この世界にさよならを


「ほら、見てごらんイソップ」
彼女もようやく自分の死を受け入れてくれたんだ。ジェイは棺に横たわる女性を示して、僕に言った。
僕は棺の傍まで歩いていく。静かに歩いても足音が響いてしまうリノリウムの床を、できるだけ静かに、ようやく眠りについたその人を起こさないように。
ここは、さまよえる魂を導くための花園。ジェイの仕事場。ジェイは僕の父であり、尊敬する師でもある。
ジェイに目を向けると、促すように優しく頷いてくれた。そうっと棺の中を覗き見る。見て、呼吸を止めた。
ひとりの女性が、バラの絨毯に埋もれて眠っている。その姿が、息を呑むほどに美しい。
「美しいだろう?」
ジェイの言葉に我に返って、目を泳がせながら頷く。心を見透かされたようで恥ずかしかった。
「とても……安らかな顔を、していますね……」
「そうだろう」
俯いたまま言葉を探して、やっとそれだけ言うとジェイは破顔しながら深く頷いた。まるで自分が褒められたように。その顔を見て、僕もマスクの下にある唇を少しだけ吊り上げた。
もう一度棺に目を向ける。見たこともない不思議な服に身を包んだ彼女は、顔つきも僕たちとは違っていた。
黒い髪、低い鼻先、細く、けれど丸い輪郭。艶やかな黒髪から覗く首筋は、白くたおやかだ。
外国の人なのだろう。どういった経緯でここに来たのかは知らない。けど、ジェイによって化粧を施されたその顔は、何度見ても美しくて、穏やかだ。
死への恐怖や、生にまつわるしがらみから解放された顔。ジェイに導かれた死者は、いつもこんな顔をして最期を迎える。
「この仕事は、多くの視えない人間には理解されにくい」
静かで聞き取りやすい、低い声音が耳に届く。
「だが、こうして安らかに眠る魂を見ていると、私のやっていることは大いに意味のあることなのだと実感するよ」
ジェイは満足そうに目を細める。僕はまた彼女を見て、それから頷いた。
自分が死んだことに気付かず、死んだことを認められずにいる魂が、この世にはたくさんある。そんな彼らを見つけ出し、向き合い、説得し、『死』という恐怖を克服してもらうことがジェイの仕事だった。
彼らが少しでも安らかに、晴れやかな一歩を踏み出し、さよならができるように。
「……僕も」
組んだ両手をぐっと握りしめながら、小声で呟く。言うのに、少しだけ勇気がいった。
「僕もジェイのように、死者の手助けができるでしょうか?」
あなたのように、死者に勇気と安らぎを与えてあげられるような存在に。
そっとジェイの顔を窺うと、彼はもちろんだよ、と目尻の皺を深くして、優しく頭を撫でてくれた。


◆  ◆  ◆


ざぶん。

水飛沫の音がする。
深い眠りについていた美智子は、耳元で響いた水音で目を覚ました。
瞼を震わせ、ゆっくりと目を開く。が、瞳には何も映らない。寝惚けているのだろうか。何度かまばたきをするが、やはり目の前は暗闇ばかりが広がっていた。
それに少し息苦しい。妙な圧迫感もある。ここはどこだろう、と霞みがかった頭で思う。
ふと、鼻先に花の香りが掠めた。甘く濃厚な芳香。それに混じって、もうひとつ。
(潮の香り……)
ちゃぷちゃぷと揺れる水の音色が心地良い。耳触りのいい音に、再び眠気を誘われる。
──……水?
何故。疑問に思った直後、背に明らかな冷たさを感じて、どろどろに溶けていた意識が一気に覚醒した。
「いたっ……!」
慌てて飛び起きようとして手のひらに何かが刺さった。
棘だ。植物の──この香りは、薔薇の。
慌てて腕を上げるが、すぐに壁にぶつかった。混乱しながら手のひらで触れる。やはり木製の壁があった。ここで息苦しさと圧迫感の正体にようやく気付く。
「何、これ……」
狭い箱だ。その箱の中に閉じ込められている。ここは。
何かが落ちた音。ちゃぷちゃぷと絶えず耳に届く水音。潮の香り。水の、感触。
暗闇の中、自分が置かれている状況を把握し、美智子はぞっと戦慄した。
「──っ、助けて!誰かっ!」
恐怖に突き動かされて壁を叩く。けれどびくともしない。気付けば水は耳元まできており、慌てて頭を上げた。
どこかに隙間があるのか、水はどんどん箱の中に流れ込んでくる。棘で破れた皮膚に塩水が入り込んで傷口にしみた。
このまま箱に満ちてしまえば。水の冷たさと共に暗い未来が全身を浸していく。
半狂乱になりながら壁に爪を立てた。壁は動かない。がりがりと爪が、指先が削れていく。むせかえるようなバラの芳香に、鉄の臭いが混じる。
「誰か、いや……マールス、マールスっ!」
脳裏に愛しい人が浮かぶ。何でこんなことに。お願い。助けて。どうして。こんな。
水が顔まで上がってくる。息を止めないと。けれど止めたところで出られなければ。迫りくる死の恐怖に、震えながら涙を流した。
口の中に塩辛い水が入り込む。咳き込み、マールス、と夫の名前を泣きながら叫んだ。だが、何度呼んでも彼からの返事はこない。
絶望に打ちひしがれ、震えながら目を閉じたその時、ふと圧迫感が消えた。同時に浮遊感が全身を包む。
壁が開いたのだ。目が沁みるのもかまわず、美智子は瞼を開いた。そこにはゆらりと揺らめく光があった。
美智子の胸に微かな希望が宿る。きっとあそこは水上だ。あそこまで行けば助けを呼べる。溺れずに済む。
縋る思いで手を伸ばす。着物の下で足を必死に動かしながら、一筋の光を目指して上へと向かった。
「──っ?」
もう少しで光に手が届くと、思った直後だった。
ごう、と唸るような音が耳元で聞こえたかと思うと、身体に何かが巻き付いた。
絡みついた何かに全身を強く締め付けられ、肺から呼気を無理やり出される。そのまま勢いよく下へと引きずり込まれた。
そんな。遠のく光を見上げた瞳が再び絶望に染まる。滲んで揺らぐ視界に、ひらりと黄色い花弁が映った。
花が舞う。黄色い薔薇がまとわりつき、水上へと逃げていく。
唇から洩れた気泡もゆらゆらと上がっていく。水底へと引きずり込まれる美智子を置いて。
ふと、誰かの視線を感じた。沢山の眼差しが自分を見ている。こんな、水の中で。水の中、に、

赤い、無数の、 眼、  が     ────

湖に、黄色い花弁が浮かび上がる。美しいバラの花が、ゆらりゆらりと円状に広がっていく。
その中心に、ふと赤い色が滲んだ。まるで閉じていた眼が開くように、ぽつり、ぽつりと。
刹那、湖面が大きく盛り上がる。
民から供物を受け取り、水神が湖底から姿を現した証だった。



水神さまのご降臨だ!村人たち色めき立った。岸辺に集っていた彼らは、水面が盛り上がる湖に向けてあらん限りの声で己の願いを叫び出す。
予想以上の声量に、イソップは思わず耳を塞いだ。騒がしいのはどうも苦手だった。
「待たせたね。さぁ行こうか、イソップ」
「はい、ジェイ……」
依頼人だという人と話をしていたジェイが戻ってくる。儀式を見学していたイソップは、彼の言葉に踵を返した。
不思議な儀式だった。漁が始まる頃に行われている、湖景村特有の儀式。供物を湖に投げ入れ、それを湖に住む神が受け入れれば、願い事が叶うのだという。
湖景村のことも儀式の事も、イソップはあまり興味がなかった。ジェイに知見を広げるためにどうかと言われて、一緒についてきただけだった。
ジェイの後をついていくイソップはふいに立ち止まり、村を振り返る。
イソップの目に村人は映らない。湖上の船も、船の縁にいる黄色いローブを着た人も、水神が現れたのだという盛り上がった水も。
熱狂的な雰囲気に包まれる村の景色に、ただぱらぱらと揺れている黄色だけが鮮明に焼き付いた。
あのひと、と無意識に言葉がもれる。
脳裏によぎる白いかんばせ、紅の唇。数多の薔薇に埋もれて穏やかに眠る、その表情。
「綺麗、だったな……」
ほう、と恍惚な表情を浮かべて、ため息をついた。
きっとあの人も母のように死神に抱かれて、天国へと旅立ったのだろう。その手助けをしたジェイが誇らしく、自分もそうありたいと強く思った。

それ以来、イソップにとって、黄色いバラは特別な花になった。


きっとあの人は死神に抱かれ、天国へと旅立ったのだろう。その手助けをしたジェイが誇らしく、自分もそうありたいと強く思った。
以来、イソップにとって黄色いバラは特別な花になった。


この世界にさよならを
だから、もっと勇気を出して

あとがき
手紙の内容に衝撃を受けてたら思考があらぬ方向をいってしまいました。ここ数か月で怒涛の勢いで湖景村関連の情報が出されてきますね…湖景村は深淵。


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