一蓮托生


がやがやと賑わう声が頭上を通り過ぎていく。宿題の提出が、売店の新商品が、と自然と耳に入ってくる会話を途切れ途切れに拾いながら、エアグルーヴは次の授業の準備を済ませてからスマホを取り出した。
スイッチを押して画面を開くと、すぐさまメッセージアプリの通知が目に飛び込んできた。バナーに表示された宛先を確認し、エアグルーヴは訝しげに眉を潜める。定時連絡以外にメッセージが来るのは初めてだった。
目安箱をチェックしようと思っていたが、ひとまず後回しだ。アイコンをタップしてアプリを立ち上げる。手短な挨拶と謝罪がまず初めに、一旦送信されてから二つ目の吹き出しに本題が続く。
エアグルーヴはかすかに耳を揺らし、『承知いたしました』と返信を打ってから席を立った。

「アマゾン……と、もうフジもいるのか」
四時間目の授業を終えて目的の教室を訪ねると、ヒシアマゾンとフジキセキが既に揃って待機していた。時刻は昼時。生徒たちのほとんどがカフェテリアに向かうため、この時間帯の教室は案外と閑散としている。
「お、来たね」
「やあ、エアグルーヴ。私たちに用があるんだって?」
ヒシアマゾンの席を前後に座っている二人がそれぞれ声をかけてくる。エアグルーヴは頷きながら歩み寄り、彼女たちにファイルを手渡した。
「駿大祭準備合宿メンバーの夜間外出届だ。今日の夜からのな」
駿大祭準備合宿とは、その名の通りURAが主催する駿大祭準備のために設けられた短期合宿である。今回トレセン学園が担当となったのは、奉納舞と流鏑馬。その踊り手と射手に選ばれた者たちが、技術向上を目的として参加している。
そしてその参加者全員分の夜間外出届が、今しがた渡したファイルの中身というわけだ。
「合宿メンバーの? 何でまた?」
「会長からの指示でな。詳細は伺っていないが、何か考えがあってのことだろう」
不思議そうに目をしばたかせるヒシアマゾンにそう返せば、書類を確認していたフジキセキがくすりと笑みをこぼした。
「『現地の秋祭りを視察し、祭りに対する知見を深める』か……。確かに、仕事一筋の会長さんなら、ただ遊びに行きたいからって理由じゃあなさそうだね。最高のエンターテインメントに導くための、ひとつの布石……かな?」
好奇心に満ちた眼差しがちらりとエアグルーヴを見上げる。よく鼻が利くものだ。常日頃から好んでサプライズを仕込んでいるだけのことはある。
「ああ、おそらくはな」
そしてエアグルーヴも概ね同意見だった。
此度の合宿には、ユキノビジンとゴールドシチー、そしてカレンチャンが同行している。後輩である彼女たちの息抜きも兼ねている可能性はあるが、それだけの理由でこうしてエアグルーヴに頼み事はしないだろう。よしんばそうであったとして、事前に申請していくのがシンボリルドルフというウマ娘だ。
「できるだけ早く回答が欲しい。急ですまないが、受理され次第私に連絡してくれ」
まあ視察だと案外と観光に食巡りにと全力で楽しむお方だがな、と喉元まで上がりかけた台詞は飲み込んで、エアグルーヴはそう言い添えた。確実に面白おかしくからかわれるだろうことが目に見えていたからだ。特にフジキセキに。
「おうよ! んじゃ、昼休み中にひとっ走りして寮母さんに届けてくるかね。フジ、どっちが先に寮に辿り着けるか、タイマンといこうじゃないか!」
「ふふ、それでこそヒシアマだね。望むところさ!」
「念のため言っておくが、くれぐれも外で全力を出すんじゃないぞ」
胡乱げに釘を刺せば、二人はもちろんだと笑って頷く。間髪入れずに返ってきた答えに、吊り上げた目尻をすぐに下げた。
こちらも本気で言ったわけではない。彼女らが常日頃から規則を重んじているのは、エアグルーヴとてよく知っているのだ。
「だがまあ、そうしてくれると助かる。二人とも、協力感謝する」
「我らが会長と副会長のお願いとあらばお安い御用さ! 私たちだって、駿大祭はとっても楽しみにしているんだからね」
「そうそう! あのブライアンが射手をやるっていうんだ。しかも相方は会長だろ? 絶対アツい勝負が見れるに決まってるからね! アイツがレースと肉以外でやる気出すってのが、イマイチ想像できないけど……」
と、話している途中でんん? とヒシアマゾンは眉を潜め、手元に視線を落とす。
「まさかこれ、アイツのせいじゃないろうね……?」
「あはは。いくらブライアンでもその可能性は……ないとは言い切れないなぁ」
「だとしたら説教だな。まったく……」
絶対にサボるような真似はするなと、あれほど口を酸っぱくして言っておいたものを。年中行事の重要性や意義をまるでわかっていない。いや、まだナリタブライアンが原因だとは決まったわけではないが。
だが十中八九、彼女もその要因であるはずだ。出立前のやる気のない表情が既に物語っていた。
次に顔を合わせた際は開口一番に煉言をくれてやる。固く心に決めて踵を返しかけた時、そういえばとエアグルーヴは足を止めた。外出届とは別に、伝えておきたい案件があったのだった。
「そうだ、フジ。寮の壁に空いた穴だが、明後日に業者が修理に来る。立会いは任せた」
「ああ、もう来てくれるんだ。了解だよ」
心得たとばかりにフジキセキが胸を叩いてみせたのを横目に、今度はヒシアマゾンに視線を向ける。これも以前から打診されていた件だ。
「それとアマゾン、寮キッチンへの業務用フードプロセッサー導入の件、予算が取れそうだぞ」
「ほんとかい? よっしゃあ! これで試したかった料理が作れるよ!」
要望が通ったことを伝えれば、彼女は瞬く間に目を輝かせて拳を上げた。椅子から立ち上がるほどに喜ぶ姿に、エアグルーヴは呆れ半分の笑みを浮かべる。
気持ちはまあわからないでもない。新調した道具は、すぐにでも試してみたくなるものだ。
「あまり作りすぎるなよ」
「その時は栗東にお裾分けするさ。任せたよ、ブラックホールお抱え寮」
冗談交じりに言えば、上機嫌に軽口を返される。「じゃあお返し用のお菓子でも作っとこうかな」とフジキセキが乗り、そして目を細めたままエアグルーヴをじっと見つめた。
「……君が生徒会長になっても、良き治世は続きそうだね。女帝さん」
ふいに投げられた言葉に、怪訝な眼差しを彼女に向ける。
「何だ、急に?」
「ちょっと思い出してね。君が生徒会選挙に出た頃のことを。……また立候補する気はないのかい?」
思わぬ問いに、エアグルーヴは数度目をしばたかせる。しかしすぐに気を取り直し、腕を組みながらフジキセキを睨みつけた。
「お前、私がどう答えるのかわかっていて尋ねているだろう」
「おや、バレてしまったか」
「悪趣味だぞ」
「ひどいなぁ」
「いいからさっさと行け。報告を忘れるなよ」
そう釘を刺し、エアグルーヴは教室から出ていった。直後に廊下から呼び止める声が聞こえてくる。どうやら彼女を待っていた生徒がいたようだ。
ら彼女を待っていた生徒がいたようだ。
忙しそうだなぁ、とフジキセキは口の端を上げる。けれど元気そうだ。あの活力に自分も負けていられない。
「さて、私たちもそろそろ……」
行こうか、と立ち上がりながら声を掛け、しかし途中で言葉を止めた。ヒシアマゾンが眉間にしわを寄せて、エアグルーヴが出ていったドアを睨むように見つめていたのだ。
「どうしたんだい、ヒシアマ? いつも元気な君の顔が曇っていると、私まで悲しくなってしまうよ」
「あーハイハイ。そういうのはいいっつってんだよ」
「やれやれ、二人ともつれないなぁ」
大袈裟に肩を竦めながら、それで、と机越しに活発そうなその顔を覗き込む。
「難しい顔をしていた理由は、聞かせてはくれないのかな? それとも、私には言えないようなことだったり?」
「別にそういうんじゃないっての! ったく……エアグルーヴが生徒会長になったらって、ちょっと想像してみたんだよ。けど、それって今とどう違うのかと思ってさ」
なるほど、とフジキセキは相槌を打つ。先ほどの自分たちの会話について考えていたのか。口をへの字に曲げて唸っているヒシアマゾンを見つめ、楽しげに微笑む。
「うん、そういうことだね」
自分の返答にヒシアマゾンは尚のこと首を傾げたが、詳しく答える気はフジキセキにはなかった。
「ほら、寮までタイマンするんだろう? 早くやろうよ、ヒシアマ」
代わりに書類を軽く振って促せば、一瞬でヒシアマゾンは目つきを変えた。赤い瞳をまさに燃えるように揺らして口端を吊り上げた彼女に、フジキセキも同じ笑みを唇に乗せて合図を告げたのだった。


◆  ◆  ◆


『では、また後ほど──』
「はい、では定時連絡の際に。お待ちしております」
スマホに映る相手に挨拶を述べた直後、『会長さ〜ん』と彼女を呼ぶ声が聞こえた。画面の向こうの紅梅の瞳がちらと横を向き、微笑みを浮かべたところで通話が切れた。
切り替わった画面を見つめながら小さく息をつき、エアグルーヴは会長席の椅子に背中を預ける。執務机の中央には確認を完了したばかりの書類が、書類の山に挟まれぽつんと置かれていた。
あの口調と声音はカレンチャンか。このタイミングでルドルフに声を掛けたということは、彼女も何かしら思うところがあったのだろう。
(ブライアンには会長が、ユキノビジンとゴールドシチーには彼女が……と、そこまで考えたうえでの人選だったのだろうか)
可能性としてはあり得る。もちろんルドルフだけの意見で、ゴールドシチーらを奉納舞に推挙したわけではない。あの人選は生徒会役員と寮長二名で話し合って決めたものだ。
彼女たちの知名度やライブでの演技力、交友関係などを踏まえたうえでの全員一致の見解であり、その点についてはルドルフも同意見であったはずだ。しかし彼女はさらに先の展開……いや、いくつもの展開を踏まえて推挙したのかもしれない。
「まだまだ、あの方の視野の広さには届かんな……」
普段であれば呑み込んでいた言葉が、ため息とともにこぼれる。
口を噤みかけ、別にかまわないか、とエアグルーヴはもう一度ため息を落とした。他の生徒会役員は先ほど帰らせた。この時間帯に生徒会室を訪ねる者もいないだろう。
エアグルーヴも役員らと共に生徒会室を出るつもりだったのだが、丁度そのときにフジキセキとヒシアマゾンから連絡がきたのだ。
寮の門限は二十時。夜間外出届が必要なのはそれ以降の時間だ。
寮に帰ってからでも充分に間に合った。が、どうせなら早い方がいいだろうと電話を掛けたのつい先ほどであった。
ともあれ、これで心置きなく祭りに繰り出せることだろう。ルドルフの思惑が上手くいくかどうか、その点についてはさほど心配していない。あの方なら上手くやることだろう。
「合宿も今日で折り返しか……」
呟き、天井の明かりを遮るようにして瞼を閉じる。一人きりの生徒会室は、静寂に包まれて物音ひとつしない。書類作業中でさえ音があったのだなと、意図せず実感することになった。
二人を送り出して早数日。会長と副会長の抜けた生徒会は、滞りなく回っている。
──『君が生徒会長になっても、良き治世は続きそうだね。女帝さん』
日中のフジキセキの言葉が脳裏に響く。当然だ。そのために皆で基盤を作ったのだから。
ルドルフがシニア級に上がったばかりの頃だ。我々生徒会が一丸となって突き進んでいくためには、どうすればいいのか。当時のエアグルーヴたちはとことん議論しあった。
各々が責任をもって役目を担っていこう。誰かひとりに寄りかかるのではなく、互いに支え合えるような体制を。そのための手段を、方針を……と、要はルドルフの代で膨れ上がった生徒会業務の標準化を図ったのである。
そうして今の生徒会は、完全ではないが理想の組織を形作ろうとしている。
(未だ直せていない欠点も、解消せねばならない問題もある。だが、)
当時と比べれば一目瞭然の部分もある。重鎮が抜けても、その影響で各自の業務量が増えていながらも、役員らは変わらず業務をこなしている。忙しなく動き回っているが、疲労困憊している様子はない。
エアグルーヴひとりに過度な負担がのしかかっているわけでもなし。学園の生徒からも、不安の声はほとんど上がってきていない。
ぼんやりと白い天井を見つめながら、エアグルーヴはふ、と口唇に淡い微笑みを刷く。
彼女たちが成長していること、生徒会が良い方向に向かっていること。目に見えて変化しているのだという実感が、素直に嬉しい。
そもそもルドルフひとりの負担がこれまでは大きすぎたのだ。しかも本人がそれを当然だと思っていたのだから尚更タチが悪かった。
今でも放っておくと仕事をやりすぎてしまう節がある。が、最近ではそれが良くないことだとようやく理解してくれたのだから、大分進歩したものだ。
「あれはもう性分だろうからな……気長に待つしかない」
──果たして直るだろうか。そんな疑問が頭上を通り過ぎる。完全には無理かもしれない、と返ってきた己の声を否定できなかった。これだから目が離せないのだ。
静かに息を吐いて、エアグルーヴは一度ぐっと腕を伸ばした。筋を伸ばしてから組んだ手を外し、チェック済みの書類を二つある山のうちのひとつに乗せる。
昼間ヒシアマゾンに伝えたフードプロセッサーの見積書と発注書だ。理事長とたづな秘書には、先に裁可をもらってある。
あとはルドルフが承諾するだけ、という書類ばかりがこの山には積まれている。ちなみにもう一方の山は、ルドルフ宛にきた依頼書の類である。
エアグルーヴは書類の山からそっと手を離し、綺麗に磨かれた執務机を指先でなぞった。僅かな逡巡ののち、そのまま机に身を伏せた。
業務は既に終わっている。しかし、まだ帰る気にはなれなかった。
フジキセキのやつ、とエアグルーヴは手の甲に額を乗せたまま名を呟く。
「余計なものを掘り返してきおって……」
発した声は、知らず恨めしげなものになってしまった。いや、別にフジキセキが直接の原因ではない。エアグルーヴがこうなっているとは、彼女は思いもしていないだろう。
ただ、あの問い掛けをきっかけに、厄介なものが湧いてしまっただけだ。
「立候補はしないのか、か……」
少し前にドーベルにも言われたな、とエアグルーヴは軽く目を伏せる。彼女の場合は本心からの疑問であったが。
自分も、あの頃よりもずっと実力はついた。生徒からも少なくはない信頼を得ている。過信でも何でもなく、今自分とルドルフが争えばかなりの接戦になるだろう。
当時のように明確な敗北ではなく、どちらに転ぶか最後までわからないような、そんな勝負に。
(……だが、そうだとしても)
あの頃のように、立候補しようとは思わない。
折れたわけではない。そこに意味を見出せないだけだ。これもまた、先ほどの標準化の話に通じている。
変わらないのだ。エアグルーヴが生徒会長になったとしても、更に言えば自分以外の誰かがなったとしても。他ならぬエアグルーヴたちが、そうなるように生徒会を作り直した。
学園内に生徒のための揺るがぬ礎を作り、目に見えない財産を遠い未来の生徒にまで連綿と引き継いでいくこと。それこそが生徒会の存在意義だろうと。
その在り方は、エアグルーヴの目指す理想にも繋がっている。おそらくは、ルドルフの理想にも。
つまりエアグルーヴの夢は、現状でも叶えることが可能というわけだ。母のようなウマ娘になることも、後進を導くことも、そのために土壌を整えることも、全て。
ゆえに、いま自分が生徒会長に立候補する理由が見当たらない。──というのが一つ。
もう一つは、より以前から抱いていたものだった。それこそ己がルドルフの右腕を自負したその時から。

──『我々の"皇帝"には、いつでも夢を見させていただかねば』

そして思うだけでなく明言をしたのも、その時期だったか。エアグルーヴは顔を伏せたまま瞼を閉じる。
理想の己であるために、何もかもを独りで抱え込み、無理をして、ルドルフは途方に暮れていた。あの時に、エアグルーヴは胸に秘めていたその言葉を彼女に告げたのだ。
全てのウマ娘が幸福になれる世界を創造する。まさに夢物語のようなルドルフの理想に、エアグルーヴ自身もまた夢を見た。
ルドルフの理想が叶うその瞬間を、この目で見たい。叶えられた世界を見てみたいと思った。
望みは更にその先を願った。見るだけでは足りない。共に夢を追いたい。彼女の背負うものを、自分も担いたいと。
そうしてルドルフという存在は、先輩でも上司でもなく、果てなき理想を目指す同志となった。
差し伸べられた手を取ったあの時に、エアグルーヴは覚悟を決めた。理想を追いかけるルドルフを、傍らで見守る役目を担おうと。彼女を支え、道を誤れば正す責務を己に課した。
ゆえにエアグルーヴ自身もまた、ルドルフが生徒会長であることを望んでいる。それが二つ目の理由だ。

そこまではいい、と額を乗せたまま両手に力をこめる。ここ最近は──もっと以前からあったのかもしれないが、自覚したという意味では最近であった──そこに厄介な変化が生じていた。
それこそが、今まさにエアグルーヴの心をざわめかせているものの正体である。
「いかんな、完全に宥めたつもりだったんだが……」
気休めに首を振ってみるが、やはり鎮まらない。胸の奥底で非難がましく唸る声に、エアグルーヴは眉を潜めた。
──何故、自分ではないのだろう。
流鏑馬の射手に選ばれたのが自分ではなく、何故ブライアンなのか。
もちろん理解はしている。ルドルフがブライアンを選んだ理由も、彼女に望んでいることは何なのかも。
ブライアンでなければならない理由。彼女だからこそ相応しい役割。
ルドルフらしい考え方だ。納得もしている。そこに彼女個人の望みが含まれていることも、確かに喜ばしく思っているのだ。
それでも、何故、と。
ブライアンにでも知られたら嫌そうに顔を顰められそうだ、と自嘲気味に笑う。
いいや、何もブライアンだからではない。例え誰であろうと同じ様に思っただろう。そんな身勝手な感情が、ちりちりと燻って消えてくれないのだ。
(私もブライアンのようであれば、迷うくらいはなさっただろうか……)
闘争心を燃え滾らせ、ひたすらに強者との狩りを楽しむ怪物であったら。
そこまで考えて、嘆息する。仮にそうだとして、ならば彼女のようになるかと問われれば、答えは否だ。
その生き方は、エアグルーヴが目指す理想に反する。もちろん時には何もかもをかなぐり捨ててただ本能のままに走りたいと、思うことはあるが。
それでも、ルドルフが自分以外の誰かを求める。彼女から手を伸ばして誰かを望む、そんな時。
──白いスカーフに隠れたその細い喉元に、無性に噛みついてやりたくなるときがある。
がち、と歯がぶつかる音と衝撃にはっと我に返る。無意識に強く噛みしめてしまったらしい。顎の力を緩め、また噛んでしまわぬように上体を起こす。
無色透明だったはずの望みに、突如降ってきた一滴の雫。それが何であるかは、とうに自覚している。
あの方の隣は譲らない。共に駆けるのはこの私だ。
あまりにも理不尽な不満。自己中心的な願望。自分勝手は百も承知だ。けれど抱かずにはいられない。
だからこそ抑え込んでいたというのに。フジキセキの一言をきっかけに、まんまと引きずり出されてしまった。
燻り続けるのそれを持て余したままこつこつと額を叩いていると、ふと視界の端に何かがちらついた。視線を巡らせれば、執務机の引き出しに小さな紙が貼りついていることに気付いた。
「付箋か?」
書類から落ちたものだろうか。よくもまあ器用に貼りついたものだなと軽く感心しながら手に取り──そこに書かれていた文字に、エアグルーヴは固まった。
『"樫"の女王に"菓子"の進呈だ!』
は? と唇から勝手に声がこぼれる。そのまま数秒。脳の理解が追い付いたあと、付箋が張られていた上から二段目の引き出しに恐る恐る手をかける。
滑らかにスライドして開いたそこには、明らかにプレゼント用にラッピングされた袋が収まっていた。
黄色いリボンが綺麗に結ばれた青い袋が、引き出しの半分ほどを埋めている。入っている場所は生徒会長の執務机。付箋には印字かと見紛うほどに恐ろしく整った文字……で、書かれた何とも反応に困る、いわゆる駄洒落という言葉遊びの一種。
「……………──、」
硬直が解けたエアグルーヴは、言葉も出ずにがっくりと肩を落とした。何を仕込んでいるのだあの人は。
何故こんなものを。いや労いだとはわかるが。
これを用意したのか。あのルドルフが。エアグルーヴにバレないように。こそこそと。
「……ふ、く……っ!」
そこまで考えたらもう堪えきれなかった。エアグルーヴは袋を持ったまま、肩を震わせて笑い出した。
「まったく、あのお方は……」
何というタイミングで気付かせてくれるのか。いや、今日気付くことになったのは全くの偶然だ。が、あまりにも絶妙すぎてルドルフが策を講じたのではないかと疑いたくなる。
おかげですっかり毒気を抜かれてしまった。あんなにも渦巻いていた感情が綺麗さっぱり消えていることに、エアグルーヴはますます笑いを抑えきれなくなる。
「まさか、自分で体験する羽目になるとはな……」
恋は盲目と言うが、ここまでとは。
しかもこの程度のことで。なるほどこれはどうしようもない。手にした付箋と袋を眺めて、くすくすと笑声をこぼした。
仕方がない、とエアグルーヴは内心で呟く。仕方がない、もう手遅れなのだ。
ルドルフの隣に在ること。ルドルフと共に駆けること。それがエアグルーヴの、ともすれば遥か未来まで確約された望みになってしまった、その時から。
ままならないこの感情すらも、結局は愛おしいのだと、そう思えるようになってしまったのだから。
「さて、返礼の品を考えなくてはな」
だが、やられっぱなしは性に合わない。ルドルフからの贈り物を見つめながら、エアグルーヴは柔らかく目を細める。
何にしようか。どうせなら駿大祭前に渡したい。本番前に軽く口にできるような、できるなら少しでも心に残ってくれるような、そんな品を。
候補をいくつか挙げながら、エアグルーヴは軽やかな足取りで生徒会室をあとにするのだった。


◆  ◆  ◆


ぱちぱちと薪の燃える原始的な音が、日の暮れた霊山に響く。かがり火と弓矢の的の間に立ち、ルドルフは山頂からの景色を見渡していた。
「見晴らしがいいな、ここは。山容水態(さんようすいたい)……早朝の風景も眺めてみたいものだ」
流石は霊山と名高い山だ。足を踏み入れた途端、祭りのざわめきが一瞬遠のき、厳粛な雰囲気で自然は自分たちを出迎えてくれた。
岩肌から流れ落ちる清水のせせらぎ。地面を覆う木の葉の絨毯。赤く色づいた紅葉が立ち並ぶ山道は、まさしく風光明媚(ふうこうめいび)。澄んだ空気を吸い込めば、自然と身が引き締まる思いがした。
しゃらしゃらと、ひし形の金飾りが風に揺れて音を奏でる。軽い試走を終えた身体には、冷気を帯びた風が心地よかった。
息を静かに吐いてから、ルドルフは帯に吊り下げていた巾着袋を手に取った。開け口を緩め、中身を取り出す。
それは、手のひらサイズの立方体の瓶だった。パッケージの貼られていない側面から中を見れば、小さな紅白の薔薇が瓶いっぱいに詰まっている。
可憐だな、とルドルフは目を細める。このころころと丸く愛らしい花束は、角砂糖なのだそうだ。ひとの発想というものは、何とも造詣深く多種多様なことか。
「いつまで眺めているつもりだ?」
ガラス瓶を宵の空にかざしながら眺めていると、ふいに後ろから声がかかった。振り返れば、長い黒鹿毛を高く結い上げたウマ娘が、呆れた顔をしてこちらに登ってくるところだった。
「ブライアンか。先に行ったはずの君が山頂にいないものだから、どうしたものかと思ったよ」
「アンタがあまりにもちんたらと来るもんだからな。その辺をうろついていた」
「的やコースの確認も兼ねていたからね。ブライアンはどうだった? 気になる箇所はあっただろうか?」
「問題ない。それよりも」
数歩分の距離を置いて、ブライアンが立ち止まる。同じ装いを着た彼女は、胡乱な目つきでルドルフの手にあるものを指さした。
「食わないのか。後生大事に持ってるソレは、女帝殿にもらったものだろ」
次いで切り込むような指摘を受け、ルドルフは苦笑いをこぼすしかない。
「よくわかったな。君の前では開封していなかったはずだが……」
「アンタがわかりやすいだけだ」
「君の勘が鋭いだけではないかな?」
素直にそう返せば、何故かあからさまに呆れられた。彼女に対する評価としては間違ってはいないと思うのだが。
大きなため息を目の前で吐かれつつ、ルドルフは右手に持つガラス瓶に目をやった。紅白の花を眺めれば、自然と口元が綻んでいくのを感じる。
ブライアンの言う通り、これはエアグルーヴからもらったものだ。先日の菓子のお返しにと、会場に着いた直後に渡された。
あれは留守を任されてくれた彼女に対する、礼と労いのつもりであったのだが、本人はそれを良しとはしなかったようだ。「会長の不在時に業務を担うのは当然の務めです」とにべもなく言われてしまった。エアグルーヴらしいといえば彼女らしい。
「そうだな。確かにここで食べようかと持ってきたのだが……神々の御座(おわ)す霊山で、果たして食してもいいものかと」
「別に構わんだろう。どうせ数時間後には目の前で喰い合うんだ」
「それは意味合いが大きく異なるぞ、ブライアン。流鏑馬は、あくまで神前に捧げる儀式であってだな……」
「なら、その神様とやらに捧げるために持ってきたのか?」
しかし間髪入れずに返ってきた問いかけに、完全に虚をつかれた。
目を見開き、それは、と呟いた口が、そのまま固まる。ルドルフは二の句が継げず、角砂糖とブライアンを何故か交互に見るという挙動不審な行動に出てしまった。
それがあまりにも不審極まりなかったのか、それとも相当に珍妙な顔をしていたのだろうか。珍しいことに、ブライアンが思い切り吹き出した。
「アンタ、エアグルーヴ相手だと本当に形無しだな」
「……ブライアン……」
呼びかけは、知らず非難が滲んでしまった。くつくつと笑うブライアンは目敏くそれに気付き、愉快さを隠すどころか更に口角を吊り上げてみせる。
「そんな顔するくらいなら、つまらん御託を並べるなよ。……まあ、勿体なくて食べれないなんてのは、確かにアンタの柄じゃないが」
追い打ちとばかりに図星を突かれてしまえば、もはやぐうの音も出ない。
「……まったく、散々な言いようだな」
だが、確かにその通りだ。ルドルフは肩を竦めて全面降伏を示す。流石に分が悪い。ブライアンの方が正論だ。
ガラス瓶を見下ろし、意を決して蓋に手をかける。数度回して蓋を開けば、白と薄紅の薔薇の花束からふわりとほの甘い香りが漂ってきた。
「ブライアンも食べるかい?」
「いい。あとが面倒だからな」
その返答にルドルフはきょとんと首を傾げる。面倒とは一体どういうことだろうか。けれどブライアンはそれ以上は語らず、「お先に」と機嫌良く片手を上げて山を下りてしまった。
ぽつんとひとり残されたルドルフは、小さく息をついてから瓶に視線を戻す。かがり火に灯っていた火は、もうそろそろ消えようとしていた。
瓶の中に指先を伸ばし、角砂糖をひとつ摘まみ上げる。ころりとした小さな薔薇は、かがり火に照らされて薄紅よりもやや色濃く映った。
「やれやれ……まさか神の御前で、幼子のような駄々をこねてしまうとはな」
花びらの形に彫り込まれた角砂糖を目線まで持ち上げ、ルドルフはほろ苦い笑みを刷く。我らを見守る三女神は、このような我が儘を許してくださるだろうか。
薄紅の薔薇を、ルドルフはゆっくりと口に運んだ。舌に乗せた瞬間、砂糖の甘みが一気に口の中に広がっていく。
甘いな、と口端を吊り上げ、上品な甘さを味わうように目を閉じる。ざらりとした表面を舐めているうちに、角砂糖は舌の上ですぐに溶けていった。
角砂糖が完全になくなってから、ルドルフはおもむろに顔を上げた。
「申し訳ありません。こればかりは、貴女がたには捧げられない」
結い上げた髪を風に任せて、胸の内を静かに打ち明ける。
渡せない、と思ってしまった。神に捧げてしまえば、これはもう神饌になってしまう。つまりは神のものになったものが、自分の元へとおりてくるのだ。
神人共食。八百万の神々を祀ってきた、この国の尊ぶべき文化でもある。
それは理解している。蔑ろにする気など勿論ない。
だというのに。ブライアンに捧げるのかと問われて、ルドルフの心は考えるよりも先に拒否を示した。
ガラス瓶を割らぬように気を付けながら、ぐっと手のひらを握る。
先日の礼だと言い添えて渡された。どうか怪我のないようにと、健闘を祈っていると、淡い微笑みと共に。
そのような、彼女の想いが込められた贈り物だ。例え神であろうと、渡すことはできない。
自分はこれほどまでに狭量だったのか。ルドルフは呆れ果てた笑みをこぼす。本当に、最近は己のままならなさを思い知ることが実に多い。
それでも、わかっていながらもこの我が儘を呑み込むことができないのだ。
「どうか非礼をお許しいただきたい。……その代わりに、"絶対"をひとつ、お約束いたします」
夜闇が深まり始めた霊山を前に、ルドルフは決意を秘めた眼差しで告げる。
「今宵の駿大祭は、必ずや拍手喝采の大成功に収めてみせます。数多の魂に火を灯し、燃え盛るような希望を与える祭事に……貴女がたでさえも血沸き肉躍るような、獅子奮迅たる流鏑馬を披露してご覧に入れましょう」
ぱちっ、と薪がひと際大きく爆ぜた。その破裂音を最後に、かがり火から明かりが消える。
煙の臭いが鼻先を掠めた、その刹那。ふわりと凪いだ風が、すっかり冷えてしまった頬を優しく撫でた。
秋にしてはあたたかい風に、ルドルフはしきりにまばたきを繰り返す。
「……三女神からの返事、だろうか?」
叱咤……にしては随分と優しい。激励と捉えてもいいのだろうか、と穏やかな面持ちで目元を緩める。
これはより一層気を引き締めてかからねばなるまい。ルドルフは角砂糖を巾着袋に仕舞い、山々の連なる景色に深々と礼をする。そしてゆっくりと頭を上げてから、気合いに満ちた表情で山頂を下りていった。

めでたや、めでたや。今宵は尊き、駿大祭。
どうかあらゆるウマ娘が、無病息災に過ごさんことを。
どうかその行く末に、栄光の未来が続かんことを。
めでたや、めでたや。今宵は尊き、駿大祭──。




あとがき
過去に生徒会選挙に挑んだエアグルーヴが、おそらくそれ以降は立候補しなかった理由は何だろうなぁとぐるぐる考えていたらこんな話になりました。駿大祭の話を書こうと思ったのに主旨がものすごくズレた気がしてならない…。
自分が誤った選択をしかけたときに「間違っている」と指摘してくれる相手がいること。間違いを気付かせてくれるひとが近くにいること。本当にかけがえのない繋がりだなぁと思います。

生徒会についてのひとりごと:
会長がウマ娘にとっての幸福な世の創造を自分一人で成そうとしていたけど、副会長は幸福な世は各々が自分の脚で走ってこそそれは叶うものだって考えたから「あなたは間違っている」って指摘したわけで。その時は我々は幼子ではない(だから信頼しろ何もかもを抱え込むな)って意味だったんだろうけど、それとは別の意味でも皇帝ありきの生徒会のままではいけないと考えてもいたんじゃないかなと。
だって皆が皇帝の言う通りにしていれば間違いなしって思考になった場合、皇帝が道を誤ったりいなくなったら一気に不幸に転落する可能性が高いわけで…不幸になるっていうのは大袈裟だけど、少なくとも生徒会活動の質や水準は確実に落ちてしまうと思う。そういう危うさを女帝も気付いていたんじゃないかな。

トレセン学園が『学園』という卒業が前提にある場所であること、選手生命は寿命以上に短いこと。そして「全てのウマ娘が幸福になれる世界を」っていうのが会長の理想なら、学園の生徒会長が夢の最終地点ではないだろうなとも。なら自分が学園を去ったあとでもトレセン学園の生徒たちが幸せであるようにしなければならない。そうするためにはどうすればいいか…って考えると、今の生徒会活動を現状維持できる構造を会長たちの代で作っておくことが大切なんじゃないかと思う。
誰が生徒会長になっても一定の質を保てるように。でも全てをガチガチに固めるわけじゃなくて、各代が自分らしく活動できる自由度も残しておいて。そんな感じの組織に。



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