少々不格好な音色を奏でているから、まだ叩き続けているのだろう。役者魂に火が付いたらしい。
「よく演奏していたの?」
「人並み程度だ」
ただ、叩くことが好きではあった。
さっと眼前の景色が変わった。箱庭の町と蜃気楼が重なる。
ここよりも更に入り組んだ街並みの中心に建つ、巨大なやぐらの上。ざわめくというよりも大層うるさかった。こちらを見て囃し立てる仲間達の声に悪態を返しながら眺めた街並みは、灯籠の明かりによってまるで異界のようだと感じた覚えがある。
うだるような熱気のなか、四方から集まる視線を背に受けて、身の丈ほどもある鼓の前に立った。心地よい緊張感をそのまま腕力に変えて、街中に届けとばかりに地響く音色を打ち鳴らしたあの頃が、急速によみがえる。
そんなこともあったなと、范無咎は遠い故郷を見はるかす。話す相手などいなかったから、久しく忘れていた。
「范無咎?」
気遣うような声音に、重なっていた景色が陽炎のように揺らめいて消えた。気付けば医生に顔に覗き込まれていた。
心配しているのは女の方なのに、その表情が逆に庇護欲を抱かせる。
「ごめんなさい。聞いてほしくないことだったかしら?」
「いや、」
申し訳なさそうに眉を下げる医生に違うと答える。物思いにふけっていただけだと告げようとして、直後にひゅるるるる……と鳥笛のような音が鼓膜を震わせた。反射的に空を見上げれば、想像通りの鮮やかな花が空に咲き誇った。
どんっと腹の底に響く音に、自然と気分が高揚する。夜空に打ちあがる光の花もそうだが、この音も花火の醍醐味だ。
「きゃっ?」
だが次いで隣から聞こえてきた悲鳴に、思わず花火から視線を外した。左側に視線を落とせば、女がかき氷を持ったまま目を白黒させていた。
肩を跳ねさせたまま固まっている。まるで毛を逆立てた猫のようだ。
耐えきれずに吹き出すと、硬直が解けた相手がじとりとこちらを睨んできた。見上げる顔は少しばかり怒っているが、范無咎にしてみれば怖くも何ともない。
続けて花火がどん、どん、と打ち上がる。音に釣られて二人して空を見上げれば、白い光が高く昇っているところだった。逃げていく魂のような軌跡を描いたそれは、もう一度どんっと音を立てて大輪の花を咲かせる。
「こんなに大きな音がするものなのね……」
「花火は初めてか?」
問うと、夜空を見上げたまま彼女は小さく首を振った。
「いいえ、こちらにも花火はあるのよ。今みたいに、花のような形はしていないけれどね。でも、こんなに間近で見たことはなかったわ」
綺麗ね、とエミリーは目を細めた。打ち上げられた花火の光が、その細く丸みを帯びた輪郭を縁取るように照らす。
范無咎はじっと花火を眺める彼女を見つめ、やがて小さく息をつき、首の後ろを掻きながら目を逸らす。
ああ、そうだ。もうひとつ思い出した。
「医生。”笛子”という楽器があったら、謝必安に渡してみろ」
「ええと……それも、鼓のような打楽器?」
「違う。竹で作った横笛だ。あいつは、それを吹くのが得意だった」
聴いて損はない、と范無咎は誇らしげに口端を吊り上げた。
友と奏でる楽は、いつだって心が粟立つほどに楽しかった。祭りだろうがお歴々方の前であろうが、あいつの笛の音が流れれば自然と腕が踊るように動いた。
范無咎が力強く鼓を響かせれば、謝必安はそれに沿うように笛子を奏でる。叩く調子を変えても寸分違わず拍子を合わせてきて、狂わぬ音色にやはりこいつは無二の親友だと、改めて思わずにはいられなかったものだ。
「……そう」
范無咎の言葉に、医生は微笑みながらも僅かに目を伏せた。
聡い女だな、と思う。己が謝必安の演奏を聴けないことを、共に興じることもできないことを口惜しいと思う心を感じ取ったのだろう。
それでも踏み込むことはしない。煩わしくなくて助かるが、別にかまわないんだがな、と思う気持ちも范無咎にはあった。謝必安も同じだろう。
「ええ、今度探してみるわ。あの荘園に無いものなんてなさそうだもの」
帯びた憂いはほんの一瞬だった。思慮深さを宿す瞳はすぐにこちらを見つめ、伽羅の色が柔らかく細められる。
赤い提灯の明かりに照らされた姿に、不覚にも見入る。
「あなたが絶賛する笛の音、私も是非聴いてみたいわ」
そう続けた医生に、范無咎はふん、と鼻を鳴らし、お好み焼きの残りを一気に平らげた。呆けたことを隠すには丁度良かった。
本当に食べきったのね、と呆れと関心が入り混じった声がぼそりと聞こえた。数回噛んで飲み込み、ところで、と范無咎は口を開く。
「お前も早く食べろ。水になるぞ」
「水……?」
まばたきを二つ、ゆっくりと。それからあっと声を上げて手元も見た。
忘れていたらしい。医生は慌てて崩れたかき氷を食べ進める。
「……おい、そんなに一気に食べると──」
「──っ、いっ……?」
忠告するが遅かった。唐突に動きを止め、小さな背を丸めたかと思うとぎゅっと眉を寄せて頭を押さえた。
あまりにもお約束な。普段そんな失態をしなさそうな女が。
その事実が妙におかしくて、范無咎はくく、と笑声をこぼした。
「……范無咎……」
相当痛かったのか、うっすらと涙を浮かべた眼が睨みつけてくる。先ほどよりも怒気を感じたが、やはり怖くなどない。こればかりは医生に叱られて縮こまる謝必安の気持ちが未だによくわからなかった。
「自業自得だ」
その手から器を取り上げ、半分ほど水になった氷を一気に煽った。ブルーハワイとは一体どんな味かと思っていたが、なんてことはない。甘ったるいラムネだった。
唖然と見上げる医生に空になった器を返し、椅子に立てかけていた黒傘を手に取り立ち上がる。
「お前と回るのも悪くなかった」
目を皿のように丸くする女を見下ろし、范無咎は笑みを浮かべた。呼吸三つ分、ゆっくりとその姿を眺めてから、謝謝、と小さくこぼして傘に溶けた。
視界が暗転し、地べたから慣れた高さに変わった瞬間、多くの音や匂いが五感を刺激した。
雑多な町に雑多なざわめき。何だか懐かしいな、と謝必安は口の中で呟く。
前に垂れてきた三つ編みをかき上げ、それから長椅子を見やる。目当ての人を視界に収めたところで、謝必安は切れ長の目をしばたかせた。それからふっと楽しげに目尻を下げる。
「今日の無咎は新鮮だったようですね」
赤らめた目元を手で押さえるエミリーに問うと、ちらりとこちらを見て、けれどすぐに逸らしてながらええ、と小さく首肯した。
彼女がこれほど照れるなんて珍しい。それに無咎はしっかりと祭りを楽しんでくれたようだ。謝必安は満足げに微笑む。
「言ったでしょう。無咎も好きなものの前でははしゃぐと」
「そうね。その通りだったわ」
あんなにお祭りが好きとは思わなかった、と彼女は眉を下げて笑う。祭りは勿論だが、エミリーが傍らにいたからあんなに楽しそうにしていたのだとは、露とも思っていない顔だ。
今回は相当にわかりやすかったのに、とこちらも思わず苦笑する。言えば早いが、告げ口をしたと知られれば確実に怒られる。彼女らを見かけたものもちらほらといたが、謝必安のように彼の心情を察せられるほど范無咎のことを知っている者はいない。
もどかしい思いを抱きながらエミリーを見つめ、ふと気付く。
「これは?」
「ああ、あなたの分よ。少しだけ私の分も入っているけれど」
彼女が両手で抱えて持つような大きさの袋を指差せば、そんな答えが返ってきた。中を覗くと、様々な料理が隙間なく積まれていた。
「……流石に全部は食べきれないですね」
「一応選んで買っていたのよ」
「みたいですね。私の好きそうなものばかりだ」
食べたことのないものもちらほらあるが、どれも美味しそうだ。謝必安の好みを考えながら選んでくれたのだと思うと嬉しかった。
しかし、如何せん量が多い。おそらく好きに選べ、ということだろう。豪快な彼らしい、とくすりと笑う。
とりあえずこれだけ、とエビの串焼きを取り出して隣に腰掛けた。
さて、と謝必安は視線を送る。半ば押し切る形で選んだ浴衣は、清楚な雰囲気を纏う彼女によく似合っていた。
「浴衣、よくお似合いです」
素直な気持ちで褒めると、エミリーは淡く微笑んでありがとう、と礼を言った。
想像通り照れなどない。苦笑いを隠すように串焼きを口に入れる。
何故こうも自分のときは流されてしまうのだろうか。警戒心がなくなっただけ幸いと思うべきか迷うところだ。
「無咎とのことを聞かせてください。どんな話をしていたんですか?」
気を取り直してそう尋ねれば、彼女はこれまでの出来事を振り返るように視線を上に彷徨わせた。
「そうね……屋台を巡っているのがほとんどだったけれど……」
膝の上の巾着に触れながら、エミリーはぽつぽつと語る。穏やかな表情をこちらに向けて話す彼女に、謝必安は目を細めて聞きやすい声音に相槌を打った。
◆ ◆ ◆
それからいくつか料理を食べて腹を満たしてから、まだ寄っていない屋台を巡った。話題は変わらず范無咎のことばかりだった。
──ハスターのたこ焼きは案外いけると言って、ぺろりと平らげていたわ。
──焼きとうもろこし?だったかしら。それを食べているときに、口の周りに食べ残しがついていて、子供みたいでつい笑ってしまったの。
──彼、射的がとても上手いのね。マーサやナワーブ君に勝負を挑まれていたわ。三人とも夢中になって、景品を全部撃ち取っちゃって。お店のご主人が泣きついてきたときは流石に可哀想だったわね。
──ああ、無咎は味の濃いものが好きですからね。
──ふふ、口元を拭ってあげたんですか?きっと面白い顔をしていたんでしょうね。
──そうでしょう、無咎は武術に関することは何でもこなしてしまうんです。しかし、あのとき店主が膝をついていたのは、そういう理由だったんですね。
くじ引きで当てた紐付きの飴を互いに転がしながら、そんな会話を繰り広げた。その際にたまたま通りかかった射的の屋台で、店主が謝必安を見るなりひっと悲鳴を上げたときは二人して苦笑いをこぼしたものだ。
ここはまだ寄っていない、あっちもそうだ、とエミリーが指差す方向についていきながら、二人は永眠町を練り歩いた。
親友が寄らなかった店のほとんどはゲームの屋台だった。彼は武術に秀でているが、細かい作業は苦手であることを謝必安はよく知っている。そして謝必安にとっては得意の分野だった。
だから残しておいてくれたのだろう。手先と同じく不器用な優しさが相変わらずで、謝必安は范無咎を想って顔を綻ばせた。
カタヌキ、輪投げ、的当てと、いつもの殺伐としたものとは全く違う、様々なゲームにエミリーと二人で興じて、気付けば謝必安の持つ袋がもう一つ増えていた。
赤、白、青に黄色。色とりどりの丸い風船が、ちゃぷちゃぷと心地よさそうに水の中を泳いでいる。
「山」の字を崩したような形をした先の丸い釣り針に、こよりの糸を結んだ小道具。頼りない釣り竿を指先でつまむように持ちながら、謝必安は水風船がたゆたう水面の上で針を揺らす。長い足を折り曲げてしゃがみこみ、猫背のまま忙しなく目を動かす。それが唐突にぴたりと視点が一点に留まった次の瞬間に、釣り針を落とした。
風船の口を縛るゴムの先端、指が入れるために作られた輪の中に器用に針を入れる。そのまま流れるような動作ですくい上げ、ひやり冷たい感触を手のひらに収めた。
「こんな感じですね。できる限り水に付けずに、吊り上げるときは慎重に。糸に負担をかけないように使うのがコツです」
手の中でヨーヨーを転がしながら横を向く。釣り針を手に持ったまま謝必安のヨーヨー釣りを興味深く眺めていたエミリーは、神妙な顔をして頷く。
「理屈はわかるけれど、難しそうね……」
「簡単ですよ。患者の血管に針を打つよりもずっと」
「それを引き合いに出すのはどうなの?」
「一点を狙うという意味では似たようなものでしょう。さぁどうぞ」
納得のいかないような顔をしながらも、エミリーは謝必安に促されて隣にちょこんと座った。そうしていると余計に小さい。うなじのおくれ毛が、汗で白い首にぴたりと張り付いているところまでよく見えた。
思わず抱き上げてその首筋に触れたい衝動に駆られる。うっかり伸ばしかけた手をさり気なく戻し、謝必安は笑顔で頑張ってください、と応援した。彼女はこくりと頷きながら、真剣な面差しでぷかぷかと呑気に浮かぶ水風船と対峙した。
触れる代わりに直線と水玉模様で彩られた黒いヨーヨーを弄びながら、線の細い横顔を眺める。片手と巾着を膝の上に置いて微動だにしないで、視線だけがよく動いている。
美智子が着付けた浴衣は、今でもほとんど着崩れていない。細い手首が覗くゆったりとした振り袖も、身体に沿わせて纏った浴衣の輪郭も綺麗だ。流石美智子さんですね、と謝必安はハンター仲間である彼女を賞賛する。
ふいに彷徨っていた視線が一点に留まった。くっと深い茶の瞳に力が入る。
ゲームでよく見る眼差しだ。真剣で、力強い。異なるのは恐怖が宿っていないことか。
ともあれ、いつもは正面から見据えられるものが、今日は横から眺めていることに物足りなさを感じつつも新鮮だった。
どれに決めたのですか、と尋ねるより早く腕が水面へと伸ばされた。それからはあっという間だった。
「──取れた!」
謝必安と同じく滑らかな動きで見事に釣り上げ、彼女は珍しく弾んだ調子で喜びを露わにした。
「綺麗ね……。ふふ、案外と楽しいものね。あなたがお手本を見せてくれたおかげよ」
振り向き、その柔らかい笑みを謝必安に見せる。見慣れない表情。祭りと、きっと范無咎と巡って緊張が解けた故の。
そんな顔もするのか。胸に広がる気持ちのままに、謝必安はゆるりと目を細める。
「お見事。まだ糸ももちそうですし、もう一回やれますよ」
傘を片腕に抱え、持ちましょう、と手を差し出すと、彼女は素直にヨーヨーを手のひらに乗せてきた。
どうやら本当に楽しいらしい。お願いね、と一言告げて、再び水槽に視線を戻す。
好奇心に満ちた瞳を満足そうに見つめ、それからふと謝必安は手元に視線を落とす。
先程自分が釣った黒いヨーヨーと、今エミリーが釣り上げた青いヨーヨーが手に収まっている。黒い風船と同じく、青いものにも水玉模様と円を描くように一回りした線画いくつも描かれている。
青と金と、それから白。どこかで見た覚えのある色に一度首を傾げ、それからああ、と閃く。
「この色、この間の歌姫の衣装に似ていますね」
ぱしゃん。水の跳ねる音に視線を上げる。見れば、エミリーが糸の切れた釣り針を持ったまま固まっていた。
「エミリー?」
呼び掛けに、栗色の瞳がまたたく。我に返った彼女は、ほんのりと目元を赤らめて恨めしそうにこちらを見上げた。
「その話はやめてちょうだい」
「何故です?あんなに似合っていたのに。歌も素晴らしかったですよ。是非ともまた聴きたいものです」
「だからやめてちょうだい!もう……マルガレータたちが悪ノリするから……」
そんな柄じゃないのに、と顔を押さえながら、エミリーは今度こそはっきりと頬を染めた。
きっかけはエマだったと聞いている。眠れないから子守唄を歌ってほしい、とせがまれて歌ったことが何度かあり、あの時もそうだったのだという。
それをたまたま通りかかった誰かが聴いたらしく、いつの間にかエミリーの歌が女性陣の中で話題になった。今度は彼女達からも歌ってほしいとお願いされ、断り切れずに歌ったら、今度は踊り子が大感激しながらコンサートを開こう!といきなり言い出したのだという。
あまりに突飛な発言に唖然としているうちに、場は満場一致で賛成。本人の意思そっちのけで、あれよという間に一夜限りの蛍が真夏の荘園に誕生した。そういう経緯だったそうだ。
もうこりごりだとのちに彼女は言っていたが、とんでもない。そう思っているのは彼女だけだ。
エミリーの知らぬところで次の計画が進んでいるのを、謝必安は知っている。あの偏屈なバルク老でさえ、余計な仕事を…と文句も言いいながらも全面的に協力している。
もちろん言うつもりなどない。自分だって美しい衣に身を包み、異国の奏でる音楽に乗せて響く、魂を震わせるほどの甘い歌声をまた聴きたいのだ。
だからそれをおくびにも出さず、謝必安は話題を変えるために彼女との距離を詰めて水槽を覗き込む。
「どれを取るつもりだったんですか?」
お詫びに取ります。そう告げると、エミリーはやや不服そう眉を寄せながらも、自分の手にはもう釣り針を失ったこよりしかないことに観念してすいと指を指す。水に濡れないように捲った袖から覗く白い腕に無意識に目が行った。
「これを」
彼女の声に腕から視線を引きはがし、指の先を追う。ぷかぷかと浮かぶ風船のなかで差された一点は、白いヨーヨーだった。黒と紫の模様が施されている。
おや、とまばたきをして、口の端を上げて薄く微笑む。
「私の色ですね。くれるつもりでしたか?」
「そうよ」
冗談のつもりで言った言葉を肯定された。あまりにも素直な返しに今度はこちらが固まる羽目になった。
「あなたが釣ったものは、范無咎へのプレゼントなんでしょう?」
しかも意図まで見透かされている。真っ直ぐに見上げる瞳に耐え切れず、謝必安は目を逸らしながら気恥ずかしさに首の後ろを撫でつけた。
「バレてましたか……」
「だってあなたが景品を選ぶとき、私にくれたものも含めて、誰かのために選んでいる顔をしていたもの」
気付かないはずがないわ、と楽しげに告げられ、ぐっと口を噤む。
そんな前から。的中しすぎていて返す言葉もない。歌姫の件の意趣返しだろうか。
「……参りました」
「あら、何の事かしら?」
「話をぶり返したら、あなた怒ると思うんですけど」
「さぁ、どうかしらね」
エミリーはくすくすと笑声を立てる。可愛らしいが少しばかり憎らしい。謝必安は肩を竦めて降参のポーズを取った。
わざわざ彼女の機嫌を損ねるのは勿体ない。それにそう思う以上に軽口の叩きあいが楽しかった。
再び水槽に目を向ける。彼女の近くを漂っていた白い風船は、いつの間にか謝必安の近くまで流れてきていた。
「エミリー」
一度傘を立てかけ、小さな身体を引き寄せる。軽く抱き上げた彼女はすっきりとした甘い香りがした。
抗議の声が上がる前に自分の反対隣に彼女を降ろす。いきなり何をするの、と心臓を押さえながら目線で訴えてくる彼女に、謝必安は再び黒傘を抱えながら微笑んだ。
「そういうことでしたら、私はあなたからいただきたい」
潰してしまわぬようにそっと両手で包み込み、自分よりもずっと小さい手のひらに釣り針を握らせる。背を丸めれば目線が同じくらいになった。
目の前の女性は、こちらを見上げてきょとんと目をしばたかせる。
「どちらが釣っても変わらないと──」
「変わります」
「でも」
「変わります」
言うと思った。悲しいほどに予想通りの反応に、謝必安はため息をつきたい気持ちになりながらも言葉を重ねる。
「私のためと思うのでしたら、どうかそのように」
「ふふ……冗談よ。プレゼントの方が嬉しいものね」
思わずひくりと頬が引き攣った。ころころと笑う彼女に、今度こそため息を吐いて項垂れる。
「やはり意趣返しですね、エミリー」
「今のはそういうつもりではなかったのだけれど……結果的にそうなってしまったみたいね」
つまりさっきのはそうだったと。意外と負けん気の強い彼女に苦笑いをこぼしながら、もう一度参りました、と降参した。
エミリーはにこりと微笑み、それから渡した釣り針を持って水槽に目をやる。
「ただ、私も最近思い出したの。誰かに何かを贈ること、贈られることが、こんなに嬉しくて、楽しいことだったんだって」
思わず彼女を見つめた。水面を見つめる横顔は、穏やかそのものだ。
何気なくこぼされた彼女の歩みの一部は、さらりとした声音に反して重い。何より、その言葉が思いのほか謝必安の胸をついた。
栗色の眼差しがまた真剣味を帯び、糸を持つ手が伸びていく。輪ゴムの小さな円に針が入った瞬間、細腕がゆっくりと引き上げられた。
「はい、どうぞ」
微笑みと共に差し出されたのは、先ほどの白いヨーヨーだ。謝謝、と無意識にこぼれ出た礼は母国の言葉になってしまった。
抱える傘と、両手におさまる三つの風船と、優しく見上げるエミリーを交互に見やる。
「……そうですね。私も久しく忘れていました」
そう、自分も忘れていた。そうだ、彼女の浴衣を、親友への土産を選んでいるとき、あんなにも楽しかった。好物を買ってくれたこと、自分の色だと風船を取ってくれたことが、こんなにも嬉しい。
ゆるむ表情に任せて笑う。こんな風に笑うことができるようになったのも、つい最近のことだ。
凍り固まった心臓が、まるでその繊手の熱に触れて、動き出したかのような。
(無咎は?無咎も僕のように、同じ気持ちでいるのかな?)
傘越しの視界は低くてほとんど足元しか見えない。声も聞こえない。あるのは視覚のひとつのみ。だから実際どうなのか、謝必安は手のひらに収まる程度の情報をかき集めて推測することしかできない。
自分のようにあたたかな想いを抱いているのだろうか。心から笑えているのだろうか。
そうであればいい。少なくとも彼女の前では自然体でいるように思う。
そうして、今日のような特別な日でなくとも、昔みたいに無邪気に笑ってくれていたら。
そうであるならば、謝必安にとってもそれは大きな幸いだった。
「こんばんは、お二人とも」
ふいに掛けられた声に、謝必安はさっと表情を戻した。後ろを振り返ると、黒い頭巾を被った目隠しの男がそこにいた。
「あら、こんばんは、イライくん」
「こんばんは、先生。白無常も、最初にここに来て以来ですね」
「ええ。一緒にいた方々はどうしたんですか?」
問いかけると、占い師は今も一緒です、とにこやかに答えた。
「少し先の店で、飴細工を作ってもらっているんです。もう見ましたか?」
「ああ、あのお店ね。あんなに繊細で綺麗な飴細工、初めて見たわ。私もつい買ってしまったの」
ぽんと手を叩き、エミリーは巾着から飴を取り出した。棒の先端には、ヒレや鱗まで忠実に再現された美しい赤い金魚が泳いでいる。
「あなたが選んだのは、吹き飴というものだったかしら?」
「そうですね。あの職人はいい腕をお持ちです」
微笑をたたえながら見上げてくる彼女に頷く。吹き飴とは、その名の通り柔らかい状態の飴の中に空気を入れて膨らませ、様々な形に細工した飴のことだ。袋の中には、金色の鳥を模した飴が二つ入っている。
年越しの祭祀では必ずこれが店に並び、毎年買っては范無咎と食べていた。あまりにも懐かしくて、こればかりは自分の分も買ってしまったのだ。
ところで、と謝必安は笑みを浮かべ、傍にある細い肩に触れながら占い師を見る。
「次はここを回る予定ですか?でしたら私たちはお暇しますよ」
暗に伝えた言葉は、正しく彼に届いたようだ。わかっていますとでもいうように、彼は大丈夫です、と両手を振った。
「ここには最初に寄りましたから。ただ、ひとつお伝えしておきたいことがありまして」
訝しげに占い師を見る。対して、エミリーは何の警戒心もなく何かしら、と首を傾げた。
謝必安が複雑な面持ちになっていることをよそに、占い師は人差し指を立てて空を示した。
「もうすぐ、また花火が打ち上がります。今度のものは今までで一番盛大に打ち上げられるそうですよ。だから──」
「そうですか、ありがとうございます」
その次に来る台詞を察して遮る。大方、皆で見ないか、という誘いだろう。人に、更に言えば患者に対して平等に優しさを注ぐ彼女のことだ。このサバイバーの誘いに乗るだろうことはわかりきっていた。
「では行きましょう、エミリー」
「え?ち、ちょっと待っ──」
ぐつと肩を引き寄せて傘を構える。できれば遠く。ひと気のないところへ。
制止の声を無視して、ぽかんと口を開ける占い師を一瞥してから、彼女と共に広げた傘の中に逃げるように沈んだ。
「見晴らしのいいところで鑑賞したらどうですか……って、言うつもりだったんだけどな……」
ぽつんとひとり取り残されたイライが、頬を掻いて苦笑交じりにこぼした言葉は、謝必安には届かなかった。
◆ ◆ ◆
問答無用で傘に飲み込まれ、真っ暗な視界で浮遊感に耐えていると、ふいに身体の重みが戻ってきた。
水の中を彷徨っているかのような奇妙な心地が落ち着いた頃、息をついて顔を上げる。薄暗い。外からぼんやりと光が差し込んでいる。どうやらどこかの家屋の中にいるようだった。
「いきなりすみません」
頭上からかかる声に、エミリーは首を逸らす。困ったように眉を下げた継ぎはぎの顔と目が合った。
まったくだ、とエミリーは半眼で彼を睨んだ。
「本当に、いきなりはやめて。心臓に悪いのよ」
まだ鼓動が速足で駈けている。彼らにとっては普通でも、こっちはようやくフィオナのワープに慣れたところなのだ。せめて事前に声を掛けてほしい。
注意すると、彼は困り顔のまま次は気を付けます、と殊勝に頷いた。できればそう何度も体験したくはないのだが。
聞く耳を持たないことはよく知っている。というより、自分が納得しないこと関しては何が何でも首を縦に振らずに、のらりくらりとかわすのだ。頑固というかなんというか、そこは謝必安も范無咎も互いに似ている。
「どうしたの?イライくん、まだ話の途中だったのに」
「そうでしたか?耳よりな情報を教えていただいたので、つい気が急いでしまいました」
白いストールを直しながらにっこりと笑う姿に、本当だろうか、と疑念が湧く。けれど嘘をつく理由が思い当たらない。
一体どうしたのだろうか。と、考える間もなく、鼓膜どころか心臓まで叩かれたような大きな音が明かりと共に響いた。どうやらイライの言っていた本日最大の打ち上げ花火が始まったらしい。
「本当にすぐだったんですね。間に合ってよかった」
そう呟き、謝必安は歩き出す。
「エミリー、こちらへ」
黒傘を大事そうに抱えながら振り向く彼についていく。しかし足を前に踏み出した途端、思ったよりも柔らかい床に足を取られた。
転んでしまう、と反射的に目を瞑って身体を固め、けれど床にぶつかる前に長い腕に受け止められた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……ありがとう」
「この床、少々歩きづらいですよね。絨毯とも違いますし……」
「美智子さんの国では、屋内では靴を脱ぐのが普通らしいものね」
「ええ。私の故郷でも内履きに履き替える習慣がありました。失礼」
「わっ」
そのまま腕が下に回されひょいと抱えられる。宙に浮くと、紐だけで固定されている下駄が脱げそうになった。
エミリーの足からそれを脱がし、自身のも揃えて謝必安は植物を編み込んで作られた床に置く。黒傘をエミリーを支える手に持ち替え、空いた手を背に回してから、彼は立ち上がってベランダのある窓辺へと移動した。
「ねぇ、降ろして」
「この方が花火がよく見れますよ、ほら」
視界が開けた瞬間、范無咎と長椅子に座っているときに聞いた、頼りないピッコロのような笛の音が次々と空に響いた。反射的に顔を上げれば、間を置かずにどんっと低い音を轟かせて空に大輪の花が咲き乱れた。
赤い花。白い花。滝のようにしだれる花。
緑から青へ、桃から深紅へ。消えたかと思えば星がきらめくようにとまたたく光が現れ、別の花では流星が意思を持ったかのようにひゅるりと踊る。
無意識に肩に添えていた手に力が入った。形を変え色を変え、圧倒的な美しさを見せつけてくる炎の花に、エミリーは言葉を失ってただただ見惚れた。
初めから終わりまで目が離せない。まばたきをすることすら惜しいと、そう思うほどに。
「やはり池の近くで打ち上げていたんですね」
すぐ傍で呟かれた独り言を耳が拾う。だから急いでいたのだろうか、と片隅で思う。ここが池側に面した家なのだとしたら、メインの会場から少し離れているはずだ。
先ほどよりもずっと大きい音が全身に響き渡る。なのに不思議とうるさいとは思わない。身体に伝わる振動さえも、花火の美しさを際立たせる要素に変わっていた。
「綺麗ですね」
「ええ、とても……」
ほう、とため息をこぼす。耳元で苦笑いする気配がしたが、それが気にならないほどに夢中になっていた。
夜空をキャンパスに描かれた、刹那の絵画だ。一瞬たりとも同じ一枚にはならない名画。
一体誰がこんな文化を生み出したのだろう。息を止めるほどに美しい、けれど散り際の花のように儚い。
今この場にいる者がしっかりと記憶に刻みつけなければ、二度と目にできない。
(二度と……)
ふいに頭に思い浮かぶ。まるで、人と人との出会いのようだと。
誰一人として同じ存在などいない、そのなかで人と人は出会い、奇跡のような確率を感じることなく何かの拍子に別れていく。
もちろん再会することもある。例えば、自分とエマのように。
けど、と存在を確かめるように、肩に触れる指先に力をこめる。地響く火薬の音は鳴り止まない。瞬刻の花は咲いては散るを繰り返す。
止めどなく打ち上がる花火を背にして、エミリーは自分を抱える謝必安に視線を向けた。色とりどりの光が、こちらを見上げる穏やかな顔をきれいに照らす。
「どうしました?」
人並み外れた整った顔立ちが柔らかく微笑む。実際このひとは、人ならざる者だ。
だからきっと、このひととは荘園限りの関係。
自分はゲームに勝って荘園を出る。荘園の外で人生を賭けて為したいことがある。ここに留まることなどできない。
彼はハンターで、この世の人ではなくて。きっと外の世界であれば出会うこともなかったひと。荘園から出れば、二度と会えないだろうひと。
「……エミリー?」
戸惑う声の振動が頬に伝わってくる。気付けばエミリーは、謝必安の首に腕を伸ばしていた。
馬鹿ね、と自嘲の笑みがこぼれる。
(それを、今さら惜しいと思うだなんて)
締め付けられる心臓が苦しい。回した腕に力が入る。
折角楽しかったのに。いいや、楽しかったからこそか。離れ難くなっている。
ウィラの香水とはまた違った香りが、慰めるように鼻先をくすぐってきた。それに促されるように、エミリーは首筋にすり寄る。
「大丈夫ですか?」
心配する声はただただ優しい。無言のまま小さく頷けば、謝必安はそれ以上追求せず、そっと背を撫でてくれた。
ぱらぱらぱら……と花火が散る音が、再び打ち上がる大きな音が、今は遠い。
少しだけ。泣きそうな顔が元に戻るまでの間だけ。
そう思いながら、白と黒に分かれた首筋に、祈るようにキスを落とした。
「……エミリー」
そうしてひとつ、ふたつ、みっつ。感情の波を鎮めるようにゆっくりと呼吸を繰り返して落ち着いた頃、ふいに謝必安がところで、口を開いた。
「ここがどんな場所か知っていますか?」
脈絡もない問いかけに、エミリーは顔をうずめたまま首を傾げる。
「……ただのお屋敷ではないの?」
「”烟花巷”」
「ユン……?」
「美智子さんの故郷では遊郭、というらしいですが」
顔を上げようとして、そのタイミングで彼が動き出した。花火はまだ続いている。ちかちかとまたたく彼を訝しげに見れば、くすりと微笑まれた。
「そうですね、あなたたちの言葉で表現するなら、愛し合うための場所、と言えば伝わりますか?」
とさりと、気付けば柔らかいシーツの上に降ろされていた。腕は背と腰に回されたまま。思わず胸の前に置いた手で彼の襟を掴む。
目の前の顔が、いやに嬉しそうに綻ぶ。紫の双眸に宿る熱はよく知るもの。その表情に、先程までの感傷が全て吹き飛んでしまった。
うそでしょ、と信じられない面持ちでエミリーは謝必安の胸を押す。びくともしない。
「待って、何もこんなところで……」
「こんなも何も、そういうところですよ。大丈夫です、着付けはきちんとさせていただきますから」
何も大丈夫じゃない。口にしようとした反論は、かぷりとその言葉ごと呑み込まれてしまった。