もしもの物語-4-



自身の長槍にしがみつきながら褐色の地からひと思いに飛び降りる。背筋が粟立つような浮遊感に永遠とも一瞬ともいえるあいだ堪えていると、飛沫の上がるけたたましい音と共に流水が服の隙間を縫って全身に入り込んできた。予想以上に冷たい水に反射的に悲鳴を上げかけて、ごぼりと口から呼気が零れ出た。
暗く深い川から必死に水面に出ようとあがく。とっくに慣れたはずの鎧の重みが、まるで以前に逆戻りしたかのようにずっしりとのしかかる。少しでも軽くしようと、躊躇いながらも愛用の槍から手を離した。
空に浮かぶ月の光を目指して、なんとか水上まで這い上がった。ぷはっと顔を上に向けて息継ぎをしながら、アリーシャは視線を忙しなく動かす。闇すらも飲み込んだようなその色に、為す術もなく流されていく川の勢いに、言い難い恐ろしさに戦慄する。まるで大きく蠢く巨大な生き物のようだ。
「…っ、スレイ!」
風のように颯爽と現れた暗殺者と共に、崖から落ちた少年の名を叫ぶ。スレイ。何処だ、スレイ。
勢いが衰えることなく流れる冷水が体温を奪い取っていく。だが、アリーシャはそれにかまうことなく彼を探し続ける。
見つけなければ、助けなければ。膨れ上がる焦燥感を抑える余裕もなく、慈悲の欠片も見られないごうごうとうねる黒い川にひたすら視線を彷徨わせる。
「スレイ、スレイ!!」
あの時、スレイは気を失っていた。落ちて、そのまま目を覚ましていなかったのだとしたら。自分のようにもがく事すらできなかったのだとしたら。そう考えるだけで、ぞっと血の気が引く。
冷える身体とは裏腹に、目の奥が熱くなる。頼むから、お願いだから、姿を見せてくれ。
一瞬、流水が顔までせり上がってきて、頭から水を浴びた。口の中に入ってきた苔の味がする水を咳き込んで吐き出して、縋るような思いで叫び続ける。
彼は、人を照らす光なんだ。天族と心を通わせ、開く存在なんだ。今の世界を導く希望なんだ。
「ス、レイ…!!」
―――――初めて友達だと、笑って手を差し伸べてくれた人なんだ。
だから、どうか。

『――――まったく…世話が焼けるわね』
最早悲鳴になりかかった声でもう一度呼ぼうとして、ふいに頭に鈴を鳴らしたような声音が響いた。刹那、川の流れに身動きをとることすら困難だった身体が驚くほど軽くなる。
脳裏に線の細い小さな少女が思い浮かぶ。野に咲く花のように可憐で、けれど幼い風貌からは想像もつかないほど長い年月を生きてきた、大地の恩恵を受けた天族の少女が。
呆れたようなその声に、強張っていた四肢にさざ波のように安堵が押し寄せてきた。
ずっと堪えていた涙が、堰を切ってほろほろと零れる。良かった。彼女が自分の元へと来てくれたということは、彼は生きている。万感の思いが胸を塞いで、ごしごしと涙を拭うことしかできない。
エドナ様。途切れ途切れに名を紡ぐと、聴こえるの?と意外そうな声が返ってきた。返事をしようとしたが、突然大きくうねった流水に呑まれて川に沈む。焦りを帯びた声音で名を呼ばれ、危うい状況も忘れて珍しいと思ってしまった。
『…アリーシャ、川底に向けて拳を振り下ろしなさい。今すぐよ』
慌てて水面から顔を上げると、真剣味を帯びた少女の声が耳朶に響いた。何故と疑問に思いながらも、返事の代わりに行動でその指示に応える。
言葉の巧みさに惑わされて、彼女の言動が本音と冗談を判断することは、未だ自分には難しい。けれど、こういうときに放たれる台詞に、間違いはないことだけはわかるようになった。

早く、彼の姿を見たい。怪我をしていないか、調子は悪くないか、早くこの目で確かめたい。
再び水中に潜り、握りしめた右の拳を、アリーシャは持てる力全てを乗せるように勢いよく振り下ろした。


生きているのなら、どうか、無事でいて。

私はまだ君に、何も返せていないのだから―――――


◇   ◆   ◇   ◆


ロッシュと仲間に呼ばれた男に抱えられたアリーシャは、全身が豪雨に見舞われたかのようにずぶ濡れで、けれど触れずとも高熱にうなされているのが見てとれた。苦しげに目を閉じ、浅い呼吸を繰り返す様子にスレイは取り乱しながら彼女の許へと駆け寄った。
酷く狼狽したスレイとは裏腹に、彼らの対応は迅速だった。部屋の準備、ベッドの用意、着替え、水桶、薬と、広間に置かれた木箱から次々と必要な物を揃え、瞬く間に遺跡の空き部屋が小さな個室に整えられた。着替えさせるから入ってくるなと釘を刺され、呆然と立ち尽くしていたスレイは暫くしてから出てきたロゼに室内へと押し込まれた。
訳がわからず赤髪の少女に怪訝な視線を送ると、あんたたち、マーリンドにいたでしょ、と鋭い眼差しで言葉を続ける。
「それも疫病が蔓延してる時に。だから、念のため隔離」
「疫病って…それはないよ。あれから大分経ってる」
「もちろん、ただ身体が冷えて風邪ひいただけかもしんない。けど、あの疫病は元気だった人でも急に病に罹るって、薬売ってくれた人が言ってたんだ。用心に越したことはないよ」
そう言って両手を上げて肩を竦めるロゼに、スレイはでも、と食い下がろうとして、ライラにたしなめられた。
「スレイさん。疫病の件について、憑魔の見えない方に説明するのは難しいですわ」
「ここは大人しく従おう。僕たちは医者でも何でもない。大丈夫だと言ったところで、信じてはくれないだろうさ。アリーシャを休ませてくれるだけでも充分だ」
ライラの台詞を継ぐように話すミクリオの言葉に、スレイはぐっと言葉に詰まる。確かに、病の事なんて医者でもなければ信じる者は少ない。疫病となれば尚更だ。
何度か呼吸を繰り返してから、唇をぎゅっと引き結んでわかったと頷く。了承の意を示したスレイに、ロゼは一転して陽気な笑顔を見せる。
「大丈夫だって!別に取って食おうって訳じゃないし。熱が下がったら解放する」
本当にそうするつもりなのだろう。嘘の感じられない、さっぱりとした響きだった。もう眠るつもりだったのだろう。ゆったりとした服に身を包んだロゼは欠伸をひとつして、ひらひらと手を振りながらそれまでは我慢して、と部屋を出て行った。
大きな布で覆われた広間への出入り口から彼女が消えていくのを見送って、スレイは後ろにいるアリーシャに目を向ける。
簡素なベッドに横たわるアリーシャの傍に寄り、堪えるような表情で少女を見つめる。幾分か呼吸は落ち着いたようだが、まだ熱が高いようだ。いつもは凛とした秀麗な顔は、まだ苦悶の色を浮かべている。
「…ねぇ、ライラ。アリーシャは疫病に罹ってるってことは……」
ロゼにはああ言ったが、やはり不安だった。疫病が原因で悩み苦しみ、絶望に打ちひしがれていた人々の顔が脳裏によぎる。罹った者にも看病する者にも、病は人の心を苛める。
アリーシャを見つめたままそっと零した少年の問いに、ライラは不安を拭いさるようにそれはないとはっきりと否定した。
「あの疫病は、病原体が憑魔化したハウンドドッグが原因でした。あの憑魔に取り憑かれなければ、病に罹る事はありません」
「そっか…」
なら、ただ熱を出しただけなのだろう。汗で張りついた少女の前髪を撫でるように払いながら、少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
「スレイももう休め。アリーシャの心配ばかりで、今度は君が倒れでもしたらどうする」
備えられたもうひとつのベッドを示すミクリオの言葉に、スレイは頷きかけて、ふと白い掛け布をじっと見つめる。ミクリオとライラはどうするのだろうか。自分がベッドを使ってしまったら、彼らが使う毛布がない。
疑問に思って二人に問い掛けると、自分達はスレイの中に入るから大丈夫だと返ってきた。なるほど確かに。
よくよく見れば、自分は川に落ちたというのに二人とも服も髪も乾いている。器の中にいると外の影響を受けないのだろうか。
雨が降った時なんて便利なんだろうなと、やや斜めに向かった頭で考えながらベッドに横になる。
思っていたよりも疲労困憊だったのか、スレイは押し寄せてくる眠気に抗うことなく、すぐさま夢の中へと旅立っていった。


「……エドナさん、いらっしゃいますか?」
スレイが完全に寝入ったことを確認してから、ライラが静かに友の名を呼んだ。繰り返し呼ぶことはせず、じっと彼女の返答を待つ。すると、少しの間を置いて出入り口の布が小さく揺れ動いた。
白い布からひょこりと小さな金色の頭が見えて、彼女にしては珍しく気遣うようにゆっくりと中に入ってきた。
若草色のリボンで結った髪が歩く度にふわりと揺れる。
「エドナ、君はずっとついていたんだろう?アリーシャは一体どうしたんだ?」
スレイ達が崖に追いつめられた時、ミクリオ達も彼らの傍にいた。
いくら呼び掛けても気付かない彼らから、憑魔に身体を乗っ取られた兵士たちを必死に退けていた。
風の如く現れたロゼと共に崖から落ちた時も、スレイ達の後を追って飛び降りた。いくら下が川とはいえ、意識のないスレイがこの濁流に落ちたら無事では済まない。
そう判断したミクリオ達は顔を見合わせ、気を失ったスレイにはミクリオが、自分たちに遅れて地を蹴ったアリーシャにはエドナがついたのだ。
残るライラはロゼにつこうとしたが、彼女に纏うようかのように吹いた風にその必要がないだろうと、ミクリオを手伝った。
その際、為すがまま流されるスレイとアリーシャ達とで大分距離が空いてしまい、見失ってしまった。岸辺になんとか上がりはしたものの、スレイを放っておくこともできず、ずっと安否が気になっていたのだ。
そうして、風の骨の仲間が発見したと思ったら、この状況。離れている間に、一体何があったというのだろうか。
「……………」
「おい、エドナ――――」
「ミクリオさん」
空色の瞳を半分隠して沈黙するエドナに焦れて、ミクリオが咎めるように少女に詰め寄ろうとしてライラに止められた。思わず振り向いた先の、静謐(せいひつ)さを宿した緑玉の瞳に見つめられて、血が昇りかけていた頭が冷えていくのを感じた。
ミクリオは息をついて、すまないとエドナに謝る。
狼狽える親友の代わりに冷静であろうとしていたが、どうやら自分も相当アリーシャが倒れたことに動揺しているらしい。
「…アリーシャの中に入って、ワタシの力を使ったの。だから多分、ああなったのだと思うわ」
数秒の間の後、漸く口を開いたエドナは、ちらりとベッドに身を沈めるアリーシャに視線を向けた。
衰えることのない激流に呑みこまれかけていた少女に入って、自身の声が届いた事にこれ幸いとばかりに理由も言わず川底に拳を叩きこめと命じた。一瞬戸惑う素振りを見せた彼女は、しかしすぐに指示に応じて鎧に包まれた腕を振り下ろしたのだ。
一か八か、彼女の動きに合わせて放った力は、一時的にだが見事に川を堰き止める事に成功した。
「あの子、スレイを探すことに必死で、川から上がろうとしなかったのよ」
スレイは無事だからと、渋るアリーシャを何とか宥めすかして岸辺に上げたのだ。それだけのことにどのくらい時間が掛かったことだろう。彼女の中に入っていなかったら、いっそのこと傘でどついていた。
そして川から上がった直後、突然糸が切れたように彼女は倒れた。
「人がいるところまで引きずろうにも何処だか定かじゃないし、かといって人が来そうにもない所に流されてるし…災難だったわ」
いつもより弱々しい口調で、エドナは心底まいったと言わんばかりに深い溜め息を吐いた。その憔悴ぶりに、彼女がどれほど苦労したのか目に見えるようだった。
「……おそらく、輿入れと似たような事が起こったんですわ」
輿入れ、とオウム返しに呟いて、ミクリオは口元に手を添える。
導師が天族と契約を交わし、浄化の力を手に入れるための儀式。レディレイクで行われた聖剣祭りで、スレイはライラを主神として契約し、そして導師となった。
「僕やライラを器にしたあと、スレイが熱を出したあの…?」
聖堂の台座に突き刺さる儀礼剣を引き抜き、憑魔化した人間を浄化したスレイは、あの後高熱を出して三日三晩寝込んでしまった。あれと同じ現象が、アリーシャに起きたということか。
確認するように問い掛けると、ライラは真剣な顔つきで頷いた。
「エドナさんの力を異質のものと判断して、体内で防衛本能が働いたのでしょう」
「だったら、スレイの時のように、アリーシャも三日三晩寝込む事になるのか?」
「わからないわ。入ったのは一時的だし、それにワタシ自身にはライラのような浄化の力はないもの。けど、導師の資質のない人間に入ったのは、初めてだったから……」
そう歯切れ悪く答えて、エドナは瞼を伏せる。彼女なりに、アリーシャがこうなってしまったことに責任を感じているらしい。ライラは自身の肩ほどしかない小さな少女を慰めるように、そっと肩に手を添えた。
「いつ目覚めるか、予想がつかないって訳か……」
人間には、天族のように天響術を操るような力はない。その代わりに天族の力に応じる力、霊応力がある。
霊能力が高い者は、天族が見える。その力の強さによって、導師に選ばれる。才能に満ち溢れているとライラが称賛したスレイでさえ、三日。
彼女は一体、回復にどれほどの時間が掛かるのだろう。すぐかも、それ以上かも検討がつかなかった。
「今は休みましょう?こればかりは、考えても仕方ありません」
重苦しい空気が漂う中、ライラがそれを取り払うように柔らかく微笑んだ。ミクリオとエドナもそれに頷き、どちらもアリーシャを一瞥してから、爆睡するスレイの中へと入っていった。


◇   ◆   ◇   ◆


翌朝、広間のざわめきに目を覚ましたスレイは、ベッドから起き上がって隣で眠るアリーシャの様子を見た。髪を下ろした少女の額に乗せられた布を取り上げ、入れ替わりにそっと手の平を当てる。じんわりと伝わる体温に、スレイはほっと息をついた。熱は大分下がったようだ。
それでも念のためにとテーブル代わりの木箱に置かれた水桶に布を浸して、水気を絞ってからもう一度彼女の額に乗せた。穏やかな寝息に、自然と表情が緩む。
「…そうだ」
ふと思いついて、スレイはベッドの傍に立て膝をついて、鎧とグローブが外された白い手を握った。自分よりも一回り程小さい手は、片手で覆えるくらいの大きさで、スレイは少しばかり驚いた。
手を覆うものがないだけでけっこう違うなと、包み込んだそれをまじまじと見つめる。自身の無骨な手と比べて、想像以上に柔らかい。この手が、あの身の丈以上もある長槍を振るっているものと同じということが、何だか信じれらなかった。
『起きて早々、何やってるんだ、君は』
咎めるような声が頭の中で響いたかと思うと、自身の身体から白い光がふわりと浮きあがった。顕現(けんげん)して早々、ミクリオは呆れた表情でスレイを見下ろしていた。
「ん…そういえばオレが熱出した時、ジイジとか杜の皆がこうやってくれたなぁって」
アリーシャが起きないようにと、潜めた声に懐かしさが滲む。まだ、自分たちが幼い頃の話だ。
「あぁ…そういえばそうだったな」
思い出しているのだろう。ミクリオが遠くを見つめるように、紫色の瞳をすいと細めた。
「ミクリオもそうしてくれたよな」
「……あれは、ジイジがお前もやれって言ってきたから…」
目元を僅かに赤らめて、それを隠すように片手で顔を覆って視線を逸らす幼馴染に、スレイはにかりと嬉しそうに笑った。
「それでも、ジイジやミクリオ達が傍にいるってわかって、すっげぇ安心した」
起きている時でも、誰かが傍にいる。寝ていても、見守っていてくれる。熱を出して苦しくて、身動きが取れない時、そのことがすごく嬉しくて、安心して。その優しさに、ひどく心が安らいだ。
だからさと、スレイは握った手をミクリオに見せるようにそうっと持ち上げる。
そんな安堵やぬくもりが、アリーシャにも伝わればいい。
屈託のない笑みを向ける親友に、ミクリオは呆気にとられつつも微笑する。
「……まったく、君ってヤツは…」
「まぁ、これくらいしか今のオレにはできないってのもあるけど…」
困ったように笑いながら、握っていない方の手で頬を掻く。今は部屋からは出られない状況だ。人は起きているようだが、疫病感染の疑惑がまだ晴れないうちは勝手な行動はできないだろう。
「確かに、昨日のスレイの役立たずっぷりは笑えたな」
「うっせー。ミクリオだって焦りまくってたくせに」
穏やかな微笑みから一転、にやりと口角を上げて挑発的な声で昨夜のことを指摘してきた親友に、スレイは唇を尖らせて反論した。
その返しに今度はミクリオがむっと顔をしかめて、小さな小競り合いがはじまりかけた、その時。
『―――寝てる相手を口説いてどうするのよ』
溜め息と共に耳朶に響いた声音に、スレイはきょとんと瞬きを繰り返す。次いで先程と同じく浮いて出てきた光が人型をとり、二人の天族が姿を現した。
「スレイのは天然だ。スレイ自身にそんなつもりはないよ」
「知ってるわ。アナタも何照れてんのよ、ミクリオボーヤ」
「僕は照れてなんかっ…というかその呼び方は止めてくれ!」
「エドナ!よかった、無事だったんだな!」
ずっと姿を見なかった地の天族の少女がここにいることに、スレイは声を上げて喜ぶ。彼の心の底からの嬉しそうな声音に、エドナは猫のような瞳をまん丸にして驚いて、ふいに視線を外した。
不思議そうに首を傾げた少年に、それを少女の後ろから眺めていたライラは、優しげに目を細めてくすりと微笑む。
アリーシャの手を握ったまま全員揃った仲間たちを見回して、ふいに昨夜の会話が思い起こされる。そういえば、獅子の男と対峙した時、彼らは何故忽然と消えてしまったのだろう。
「なぁ、ヘルダルフと戦った時、何で皆いなくなっちゃったんだ?」
顔を引き締めてそう尋ねると、別にいなくなってなんかいない、とミクリオは答えてきた。ずっとスレイの傍にいたと付け加えたライラの言葉に、スレイは複雑な顔をして思案する。
なら、自分が皆の―――天族のことが見えなくなっていたということかと質問すると、そうだと肯定が返ってきた。
「結局ヘルダルフとか言う獅子の顔の男は、あの時一体何をしたんだ?」
険しい顔で顎に手を当てるミクリオに、エドナが考えたことない?と小首を傾げながら問い掛けてきた。
「二つの領域が重なったら、どちらの加護が強く影響するか」
「……どういうこと?」
領域とは、天族や憑魔など、力の強い者が展開できる空間のことだ。ウーノやロハンのように、地の主となった上位天族が展開した加護領域もそのひとつである。展開した領域内であれば、その力で街の人々に加護を与え、また自分よりも弱い憑魔を退けたり、弱体化させることも可能だ。
そして霊応力の高い者が選ばれる導師も、自分の周囲に領域を展開することができ、また自身が清浄な器として契約した天族を穢れから守ることができる。
エドナの問いは、その領域が重なり合ったらどうなるか、ということだ。だが、ピンとくる考えが思い浮かばなくて、素直にエドナに問い返す。
彼女の問いに答えたのは、ライラだった。
「重なった領域は、力の強い方に呑み込まれます。つまり、あの時スレイさんの導師としての領域は、かの者のそれに打ち負けたのです」
そのせいで、自分の霊応力が一時的にマヒしたのだという。ライラの説明に、ミクリオとスレイはそういうことかしきりに頷いて、険しい顔をする。
言い換えれば、今の自分の力は、ヘルダルフの足元にも及ばなかったということだ。
二人して難しい顔で黙りこくる少年らに、エドナは静かな声でしょうがないわ、と口を開いた。
「ドラゴンよりも強く、穢れた領域を持っているんだもの」
ドラゴンよりも、強い。ひどく温度のないその声色に、スレイは霊峰で出会ったドラゴンのことを思い出す。
あの時は喉が塞がれるような息苦しさを感じても、逃げ切れる程度には身体が動いた。だがあの戦場では、動くことすらままならなかった。
身体を内側から押しつぶされるような暴力的な重圧を思い出して、無意識に奥歯を噛みしめた。
「ヘルダルフ…災禍の顕主の力は、あんなに強いのか…」
深刻な面差しで呟いたスレイに、ライラははい、と重々しく頷く。
じゃあ、とスレイはぎゅっと手に力を込める。穢れとは、人が生み出す負の感情により湧き出るもの。穢れが憑魔を生み、その憑魔がさらなる穢れを生む。逆に言えば、人が負の感情に囚われなければ、天族も人も穢れる事はない。――――ならば。
「あいつがあれほどの穢れの力を持ったのは、何か理由があるって訳か」
「当然だろうな。あんなのが自然に生まれてたまるか」
一体、どのような事があれば、戦場一つを狂わせる程の穢れを纏うことができるのか。イズチの皆とずっと平穏な暮らしを送っていた自分では、とても想像がつかない。
「それを識り、スレイさんが答えを持って、かの者に挑まなければ……あっ」
眉間に皺を寄せて物思いにふけるスレイを諭すようにライラが口を開いて、しかしそれは中途半端に途切れた。怪訝に思って彼女に顔を向けると、口元に両手を当てて目を見開く姿があった。驚いた様子のライラが気になって、見下ろす視線の先を辿る。
「……スレ、イ…?」
辿った先にあったのは、ライラよりも薄い翡翠色の瞳。まだ眠気の抜けきらないぼんやりとした、けれど凛とした響きが残った声音に、スレイは込み上げてくる歓喜を乗せて名を叫んだ。
「アリーシャ!」
未だ寝ぼけ眼だった少女は、少年の声によってはっきりと目を覚ましたらしく、目を剥いてがばりと起き上がった。自身の手を握るスレイの手にもう一方の手を添えて、アリーシャは先程のスレイと同じく喜びに笑み崩れる。
「スレイ…!良かった!無事だったんだな!」
「…うん、なんとか」
心の底から安堵したその笑顔に何処かくすぐったいような気分になっていると、背後でエドナが溜め息を零す音が聞こえた。多分、スレイがエドナに向けた台詞と同じものを、しかも同じ感情の込めた言葉を彼女が口にしたからだろう。
そう見当をつけてから、ふと自分の言葉に視線を逸らしたエドナの姿を思い出した。もしかしたら、彼女もこんな気持ちになったのかもしれない。スレイは照れくさそうに、空いている手で頬を掻いた。
自分のことを気遣って、何ともない事に笑ってくれるのは、心配させてしまったとはいえ嬉しい。余裕のなかった心に、穏やかな風がさらりと凪いだ気分になる。
「アリーシャこそ、身体はもう大丈夫?調子悪い所はない?」
言われてから、アリーシャはやっと今の状況を気にしはじめた。きょろきょろと周囲を見回し、自身と周りの状態を検分しながら、独り言のようにここは、と呟く。
「ティンタジェル遺跡ってところ。か……えぇと、マーリンドに薬を届けてくれた商団の人達が助けてくれたんだ」
流石に暗殺ギルドだということを無関係の自分から話してはならない気がして、スレイは彼女達のもう一つの顔で事情を説明した。しかもその暗殺組織にアジトの中だ。後が怖い。
「ああ、セキレイの羽の……、そうだ、エドナ様は!」
なるほどとこくこくと頷いていたアリーシャは、突然思い出したようにはっと顔を上げて、再び視線を忙しなく動かして地の天族の名を呼んだ。
「ん、いるよ。そこに」
ころころと表情を変える少女に目元を和ませながら、スレイは後ろに向いた。彼と目が合ったエドナは、やや気まずそうに傘を広げて顔を半分ほど隠した。
「エドナ様、助けてくださってありがとうございました」
スレイの示した方向に顔を向けて、アリーシャは心からの感謝を述べる。それを聞いたエドナは、やはり居心地の悪そうな声音でぼそぼそと呟く。
「…別に、あのまま川で溺れても夢見が悪かっただけよ」
「それでも、命を救ってくださったことに変わりはありません。感謝いたします」
尚も礼を言う彼女に、少女は傘をゆっくりと上に向けてスレイ達を見て、ふいに目を丸くする。
「…アリーシャ、ワタシの声が聴こえるの…?」
「え、あっはい。こうしてスレイと手を繋いでいるので……」
きょとんと互いに顔を見合わせて、繋ぐ手と天族たちのいる方向を交互に見つめた。発した言葉もタイミングも、聞こえなければできるはずもない返答だ。だが、エドナの傍に控えていたミクリオやライラまで目を瞠って自分達のことを凝視してきた。
何故それほど驚いているのだろうと疑問に思って、スレイはおやと違和感に気付く。
「あれ?オレ目、閉じてない」
「え、あっ」
いつもだったら目を閉じて、感覚の一つを遮断しなければアリーシャにはエドナ達の声が届かない。だからアリーシャが天族と会話する時は当然、自分は目の前にいる彼女も仲間達の姿も見えない筈だった。
「で、でも聴こえるんだ。やはり見ることはかなわないが、確かにエドナ様の声が…」
戸惑いながらも本当なんだと弁明をするアリーシャに、スレイは目を輝かせてもう片方の手で彼女の手の甲を握った。白く細い手と、骨ばった自分の手が順番に交差する。傍から見れば、何とも奇妙な繋ぎ方だ。
「すごいやアリーシャ!手を繋ぐだけでも聴こえるようになったんだ!」
「い、いや…私は何も…スレイが強くなったんじゃないだろうか?」
いきなりぐっと目前に迫った少年の顔に、アリーシャは目を白黒させながらもおずおずと答える。裏表のない賛辞の言葉が無性にこそばゆくて、思わず眩しい笑顔から視線を外した。
困った顔で目を泳がせる少女をよそに、状況を見守っていたミクリオとライラはその変化について思案に暮れる。
「強い力にあてられて、霊応力が上がったのか…?」
「もしかしたら、そうかもしれません…」
修練と似たようなものだ。厳しい環境へ身を投じて自身を窮地に追いやり、自らの能力を底上げする。それと同じことがスレイに、もしくはアリーシャに起こったのかもしれない。
未だ歓声を上げて喜んでいるスレイと気恥ずかしげに俯いているアリーシャを至極真面目な面差しで見つめていると、す、と傍で小さな影が動いた。
声も掛ける間もなくベッドの傍まで移動したその影は、いつの間にかたたんだらしい傘をコンと鳴らしてから、手首を返して腕を引く。
「―――いっっだぁ!!」
小さな遺跡の一室に、蛙が引かれたような声が響いた。
「…っ…!…え、エドナ?」
「アリーシャ、よく聞きなさい」
「は、はいっ!」
背中を傘でどつかれたスレイは、恐る恐る地の天族の名を呼ぶ。が、半眼の少女はそれを黙殺して、呆気にとられて固まるアリーシャに声を掛けた。冷やかに感じるその声音に無意識に背筋が伸びて、思わず騎士団の号令時の如く威勢のいい返事を返した。
「我を忘れて川に飛び込むなんて、無鉄砲すぎ、無謀すぎ。考えなしにも程があるわ。曲がりなりにも自分を騎士と名乗るなら、自分の力量をきちんと見定めなさい」
「は、はい…」
「少しは余裕というものを持ちなさい。ずっと突っ走ってばかりで、見てられないわ」
「……はい…」
反論のしようもない程の的確で率直な指摘に、胸を突かれる思いだった。というか、刺さる。師匠であるマルトランにも似たようなことをよく注意されるが、言葉の鋭さがその比ではなかった。
晴天の空のような薄めの青い双眸が怜悧にきらめいていることを想像して、更に身が縮んだ。見た目は大層可憐で可愛らしい少女だが、絶対零度で静かに怒る様は大変怖い。
「……それから」
肩を竦めて反省するアリーシャに、やや間を置いてからエドナはもう一度口を開いた。
「…もう少し、自分のことも考えなさい。じゃなきゃそのうち死ぬわよ」
しんと静まる室内に小さく落とされた、冷たさの消えたその言葉に、アリーシャは勢いよく俯けていた顔を上げた。
声の聞こえた方向をまじまじと見つめながら呆然とする彼女に、心配してるみたい、と少年が楽しそうな声で囁いた。
耳元で響いたスレイの呟きに、アリーシャの胸にあたたかな灯が広がっていく。今、彼女はどんな表情をしているのだろう。姿が見えないことを、今まで以上にもどかしく思った。これでは、きちんと顔を合わせていられているか、わからない。
「…ありがとうございます、エドナ様」
こんこんと湧き出るあたたかさが浸み出るように柔らかな笑みを浮かべながら、アリーシャは再び自身を助けてくれた天族に感謝した。


「あのー、お取り込み中悪いんだけど…」
はたとスレイ達は目をしばたかせ、ふいに聞こえてきた声に視線を向ける。見ると、セキレイの羽の制服を着た者たちが五人、不審そうに顔を引き攣らせてこちらの様子を窺っていた。
「何で二人とも、何もないとこに向かってブツブツ言ってるの?」
その中でもひと際強張った表情をした赤髪の少女が、恐々といった具合で声を掛けてきて、スレイ達は全員複雑な表情を浮かべた。何と説明すればいいのだろうか。
「えぇっと……ここに、仲間がいるんだけど…」
「……………は?」
その後、天族の存在を何とか信じてもらおうとして、スレイは半日以上昏倒することになったのだった。





「だぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ちょっ――――!」
「あーぁ…」
「す、スレイ?!だ、大丈夫か?しっかり!」
「スレイの奴、一発KOだな…」
「二度とあたしにそっち系の話題振ってくんなぁぁぁぁ…!!」
「あ、ロゼさんがもうあんなところに…」
「ものすごい全力疾走ね。あの風の天族の加護かしら」
「エ〜ド〜ナ〜!感心してる場合じゃないだろ!場を引っ?き回すな!」






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