春訪


くん、と空を見上げて息を吸い込めば、花の香りが風に乗って飛んできた。
春だなぁ。やわらかな陽射しを浴びながら、泰麒は真白な壁に囲まれた白圭宮をゆっくりと歩く。
雲一つない雲海の空は、陽光と同じ淡さで広がっている。水彩画のような青を眺めていると、ひゅうっと風が首筋から入り込んできた。思わず肩を竦めると、肩まで伸びてきた鬣(たてがみ)がさらりと音を立てた。
厚着をしていないとまだまだ寒い。が、寒さで顔が痛くなるほどの厳しい冬はもう過ぎ去っていた。
「下界も、もう暖かくなってきたのでしょうか……」
「先日降りたときには、もう凍えるほどではなくなっていました。村人たちも少しずつ里から廬に移動して、畑を耕し始めておりましたね」
独り言をこぼすと、一歩後ろから淡々とした声音が返ってきた。
首を回して背後をついて回る少女を見やる。自身の大僕である彼女にそうですか、と相槌を打ち、前方に視線を向ける。
「私も見に行きたかったですね……」
「そうやって以前にお忍びで行って、大事になったでしょう。しばらくは無理です」
「ええ、だから今度は騒ぎにならないように、どうしようか考えています」
言うと、呆れ返ったようなため息が届いた。
「台輔、懲りてないな」
「耶利こそ。しばらくということは、また一緒に来てくれるんでしょう?」
ちらりと目線だけを向けてそう言う。半眼でこちらを見ていた耶利は、それを聞いてにっこりと微笑んだ。
「台輔をお守りするのが私の役目ですから」
「それに白圭宮の中にいてばかりでは息が詰まりますしね」
「それもある」
表情を戻して平然と頷いた彼女に、泰麒はくすりと笑った。
自分に正直、というのだろうか。耶利はどんな場所だろうと相手が誰であろうと、常に自然体でいる。泰麒に対してまであけすけな態度な彼女に周りの官たちはいつも青い顔をするが、泰麒個人としてはそれが寧ろ好ましかった。
笑い交じりの息を吐き、再び前を向く。その先には禁門へと続く扉が佇んでいた。
「雲海の上にいてばかりでは、民の暮らしはわかりません。彼らがどんな生活をしているのか、実際にこの目で見て確かめる必要が私にはあります」
呪がかけられた階段を下り、凌雲山の中腹にあたる禁門を出る。更にそこから下っていくつもの門を通り抜ければ、麓(ふもと)に街がある。瑞州州候である泰麒の管轄にある、戴国の首都・鴻基(こうき)だ。
視察として赴くのであれば比較的容易に叶うだろう。準備や打ち合わせなどで手間と時間はかかるだろうが、行けないことはない。だが、それでは意味がないのだ。
あくまで自然体の、普段通りの市井を見たい。民がどのように暮らしているのか、以前とどこが変わったのか。何が足りないのか、何を求めているのか。
どうすれば、民が安心して日々を送ることができるのか。未だ文書の読み書きが完全ではない泰麒には、見聞を広げるという意味でも民の日常をもっと知るべきだと考えていた。蓬莱とこちらでは、人々の生活水準が全く異なることを知ってからは尚更に。
そう告げれば、耶利は首肯しながら口を開いた。
「それについては同意です。が、台輔にはお立場がある。それに前科持ちなうえに身体も弱い。また一緒になって李斎や正頼らに叱責をくらうのはご免です」
容赦なく問題点を指摘してくる耶利に、泰麒は苦笑するしかない。だが、その通りなのだ。以前にも増して過保護な扱いを受けているのは、泰麒本人に原因がある。
無茶をした。命を擲ってでも成し遂げたいことがあったから。
肝が冷えた、心臓が凍ったと近しい者達が口々に言ってくるほどのことを、何度も。だから皆が過度に心配するのも仕方ないのだろう。いつもであれば台輔はわんぱくぐらいで丁度いい、と朗らかに笑っている正頼でさえ、じいやの寿命を縮めるようなことはやめてくだされ、と懇願される程だった。
けれど、と泰麒は思う。それにしたって過保護がすぎるのではないだろうか。現に景王である陽子や延王と雁台輔は、官吏に無断でたびたび市井に出ているそうだというのに。
ちなみにお忍び発覚後のお説教中にそれをこぼしたら、あの方々が異例中の異例なのだから真似してはいけませんと口を揃えて返されてしまった。一国の王と麒麟に対してその表現はどうなのだろう。
「やはり誰にも言わずに出ていくのは無理がありましたか……」
でも汕子と傲濫も戻ったのだから、ちょっとばかり下界に出ても大丈夫じゃないかと思うのだが。ため息と共にそう呟けば、率直な声が飛んでくる。
「口裏を合わせてくれる存在を持つか、周囲からの信を得るか。それもなしにまた同じことをすれば、視察以外、出してもらえなくなるかと」
「どちらにしても味方が必要ですね」
耶利の言葉に神妙に頷きながら扉を開ける。玻璃の張られた広間に出て、長い階段を下っていく。実際の距離よりもずっと短い時間で下の広間に出ると、大きな扉が厳かに鎮座していた。
両脇に控えている門卒(もんばん)に開けてほしいと声を掛ける。年若い門卒は泰麒の顔を見て焦ったように躊躇っていたが、見かねたもう一人の門卒が門を開けるように指示を出した。どうやら上司らしいこの門卒は、泰麒が禁門の外へ行く目的を察しているようだった。
「ありがとうございます」
礼を言って門を潜り抜ける。若い門卒は不思議そうな顔をして泰麒を見ていたが、門の閉じ際に見すぎだと年上の門卒に小突かれていた。
三方を巨大な岩盤で囲まれた広場は、白圭宮よりも気温が低く感じられた。息を吐けば微かに白くなる。唯一岩盤のない一方に耶利と共に歩いていき、泰麒は上を見上げた。
「あ……」
「定刻通りだな」
空から黒い影がぽつりと現れる。近づいてきたその影に人が乗っていることを認め、泰麒は穏やかな笑みを浮かべた。
耶利の呟いた通り、今日は視察に赴いたその人が帰ってくる日だった。
「李斎、おかえりなさい」
「台輔!」
禁門に降り立った騎獣と皮甲を纏った女性に駆け寄りながら声を掛けると、彼女は一瞬驚いたような表情を見せ、それから喜色を浮かべて泰麒に微笑んだ。
騎獣から降り、李斎は泰麒の前で膝をつく。その傍らでじっとしている利口な騎獣に、少しだけ胸に痛みが走るのを感じた。
「わざわざお出迎えいただきまして、ありがとう存じます。お身体の具合はいかがでしたか?」
「大丈夫です。李斎こそ平気でしたか?」
「はい、この通り。無事に戻りました」
李斎の髪が風に揺れる。見慣れた長い赤茶の髪がたなびく様を眺めていた泰麒は、ふとあるものが目に留まってくすりと笑みをこぼした。
「李斎、春を運んできましたね」
「春?」
「髪に花びらがついています」
言いながら、泰麒は手を伸ばして桃色の花弁をそっと取りあげた。李斎は気恥ずかしそうな様子で、ありがとう存じます、と眉を下げて微笑んだ。
「知らぬ間に髪にからんでしまったようです。咲き乱れておりましたから」
「下界にもそんなに花が咲き始めたのですね。これは何の花ですか?桜……とは、また違うようですが」
「桃の花ですね。梅の花が咲いて、更に気候が春に近付くと咲き始めます」
「へぇ……」
「桜も咲き始めておりましたよ。今年は例年に比べて随分と暖かいので、桃と桜が同時に咲いているようです」
「そうなんですね」
李斎の説明に泰麒は感心した声を上げ、手のひらの花弁を見つめる。桜に似て優しい色、けれど桜よりも少し細長い。これが桃の花。
言われてみると蓬山に連れ戻されたばかりの頃、似たような花を枝に沢山付けた木があった気がする。あれは桃の花だったのかもしれない。
「耶利も。出迎え感謝する」
「別に。私は台輔の付き添いだ」
「李斎はこのまま主上へ報告に行きますか?私も驍宗様に相談したいことがあるので、よければご一緒してもいいでしょうか?」
「はい、喜んで」
そんな会話をしているうちに、李斎と共に視察に向かった者達も次々と禁門に降りてきた。李斎に促されながら、泰麒は彼らにも労いの言葉をかけつつ厩舎 ( きゅうしゃ)へと移動する。
「東架 の方はどうでした?去思はお元気でしたか?」
「以前よりも人が増えておりましたね。丁度蕎麦や紅花の種を畑に撒く時期だったようで、小さいながら活気もありました。去思も変わりなく、道士として江州(こうしゅう)を中心に活動しているようです」
「よかった。項梁もそれを知ったら喜ぶでしょうね」
「今度会ったときにでも話しましょう。項梁から園糸にも伝わるでしょうから」
嬉しそうに呟いた泰麒に、李斎も目元を柔らかく細める。和やかに会話を重ねる二人の一歩後ろを歩く耶利は、彼らの雰囲気を興味深く眺めていた。
──まるで年の離れた姉弟みたいだな。
もしくは親子か。そんな感想が胸中に浮かぶ。泰麒の大僕として仕え、幾度となくその光景を見てきたはずだが、何度見ても不思議な面持ちで見つめてしまう。
それほどに互いが傍にいることが馴染んでいるのだろう。泰麒は李斎に対して全幅の信頼を寄せ、李斎もまた泰麒に深い敬愛を込めて接している。
初めてこの二人が政務ではなく、ただ他愛ない談笑をする姿を見たときは驚いた。敵ばかりの白圭宮で知略の攻防戦を繰り広げたあの麒麟と目の前の青年は本当に同じ存在かと、耶利は目を疑ったほどだった。
その時に初めて、厳趙の言っていた無邪気だったという泰麒と重なった。
(本当に、蓬莱に流されたときに何があったのやら……)
黄金の国、夢のような国だと言われているが、果たして実際はどうなのか。以前抱いた疑問がまた浮かび上がり、泰麒が流されたという異郷に興味が湧く。少なくともそんなおめでたい場所ではないことだけはわかる。
そう考えているうちに詰所を通り過ぎ、断崖を大きく抉り取って作られた建物に辿り着く。そこが厩舎だった
李斎が乗ってきた騎獣を預けて水や餌を与えているうちに、耶利は厩舎の奥へと進んでいく。今は傍には李斎がいる。自分が少し離れても大丈夫だろう。
慣れた足取りで最奥の騎房まで行き──そして目をしばたかせた。
二つの騎房を首をひねりながら見つめ、それから泰麒たちの元へと戻っていく。
「……台輔」
「はい、何でしょう?」
「主上は出かけられたのか?」
「え?……いえ、そんなはずは」
「どうしたんだ、耶利。何か気になることでも?」
「計都(けいと)がいない」
「え?」
「ついでに羅睺(らごう)も」
「何だと?」
泰麒と李斎は顔を見合せ、急いで奥の騎房へと向かう。
耶利の言う通り、いつもなら二頭の?虞がいるはずの騎房に主がいない。李斎は慌てて兵卒を呼びどういうことだと問いただした。
「は、主上の騎獣につきましては、主上自らがこちらにいらっしゃり、散歩をさせるとのことでして」
「禁門の外に?だが主上のお姿は見えなかったぞ」
李斎がそう言うと、兵卒はいえ、と首を振り、それから戸惑ったような面差しでこちらを見た。
「その……外ではなく、後宮の方へ行かれると」
「は?」
思わず李斎は泰麒を見る。泰麒は不思議そうにまばたきを繰り返したあと、くるりと首を巡らせた。
「確かに……王気はあちらから感じられますね……」
王の気配がわかる泰麒がじっと見つめた先は、間違いなく正寝のある方角だった。


◆  ◆  ◆


最近ずっとかまってやれていないから、後宮の庭にでも放して発散させてやるつもりなんじゃないか。
そう見解を述べた耶利に、そんな馬鹿なと李斎は思った。思ったのだが。
──確かに騎獣を散歩させるには程よい場所かもしれない。
後宮に入っている者は元々いない。朝は整ってきたとはいえ、未だに人材は不足中。白圭宮の修繕も終わっていない。使っていない園林の手入れなど、当然後回しになる。
ならば丁度いいだろう。空いている空間を利用しない手はない。
そんな風に思い立ったのではないだろうか。誰もいない園林の体裁を整えるよりも、愛騎の機嫌と体調を整える方が遥かに有意義だ。
なるほどとしきりに頷いていると、耶利が興味深そうな眼差しで李斎を見つめていた。どうした、と問うと、李斎は面白いな、とよくわからない返答をされた。ちなみに傍から聞いていた泰麒は困ったような微苦笑を浮かべていた。
そうして結局、明確な答えはもらえないまま、今は泰麒の後ろ姿を追う形で狭い小道を李斎は歩いていた。

「折角ですし、近道をしましょう」
そう言いだしたのは泰麒だった。何が折角なのかを尋ねる間もなく、泰麒の提案に耶利も賛同した。
「散歩する騶虞(すうぐ)を見たい」
という耶利の意見に、後宮に向かうつもりなのだと察した李斎は反対した。住まいが正寝にある泰麒はともかく、己が裏道を通って無断で正寝に侵入するなど不敬がすぎる。李斎自身も特に許可を得ずに正寝の出入りを許されているが、それは正面から出向くことが前提の話だ。
そう否を唱えたのだが、泰麒と耶利に揃って李斎なら大丈夫だと何故か信頼のこもった返事をされた。それでもしかしと食い下がったのだが、泰麒が悲しそうに「今は危険もありませんし……駄目ですか?」と肩を落とす様に揺さぶられてしまった。昔も今も滅多にない泰麒の我が儘に葛藤の末、せめて正寝までにしてください、と最終的に李斎の方が折れた。
「李斎は台輔に甘いな」
からかい交じりの耶利の呟きは黙殺したが、「それに私はしょっちゅう忍び込んでいるぞ」と臆面もなく続いた台詞にそれはやめろと注意した。
が、おそらく懲りずに忍び込むのだろう。耶利はそういう娘だと李斎は既に理解していた。そして他ならぬ驍宗がその奔放さを容認していることも。
それに、と李斎はため息を落とす。流されてしまったとはいえ、今の自分を鑑みると、あまり人のことが言える立場ではない。
「この道を通るのは初めてですね」
心なしか楽しそうな声で泰麒が呟いた。それに答えたのは先導している耶利だ。
「こないだ新しく見つけた道です」
「まだこんな裏道があったんですね。もしかしたら今度こそ正頼も知らない道かも」
「どうでしょう。あの御仁は本当に白圭宮の裏道を網羅してらっしゃる」
「そうですね……耶利に協力してもらっても、なかなか正頼に参りましたと言わせられないものです」
小声で話す内容に、李斎は思わず苦笑いをこぼした。
「正頼とそのような勝負をなさっているのですか」
尋ねると、黒曜の瞳がちらりとこちらを見て、楽しげに細められた。
「少し前に、前は正頼と一緒によく近道をしたなと、そんな話になったんです。けどいざ思い出してみるとうろ覚えな部分が多くて。だから正頼が、今度は自分で歩いて覚えてみてはどうだと」
「なるほど……それで正頼の覚えていない道を探し当てる遊びになったのですね」
正頼は教え方が本当に上手い。そう呟くと、そうだな、と耶利が肯定する。
「大方、外に出たくてうずうずしてる台輔の気をそらしたかったんだろう」
「別に、うずうずなんてしてないですよ」
「いいや、うずうずしてる。なぁ、李斎?」
泰麒越しに投げかけられ、李斎はくすくすと笑声を立てて同意を示した。李斎にまでそう指摘され、泰麒はそんなことないです、と拗ねたような口調で否定する。そんな姿が可愛らしくて、失礼だと思いながらも笑いを止めることができなかった。
──平和だ。
ふとそんな思いが胸中に顕れる。
ふいに耶利が制止し、静かにと合図をした。揃って木陰に身を潜めれば、あれこれと会話をしながら忙しそうに官吏たちが自分たちの傍を通り過ぎていく。
ちらと泰麒がこちらを見る。悪戯が成功した子どものように笑う青年を見て、つられて口元がほころんでいくのを感じた。
人の目を盗みながら府第(やくしょ)の傍をすり抜けて、枝のように分かれた道を耶利が導くままに歩き続けていく。やがて細い小道の終わりが見えた。
耶利が出口から飛び出した。続いて泰麒と李斎も終点に辿り着く。
唐突に景色が大きく開けた。ここは正寝のどの辺りだろうと周囲を見回し──李斎はぎょっと目を剥いた。
「おい、耶利、ここはまさか……」
「ああ、すまない。道を間違えたみたいだ。どうやら後宮に出てしまったみたいだな」
悪びれもなく告げてきた彼女に、李斎はかっと眦を吊り上げた。
「お前というやつは──」
「まぁ来てしまったのだから仕方ない。というわけだ、私は計都と羅睺を探してくる」
「おい待て!戻ってくるんだ、耶利!」
ひょいと唇を上げて不敵に笑った少女は、その小柄な身体を活かすようにして李斎の腕を素早くかわし、さっさと広い庭の奥へと行ってしまった。やられましたね、と傍らの泰麒が苦笑いをこぼす。
じゃじゃ馬娘を捕らえ損ねた手を額に当て、李斎は大きく肩を落とした。いくらなんでも奔放がすぎる。
「李斎、そう落ち込まないで。こうなってしまっては仕方ありません。私たちもこのまま主上に会いに行きましょう」
「台輔……申し訳ありません。お叱りは全て李斎が引き受けますので……」
「いえ、私も途中でもしかして、とは思っていたので」
「気付いていらっしゃったのですか?」
「耶利なら行きかねないな、と。なので止めなかった私も共犯ですね」
台輔、と咎めるための声は何とも情けないものになってしまった。そのようなことをほこほこと楽しげな笑みで言うものだから、こちらも毒気を抜かれてしまう。
「……仕方ありませんね。一緒に叱られましょう」
苦笑いを乗せたまま言えば、やはり楽しそうな様子で泰麒ははい、と頷いた。

後宮にある園林は、それは見事なものだった。
梅、桃、桜……他にも季節が変われば、様々な花や葉が庭を彩るのだろう。四季折々の花木が趣のある形で植えられ、柔らかい陽光を浴びてうっすらと輝いている。その雅さは、まるで桃源郷にでも入り込んだかのようだった。
もちろん手入れはされていないため、地面には雑草の類の草花も思うままに茂っていた。背の低い常緑樹も、日光に向かって赴くままに新芽のついた枝を伸ばしている。
その点でいえば優美さは少々失われているかもしれない。けれど自然に近づいた園林は、確かに計都たちも気持ちよく散歩できそうだった。
そう思いながら、何とか気を取り直した李斎は息を吸い込んだ。柔らかく澄んだ空気が肺に満ちて、疲労で少々怠くなっていた身体に心地よく行き渡っていく。
「今日は本当にいい天気ですね。話を聞いたときは驚きましたが、驍宗様が計都と羅睺を連れ出した気持ちがわかる気がします」
隣を歩く泰麒が幾分かゆっくりとした口調で言う。ゆるりと目を細めて散策する泰麒に、李斎の口調も自然と和らぐ。
「はい。手が行き届いていない分、自然に近い雰囲気になっておりますね。これなら計都と羅?も寛げることでしょう」
「ええ。本当に……あ、」
何かに気付いたらしい泰麒が途中で声を上げた。あそこ、と指で示した先を追い、李斎もあ、と声を上げる。
桜の木の下、丁度話題にしていた騎獣の一頭である計都がいた。大きな体躯を猫のように丸めながら、気持ちよさそうに目を閉じている。
李斎と泰麒は顔を見合わせて笑いながら、忍び足で近付いていく。途中、計都はぴくりと耳を立たせてこちらを見たが、すぐに目を閉じた。
邪魔をしなければどうでもいい、とでもいうような態度だ。李斎と泰麒は計都の機嫌を損ねないように、多少の距離を置いて立ち止まり、陽を浴びてふっくらとしている白い毛並みを眺めた。
さわさわと、ゆるやかな風が草木を揺らす。肌を優しく撫でるように李斎らの間を通り抜けていく。
ふ、と吐息のような笑声が泰麒から聞こえてきた。
「気持ちよさそうに眠ってますね……」
そう呟く声に頷いて、大きな前足におとがいを乗せて目を閉じている計都を見やる。
ふわりと胸に湧くあたたかさに、李斎はゆっくりとまばたきをする。脳裏に浮かぶ光景があった。
やわらかな陽光。その下で咲き誇る花々。泰麒と二人、白い毛並みを不思議な色合いで輝かせる騶虞を見つめている。
そう、まるで──。
「……懐かしいですね」
ぱちりと目を見開いて、李斎は思わず隣を見た。泰麒は驚いた様子の李斎を見つめ返して、穏やかに澄んだ黒い瞳を細める。
ああ、と李斎は表情を緩めた。泰麒も同じ景色を思い浮かべていたのだ。
「園林の景色が、どことなく蓬山に似ているな、と。こうして李斎と一緒に計都を眺めていると、なおさらあの頃みたいで」
「そうですね……本当に、懐かしゅうござます」
そう。あの頃。麒麟旗が上がり、昇山者として蓬山を登った、夏至のあの日。
「初めて驍宗様にお会いした当時、私は驍宗様のことがとても怖くて……ずっと李斎にくっついていました」
「ふふ、そうでしたね。かくいう李斎も、あの頃は主上に会う度に気を張っておりました。台輔が天幕にやって来るのは、いつも楽しみにしておりましたが」
「私もです。李斎と会うのが毎日楽しみでした。もちろん驍宗様と会うのも楽しみでしたが、やっぱり時々怖くて……」
昔話に花を咲かせながら、二人は囁くようにくすくすと笑い合う。
懐かしむように微笑みながら、ふいに泰麒はその瞳に寂しさを宿した。それだけで李斎は彼が何を思い出したのかに気付いた。
けれど泰麒はそれ以上何も言わず、夜を溶かし込んだ色の双眸をそのまま計都に注いだ。李斎も倣うように視線を向ける。
ふわり。風が舞う。はらはらと薄紅の花弁が枝から離れ、縞模様のある白い毛並みへと降り積もるように落ちていく。
懐かしい。夏至の頃。色鮮やかな蓬山での日々。忘れようもない、かけがえのないひととき。
記憶の奥で犬によく似た鳴き声が聞こえた。ひかれるように李斎は瞼を閉じる。
その始点には、黒い頭と、白い毛並みの──、


「──迂闊に手をお出しになりますな。よくよく言い聞かせてはあるが、万が一ということがある」
その時だった。背後から不意を突いて、低い声音が耳朶に響いた。
李斎と泰麒は勢いよく振り返る。そこには太い笑みを浮かべながら、面白そうに二人を見つめる驍宗がいた。
「驍宗殿……」
李斎は呆然と呟く。懐古が見せる幻覚か。しかし一向に消えないその姿に、どうやら幻ではないと悟った。
はっと李斎は我に返る。──自分は今、何を口走っただろうか。
過去と混濁していた意識が急速に戻ってくる。さぁ、と音を立てて血の気が引き、慌てて御前に膝を付いた。
「申し訳ありません!とんだ無礼を……そのうえかような場所に無断で忍び込んでしまい……」
「よい。お前たちならいつでも入ってきてもいいと言っただろう」
「しかし……」
「それにしても、蒿里と昔話に花を咲かせていたのか、"李斎殿"?」
やはりというか聞かれていた。叩頭したまま李斎はぎくりと肩を揺らす。
穴があったら入りたい気分だった。心臓に悪い返しに、ご容赦ください、と頭を下げたまま蚊の鳴くような声で懇願する。
そのまま地面に埋もれる勢いで猛省していると、頭上でころころと笑う音がした。
「驍宗様、あまりいじめては駄目ですよ。このままだと李斎は一向に顔を上げられなくなってしまいます」
「そのようだな。李斎、もうよい、立て」
許しを得て、おそるおそると顔を上げる。王と麒麟は、穏やかな眼差しで李斎を見つめていた。
まだ蓬山の頃から帰りきれていないのだろうか。当たり前のように双方から差し伸べられた手に、思わず左手を乗せてしまった。
厚みも大きさも異なる手に引かれ、立ち上がる。そうして仕えるべき主君らを李斎は見返した。
初めて邂逅を果たした蓬山の夏。あの頃から失ったものがある。数えきれないほどの。
未だに心に負った傷は癒えない。ふとした瞬間に今はいない面影を追いかけては、ぐずついた瘡蓋を剥がすことを繰り返している。
それでも、ここに在る。守りたかったものが。救いたかった己が。
在るのだ。確かな体温を伴って、ここに。しんと胸に降り積もる感情のまま、李斎は繋がれたみっつの手を見つめて微笑んだ。
「本当に……李斎は果報者です」
湧き上がった言葉が、ほろりと唇からまろびでた。視線を上げれば、二人の主は不思議そうに目をしばたいていた。珍しいその表情に、一層笑みが深くなる。
目の前には台輔がいて、少しだけ羽目を外して遊ばれて、それを穏やかに見守る驍宗がいる。
王が玉座を取り戻した白圭宮は未だ慌ただしい。里廬も復興途中のところばかりだ。王師である李斎も、報告を終えたらすぐに準備を整えて援助へと向かう予定だった。
まだまだ国は安定していない。問題は山積みだ。けれど。
李斎の視界に映っている、今この時を切り取った景色は。
──平和だ。なんと平和で、尊い。
湧き水のようにこんこんと溢れ出す幸福感と、癒えぬ傷の痛みが奥底から込み上げる。再びこの目に映すことができた喜びと、それを見ることが叶わなかった者達を思うと胸が締め付けられた。──だからこそ。
この眩いほどの景色を守りたい、いつかはこれが日常に横たわる風景になればと、強く、強く願う。
「それを告げるべきは、私の方だろう」
先を越されてしまったな。言いながら驍宗はほろ苦い笑みを刷く。その隣で似たような笑みを浮かべていた泰麒が、更にもう片方の手を李斎の手に重ねて包み込んだ。
「私もです。私も……僕も、李斎に出会えてよかった」
「台輔……」
身に余る言葉だ。感極まって返す言葉を失った李斎の右肩に、そっと僅かに重みがかかる。
視線を向ければ大きな手のひらが、更に上へと辿れば穏やかに微笑む王の顔があった。あまりにも和らいだ表情を見せる驍宗に、李斎は思わず呼吸を忘れるほどに見入る。
驍宗が口を開いたところで、ふと背後でがさりと音が鳴った。三人が反射的に首を巡らせると、丁度計都が起き上がって伸びをしているところだった。
くぁ、と大きく欠伸をして身体を振るってから、普段からは考えられないほどのんびりとした歩みで動き出した。
計都、と驍宗が名を呼んだ。その拍子に肩の重みが消え、李斎は我知らず肩の力を抜いた。無意識に余計な力を入れていたらしい。
ほっと静かに息を吐いていると、計都がいびつな形をした手に甘えるようにすり寄っていた。
「二人とも、私に用があって訪ねたのだろう。折角だ、報告がてら私の休憩に付き合ってくれ」
「はい、もちろん。李斎も大丈夫ですよね」
ぱっと顔を明るくしながら泰麒が問いかける。李斎は微笑みながら頷いた。
「はい。恐れながら、ご相伴に預からせていただきます」
「あ、あともうひとり、耶利もいるのですが」
「ああ、先ほど出くわした。気が済んだら来いとは言ってある」
そこで一度言葉を区切り、驍宗は李斎と泰麒を交互に見つめた。それからおかしそうにくつりと口端を吊り上げる。
「丁度花見がしたかったのだ。良い花枝が見つかってよかった」
二人に視線をくべたままそう告げた驍宗に、李斎は首を傾げる。一体どういう意味なのだろう。同じように怪訝な気配を漂わせた泰麒と顔を見合わせる。
そうしてどちらともなくあっ、と声を上げた。
「李斎」
「台輔」
「髪(鬣)に桜が──」
はた、と同じ言葉を紡いで目をしばたかせる。その様子を眺めていた驍宗が、耐え切れずに噴き出した。
数えきれないほどの桜の花びらが、赤茶と黒鋼の至るところにからまっていた。まるで二人して桜の木の下で昼寝でもしていたかのような有り様だった。
ぽかんと口を開けて桜まみれの互いを見つめていた李斎と泰麒は、やがてどちらともなくふ、と笑み崩れた。くつくつと肩を震わせて笑う驍宗と共に、春の園林に朗らかな笑い声を響かせたのだった。

今度こそは。改めて李斎は決意を胸に固める。
今度こそ、この幸福な日々が永久(とわ)に続くように、目の前の王と麒麟が紡いでいく歴史が、永久であるほど長く続くように。
そのために己にできる全てを持って仕えるのだと、自らに誓う。
「昨日、漣から私宛に荷が届いたのだ。その中に干した果物が入っていたのを先ほど思い出してな」
「私も、景王と景台輔からお茶をいただいて。李斎もあちらで飲んでいたものだそうですから、今度一緒に飲もうと思ってたんです」
「まぁ、それは楽しみでございますね」
口々に語る二人に頷いて、淡く優しい陽射しのなか、李斎は一層やわらかに微笑んだ。

そうであれと願い、先の未来を作るのもまた、"今"を連綿と積み重ねている我ら人間なのだから。




冬の盛りが過ぎ去り、ようやく春が訪れる。

あとがき
春の陽射しの下でほのぼのしてる三人が見たくて書きました。
この三人が揃っていると戴に平和が戻ってきたんだな…って気持ちにさせられます。風の海→黄昏から白銀まで読み終えて尚更そう思うようになったというか。そんな三人が大好きです。心の底から末永く一緒にいてほしい。

白銀の旅の中で自分は驍宗様の臣下なのだと定め、四巻の終盤では自分たちの過去の積み重ねが今を作ると実感した李斎は、阿選を討った後も驍宗様が必要としてくれる限りはずっと仕え続けるのではないかなと個人的には思います。もしくは仕え続ける覚悟を決めたのかなとも。無力感に打ちひしがれても、もう打つ手がないと絶望しても、それでも驍宗様を見つけ出そうと、救い出そうと何度も立ち上がった李斎ならきっと明幟に変わったあとも驍宗様と泰麒のために尽くすのではないかなと。そんな思いも詰めました。
そう言いつつも李斎が自分は驍宗様の臣下なのだと己を定めた時は驚きましたが。黄昏で戴が滅びれば自分を許せないと西王母に啖呵切って、泰麒を救い出した時には泰麒を失うことを恐れて戴に戻るのを躊躇った李斎を知っているから余計にというか……。そんな李斎が白銀で知己を増やし、また知己だった人達と再会し、驍宗様というひとりの人物を思い返しながら自分の足で驍宗様の足取りを追い続けた結果として自らをそう定めたんだろうなと思うんですけど未だに衝撃的です。

タイトルは当て字。「冬栄」の対義語的なものにしたかった。


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