Goodbye, my planet



ガタンっと、今まさに開こうとしたドアの奥で何かが倒れる音がした。
「いい加減にしろよっ!」
ビリビリと鼓膜を震わせる低い怒鳴り声。見えなくとも相当怒りをあらわにしているとわかった。
僅かに隙間を作ってしまった扉の前で、ドアノブに手を掛けたままアラネアは目をしばたかせ、次いで内心でため息をついた。
これは、もしかしなくともタイミングが悪いところに来てしまったようだ。
「グラディオ、落ち着いてって!」
「落ち着いてねぇのはこいつだろうが!」
「だからってグラディオまで怒ってどうすんの!」
仲裁に入った声もいつもよりずっと険しいものだ。それじゃ逆効果でしょうに、と必死に巨体を押しとどめているであろう青年を思う。
「お前こそ、いい加減諦めたらどうだ?」
「んだとぉ……?」
「何度言っても無駄だ。オレはこの件に関して、やめるつもりは一切ない」
「イグニス……」
「テメェ……いつまでダダこねてるつもりだっ!」
壁に連なる、番号だけが違う両隣の扉がそろそろと開く。何事かと、王の剣やハンターの者達が顔を覗かせていた。必然的にアラネアにも視線が集まる。
これでそっとドアを閉め直して、何事もなかったかのようにここを去ることはできなくなった。元からそのつもりはなかったが、思わず半眼になる。
(ま、喧嘩の理由は想像つくけど……)
というよりもそれしか考えられない。正直いつ爆発してもおかしくないと思っていた。
おそらく彼らを――王子の仲間達のことを知る者は全員、同じように感じていたはずだ。
「いい加減認めろ。お前のやってることは無駄なんだよ!」
「っ、わからないだろうそんなこと!」
「わかるだろうが!ゲンティアナの言葉を忘れたとは言わせねぇぞ!」
「それは……っ」
どのタイミングで入ろうか見計らっていると、絶えず続くがなり合いが、一瞬にして不気味なほど部屋の中が静まり返った。様子を窺っていた野次馬達も知らず息をひそめる。
「……お前、この数か月で何回死にかけた?二回や三回じゃねえよな」
怒りを押し殺した声音が言った言葉は、質問ではなく確認だ。
それに対する返答はない。つまり、答えは肯定。
アラネアは不穏な気配を察知し、ドアノブを握る手にぐ、と力をこめる。刹那、再び椅子か何かが倒れる鈍い音がした。
「勝手にどっか行って、丸三日行方知れずだったこともあったよな。死にかけのお前が運ばれてきたとき、オレやプロンプトがどんな気持ちだったかわかるか?……んなことが何回あったと思ってんだよ!」
「グラディオっ!」
「はーいストップ」
今だと告げる直感のままに、プロンプトが声を上げると同時に扉を開けた。どうやら倒れたのは椅子ではなくテーブルとプロンプトだったようだ。
目を見開いて固まる男三人に構わずづかづかと部屋に入っていき、うち胸倉を掴んでいる大男と掴まれている男の頭に容赦なく拳を叩き落とす。
あまりによく響いた打撃音に、床に座り込んでいたプロンプトが「うわ、いたそ……」と顔を引き攣らせていた。
「何があったのか知らないけど、あんたら頭に血が上りすぎ。どっちも頭冷やしな」
腰に手を当て、呆れ気味に睨みつければ大の男二人が視線を泳がせて俯いた。まぁ大の男というのは見た目の話で、アラネアからすればまだまだ少年の域を出たばかりの子供だ。
「えーと、アラネア、オレたちに何か用事?」
「まぁね。これ、エイゲルとカメリア首相から」
黙したままの彼らを気につつ、苦笑しながら問いかけてきたプロンプトに、手に持っていた封筒二通を掲げる。
カメリア首相のは知らないが、エイゲルのは主にシガイが大発生している、またはその可能性が高い場所の分布図だ。シガイ討伐で各地を巡っているアラネアはもちろん、今や各国の軍人とハンターをたばねる立場にあるコル将軍にも同じ封筒が渡されている。要は他の勢力と混ざる前に早急に叩いておくべし、というものだ。
プロンプトにその二通を渡して、それと、とアラネアはそこで縮こまっている彼に目を向ける。
「ついでにそこのメガネを借りにね」
そこで、ようやくイグニスが俯けていた顔を上げた。
「オレを……?」
「あんた以外いないでしょ?ほら、行くよ」
わかりきったことを聞いてくる彼を軽く笑い、訝しげに見つめてくるその腕をとる。
プロンプトに視線を滑らせれば、人一倍気配りのできる青年はその一瞥だけでこちらの意図を読み取り、小さいながらも頼もしく頷いた。
「そういうわけで、ちょっと連れてくよ。夜までには返すから」
されるがまま無言で手を引かれるイグニスをつれて、アラネアは修羅場と化していたその場を颯爽と去っていった。


どうしていつも、こうもタイミングよく現れてくれるのか。
アラネアに先導されながら、先程の彼女とはまったく正反対のことをイグニスは思っていた。
ホテルを出ても腕を掴む細い手を振り払うでもなく、ただ彼女の行き先に任せ、瞼の裏に浮かぶ一回りほど小さい後ろ姿をぼんやりと眺める。カツカツと響くヒールに合わせて、想像上の銀糸も跳ねるように揺れる。
不安は感じていないが、どこに向かっているのだろうとは思う。そもそも行き先だって決まっていないはずだ。何せ二人で出掛ける約束などしていないのだから。
―――これは、彼女の気遣いだ。
それがわかる程度の落ち着きは、僅かではあるが取り戻していた。
いつの間にか周囲のざわめきが遠のき、扉を開ける音がした。同時に屋内の空気を感じ取る。
ひたすら階段をのぼり、また生ぬるい風が肌を撫でた時、ようやくアラネアは足を止めた。
「で?何であんなことになったの?」
連れてこられた場所は、どうやらレスタルムの主な建築物であるどこかのビルの屋上のようだった。
コォォ、と唸る風の音の隙間から、微かに聞こえる人の声。何となしに拾いながら、イグニスは軽く眉を潜めて決まり悪く呟く。
「……どうせ、大体のことは察しているのだろう」
あの喧嘩をいつから聞かれていたのかはわからない。が、彼女はこちらの事情を詳しく知っている数少ない者の一人だ。
自分とグラディオラスが言い争っていた原因をそこから考えれば、容易に想像がつくだろう。
「さぁね。見当ついてても、当の本人に聞かなきゃ合ってるかわかんないし?」
しかしおどけたような口調で、声音と同じ視線がイグニスに向けられる。そのどちらにも、張りつめていた気をほぐすような柔らかさが含まれていた。
手が離され、とん、と小さな物音がした。足音ではないから、すぐ横の壁に寄りかかったのだろう。無言で促してくる気配に、軽く苦笑いがこぼれる。
促しているといっても、それほど強要している雰囲気はない。にもかかわらず、どうして彼女相手だとこうも話したくなってしまうのか。
グラディオ相手の遠慮のなさとは違う、不思議な気安さが彼女にはある。その人柄は、男女の差どころか国の隔たりさえも易々と飛び越えるのだ。
彼女にならい、扉を挟んで隣の壁に寄りかかってから、イグニスはその厚意に甘えてぽつりと言葉をこぼした。
「ノクトを救う手立てがないか、探しているんだ」
アラネアは訝しげな気配を漂わせた。それもそうだろう。彼女が疑問に思うのも無理はない。特殊な環境に身を置いているとはいえ、ノクティスはある意味最も安全な場所にいるのだから。
わかっていながら、イグニスは話を続ける。
「今、ノクトはクリスタルの中にいる。力を蓄えて、王の使命を果たすために」
奪われたクリスタルを取り戻しに帝都に乗り込んだあの日、ノクティスは強制的にクリスタルに取り込まれてしまった。イグニスの知らぬうちに。ノクティス一人を先に行かせた、あの瞬間に。
イグニスにしてみれば奪われたと言っても過言ではない。訳も分からぬままクリスタルが保管されている部屋に辿り着いたら、先に行かせたノクティスはどこにもいなかったのだから。
それを謀ったのが、旅路の中で度々自分達に纏わりついてきた帝国宰相、アーデン・イズニアだ。あの時の計り知れない怒りと屈辱は、今もイグニスの中に燻り続けている。
例え、いずれはそうなる運命だったのだとしても。
「王の使命は、星を病から救うこと。それはシガイと徐々に伸びている夜闇の、その根源を討ち滅ぼすことだ」
六神の一人たるゲンティアナ――氷神シヴァから、そう聞いた。その闇を払うために、ノクトはクリスタルの中で深い眠りにつかなければならなかったのだとも。
ここまではアラネアも知っている。他ならぬ自分が話した。
だから彼女を含め事情を知っている者は、クリスタルに眠るノクティスをそのままにしている。
だが、とイグニスは壁に触れていた手のひらを握りしめる。熱気の漂う空気を吸い込み、再び口を開く。
あの時の幻影が、瞼の裏で陽炎のようにちらついた。

「使命を果たしたとき、ノクトはどうなる?」

それは以前、ゲンティアナから話を聞いたとき、神である彼女に問い掛けた言葉だった。
「クリスタルの力は、使う度に寿命を削る。六神の力をも超えると言われるその強大な魔力を人の身に宿して、一気に解き放ったら……そのとき、ノクトは」
く、と呼吸が不自然に止まる音がした。一瞬、自分だろうかと思った。これを考えるときは、いつも喉を締め付けられるかのような息苦しさに見舞われるから。
けれど今回は、隣から聞こえてきたものだった。彼女が驚いて息を呑むなど珍しい。頭の片隅でそんなことを思った。
低音と高音が入り混じった機械音が、工場からこちらへ徐々に近づいてくる。コンテナに乗って、誰かが任務地に赴くのだろう。日に日に勢力を増していくシガイから、生きる居場所を守るために。
イグニスは軽く顎を引き、瞼を伏せる仕草をする。
それはきっと、誰もが疑問に思いながらも、勝手に大丈夫だろうと思っていた事柄だ。
イグニスもずっとそう思っていた。まるで刷り込みのように信じ切っていた節もある。――何故、大丈夫だと思っていたのだろう。
叔父も、クライレス宰相も、ノクティスの父である、レギス陛下も。
誰も、使命を果たした後のことなど、口にしたことなどなかったというのに。
「オレは、失いたくない」
握りしめていた拳を開き、そろそろと手を伸ばして眼鏡ごと目を覆う。
この目を失う直前。プライナが見せた、全身の血が一気に凍り付くほどの恐ろしい幻影。
本当は、イグニスだけは、先に知っていた。
ゲンティアナが明かした王の使命と、その代償を。
「ノクトの生きる未来を、諦めたくはないんだ……」
知っていながら、ノクティスをみすみす眠らせてしまった。そう、みすみす、だ。
あのときからイグニスは、何度も何度も終わらない自己断罪を繰り返している。
オルティシエが半壊したあの日、ノクティスが旅を続けることを、何が何でも止めていれば。
あのときのアーデンの誘いに、罠だとわかっていてもその手を取っていたら。
そもそもあの宰相の動向や目的を、もっと詳しく調査していれば。
六神のことも、神話のことも、王家の役割も、星の病についても。
ただ目の前の危険にばかり目を向けて、無知のままでいた。何も知らずに、知ろうとせずに、旅をしながら成長していくノクティスに安堵すら感じていた。
そんな自分が、あの時からずっと許せない。
移動用コンテナの音が徐々に迫ってくる。ロープを滑る金属音が最も大きくなったとき、ゴォォ、と風の音が唸った。セットしていた前髪が数束、額に落ちてくる。
「……だからひとりで、王家の墓や古い遺跡に行ってたんだ?」
風が弱まってから、アラネアがゆっくりと口を開いた。イグニスはその通りだ、と返答する。
「結局、未だに何の成果もあげられていないが……だからグラディオも、いい加減痺れを切らしたんだろう」
「それでケンカ、か。随分と派手に響いてたよ」
「そうだろうな。オレたちも、あそこまで声を荒らげたのは久しぶりだ」
呟いて、目元から手を放して自嘲気味に笑う。
「だが、それでも、やめなければという気すら起きない。……どうしようもないな」
本当にどうしようもないと首を振れば、少し低い、だが決して冷たいものではない声がそう、と返してきた。
呆れたのか、哀れんでいるのか。色のない声音だけではわからなかった。
蒸した熱気がまた纏わりついてくる。停滞した空気のなか、イグニスは独り言のようにぽつぽつと言葉を落とした。
「……きっと、ノクトは誰かを犠牲にして生き延びることを望まない。オレは、そんなノクトを止めることはできない」
口にして、そうだ、と改めて認識する。そう、ノクトは他の誰かが身代わりになることを、決して望まない。だからどれほど辛い目に遭っても、旅をやめなかった。
優しい子に育ってくれたことを誇りに思う。同時に何故そこまで優しく育ってしまったのかと、嘆いてしまう愚かな自分がいた。
「だからせめて、ノクトが選択できる道を残しておきたいんだ」
グラディオラスが言っていた通り、無駄なことかもしれない。これはノクティスに、ルシス王家に課せられた宿命なのだから。
それでも、それでも。
「ここで足掻かなかったら、オレは一生後悔し続ける」
だから、諦めたくはない。例えなかったのだとしても、可能性があれば確かめたい。
あの時、違う選択をしていれば、と。
そんな後悔は、二度と。
もう二度と、したくはないのだ。


騒音を連れ、風がまた流れていく。額に当たる前髪が鬱陶しかった。
ふ、と、横で笑うような吐息がこぼれた。
怪訝に思って顔を上げると、そのタイミングで眉間に小気味いい音と痛みが走った。見えないはずの視界に火花が散る。
どうやら指で小突かれたようだ、と気付いたところで軽やかな声音が耳に届いた。
「そんなしみったれた顔してんじゃないよ」
「……は?」
「王子を助けたいんだろ?ならもっと胸張ってシャンとする。そんなんじゃ、見つけられるもんも見つかりゃしない」
掛けられた言葉は、思いもよらないものだった。
「とりあえず目星がついてるとこは?どうせ今日は何もないんでしょ。今から乗せてってやるよ」
呆然と彼女を凝視していると、また声を掛けられる。彼女の言葉に理解が追いつかなかった。
相槌すらできずに呆けていると、そのうち彼女が何かを取り出す物音を立てる。えーと、とどこか迷うような声色に、ようやく我に返ったイグニスは咄嗟に腕を伸ばしてその手を?まえた。一回り以上小さい手には、やはり四角く平たい感触があった。
待ってくれ、脳を伝達するより速く口が音を出す。次に頭に浮かんできたのはいくらなんでも急すぎる、だ。それも一番言いたいことではなかったが。
怪訝そうな視線を間近で感じながら、イグニスは静かに二、三度呼吸を繰り返す。正直その目をしたいのはこちらの方だ。
「なに?」
「……オレの話を聞いて、それでも協力してくれるのか?」
こんな、雲を掴むような話に。
言葉にはせず暗にそう告げれば、見上げる眼差しが呆れたものに変わった。猫のような薄緑の瞳が、半眼になる様が容易に想像できた。
「あのねぇ。あたしから言わせれば、魔法だの六神だのってとこから夢みたいな話なの。その神サマとやらが今さら何言ってきたって、信じきれないのこっちも同じ。……それにね、」
言って、声は愉快そうなものにころりと変わる。彼女の声色は、曇天と暗闇ばかりを繰り返す空とは対照的に、旅で眺めた景色のように様々な彩りを見せる。その変わりようを、イグニスは密かに気に入っていた。
「子供のワガママに付き合ってやるのが、大人の役目ってもんでしょ?」
「……もう子供と呼ばれる歳ではないんだが」
しかし落とされた言葉は非常に異議申し立てしたいものであった。確かに、この件に関してはその自覚はあるが。
歯切れ悪く反論するが、結局笑い混じりに前髪をわしわしと撫で回されるだけに終わる。明らかに悪いことをして渋々謝ってきた子供に対する対応だ。
流石にそれは不服で、髪を乱すその手も掴んで彼女を正面から見下ろした。踏み込んで距離を更に縮めれば、微かに息を呑む音。細い両の手首がぴくりと強張った。
「な、何よ。怒った?」
戸惑ったような声。腕を引こうとする仕草。掴んだ手首にやや力を籠めれば、少し早い脈拍が伝わってくる。
なるほど、完全に意識されていないわけではないらしい。想定より希望は抱いてよさそうだと、少しだけ不満が解消される。
そこまで考えて、いつの間にか随分と平常の自分が戻っていることにはたと気付いた。
驚いて無駄に瞬きを繰り返し、そして内心で苦笑いをこぼす。
「ちょっと、何笑ってんだい」
今度は向かいから不満げな声が聞こえてきた。どうやら内心だけのつもりが顔に出てしまっていたらしい。
「いや……そうだな、カーテスの大皿までは行けそうか?」
かなわないなと、そう素直に告げることに躊躇いはないが、ここは黙っておくことにしよう。珍しく拗ねた様子の彼女をもう少し眺めていたいという、それこそ単純で子供じみた理由だ。
「まぁ、行けなくもないけど。話逸らす気?」
「敢えて誤魔化されるのも大人の役目じゃないか?」
「口の減らないガキだね」
「子供とはそういうものだろう」
「この……、あーもう、子供扱いして悪かったわよ!これでいいでしょ!」
「別に何も言っていないが」
「白々しいこと言ってんじゃないよ、この似非ポーカーフェイス」
「あなたとノクト達くらいだ。オレのことをわかりやすいと言うのは」
僅かに口元が緩むのを感じながら、それではよろしく頼むと会話を切ってスマートフォンごと掴んでいた右手を離した。
こっちは、と左手を軽く振られるが、帰りも案内を頼めるんだろう?と遠回しに拒否を示す。じとりと睨つける視線に構わず握る力を強くすれば、折れたのはアラネアの方だった。
まったく、と彼女は大きな溜め息をつき、イグニスの手を握り返して歩き始める。
「ま、わかってるとは思うけど、帰ったらあの子らに謝っときなよ」
「ああ。流石に心配をかけすぎた」
「いい仲間じゃないか。大切にしな」
「今は耳が痛いな。……だが、そうだな。その通りだ」
冷静さを取り戻した頭で、ノクティスが眠りについてからの自分を振り返る。思えばあれから自分が落ち着いていたことなどなかった。傍から見ればかなり自暴自棄になっていたな、と今になって気付く。
グラディオラスにもプロンプトにも、それからコルにモニカ、それこそイリスやタルコットにまで気を揉ませたことだろう。当然、今イグニスの手を引いているアラネアにも。
この過酷になり続ける状況で、イグニスを取り巻く者達の優しさは変わらない。
静かに息を零した口唇に、じわりと笑みが滲む。申し訳なさもあるが、それ以上にありがたかった。
カツカツと、階段をくだるヒールの音が屋内に響く。自分の靴音が不揃いに続き、そのまま街中へと出れば蒸し暑いレスタルムの空気が再び身を包む。
彼女に引かれながら、イグニスは上を見上げた。相変わらず曇天の、微かに陽光が降り注ぐ頼りない空だ。
「…………」
ああ、そうか。
唐突に気付いた。
風が吹く。蒸し暑い風だ。それを境に、景色が一変した。
露店に賑わいが聞こえてきた。あっちぃな……とうんざりした声がする。全身黒ずくめの青年が、気怠げにジャケットを脱ぎ、無言でぽいとイグニスに向けて投げつけてきた。
幻影だ。まだ一年も経っていない、懐かしい思い出の。打ち震える心臓にそう言い聞かせる。
―――生かされているんだ、オレは。
ノクティスに。イグニスが一生をかけて尽くすと誓った、あの子に。
だってそうだろう。これはノクティスが繋げた縁だ。あの子が広げた人との繋がりが、イグニスをひとりにしないようにしてくれている。
「……お前は、いつもそうだな」
「ん?何か言った?」
思わず口からこぼれ出てしまった声を拾われ、アラネアが速度を緩めて振り向いた。イグニスは見上げていた視線を戻し、いや、と軽く首を振る。
そんな己をからかうようににやにやと笑って、ノクティスの残像は瞬きのうちに消えていった。
かなわないな。もう一度同じ言葉が、今度は彼に向けて胸中に落ちる。
「そうだ、アラネア。カーテスに行くついでに、狩りたい野獣がいるんだが……」
―――ノクト。
声には出さず、その名を紡ぐ。イグニスにとって唯一の、永遠に唯一の、ただ一人の存在を。
ノクト。お前はもう、自分自身の運命を知ったのだろうか。それを知って、お前が何を思うか。オレには手に取るようにわかる。
ノクト。お前は優しいからな。それに王に相応しい器であることも、オレは最初から知っていた。
ノクト。だが、それでもオレは、お前が立派に王の使命を果たすよりも、世界が終ろうが何だろうがこの重責から逃げ出して、お前自身のために生きてほしいと心から思うんだ。
ノクト。お前がお前の運命を受け入れるとわかっていても、オレはそんな運命など覆したい。今更なのかもしれないが、泥臭く足掻いてみるつもりだ。
だが、それでも、お前の願い通りにしなければならない、その時は。

……ノクト。その時は、どうか――――。



◆   ◆   ◆



長い、長い夜は、唐突に終わりを告げた。
はじめは負傷かと思った。丁度シガイにサングラスを弾かれた直後だったゆえに、そう錯覚した。
―――空が……。
プロンプトの呆然とした声が耳に届いた。そこで目が焼けるような感覚は、痛みではなく眩しさだと気付いた。
眩しさは熱に変わり、周囲を取り囲んでいた夥しい数の敵の気配も瞬く間に消える。

そして、己のなかで巡っていた王の魔力が、ふつりと途絶えた。
ああ、終わったのだ、と。
そう、思った。




やや大きめの振動のあと、魔導エンジンの駆動音が止まった。
どうやら目的地に着いたらしい。思ったより早いな。そう独りごちながら、しかしイグニスは揚陸艇の一室から外に出ようとしなかった。
「流石に、疲れたな……」
どうしても動こうとしない足に視線を落として溜め息をつく。言葉通り、落ちた声はひどく疲れ果てたものだった。
ほんの数時間前、世界は闇に包まれていた。
十年だ。十年もの間、夜が明けない日々が続いた。
それが、今日。ついに夜は追い払われた。ずっと待ち続けていた、ひとりの王の力によって。
シュン、と自動ドアが開く音がした。この一室は倉庫になっている。用がなければ、誰もここには来ないだろうと踏んでいたのだが。
――――いや、もし来るとしたらと、想定していた人物は一人いた。
鉄製の床が無遠慮に鈍い音を立てる。背後に佇む気配がしたところで音が止んだ。
小さめのコンテナに座っていたイグニスの背中に、とん、と軽い衝撃が走る。埃っぽい空気に紛れふわりと鼻先を掠めた嗅ぎ慣れた香水の香りに、まるで促されるかのように喉が震えた。
「……共にいくことを……やはり、許してはくれなかった」
「……そう」
掠れた声に短い相槌。戦闘服越しにじわりとぬくもりが伝わる。聞こえる。感じる。自分はまだ、生きている。
「代わりに、思い出だけ連れて行くと」
「王子らしいね」
ノクトらしい。ああ、と同意しようとした声は更にみっともなく掠れた。
そうだな。ノクトは変わらないままだった。あの頃から変わらない笑顔で、優しい心のまま。
いや、少し違う。変わっていたところもあった。地に足がついていないような不安定さがなくなっていた。辛いと本音をこぼしながらも既に覚悟を決めていた。おかげで迷いもせずに断られてしまったな。
そんなことを軽口混じりに言おうとして、しかし喉が塞がってなり損ないの吐息しか出てこなかった。ノクティスのことを話すときが一番饒舌だとグラディオラス辺りに呆れられていた自分が、意識しても言葉が出てこないとは一体どうしたことだ。
この倉庫には、陽が差し込むような窓はない。にもかかわらず、目が焼けるように熱くなる。胸が苦しい。見えない何かに締めつけられているかのようだ。
その理由は、わかっている。わかりきっている。これは、世界が壊れた痛みだ。

イグニスという人間の世界は、ノクティスを中心にして出来上がっていた。
ノクティスの日常がイグニスの日常であり、ノクティスの存在そのものがイグニスの存在意義だった。それが当たり前で、それで充分だった。
ノクティスを支えることが自分の責務だった。
ノクティスを見守ることが生き甲斐となっていた。
ノクティスの成長が己の誇りに直結していた。
いつかノクティスが立派な王になることを願っていた。
いつかは自分の手を離れるだろうことを、密かに寂しく思っていた。
それ以上に、いつか。
ノクティスを『陛下』と呼べる日を、イグニスはずっと、誰よりも心待ちにしていた。

――――ノクトは、世界のすべてだった。
だから、イグニスのこれまでの世界は、夜明けと引きかえに終わりを告げた。
たかが人間ひとり分のちっぽけな、けれどひとりの人間の全てであった世界が、この日を以て失われた。

「……アラネア」
丸めた背中に寄りかかっている彼女の名を呼ぶ。情けないほど震えた声だ。それに対してん?と短く返ってきた返事は低く落ち着いていて、驚くほどに優しい。
「もう、子ども扱いはしないのか?」
尋ねた瞬間、アラネアは小さく吹き出した。何言ってんだか、と笑い混じりの声が届く。
「もう子供じゃないんでしょ?何、それとも今はしてほしいって?」
からかうような言葉は、全てをわかったうえでの問いかけだった。震えの止まらない口唇が、それでも勝手に笑みの形を作ろうとする。
やはり、いつまで経ってもかなわないままだ。
「……そうだな。今だけ、できたらしてほしい」
本当にいい年をして、まるで寄る辺のない子供のように強請った。寧ろ子供の方がまだ上手く強請るだろう。
それでも人の気持ちを汲み取ることが得意な彼女は、仕方ないね、とその拙さを一蹴することなく応じてくれた。
「……今だけでいいんだね?」
「ああ」
彼女の念押しに頷けば、背中の重みがすっと消えた。ゆっくりとした足取りはイグニスの正面に回って止まる。のろのろと俯けていた顔を上げれば、それを待っていたかのように抱き締められた。
「ほら、泣くだけ泣いときな」
今の状況にどこか不似合いな軽い調子の声音。けれど、決壊寸前であった涙腺を促すには充分だった。
「…すまない……、」
縋りつくように腕をアラネアの背に回しながら、イグニスは瞼を静かに閉じてただ一人の主に思いを馳せた。
「……ノク、ト……っ」
ノクト。引き攣る喉で、嗚咽混じりに彼の名を呼ぶ。無意識に腕に力がこもり、耳元で小さく息を詰める音を聞いたが、自分の身体にもかかわらず今のイグニスにはどうすることもできなかった。
強い喪失の痛みがイグニスを襲う。喉がひりつく。涙が止まらない。心臓は針で刺されるような苦痛を訴えている。
ノクトを失った。ノクトがいなくなった。世界がノクトを連れて行ってしまった。思い出をつれて。彼の中の思い出だけをつれて。自分達と思い出と、彼自身の願いを置いていって。
『常に胸を張って生きろ』
最期に聞いた、全てであったあの子の言葉が甦る。
ああ、それがお前の願いならば。それが陛下のお望みであれば。
叶えよう。従おう。例えお前がどこにいようと、どれほど時間が経とうと、オレはお前の従者であり続けるから。
ただ、今だけは。今だけはどうか、許してほしい。
お前を失った悲しみに背を丸めることを。世界を失った痛みに立ち止まることを。
お前がのこしてくれたものを、お前が守りたかったものを、今度こそ守り切ってみせるから。だから、今だけは。

―――イグニス、ありがとな。

あの時と同じ言葉が、ノクトの声がまた聞こえた気がして、イグニスは世界を救った王との掛けがえのない日々を思い返しながら、また涙をこぼしたのだった。




さようなら、私の世界。

あとがき
エピイグのEDでイグニスがクリスタルの前で拳をきつく握りしめたシーンを見てから、10年後イグニスがそこそこ落ち着いているように見えるのは、もう二度とあんな後悔はしたくないと足掻いて足?いて足掻き続けた結果なんじゃないかなと思ったら色々と妄想が広がったような話。IFルートみたいに、一度はノクトを救う方法を探し回ったんじゃないかなと。今回の話は書いていて改めてイグニスの全ては本当にノクトありきで構成されているんだなと思いました。
そしてノクトのいない世界で、誰かがイグニスのよりどころになってくれたたらいいなと、あわよくばその内のひとりにアラネアが入ってればいいなと思いながら書きました。なのでイグアラと言い張ります(n回目)。
そしてどうも私は年上が年下を子ども扱いして年下が不満になってるところが好きみたいです。いつの間にか立場が逆転しているとなお美味しい。


[戻る]