天駆ける


凌雲山の中腹を、一頭の天馬は駆け上がっていく。
驚くべき速さとしなやかさで岩場を跳び、背に生えた翼を羽ばたかせて上を目指す。その白い背に跨る人物は、山にかかる雲海を見据えて手綱を握っていた。
やがて雲海は間近に迫り、灰色の水底に躊躇うことなく突っ込む。水の抵抗が身体にまとわりつき、しかしそれも一瞬のことであった。
見上げた先に光が見えた。そう思った時にはざぱりと音を立てて水面に上がっていた。
「──すごいな、雲海を一瞬で……」
水に濡れた赤茶の髪を掻き上げて、李斎は驚きに目を見開いた。天馬は誇らしげに鼻を鳴らす。
足の速い妖獣だとは知っていた。馴らし込んでから実感もしていた。だがまさか山麓から頂上までの距離を、これほどの速さで駆けのぼるとは。
黒い頭がぶるぶると大きく震える。飛んでくる水滴を片手で防いで、李斎は微笑んで湿った毛並みを撫でつける。
「お前は本当に速いな、飛燕。流石だ」
名前を呼んでそう褒めると、飛燕は耳をぴんと立て、当たり前だとでもいうようにひとつ鳴いた。尻尾を振っているのが風圧でわかる。李斎はくすくすと笑声を立てた。
足で腹を軽く叩いて合図を送ると、飛燕は意気揚々と駆け出した。広々とした青い空のただ中で、翼が風を切る音が李斎の耳に届く。
「……気持ちいいな。飛燕もどうだ?こんなに広い場所を駆けるのは久しぶりだろう」
首筋を撫でながらそう問うと、飛燕は李斎の手にすり寄りながら嬉しそうに鳴いた。どうやら同じ気持ちのようだと理解して、そうか、と目を細める。
この子は本当に穏やかな気質だ。天馬の中でも特に。いっそ柔らかともいえる性格は、己が戦場に立つ武人故に心配でもあるが、それ以上に好ましくて愛しい。
黒い頭をぽんと撫でつけて、李斎は雲海を見渡した。地上からは暗い鈍色だった雲海は、今はその名の通り真白な雲が連なるようにして波打っている。
騎獣に乗って雲海の上を駆けるのは初めてではなかった。けれど、体感が全く違う。
目下の海が流れるように後ろへ向かう。隔たるものが何もない雲海だと、飛燕の足の速さと乗り心地がどれほど秀でているかがよくわかった。獣の背に乗っている感覚すら薄い。まるで自分の足で上空を駆けていると、そんな錯覚すら起こしそうだ。
とくん、とひとつ、胸が高鳴る。身体の底から湧き上がる高揚感に、自然と口の端が吊り上がっていく。
(お前となら──)

──どこまででも駆けてゆける。

そんな確証のない確信を、この時抱いた。
そして真実、李斎と飛燕はどこまでも共に駆け抜けていった。


◆  ◆  ◆


「──李斎?」

ぱちん、と今まで見ていた景色が泡のように弾ける。驚きに目をしばたかせた李斎は、心配そうにこちらを覗き込む青年の顔を見てはっと我に返った。
そうだ、今は蓬山からの帰り道だ。穢瘁から復調した泰麒を乗せて、戴国に戻る途中だった。
「も、申し訳ありません、少々ぼんやりとしておりました」
「いいえ。ずっと走り詰めでしたからね。無理もありません」
急かしてしまってすみません、と申し訳なさそうに謝る泰麒に、李斎は慌てて首を振る。
「気が急いでいるのは私も同じです。台輔が謝ることではございません」
今、こうしている間にも国では内乱が続いている。王が玉座を取り戻すための、大きな戦が。一刻も早く戴に戻って王の力にならねばと、そう思うのは李斎も同じだ。
なのに、あまりにも穏やかな岐路だからだろうか。それとも驍宗から借り受けた計都と雲海の景色が記憶を刺激したのか。
つい、昔のことを思い出してしまった。己の心の弱さにはつくづく呆れるな、と泰麒越しに手綱を握り直しながら苦笑いをこぼした。それでも胸の痛みは消えてはくれなかった。どころか塞いだ蓋の隙間から次々と思い出を引っ張り出してくる。

飛燕を捕らえたときの達成感。
首を伸ばしてすり寄ってきてくれたときの喜び。
背に乗って平原を駆け抜けたときの高揚感。
戦で怪我をさせてしまった時の申し訳なさ。
いつしか手綱を引かずとも意に沿い、時には李斎よりも的確に、李斎を守るために動いてくれるようになった、大切な戦友。
いつも共にあった。蓬山でも、慶国でも、これまで、ずっと。
これからもそうであると、無意識の深層下で信じていたことに今さら気付く。
いつか別れがくると自分に言い聞かせておきながら、それがこんなにも唐突だとは思っていなかったのだ。

手の甲に柔らかな毛並みが僅かに触れる。飛燕はもう少し硬かった。掠めた思考が針のようにちくりと刺さった。
「……李斎、少し休んではどうですか?代わりに私が手綱を引きますから」
「心配には及びません。疲れているわけではないのです」
「では、ほんの少しだけ心の整理をするのはどうでしょう?」
その提案に、李斎の思考は一瞬が固まった。
泰麒がこちらを振り返り、黒鋼の瞳に寂しさを宿しながら淡く微笑む。その表情にああ、と悟った。
泰麒もきっと、思い出していたのだ。
「飛燕のことを、考えていたのでしょう?」
「……はい」
「私も、計都に乗っていたら思い出してしまいました。慶からこちらに戻った時のこと、驍宗様と李斎と一緒に瑞州を廻ったこと……蓬山で、飛燕に初めて乗せてもらったこと」
「そうですね、飛燕は最初から、泰麒によく懐いて……」
もう二度と見ることの叶わない光景だ。泰麒の声に嬉しそうに耳を立てる横顔も、撫でてもいいですか、と笑顔で尋ねる姿も。
飛燕に関わる出来事の全てが、もう──。
ぐっと喉から込み上げてくるものを感じて、李斎は途中で言葉を切って飲み下す。膝の上に乗せた頭が徐々に冷えて固くなっていく感触を思い出し、意に反して震えそうになる手をきつく握りしめた。
「李斎」
その時、再び名を呼ばれた。顔を上げれば、泰麒はいつの間にか前を向いて雲海の端を眺めていた。
少しだけ私の話を聞いてください。泰麒はそう言って続けた。
「私が蓬莱に流されていた頃、父に泣くなと言われて育ちました。男ならそんな簡単に泣くなと。だからできるだけ泣かないようにしていました。怪我をしても、母が泣いていても、自分は泣かないように」
「それは……」
唐突に出された蓬莱での出来事に、李斎は眉を潜める。不穏な雰囲気を感じ取ったらしい泰麒は小さく笑声をこぼして、蓬莱ではそういう常識があったんです、と言い添えた。
「あちらでは汕子たちが暴走していましたし、不幸中の幸いだったのかもしれませんが……もちろん、今ならそれはおかしなことなんじゃないかと思います。それに、とても悲しいことのようにも」
「そう、ですね。そういった隔たりがあるのは、理不尽にも感じます」
「ええ。男だから、弱いからと我慢して、感情を押し殺してしまうのはよくないことだと思います。──だから、李斎」
手綱を握る手に、白い手のひらが重なる。最後に触れたときよりも少し肉のついた、けれどまだ骨ばった手。以前は李斎の手のひらに収まるくらいだった小さな手は、空白の六年の間にすっかり追いつかれてしまった。
「悲しい時は泣いてください、心が痛むのなら、痛いと教えてください。私……僕は、李斎が一人で抱え込んで辛い思いをしているより、そうしてくれる方がずっと嬉しい」
「泰麒……」
「とは言っても、難しいのでしょうね。僕もそう言われて育ってきたから、あまり泣けなくなりました。あんなに泣き虫だったのに、不思議ですよね」
くすりと笑いながら呟いたその横顔に、李斎は掛ける言葉が思い浮かばずにただ顔を歪めた。
自分は何もできないと嘆いて、ぽろぽろと涙をこぼしていた幼い麒麟が脳裏によぎる。
彼が泣けなくなったのは、身も心も成長したからという要因だけでは決してない。蓬莱から連れ戻した際にひどく衰弱していたのが何よりの証拠だった。
立派になられたことを誇らしいと思う半面、泣くことは許されなかった日々を思うと胸が痛んだ。
「けど、李斎。今ここには僕と李斎しかいません。計都は賢いから、きっと驍宗様には黙っててくれますよ。だから、少しくらい休んでも大丈夫です」
両の手が左手を包み込む。労わるようなその仕草に、こらえたものが再び込み上げてきた。
「自分のために泣けないのなら、飛燕のために。それでも難しいのなら、僕のために泣いてほしい。……こんな言い方は、卑怯かもしれませんが」
いいえ、と李斎は首を振る。もう一度いいえと繰り返した声音はみっともなく震えた。
「勿体ないお言葉でございます……」
彼の誰かを慮る深い優しさは、あの頃から少しも変わらない。李斎はちっとも変わらない、と苦笑した泰麒こそ、心根の部分はちっとも変っていない。
だから李斎も、泰麒の前ではどうしたって意地を張り続けるのが難しいのだ。
薄い、けれど随分と大きくなった背に額を預ける。一瞬だけ驚いたようにこちらを振り返った泰麒は、すぐに嬉しそうに微笑み、優しく李斎の手から手綱を引き継いだ。
華奢だが子供のそれではなく、成長した青年の背中だ。本当に大きくなられた。喜びと共に見届けられなかった寂しさが湧く。
額からじわりと伝わってくるぬくもりに安堵し、それが飛燕に寄り添った時のあたたかさを呼び起こした。
身を寄せれば李斎を包み込むように翼を降ろしてくれた。いつだって飛燕は李斎を第一に動いてくれていた。

身を挺して己を守ってくれた忠実さに何度感謝したかわからない。
戦場で怪我を負わせてしまったことを何度申し訳なく思ったかわからない。
甘えるように鼻を押し付けてくる姿を何度いとおしく思ったかわからない。
何度嬉しく思ったか。何度誇らしく思ったか。
共に空を駆けるたび、その首筋を撫でるたび、何度も、何度も。

目の奥が熱くなる。ゆらりと滲んだ視界に真っ白な翼を黒い頭が映った。
もう撫でることも叶わない。ぬくもりを分け合うこともできない。どこまでも忠実で、どこまでも優しかった、李斎の獣。

私の翼で、
私の手足で、
私の守り手で、
私の牙で、
私の友で、
私の半身で、
私の誇りで、
私の──私の、ただ唯一無二の。

──飛燕。

ありがとう。すまない──ありがとう、飛燕。
お前からもらったものは、胸が引き裂けそうなほどに、こんなにもかけがえのないものばかりなんだ。

泰麒は背から伝わる震えを感じながら、無言で手綱を握った。二人を乗せた計都は、まるで興味がないとばかりにただ真っ直ぐに海の彼方を進む。ただ、心なしか駆ける速度が穏やかになった。
蓬山で?虞狩りに同行した時の驍宗様みたいだ、と目を細め、同時に飛燕の背中を思い出して瞳を揺らした。
雲海の上は、本当に静かで果てがない。まるで天国のようだと、幼い頃にそう思った覚えがある。
──ここからなら、天国に行った人たちにも声が届きそうだね。
記憶の中の小さな自分が、目を輝かせて空を見ていた。ならうように泰麒も雲海のさらに上空を振り仰ぐ。
もし届くなら、届けたい想いは。
溢れ出る数えきれないほどの言葉のなかから、ひとつだけを大切に拾い上げて天に差し出す。
(ありがとう、飛燕)
──李斎を護ってくれて。

やがて、噛み殺し損ねた嗚咽が背中から聞こえてきた。
声を押し殺しながら、それでもようやく涙をこぼした李斎に、泰麒は淡く笑みを刷いた。温かく湿っていく背に空を仰いだまま瞑目し、そして前を向く。
風の唸りの中に、飛燕の嬉しそうな声を聞いた気がした。





あとがき
白銀を読み終わった勢いでどうしても書きたくて書いてしまいました。
戴国の物語、最初から最後まで手に汗握る展開ばかりで希望と絶望を繰り返し叩きつけられる最高に素晴らしい史書でした。じっくり読もうと思っていたのに三巻に差し掛かったところで一気読みしました。短編集待ってます!!
辛い冬を乗り越えた戴が末永く平和でありますことを心から願います。本当に…驍宗様も泰麒も李斎もみんなみんな幸せになってほしい…。


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