かくて天運を手繰り寄せる
暦の上では春が訪れたとはいえ、まだ至るところに雪が残る、底冷えのする夜だった。
未だざわめきが絶えない外の音を何となしに聞き流しながら、李斎は臥牀(しんだい)に横たわる人物をじっと眺めていた。
旅装束一式を持って牀榻を訪ねたときには、既に驍宗は就寝していた。静かに眠る主にそっと気配を殺して忍び寄り、傍らにそれらを置いたのがつい先ほどだ。
(……本当に)
驍宗がここにいる。ずっと探し求めていた我らの王が、壮絶な七年を乗り越えて今、ここに。
骨が浮かぶほどにこけた頬、鋭い顎の線、色の抜けた青白い肌。伸びるまま放置された白い髪は、寝台の上でざんばらに散っている。
暗闇に慣れてきた目に映る姿は、過去の姿とは変わり果てている。当たり前だ。闇ばかりの山の底で主が口にしていたのは地下水と、稀に流れついた僅かな食糧のみだったそうなのだから。
それでもここにいる。生きて、李斎の目の前に。
胸からこみ上げる熱いものをぐっと耐え、李斎は細く細く息を吐く。極まった感情を飲みこめば、代わりに痺れるような幸福感が全身に満ちてきた。
皮甲(よろい)を外した胸元に手を添え、握りこむ。懐には、かつて氾王から譲り受けた帯の切れ端が入っている。
慶国からここまで、肌身離さず持ち歩いていた。あの時の李斎にとって、行方知れずとなった驍宗に繋がる一縷の希望だった。
その希望が、今、多くの巡り合わせと民の真心によって叶えられた。
「……ずっと、信じておりました」
あなたが生きておられると。諦めるはずがないと。必ずお戻りになると。
驍宗が王としての責務をどれほど重く受け止めていたか、どれほど泰麒を大切に、そして麒麟という存在を通して民を思っていたか。どれほど戴を良き国にするために駆け抜けていたかを、李斎は知っている。
王師に召されてから、一年にも満たない自分だ。長年仕えていた霜元らのように、驍宗のことを十全に理解しているとは思っていない。それでも知っている。
生きておられるのなら、主上は必ず起つ。阿選を──この間違った国の在り方を正すために。
知っていたから、李斎は、そして今は白圭宮にいるという泰麒は、先の見えない闇の中を進み続けたのだ。英章や霜元、彼らに連なる項梁らも、だからこそ身を潜めて機を窺っていた。
あとは延王に助力を請い、泰麒を救い出し、阿選から玉座を奪い返せば。
そうすれば、長く厳しい冬にいた戴に、ようやく春が訪れる。
そう、ようやくだ。李斎は胸の内で噛みしめる。阿選の魔の手から、祖国はようやく解放される。
ふと、闇の中でちかりと光るものがあった。咄嗟に鋭く視線を滑らせるが、その光が驍宗の傍らにあるものだと気付いてほっと息をついた。
「寒玉か……」
かつて驍宗が驕王から賜り、李斎らと主を再び巡り合わせた剣。その刀身が傷んだ鞘から僅かに抜け、戸から微かにもれる灯りを反射してきらめいていた。
李斎は静かに手を伸ばし、音を立てぬようにして青白い刃を鞘に納める。人肌から離れた柄は、冷気に晒されて凍るほど冷たかった。
その鞘に括られた紐に触れ、指先で辿る。そのうちにこつ、とこもったような音が手元で鳴り、指の腹に小さな木片と丸い鈴の感触が伝わってきた。
小さな鈴は、寒玉を見つけたときには既に付いていたものだ。以前拝見させていただいたときには付いていなかった、まじないのように括り付けられた小鈴。
もう一方の札は先ほど李斎が結びつけた旌券だった。景王の裏書きに、泰麒の御名が記された札。何も言わずに慶から出ていった無礼を咎めることなく、景王は李斎と泰麒の意を汲み取った上でこれを用意してくれた。触れればその誠実さと優しさが、今も思い出される。
李斎はその二つを手のひらに乗せ、再び驍宗を見つめる。
李斎がこれほど近くにいても目覚める気配はない。やつれきった王は規則正しい呼吸を続けている。まるで先の戦のため、玉座と、そして半身たる泰麒を取り戻すために、ひたすら英気を養うように。
その姿をぼんやりと眺めていた時だった。唐突に胸の内を満たしていた希望のなかに、一粒の氷塊が落ちた。
雁国に行けば、助力を請えれば──しかし、雁に辿り着く前に驍宗を失うことがあれば。
主上を守り切れなかったら。どこかで分断されることがあれば。その御身を奪われてしまったら。
もしも阿選に、李斎らの行動を掴まれてしまったら──、
瞬く間に幸福を冷やしていく不安は、泰麒捜索のために各国の麒麟が手を貸してくれると景王から告げられた後の、その日の晩に抱いたものと酷似していた。
懐にしまい込んだ帯の切れ端さえ冷えていく気がして、李斎は左手を強く握りしめる。
もう、失いたくない。奪われたくない。気付いた時には幸福と希望の全てが瓦解し、狂いそうなほどの恐怖と絶望を味わうのはもう御免だった。
──あの頃から何も変わっていないじゃないか。己の脆弱さを笑いたくて、けれどそれすらもできない。忍び寄る喪失の恐れが、冷えた床に座る足を捕らえて離さなかった。
部屋の外から喜びを分かち合う声が聞こえる。声音は忍んでいるが、驍宗が見つかるまでのものよりも明確に張りのある、気力に満ちた声だ。
そんな見知った彼らの顔が再び絶望に染まる様を想像して、余計に恐ろしくなった。
大丈夫だ。雁国への道程は霜元らと再三議論した。護衛も精鋭ばかりだ。阿選もまだ気付いていない。だから去思と?都も連れていけるのではないか。
だから大丈夫だ。そう、思っているのに。
「もう、二度と……」
無意識に言葉がこぼれたことに気付き、慌てて飲み込む。幸いにも驍宗が目を覚ますことはなかった。静かに寝入っている姿に胸を撫で下ろし、その面差しを切なく見つめた。
もう二度と、主上から──驍宗から、離れたく、ない。
膨れ上がっていく不安を振り払うように、李斎は鈴と札を握りしめていた左手を額に当てて目を瞑った。奇しくもそれは、里木に鴻慈を捧げ、天に祈り続ける民の姿と酷似していた。
震えるほどに固く札を握りしめ、李斎は願う。瞼の裏に浮かぶのは、陽光で染め上げたような金の鬣と、目を見張るほど鮮やかな紅い髪。
(延台輔……景王……)
なりふり構わず縋った相手。罪深い己を真摯に、温かく受け止めてくれた恩人。我がことのように、必死で泰麒を探し出してくれた。
罪を自覚した己にはもう縋れない。縋ることなどできない。だからこれは、ただの願いだ。
ともすれば怖気づいてしまいそうな弱き心を奮い立たせるために、李斎はどうか、と願う。
どうか、どうか。お二人を守り通せる力を、臆せず突き進む心を。
主上を。泰麒を。この国を、どうか──。
ふと、驍宗は微睡みのなかから僅かに浮上した。覚醒とは程遠い意識で薄く目を開けると、暗がりの中、息を殺して微動だにしない人影が見えた。
李斎か、と口の中でひとりごち、あまりにも一心に祈る姿に思わず手を伸ばそうと指先を動かした。しかし、腕を持ち上げる前に思い留まる。
起きて、何かしらの言葉をかけても無意味だろう。李斎の不安の根源は、他ならぬ驍宗自身だ。
そばにある気配に安らぎを感じながら、今の己では相手に同じものを返せないことを惜しく思う。
(つくづく、至らぬな……)
欲しいものは全て己の力で手にしてきたつもりだった。その自負も誇りもあった。王に選ばれてからも己が手で国を治めていけると、確信に近い自信を抱いていた。
だのに、どうだ。自分は眼前にいる者が抱える、憂いすら晴らすことができぬではないか。
耐え忍びつづけた年月のなかで、痛いほどにそれを自覚した。
故に、驍宗は黙祷する。
──天よ。
この祈りが届くのならば、この国のために己を生かしたのなら。今一度、どうか叶えてほしいと。
どうか、民を。どうか、ここに集った者達を。
どうか、蒿里を。
──どうか、この者を。
私が王であるために、私が私であるために不可欠な者達を、この身ひとつでは到底全てを救いきれない、不甲斐ない己の代わりに、どうか護っていただきたい。
そうして、戦乱の最中(さなか)。
彼女の切なる願いは、王の静かな祈りは、かくて天に届く。
手繰り寄せられた天運は、暗澹たる雲が立ち込めた厚い天蓋に、大きな風穴を開けたのだった。
◆ ◆ ◆
「泰王。お前、絶対に李斎を手放すなよ」
急ごしらえの医務室に向かっていく泰麒とそれを送っていく李斎らを見送っていた延麒が、ふいに驍宗にそう告げた。
「延台輔?」
「李斎は本当によくやったんだ。やりすぎだっていうくらいな。ちびのために、戴のために……お前のために」
雁国の使者として、延麒は江州城で延王と共に待ち構えていた。驍宗が雁に助力を求め、延王がそれに応えた直後のことだった。
「話を聞いたときは正直、絶望的な状況だと思った。助けてやりたいとはもちろん思ったさ。けど、助けられない可能性のが高いと思った」
子どもほどの背丈の延国の麒麟は、驍宗を見上げる。
「それでも李斎は、泰麒も泰王も生きてるとずっと信じてたんだ。お前たちを救い出せば戴は救われるって信じて、ここまで来たんだ」
紫苑の双眸が真っ直ぐにこちらを射抜く。そこには五百年も国を治めた威厳と、麒麟らしい澄んだ想いに満ちていた。
「だから、その想いに応える王と台輔になれ。そんでもって李斎を、それから民を安心させてやれ。そのためなら、雁は援助を惜しまない」
そう力強く言い切った延麒に、驍宗は淡く笑みを浮かべ、礼を取る。自然と深く頭が下がった。
他国の麒麟が、これほどまでに戴を慮ってくれることが心底ありがたかった。そしてその繋がりを太くしたのが李斎だということも、驍宗は充分に理解していた。
「ありがとう存じます。元よりそのつもりです」
「俺抜きに何を勝手に決めとるんだお前は」
そんな会話をしていたところへ、一歩下がって様子を見ていた延王が延麒の頭を片手で押さえつけた。やめろよ、と延麒は子どもの様な表情で嫌そうにその手を振り払う。
先程までの威厳はどこへやら。まるで兄弟のように、親子のようにじゃれあう二人を見て、驍宗は僅かに目を細めた。
「まったく、これだから仁の獣は。自国どころか他国の民にまで憐れみを向けて、困ったものだ」
「ですが、その通りでありましょう。私は、私を王と信じてくれた民に、そして私の帰りを耐え忍び待っていてくれた李斎らに報いなければならない」
「相変わらず堅苦しいな。心を尽くしてくれた民に、義務感で恩を返すのか?」
驍宗の物言いに呆れ返った声が飛んだ。やれやれと言わんばかりに大仰に肩を竦める延王に、驍宗は苦笑する。
「いや、仰るとおり。王としての責務ではなく、心からの礼として恩を返していきたい。今はそう思っております」
民が驍宗を生かそうとしてくれたのは、義務感でもなんでもない。民が驍宗を生かす責務もない。
何も為すことのできなかったこの七年、それでも民は驍宗を見捨てずにいてくれた。そんな彼らに返す礼が、形式ばかりのものでいいはずがない。
そう訂正すると、延麒は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「そうだな。うん、そういう風に返していく方がずっといい」
延麒の傍らで満足そうに頷いていた延王は、ふいに思い出したようにそうだ、と呟いて驍宗に顔を向ける。
「李斎に言伝を頼む。もし泰王に愛想が尽きたら、雁へ来いと。李斎のような有能で美人な臣ならいつでも大歓迎だからな」
「おい、この色ボケ!」
にやりと不敵に笑んでそう言ってのけた延王の腕を延麒が叩く。思わぬ言葉にまばたきを繰り返していた驍宗は、やがて延王に挑むような眼差しを向けて全く同じ笑みを浮かべた。
「我が臣下を大層評価してくださり、至極恐悦です。私が斃れた際にはそうさせていただきましょう。ですが、そうならぬよう国を治めるのが王の務め──それ以前に、」
一度言葉を区切り、宣言するように驍宗は告げる。
「私が生きている限り、李斎を手放すつもりは毛頭ありません故」
肌がひりつくような覇気を感じて、延王はほう、興味深げに目を見開いた。隣の延麒も、驚いたようにぽかんと間抜けな面をさらしている。
久方ぶりに驍宗を見た時、随分と穏やかになった印象があった。玉座から追い落とされた後の苦難がそうさせたのだろう。どこか悟りきった雰囲気があった。
その代わりに、以前のような苛烈なほどの覇気はなくなったと思っていたのだが。
「なるほど、単に爪を隠しただけか」
小さく独りごちた言葉は、驍宗には聞こえなかったようだ。何か?と強い視線のまま尋ねてくる驍宗に、延王はいや、笑みを噛み殺す。
「これはまた剣を交えるときが楽しみだと、そう思っただけだ」
その時は傍らに泰麒と、そして李斎もいるのだろう。まるで三人でいるのが当然のように。欠けるほうが不自然だと思わせるほどに。
李斎の服装が皮甲から華美なものに変わるのは、いつの頃になるだろうか。その変化を眺めるのも一興だ、と延王は愉しげに口の中で呟いた。