私の死に場所


本当は、ずっと前から決まっていたんだ。


りり、りりん。軽やかな鈴の音に寄り添うように、ひたひたと足音が近付いてくる。館の壁に寄りかかってその音色を聞いていると、りりん、とすぐ傍で音が止まった。
カイネは訝しげに顔を上げる。頭の先から足の脛辺りまで白い衣服をかぶった少女が、己の前に佇んでいた。
一瞬誰だかわからなかった。けれど静かな佇まいと仮面越しに感じる視線に既視感を覚えてああ、と力を抜いた。
「……フィーアか」
(お久しぶりです、カイネさん)
王と揃いの仮面を付けた少女は、手をくるくると回してからぺこりとお辞儀をする。
カイネが最後に見た彼女とは、見た目も装いもまるで違う。だが金貨のような丸い金属が刺繍された上等な衣装は、すらりと背が伸びた彼女によく似合っていた。
「花嫁がこんなところで油を売っていていいのか?」
(大丈夫です。明日の準備は、もう終わりましたから)
昔──といっても、カイネにしてみれば昨日のことのように感じるが──のように身振り手振りで言葉を交わす彼女に、カイネはそうか、と微かに目元を和らげる。随分と大人っぽくなったが、礼儀正しいその態度はまったく変わっていない。
それが話すことを禁じられているフィーアの対話方法であるのだから当たり前だ。けれど見覚えのあるその仕草が、どこかカイネを安心させた。
(それより、さっきはお出迎えできなくてすみません)
「気にするな。……遅れたが、結婚おめでとう。幸せにな」
笑みを刷いて祝言を述べれば、フィーアはもう一度深くお辞儀をした。ありがとうございます、と言外の感謝が告げられる。それからまた身振り手振りで話し始めた。
(カイネさん、少しだけ私とお話しませんか?)
自分とカイネを指さしてから、”口”の形にした両手を向かい合わせてぱくぱくとさせた。意思を違わず読み取ったカイネは、やや戸惑った面差しでフィーアを見つめる。
「それは、かまわないが……私はシロみたいに、お前の言いたいことを全て理解できるわけではないぞ?」
簡単な意思疎通くらいならわかるが、雑談のような細かい会話は多分わからない。それではフィーアの負担が大きいだろう。
正直に告げると、フィーアは心得ていると言った様子でこくりと頷き、また手を動かした。
(ええ。ですから、私に「喋ってくれ」と命じてください)
「私が?」
(はい)
どういうことだと首を傾げ、ふいにある出来事を思い出した。
「ああ……掟1024『恩義ある客人の望みは全てかなえよ』、か?」
(はい、その通りです)
確かめるように言えば、フィーアはこくこくと頷く。カイネはふっと忍び笑いをもらした。
まだ王が王子であった頃の話だ。砂の神殿に単身で乗り込んだ王子を助けに向かうとき、街の住民は掟に縛られて身動きがとれなくなっていた。
この掟はその時、狼狽えるばかりの従者たちに、カイネが言い放ったものだ。
まさか仮面の住民が、自ら掟の穴をつくような真似をするとは。
しかも掟集を常に持ち歩いているほど生真面目なフィーアが、だ。更に言えば、これから王妃になる身分だというのに。
いや、寧ろ”あの王”の伴侶だからか。カイネは口の端を吊り上げて、フィーアに視線を向ける。
「お前、あいつに似てきたんじゃないか?」
(えっと……そうかもしれません)
心当たりはあるらしい。フィーアは苦笑いするように小首を傾げ、頭を撫でる仕草をした。
「わかった。フィーア、声を出して私と話せ。私からの要望だ」
「……はい。ありがとうございます」
フィーアの声を聞くのは初めてだった。ころころと鈴の音が転がるように可愛らしく、けれどよく落ち着いた声。フィーアらしい声だと思った。
妙なおかしさがこみあげてきて、先にくすくすと笑ったのはフィーアだった。つられてカイネも小さな笑声を立てる。何の前触れもなく花を渡して祖母を驚かせたときのような、そんな小気味のいい気分だった。

二人はカイネにあてられた客室へと向かった。フィーアの部屋である王の間でもよかったが、最上階には王やニーアたちがいると聞いたのでそっちを使うことにした。きっと賑やかになりすぎてまともに話ができない。そういう判断である。
どうぞとフィーアは扉を開き、カイネを促す。王妃になる者がそんな低姿勢でいいのだろうか。
入った客室は、ひとりで使うには勿体ないほど広かった。日干しレンガの床には細やかな模様の描かれた赤い絨毯が広がり、ベッドにも同色の鮮やかな薄手の布がしわひとつなく整えられていた。
おそらく他の客室も同じだろう。家具の位置から掃除の仕方に至るまで、全て掟に準じて設(しつら)えられているに違いない。そんな岩のように固い几帳面さが感じられる部屋だ。
「緑茶というお茶を飲んだことはありますか? ちょっと渋いですけど、美味しいんですよ」
そう言って絨毯の上に腰を下ろしながら、彼女は懐から筒を取り出した。それにお茶が入っているのだろう。
だから王妃がそんな庶民的でいいのか。カイネはよく知らないが、王族というものが自分で茶を出したりはしないことくらいはわかる。
掟に反さないのかと尋ねてみるが、「まだ王妃になってませんから大丈夫です」と返された。それでいいのか。堅苦しい掟に縛られずに済むのは一向にかまわないが。
だが、そういう気取らない優しさがフィーアらしいとも言えた。そしてその物腰の柔らかさは、カイネを不快にさせるものではない。
だからそれ以上は何も言わず、茶が出されるのを待った。客室に備えられた豪奢な茶器に、透き通った緑色の水が注がれる。
「お前が結婚か……早いものだな」
「街の皆さんにも同じことを言われました」
カイネの呟きに、フィーアはくすくすと笑う。そうなのだろう。カイネにこの街の言葉はわからないが、シロの翻訳を通して皆が彼女らの結婚を心から喜んでいるのを知っている。
狼に襲われかけていた子供。この奇妙な街に寄る度に、大きな籠を抱えて果物を売り歩いていた少女。
カイネを見かけると必ず手を振って駆け寄ってきた彼女が、街中から祝福されて結婚する。それが嬉しくないわけがなかった。
ことりと置かれた茶を遠慮なく飲む。言っていた通り渋みが強かったが、それが暑さで乾いた喉をさっぱりとさせて爽快だった。
「美味いな」
「よかった。私も好きなんです、このお茶」
ころりと渡される声音は心地いい。勿体ないな、とカイネの心にそんな思いが落ちる。この音が禁じられているなんて、勿体ない。
おもむろに見つめていると、視線に気付いたフィーアが「どうしました?」とまた声をこぼした。
「いや、フィーアの声を私が聞いたと知ったら、あの王はまた癇癪を起しそうだと思ってな」
「そんな、大丈夫ですよ。王もこの数年でご立派になられたんですよ。こんなことくらいで怒りません」
「どうだろうな」
鈴音を転がして笑うフィーアに、カイネは否定とも肯定ともつかない相槌を打つ。確かにあの少年もそれなりに成長したようだったが、好奇心にきらめく瞳は相変わらずだった。わんぱく盛りは多分まだ終わっていない。
いつだったか、フィーアと二人きりでいるところを邪魔してしまった、とニーアが気まずそうに肩を落として戻ってきたのをカイネは覚えている。それにフィーアは知らないだろうが、カイネだって「カイネ来ルと、いつもフィーアを取らレル」とわざわざ門前まで出向いてカタコトの言葉遣いで文句を言われたことがあるのだ。
癇癪は起こさなくとも、むすくれるくらいはしそうだ。そんな気がした。
「それに……あの方はもうずっと昔に、私の声を聞いていますから」
生意気だが憎めない少年王のことを考えていると、フィーアが懐かしそうに言葉をこぼした。視線を向ければ、仮面の奥で少女が柔らかく微笑んだのが見えたように思えた。
それを皮切りに、フィーアとカイネは様々なことを話した。
フィーアと王の出会いを聞いた。この五年がどんな日々だったのか聞いた。時折ニーアとシロが街を訪ねて、来たのなら遊べと王に毎回強請られていたのだと聞いた。
カイネが石化から目覚めたのか経緯を話した。魔王の居所を突き止めたことを話した。その居城の扉を開くために、鍵を集めているのだと話した。
どちらも口数が多い方ではないから、会話はよく途切れた。それでも無言でお茶をすする時間に気まずいものはなくて、静寂が楽しいと感じるのは何とも不思議な気分だった。
話はいつしか過去から今へと移っていた。あと一つで封印を解くための鍵が集まるが、その在り処がわからなくて手詰まっていると話すと、フィーアはそうですか、と声を沈めた。
「……式が終わったら、私たちも何か手がかりがないか探してみます」
「やめておけ。お前たちは他にやるべきことがあるだろう」
王妃になったらそれで終わりではないはずだ。今度は王と共に、街を支えていかなければならない。カイネのような気ままな根無し草とは違う。
けれどフィーアはふるふると首を振って譲らなかった。
「私たちを助けてくれた皆さんに、少しでも恩返しがしたいから。掟だからじゃなくて、私がそうしたいんです」
その言葉に、絶対に折れないという強い意志を感じた。その姿は砂の神殿に単身で乗り込もうとした、幼き日の少女を思い起こさせた。
どうも自分の周りには頑固なやつが多いらしい。カイネは内心で苦笑して、その心遣いに感謝した。
「……そうか。だが無理はするな」
了承の代わりにそう告げ、カップを傾ける。フィーアはほっとした様子で、浮かしかけていた腰を下ろした。
緑茶の香りを楽しむように茶器を持ったフィーアが、柔らかい声で話しかけてくる。
「妹さんが戻ってきたら、カイネさんもあの人と結婚できるといいですね」
「────、」
カイネは飲んでいた茶を思い切り吹き出した。
「だ、大丈夫ですか……?」
挙句に変な場所に水が入った。咳き込んでいると、フィーアが慌てて寄ってきて背中をさする。
「……っ、おい、今、誰が何だって……」
「あ、ニーアさんのことです」
違うそうじゃない。カイネは動揺を隠すように顔をゆがめる。
「……あいつとはそんなんじゃない」
「そうなんですか?」
むせがやっと落ち着いたところで否定の言葉を告げれば、さも意外だとばかりの声を返された。カイネは眉間にしわを寄せてフィーアを睨めつける。
「寧ろ何でそう思うんだ」
「え、それは」
フィーアは不思議そうに首を傾げた。この時点でカイネは返し方を間違えたことに気付く。
「さっき、その髪飾りをニーアさんからもらったって話をしてくれたじゃないですか。その時のカイネさん、とても優しい顔をしてたから……」
それは一体どんな顔だ。気になって仕方がないが、聞けるわけがない。カイネは目を泳がせた。
「……気のせいだ」
そう呟くので精一杯だった。頬に熱が集まり始めている。それに気付かれたくなくて俯くと、フィーアが向かいに座り直しながら「そうですか」とどっちつかずな反応を示した。
それがどうしようもなく気になって、カイネは言い訳のように言葉を続けた。
「仲間だ。ニーアもエミールも。そもそも私には、そういうものはわからん」
そして余計な一言を口にしてしまう。しまった、と苦虫を噛みつぶす。馬鹿か私は。
だが、フィーアはそれを指摘するような真似はしなかった。代わりに仮面の下に手を入れ、顔に手を添えるような仕草をする。
「わからない、ですか。そうですね……私のことになってしまいますが……」
そう前置いて、フィーアは口を開いた。
例えば、その人を見かけたらつい目で追ってしまう。
例えば、その人のために何かしたいと思う。
例えば、自分を気にかけてくれるととても嬉しく感じる。
そういうのが『好き』なのだと少女は語った。確かに一応は当てはまるが、とカイネは小さくため息をつく。
「そんなの、仲間でも同じことだ」
「じゃあ、カイネさんはニーアさんたちのことがとても大切なんですね」
納得したようなその言い回しに、カイネは目をしばたかせた。
大切。その言葉ならわかる。それなら素直に頷けた。
「ああ……そうだな」
そう。ニーアたちは大切な仲間だ。何度も自分を救ってくれた、かけがえのない者たちだ。
首を縦に振り、けれどカイネは唇に苦みを乗せる。
だからこそ、カイネは迷っていた。
「だが、私にできることは少ない。あいつらのためにできることと言えば、せいぜいマモノを殺し回るくらいだ」
フィーアのように、自分だって彼らのために何かしたい。恩を返したいと思っている。
どうすれば、もっと彼らの役に立てるのだろうか。
石化から目覚めてからずっと、カイネは悩み続けている。

今までのカイネの生は、復讐のためだけにあった。それがカイネの生きる意味だった。
生き続けて、死にたくなっても生きることを己に強いた。祖母を虫ケラのように弄んで踏み潰したあのマモノを、この手で殺したい一心で生き長らえてきた。
カイネの中にあったのは、それだけだった。
だから、復讐を遂げたあの時、本当にカイネの中は空っぽだった。
何をすべきかわからない。どう生きればいいかわからない。
生きる理由がわからなかった。
──『カイネ、僕達と一緒に戦ってくれる?』
──『バカモノ! 単刀直入すぎるぞ!』
そんな自分を、ニーアは死の淵から引っ張り上げてくれた。何もなかったはずの自分たちに、『仲間』という繋がりをシロは与えてくれた。
あの手に、声に、何が返せるだろう。何を渡せるのだろう。
復讐を拠り所にした生き方しか知らないことに、こんなにも悩む羽目になるとは思わなかった。

「私は剣を振る以外の生き方を知らない。もっと色んなことを知っていれば……と、あいつらといると、そう思うことが多いんだ」
自嘲気味にこぼした言葉を、フィーアは静かに聞いていた。カイネは、人前でこんなに本音を曝け出している自分が意外で仕方なかった。
きっとフィーアの力だろう。己の性根のひん曲がり具合は、自分が一番よくわかっている。フィーアの柔らかい物腰が、寄り添うような言葉選びが、人の心を自然と緩ませるのだ。
「……私も、自分にできることがあんまりにも少なくて、どうしたらもらったものを返せるんだろうと、いつも思います」
ぽつ、ぽつ、と砂粒が落ちるように、彼女はゆっくりと口を開いた。彼女の小麦色の手が胸の前で組まれる。
「二人で旅をしようと言ってくれた。声が出せるようになったら、一緒に歌を歌おうって笑ってくれた。そんな宝石みたいな約束をくれたあの人に、同じくらいのものを返したかった。……それなのに何も返せない自分が、嫌になることもありました」
でも、とフィーアは口調を少し強くする。声音の強さは、そのまま決意の表れのように思えた。
「でも……それでも、一緒にいたくて。一緒に、いたいから」
くっと仮面がカイネの正面を向いた。覗き穴を通して、フィーアの固く秘められた眼差しをカイネは見た。
「私の全部を渡そう、て……私は、王のためなら全てを捧げられます」
そうして告げられた言葉は、彼女の声と同じくらい丸く透明で、真水のように澄んだ想いの塊だった。
「そのくらい、好きなんです」
はにかみながらそう言ったフィーアを、カイネは一生忘れないだろう。
とても眩しかった。言い切れる強さに、強い羨望を感じた。
そして何より、フィーアと王の幸せが末永く続くようにと、カイネは強く強く願ったのだ。



その願いが、一夜限りで終わりを告げるなど。
そんなこと、一体誰が想像したというのだろう。


◆  ◆  ◆


さぁっと乾いた風が吹き、カイネの髪をさらっていく。無造作に掻き回された髪を風が止んでからかき上げれば、さりさりと砂の感触がして顔をしかめた。風呂に入ってからここに来るんじゃなかったなと、下ろした髪を無造作に払い、ひとりため息をつく。
王の館の屋上は、仮面の街並みを一望できる。カイネはその凹凸状の壁の、くぼんだ部分に座り込んで街を見下ろしていた。
まだ昼間のように明るいが、見下ろす街並みに人気(ひとけ)はない。ちらほらと配備されている警備兵以外、みな家にこもっていた。
当然だろう。時刻はすでに深夜に差し掛かる時間帯だ。
流砂の音が絶えず耳朶を震わせる。さぁさぁと流れる砂の音が、さめざめと泣いているかのように聞こえた。その錯覚はあながち間違いでもないとカイネは思う。
街全体が悲しみに暮れていた。大人から子供にいたるまで。
全ての民が、ひとりの少女の死に嘆き悲しんでいた。
────りりん。
鈴の音が聞こえた気がして、カイネははっと辺りを見回す。けれど、傍には誰もいない。
呆然と何もない空間を見つめていたカイネは、ぐっと唇を歪ませた。額を片膝にすりつければ、解いた髪が幕のように顔を隠した。
「フィーア……」
名を呟いた途端、急に目頭が熱くなった。熱はそのまま広がって、目の前の景色が瞬く間に滲んでいく。
きつく目を閉じる。目尻から溢れた涙が頬に流れた。
カイネも同じだった。フィーアの死に、カイネも住民と同じように打ちのめされていた。
街の入り口に佇んでいると、決まってフィーアを見かけた。身の丈に合わないほどの大きな器に果物を乗せて、よたよたと歩きながら売り歩く姿を、カイネは街に訪れるたびに目にしていた。
それでもカイネを見つけると、嬉しそうに近付いてきたのだ。果物を売りつけようなんて魂胆は最初から見当たらなくて、どころか自分がもらったであろう見切れ品の果物を渡してくる始末で。
そんなことで大丈夫なのかと不安に思っても、不思議としぶとく生きていた。その小さく貧弱な身体は、意外なほどに物怖じしない図太さと芯の強さを秘めていた。
だから王妃になっても、何だかんだ上手くやっていけるのだろうと思っていた。フィーアが王妃になって、王に振り回されて困ったように、でも幸せそうに笑っているものだと。
何の根拠もなく、思って、いたのに。

「カイネ……?」
突如響いたその声に目を見開いた。膝に埋めた顔を上げようとして、自分が泣いていたことを思い出す。慌てて首を振るふりをして涙を拭い、カイネはじろりを声をかけてきた青年を勢いあまって睨みつける。
「えっと、お邪魔だったか?」
「別に……お前こそどうしたんだ? まだ夜中だぞ」
たじろいだ様子に気付き、動揺を鎮めて決まり悪くそう告げれば、ニーアはほっとした様子で近付いてきた。
「……なかなか眠つけなくてさ。ちょっと外の空気を吸いたくなったんだ」
その言葉通り今までベッドに横になっていたのだろう。青年は普段よりずっと軽装だった。手袋や肘当てなどの装備は外され、上着は灰黒のベストを着ただけの姿だ。
「エミールは?」
「もう寝てるよ。一応シロが付いてる。……王は、まだ戻ってきてないみたいだ」
「……そうか」
屋上の出入り口は、王の寝室に直接繋がっている。不在なら、まだフィーアの元にいるのだろう。
狼討伐から戻ってきてから、王は彼女に傍から離れなかった。葬儀のために清められたフィーアに寄り添ったまま、ずっと動かなかった。
フィーア、と少年の口からこぼれ落ちる彼女の名は、胸が痛むほどに切ない音をしていた。王がどれほど一途にフィーアを想っていたのか、その掠れた声だけで思い知らされた。
あんなに想って、あんなに想われていたのに。
「カイネも、フィーアのことを考えてたのか?」
問いかけに、何も答えなかった。軽く目を伏せただけ。けれど伝わったらしい。
そうか、とニーアは微かに笑んだ。寂しそうな笑みだった。
「初めてこの街に来た時、困ってた俺たちを助けてくれたのがフィーアだった。ちょうど街の入り口で、転んだところを見かけて……」
フィーアとの出会いを、ニーアは語った。ぽつり、ぽつりと、声を落とす姿は、まるで昨日のフィーアのようで。カイネは気付かれないようにこぶしを握り締めた。
穏やかな声が震えを抑えていることには気付いていた。けれど気付かないふりをして街に視線を向け、カイネはニーアの回想を聞いていた。
街の人々は、皆そのような声音でフィーアの死を悼んでいた。
この街の至る所にフィーアの存在があった。街のどの場所でもフィーアは慕われていた。フィーアが話題に上っても、誰も侮蔑や嫌悪を吐くことなどなかった。
それがどれほど奇跡的なことであるか、カイネはよく理解していた。それはカイネが羨望してやまない世界だったから。こうであったらと思い描いて、すぐにあり得ないと黒く塗りつぶした世界だったのだから。
羨ましくないと言えば、嘘になるくらいに。けれどそれ以上に、人一倍苦労していたフィーアを知っていた。だからあの小さかった少女がこの街で愛されていることが、どうしようもなく嬉しかった。
ずっと幸せでいてほしいと、心からそう願えたのだ。
それなのに。
もう、いないのだ。この世界のどこにも。フィーアという少女は、どこにも。
「本当に、優しい子だったな」
「…………」
そうだな。同意は声にならなかった。
りり。また音が聞こえた気がして、カイネは睫毛を震わせる。
その時だった。びゅうっとひときわ強い風が、ふいに吹き荒れた。
「うわっ!」
ニーアが慌てて腕をかざす横で、完全に油断していたカイネはその突風を正面からまともに浴びてしまう。
途端、目に急激な痛みが走る。カイネは反射的にきつく目を閉じた。砂ぼこりが目に入ったらしい。
クソッ、と最悪な気分で悪態をつくと、ニーアが心配そうにカイネに近付いた。
「大丈夫か?」
「ああ……っ」
「待った、擦っちゃだめだ。目が傷付く」
ごしごしと目を擦る手を掴まれ、そのまま止められた。痛いんだ、と苛立ち紛れに振り払おうとしたが、存外強い力で押し返されてしまった。
「涙で自然と流れるから。そのまま我慢して、ゆっくりまばたきするんだ」
幼い子どもを諭すような言い方が癪に障った。だがここで反発する方が駄々をこねるガキのように思えて、カイネは苛立ちを覚えつつも素直に従った。
ぱちぱちとまばたきを繰り返す。目の中の砂がごろごろして痛いし気持ち悪い。本当にこれでいいのかと疑問を抱いているうちに、視界が膜を張ったように滲みだした。
目の前の顔が見えなくなったあたりでぎゅっと瞼を閉じる。限界まで張っていた涙が押し流される感覚に目を開ければ、確かに異物感が減っていた。
鮮明になった視界にニーアが映る。どうしてか、彼は目を見開いたまま固まっていた。
胡乱気に目をしばたかせれば、また眦から涙が溢れる。
拭おうとして、けれど自分の手よりも早く無骨な指先が涙を吸い取った。
驚きに肩が跳ねた。その拍子に髪の一房、二房が背中へ流れていった。
ばっと目を開くと、呆けた顔をしたニーアが、カイネの頬に片手を伸ばしていた。
「……お、い、何だ、この手は?」
「あ、いや……その……」
あからさまに狼狽した声が落ちてくる。しどろもどろになって視線を彷徨わせるニーアに、こいつ自身もよくわかっていないらしいことを何となく察した。
それでも手が離れる気配はなかった。けれどカイネもまた、ひどく困惑しながらもそれを指摘する気になれなかった。
忙しなく動いていた薄い青色が、おそるおそるといった風情でカイネを見る。
「……ごめん。嫌だったか?」
戸惑ったような情けない表情だった。なのに手のひらは頑なにカイネの頬を包んでいた。
ふしくれだった指先に力がこめられる。まるで離したくないとでも訴えるように。
途端、心臓が思い出したようにととと、と足早に動き出した。
自分よりも高い体温が頬に熱を移していく。陽炎のように揺らぐ灰青に、己の瞳も揺らぐのを感じた。
ふいに、カイネは唐突に全てを理解した。
──ああ、そうか。
何だ、と拍子抜けした声が内側から飛んできた。テュランの声ではなく自分自身の声が、やっと気付いたのか、と呆れていた。
もうずっと前から、定まっていたのだ。
「……いいや」
ニーアの問いかけに、カイネはふるりと首を振った。手のひらが離れないように、ゆっくりと。
頭上でほっと安堵した気配が伝わる。いつの間にか自分よりひと回り以上も大きくなった手のひらは、そのままカイネの頬を優しく撫でた。
その感触を心に刻みつけるように、カイネはそっと瞑目する。
痛みからかも悲しみからかもわからない涙が、はらりと頬をつたった。
(……フィーア、お前の言っていたことは、正しかったよ)
フィーアは、確かに核心をついていた。
ただ、カイネが認めるのを躊躇っていただけだった。
認めてしまえばもう後戻りはできないと、心のどこかでわかっていたから。
ただ二の足を踏んでいただけ。カイネの全てを覆すほどの強い感情に、戸惑っていただけだ。
そこに恐怖などなく、ない時点で手遅れだったのだ。今になってようやく気付く。

私は知っている。
マモノにも自分達と同じように心があることを。心がある理由を、世界の真実を。
私は汚れている。
それら全てを憎悪という名の暴力で斬り殺し、既に全身が血に塗れている自分を。
私は間違っている。
それを知っていながら正そうともせず、罪を重ねる道を選んでいることを。
私は呪われている。
重ねた罪に苦悩しながらも、握った剣を手離すつもりなど微塵もないことを。

知っていながらこの手を汚す。呪いのように間違いを犯し続ける。
それでも変えられない。変える気などない。
本当に救いようのない愚か者だ。自嘲が笑みの形をとる。
悩むまでもなく、カイネの心はもうとっくに、自分の生き方を定めてしまっていたのだ。
──ここだ。
カイネはとうとう観念し、ずっと前から決めていた覚悟を喉を震わせずに呟いた。
──私の死に場所は、ニーア(ここ)だ。
そこで死ぬために、カイネは今、生きているのだ。

それは自覚なしに、愛を囁くよりも強く、深く、愛を捧げた誓いだった。

この決意を誰かに告げることは、きっとない。自分だけが知っていればいい。ただカイネの中心を定めるものとして、大切に、大切にしまい込んでおけばいいだけだ。
ああ、だが。カイネはぬくもりを感じながら、降り注ぐ花びらの中心にいた白い花嫁を思い出す。
──フィーアにだけは、聞いてほしかったかもしれない。
物静かで優しい眼差しと、鈴の音色のような声の前で、ひっそりと。
同じような決意をしたのだと、秘めた誓いを打ち明けたかった。

カイネは持ち上げた手を、骨ばった手の甲にそっと重ねる。指先が驚いたようにぴくりと跳ねるのを感じたが、構わず頬をすりつけた。
ニーアの手は妙に強張っていたが、それでも離すつもりはないようだった。幸いとばかりにカイネは手のひらに寄りかかる。
覚えていようと思った。マメだらけの手の感触を、厚い皮膚の下にある柔らかさを、自分より少し高めの人肌を。
簡単に色褪せないように、いつまでも。
重ねた手にわずかに力を込める。応えるように親指に頬を撫でられた。
胸に満ちていく穏やかな感情の波が、より決意を固くさせる。
ニーアからもらったもの全てを抱いて、カイネはその背を守るために剣を振るい続けるのだ。その先に、どんな結末が待ち受けていようと。
(私が、こいつの刃になる)
死なせはしない。自分が生きている限り、決して。
カイネとニーアの間を、再び風が通り過ぎていく。先ほどと違って穏やかなそれに、りりん、と澄んだ音を聞いた気がした。
ゆっくりと閉じた瞳から、また涙が押し流される。地に落ちるより先に、透明な雫は長い指先にすくわれていった。





あとがき
ニアカイもですがカイネとフィーアで女子会も見たくて書きました。狼に襲われていた少女を助けたカイネと助けてくれた恩人の女性を尊敬して慕っているフィーアに夢を見ています。素直で優しいフィーアだから自然とカイネも穏やかに話せて微笑ましく会話してたら絶対尊い…。あとカイネの涙に予想外にときめいて戸惑うニーアさんがいたらいいなと思いました(欲望に忠実)。
ニーアと出会う前にもカイネは食い扶持を稼ぎに仮面の街に何度か立ち寄っていていたんじゃないかなと思うと夢が膨らみます。そのたびにフィーアが挨拶してたんじゃないかなぁ。果物が売れ残りがあったら買ってあげたり、ちょっと傷んで売り物にならない商品をあげたりしてたらかわいい。フィーアに何か渡そうとしたら掟でダメですって言われて、そのたびに掟1024の話を持ち出して押し付けてたらいい。時々王子もおい遊べ!って茶々入れにやってきてカイネに首根っこ掴まれたりしてたらかわいい。

補足:終盤の台詞を引用していますが、この話での解釈とあのシーンでの台詞の解釈は別のつもりで書いています。あの時のカイネの台詞は「あいつ(ニーア)はそんな私を受け入れてくれた」が全てなんじゃないかなと…そのあとの「奴の刃になって死んでやる!」って下手なプロポーズよりも盛大な愛の告白だなって毎回思うし聞くたびにカイネの想いの深さに泣いてしまう…。



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