VS!


どうしてこうなった。
いやマジで。内心で大きく溜息をつきながら、アラネアはチッと舌打ちをついて目前の男から瞬時に距離をとった。
視線は前方から外さずに体勢を整える。その鋭い眼差しを平然と受け止めながら、彼はふっと笑みをもらした。
「どうした、アラネア?あなたの本気はこんなものではないだろう」
上品そうな口元をくいと吊り上げ、好戦的な顔で刃の潰れた長槍を持った男が言い放つ。
イグニスの言葉にアラネアは柳眉を跳ね上げるが、何とか軽く肩を竦めるだけに留めて冗談まじりに口を開く。
「それはメガネ君が実力に見合ってたらの話でしょ?流石に大怪我させたくないしね」
「その心配はいらない。あなたが本気を出せばオレも本気を出すさ。寧ろ、手加減をしたあなたに怪我をさせてしまう方が忍びない」
それは、暗に本気を出さなければこちらが怪我をするということか。
淡々としながらも皮肉がこめられたそれに、凄味のある笑みを浮かべて瞼に大きな傷跡のある男を見据えた。
あきらかに喧嘩を売られている。ついこの間まで軽い手合せすらおぼつかなかった、この盲目の坊や相手に。
「……随分と舐められたもんじゃない」
自分でもわざとらしいと思うほど、大きく溜め息を吐いて頬にかかる横髪を払う。
あまり気の長い方ではない自覚はある。ついでに売られた喧嘩はとことん買う主義だ。
「いいよ、徹底的にやってやろうじゃないか」
──絶対泣かす。
余裕ぶった口調の裏で大人げない言葉を内心で吐きながら、アラネアは長槍を片手に目にもとまらぬ速さで跳躍したのだった。



「手合せ?今から?」
事のはじまりは、仕合ってほしいというイグニスの申し出からだった。
「ああ。急な頼みごとですまないが…」
もう日の出も夕暮れもなくなってしまった、自分達の生きる世界。月も星も見えない空の下、今や日々の生活により一層欠かせなくなった時計を見れば正午を大分過ぎた頃。
シガイに襲われない安全な場所を求めて避難してきた多くの人々の熱気と発電所の蒸気が揺らめくレスタルムで、アラネア達は喫茶サーゲイトで遅めの昼食を摂っている王子の仲間三人と出くわした。
「別にかまやしないけど、珍しいね」
アラネアは頼んだチキンライスに手をつけながら、瞼を閉じたまま綺麗に皿を空にするイグニスを見る。零さないように神経をとがらせて、恐々とスープを口に運んでいた頃が嘘のようだ。
奇妙な巡り合わせというかなんというか、アラネアとイグニスは何の因果かちょっとした師弟関係になっている。自分でも意外すぎて笑えるほどだが、お互いにシガイ退治やら救助活動やらで多忙ながらも予定を合わせ、何だかんだ定期的に戦いの手解きをしているのだから師弟と言って間違いではないのだろう。正直今でもつくづく不思議な縁だと思う。
だから彼の頼み自体はそこまで珍しいものではなかった。驚いたのは、優等生を絵に描いたような真面目で几帳面な彼が、事前の伺いもなく唐突に申し込んできたことだ。
(そりゃここ最近は予定合わなくてご無沙汰だったけど、それにしたって…)
彼らしくない。そこが引っかかる。
ああでも、とアラネアは赤いルーをつけたライスを口に運びながら声には出さず呟く。リードペッパー独特の痺れるような辛みとコンソメの風味が舌に広がり、空腹が満たされていく感覚に僅かに目を細める。
あったかもしれない。彼が帝国から戻ってきた直後あたりは。
潰れた両目を覆って項垂れていた青年は、今もアラネアの脳裏に鮮明に残っている。
こくんと口内のものを飲み込んでから、伏せていた目を上げ真顔で問いかけた。
「何かあった?」
「いや、そういうわけではない」
「へぇー…そう」
視力を失っても未だにかけ続けている眼鏡をくいと持ち上げる男を不審な眼差しで見つめてから、ちらりと彼の隣で追加注文した焼き鳥にかぶりついている男二人に視線を向ける。
この手のことは本人を問いただすより、彼をよく知る友人に聞いた方が早い。それがわかるくらいには付き合いが長くなりつつあった。
本当は?とその友人二人に目だけで問いかける。如何にも戦士らしい体つきをした男とチョコボのような色と髪型をした細身の青年は、焼き鳥を頬張りながら安心させるように笑って頷いた。
どうやら何かあったわけではないのは事実なようだ。グラディオラスとプロンプトの肯定でようやくイグニスの言葉を信じ、同時に小さく安堵した。グラディオラスがやけにニヤついているのが多少気になるが。
自分がこの子達に相当肩入れしている自覚はある。王子のこと、神凪のこと、彼ら自身のこと、そして帝都のグラレアから戻ってきた当時の憔悴ぶりをある程度知っているだけに、どうしても気にかけてしまうのだ。
うーん、と暗い空を見つめてから、アラネアは隣で食事にありついている部下に顔を向けた。
「ビッグス、今日の依頼はさっきので最後だったね?」
「んあ?あー、はい、そうすね。お嬢と俺らの分はあれでしまいです」
「ならこの後は空きだね。いいよ、久しぶりにやろうじゃないか」
「はい?!いやいやいや、待ってくださいよお嬢」
「姐さん、その前に買い出しが」
「あんたらに任せる」
物言いたげな二つの視線が降り注ぐが、アラネアはそれをひらひらと手を振って軽く受け流す。揃って聞こえてきた溜め息は聞かなかったことにした。どうせそっちも黙殺されるとわかっていてついた諦めのそれだ。
仕方ないだろう。買い出しよりもこの青年とやり合うことの方が、アラネアのなかで即座に最優先事項にあがってしまったのだから。
師なんて柄ではないが、叩いた分だけ伸びる姿を見るのは存外に楽しいものだ。特にイグニスは流石というべきか、面白いほど物事を吸収して自分のものにする。
今だって彼がどれほど上達したのか、早く確かめたくて身体がうずきだしている。またあとでと言う方が無理な話だ。
「どうせなら俺らも観戦したいんですがねぇ。なぁ、ウェッジ?」
「あ、じゃあオレとグラディオも手伝うよ。いいよね、グラディオ?」
「ああ。俺らも今日はもう空きだしな」
「え、いいんですか?」
「元はうちの軍師のワガママのせいだからな。荷物持ちなら任せてくれ」
「そうそう。そうすれば早く終わってみんなで見れるし」
「すまないな。かなりの量になるから助かる」
ウェッジが軽く頭を下げると、いたたまれなさそうにしているイグニスの横でグラディオラスとプロンプトが任せろと胸を張った。
相変わらずいい子達だ。アラネアもついつられて唇が弧を描く。
「ほんと助かるよ。ありがとね」
労いの言葉をかけると、プロンプトがへへへ、と照れくさそうに頬を掻いた。その愛嬌のある仕草にまた笑みが深くなる。
「お嬢ー、俺達には何もないんで?」
「はいはいいつもアリガトーゴザイマス。まっ、何にしてもこれ食べ終わってからね」
じと目で文句を言ってきたビッグスには適当な感謝を述べ、それから昼食の乗ったトレーを指で叩いてそう付け加える。イグニスはどこかほっとしたような様子で礼を述べた。
「ありがとう。それと、もうひとつ頼みがあるんだが…」
「ふふ、今日は珍しいね」
「そうだろうか?」
「そうだよ。ああでも、頼ってくれて嬉しいってことさ。まだまだ若いんだから、もっと年上を頼りなって」
今度はバターの香りが漂う甘口のルーをすくいながら機嫌よく返すと、イグニスは何故か渋い顔で眉間にしわを寄せた。
アラネアは首を傾げるが、しかし尋ねる前に彼はいつもの澄ました顔に戻り、真剣味を帯びた声音で口を開いた。
「手加減なしで戦いたい。お互いに」



ひゅっと短く息をついて、訓練用の長槍を突き出す。相手の懐を狙ったそれは、しかしそれよりも速く間に入ってきた同じ形の長槍にからめとられた。
このままでは弾かれる。瞬時にそう判断したアラネアは、手首を返して柄を勢いよく横に払う。
カァンッと軽いが硬質な音が屋外の訓練場に響き、次いで地面を擦る靴がほぼ同時に砂煙を上げた。
「少し腕が鈍ったか?」
「ジョーダン。あんたこそ、その程度で本気?今の頭狙えたでしょ」
「言っただろう。女性であるあなたの顔に傷はつけたくないと」
うっすらと笑みを浮かべて話すイグニスに、アラネアはぴくりと片眉を上げる。
うっわイヤミったらし〜、と苦笑まじりのプロンプトの声が飛んできた。買い物を終わらせてついてきたギャラリーにちらりと意識を向ければ、声の通りに困ったような笑みを浮かべた青年と面白そうに口の端を吊り上げている男二人、そして珍しく狼狽えた様子のウェッジの姿が視界の端を掠めた。
まったくだ、とアラネアはプロンプトの言葉に心から同意する。自分のところの部下だったら問答無用で酌量の余地なくしばいているところだ。
(ホント、何があったんだか…)
それでも未だ本気を出すことに躊躇いがあるのは、ひとえに相手が他ならぬイグニスであるからだ。

そもそもあの和やかな昼食からどうしてこんな険悪なムードでやりあっているのかというと、今のような彼の言動が原因だった。
手加減なしで戦いたいと彼は言った。だが、アラネアはそれは無理だと首を横に振ったのだ。
アラネアの本業はシガイ退治だ。傭兵時代も軍人になってからも、そして今や治安維持を一手に担っているメルダシオ協会に協力するようになってからもそれは変わっていない。
それがどういうことか、シガイと幾度も対峙している彼ならよくわかっているはずだ。最近では簡単な討伐依頼は仲間と共に受けているらしいが、以前の彼自身にすらまだ届いていない実力では危険でしかない。
にもかかわらず、イグニスはその意志を頑として曲げなかった。あまつさえ喧嘩をふっかけるような煽りさえしてきたのだ。
当然喧嘩っ早いアラネアは売られた言葉を全て買い占め、結局自分をその気にさせることができたら、という条件付きで手合わせすることになった。

あの時は完全に血がのぼってたけど、と声には出さずに独りごちる。
職業柄と言っていいのか、何度も切り合っているうちに少しずつ頭が冷えてきた。するとその時は気付かなかった違和感が気になってくる。
ふと、アラネアは目を眇めた。
「──っと、」
風の動きが変わった。僅かな変化を感じ取った身体は瞬時に反応し、自分に向かってくるそれを軽々と避ける。
飛んできたものは長槍だった。だがそれは見る見るうちに半透明に光り、ガラスの破片のような青白い粒子を残して消えていく。
また視界の端で何かが光ったのを感じて、ぐるりと身体をひねる。振り向きざまに防御の体勢をとれば、予想通り今しがた投擲してきた武器を振り下ろすイグニスが目の前に迫っていた。
加減なしだろう。柄から伝わる重い一撃に思わず息を詰める。
「へぇ…っ…、随分と力を込められるようになったじゃないか」
以前と比べると思い切りがよくなった。武器にしっかりと全身の力を乗せられている。
狙いが定まっている証拠だ。暗に含ませてそう言えば、お陰様でな、と刃越しに薄い唇が小さく持ち上がった。
その拍子に僅かだがイグニスの力が緩む。それを見逃さなかったアラネアは即座に足を引き、イグニスの重心がずれたところで長槍を渾身の力で押し切った。
「さっき投げた槍も、こっちの動きを探るため?」
「ああ……一度で見抜いたのか。流石だな」
今度は傷跡の残る口元に苦笑いが混じる。その表情にまた少しだけ頭の血が下がっていく。
調子に乗っているわけではない。自棄になったわけでもない。
なら何故こんな無茶をする。イグニスの意図がどこにあるのかわからない。
「考え事か?」
構えは解かないまま静止していると、不満そうな声が耳に届いた。
こういうところはわかりやすいのに。アラネアはバレないように呆れ混じりに笑う。
「まぁね。なーんでメガネ君は、あたしと本気でやりたいのかなって」
「……もう怒りはおさまってしまったのか」
「いや今もぶっ飛ばす気満々」
だから結局メガネ君の作戦勝ちね、と大仰に肩を竦めて、それから射抜くような視線を向けて問いかける。
「でも、理由くらい聞かせてくれない?」
「…言ったら本気を出してくれるか?」
「それは理由次第」
彼の力量はある程度把握した。おそらく今の攻撃が現時点でのイグニスの全力だ。ならばアラネアには届かない。
彼自身もその力量差をわかっているからこそ、アラネアの本気を引き出すためにあえて神経を逆撫でるようなことばかりを口にしていたのだろう。
それに気付いてしまえば、もう白状するしかこちらが納得しないことも今までの付き合いでわかっているはずだ。
演習場に沈黙が落ちる。一秒、二秒と数えて、たっぷり五秒。根負けしたのはイグニスの方だった。
「……どうしても手に入れたいものがある。そのために、貴女以上の実力を身につけたい」
躊躇いながらも、渋々といった体で彼は簡潔に理由を言った。
「それで本気で?」
思わずきょとんと目をしばたかせて、アラネアは槍を片手に己を見据える彼を見つめた。
意外だった。どちらかというと合理的にものを考える彼が、そんな体育会系の熱血漢が思いつきそうなことを考えていたとは。
「手に入れたいものってのは?」
「それは…今は言えない。が、手に入れた暁には必ず」
「自慢してくれるって?」
からかうようにそう言うと、虚を突かれたような顔をして彼の唇が自慢、と同じように動いた。それからふ、と頬をわずかに緩める。
「ああ。できたらそうしたいな」
いまいち的を得ない返答に、アラネアは眉をひそめる。曖昧に濁されるのはあまり好きではない。
好きではないのだが……この青年にそう言われると、妙に気になって仕方なくなる。彼が穏やかな笑みさえ浮かべて、見せびらかしたいと肯定するほど欲しいものとは一体何なのだろうか、と。
こうなるとテコでも動かないことを知っているからか、それとも別の理由からか。思案して、おそらく両方なのだろうとあたりをつける。
──もしかして、おとしたい女の子でもいるとか?
冗談交じりに言おうとした言葉は、喉元でつかえて出てこない。それが何よりの証拠に思えて、ため息の代わりにやれやれと首を振った。意に反してわだかまる感情は、つくづくどうしようもないと自分自身に呆れてしまう。
「わかった」
代わりにアラネアは低く構えて、別の言葉を口にする。
もしそうだったとしても、今は関係ない。ひとまず今は。
「んじゃ、改めて全力で相手してやるよ。受け身は自分でとりな」
そう不敵に微笑んで戦闘態勢に入る。気配でアラネアの本気が伝わったのか、手合わせを了承したときと同じようにイグニスが笑みを浮かべる。安心と喜色を滲ませたその顔を見て、これから叩きのめすことに少しだけ罪悪感が湧いた。


どうっと音を立てて地を滑った身体を足で押さえ、整った顔の首筋に潰れた刃を突き付けた。
「勝負あり、ね」
仰向けに倒れる男を見下ろして、アラネアは口を端をくいと持ち上げてそう告げた。
「……参った」
肩で息をしながら、イグニスは降参だと言わんばかりに身体の力を抜いた。その様子に無意識にほっと息をついて、きちんと鍛えられた腹から足をどけた。首にすえた武器もおろす。
「ほら、捕まりな」
「ああ…ありがとう」
アラネアが屈んで手を差し出すと、イグニスは迷うことなくその手を取った。
手合わせで火照った手のひらの熱をグローブ越しに感じながら、重心を後ろに持っていき彼が起き上がる手助けをする。
所々に打撲や擦り傷は見当たるが、見たところ特にひどい外傷はなさそうだ。
とりあえずひと安心しつつ、アラネアは再度イグニスの顔を見遣る。
ここ数年で気配を読むことに誰よりも長けた彼は、服についた砂を払いながらアラネアの視線に何だ?と疑問を投げかけた。
「いや、あんま悔しそうじゃないから」
「ああ。想定内だったからな」
「そりゃまぁ、あんたならわかってただろうけどさ」
あんなことを言った手前、もう少し悔しがるかと思っていた。だが目の前の男は、いつも通り澄ました顔をしている。
「あなたとの実力差をはっきりと知りたかったんだ。おかげで身をもって体感できた。感謝する」
「ああ、そういう……メガネ君らしいわ」
口の端を上げ、すっきりとしたような口調で礼を言う。どうやら見栄ではなく真実らしいその理由に、アラネアは呆れたような感心したような笑みをこぼす。
頭脳派なのにやることは妙に肉体派なのだ。本人曰く曖昧なのは好きではないかららしいが、その考えのおかげで理知的な見た目に反して無謀とも思えるような行動を彼はよく取る。
そのためよく周囲を驚かせているのだが、彼自身は知りもしないだろう。
だが、そういうところは嫌いじゃない。寧ろ共感できるし好感ももてる。
「まぁでも、せいぜい欲しいものとやらのためにがんばんなよ」
何だか毒気を抜かれてしまったようで、今度はすんなりと言葉が出た。
未だ燻っているものが自分のなかにあるが、自分を追い越すのはまだ先のことだ。意図せずそれを確かめることができて、余裕もできたのかもしれない。
「そのつもりだ。そのためには、あなたの協力も必要不可欠なんだが…」
「ノリ気だったら受けてやるよ」
「よろしく頼む。どうせやるなら、コンディションの良いあなたに勝ちたいしな」
至極真面目な顔でそういうものだから、アラネアはグローブを外しながら思わず吹き出す。先程の厭味ったらしいものとは大違いだ。
「言うじゃないか。さっきは手も足もでなかったくせに」
「そのうち追いついて見せるさ。長期戦は得意分野だ」
「そうそ、面倒くさがりな王様のおかげでね」
訓練用の槍を元あった場所に立てかけながら会話を続けていると、まだ少年っぽさの抜けきらない声音が耳に届いた。
振り返れば、金髪をぴょんと跳ねさせた青年がこちらに近付いてきていた。
「イグニスもアラネアもおつかれ!はいこれ、オレたちからの差し入れ」
ぱっと明るい無邪気な笑顔付きで、プロンプトからタオルとミネラルウォーターを渡される。
「あら、気が利くじゃない」
「へへ、でしょ〜?っていっても、お金出してくれたのはビッグスとウェッジだけどね」
「だが思いついたのはプロンプトだろう」
「あーうちにもあんたみたいな子がいればなぁ」
「え?オレ、アラネアのとこ行けちゃう?傭兵になれちゃう?」
「ふふ、なれちゃうなれちゃう」
「オレの前で堂々と仲間を引き抜かないでくれ」
他愛ないやり取りのあとに二人して礼を言い、遠慮なくそれを受け取った。タオルで首筋やむき出しの腕を拭え、汗と共に砂も取れて多少すっきりする。
「アラネア」
喉を潤そうとペットボトルの蓋を開けようとしたところで名を呼ばれ、視線を滑らせれば見慣れた栄養ドリンクのビンが目の前にぶら下がっていた。
受け取ってその奥を覗けば、もう片方の手でポーションを割っているイグニスの姿が見えた。どーも、とアラネアは笑い、彼にならってビンごと割る。
パリン、とガラスのような澄んだ音を立てて割れたポーションは光の粒子となって消え、同時に午前中の疲れごと身体が癒されていくのを感じた。
「とりあえず、まずはあなたに一太刀浴びせることができたら、メガネ呼びはやめてもらえないだろうか?」
「は?なんで?」
イグニスの突拍子もない提案に、アラネアは目を丸くして彼を凝視する。
「もしかして嫌だった?」
「いや、そう訳ではない。ただ褒美があったら、と思っただけだ」
その考えはわかるが、それが褒美になるのだろうか。
薄く微笑むイグニスをじっと見つめて訝しげに眉をひそめるが、彼がそういうのならそうなのだろうと勝手に自己完結した。今回のことも含めて、イグニスの思考はアラネアの斜め上をいくのはよくあることだった。
というか、とアラネアは口角を上げて彼を見上げる。
「あたしにはなんも見返りなし?」
そうそう追い越されるつもりなんてないが、そういうことならこっちだってご褒美が欲しい。
やれやれと大仰に肩を竦めて言えば、イグニスはああ、と思案するように顎に指を添える。いつも思うが、彼はこういう仕草がやけに様になる。
「なら、今度からはオレが負けたら何か奢ろう」
「へぇ、何でもいいの?」
「……できる限りは意に添おう。今日は……そうだな、丁度夕食をみんなで食べようと話していたんだ。あなた達も一緒にどうだ?」
「えっ、アラネアも来てくれんの!?」
「え……えーっと、そうね……」
微笑んで紳士的に手を差し出す長身の男と、期待に目を輝かせて見つめてくる青年。このコンボは卑怯だとアラネアは思った。
素なのだろうが、わかっていてやっているのだとしたらタチが悪い。いや、わかっていなくても厄介だ。
アラネアはふぅと髪をかき上げて、苦笑いをひとつこぼす。
まぁでも、彼の料理なら大歓迎だ。この青年や部下とこちらを眺めている大男と話すのも楽しいし、昼食のときのようにテーブルを囲んで食べるのも悪くない。
──もしかしたらこんなお誘いも、あと数えるほどしかないかもしれないしね。
絆されているとわかっていつつも、そう思うと余計に惜しくなった。
「わかった。それじゃあ今日は遠慮なくごちそうになるよ」
「ああ。腕によりをかけてもてなそう」
せめて彼が自分の事を慕ってくれている間は、その厚意に甘えよう。
その前にシャワー浴びさせてね、とからかい混じりに笑いながら、アラネアは今度はこちらからイグニスの手を取ったのだった。


「まさかこんなことになるとはな…」
グラディオラスは腹を抱えて大笑いしたいのを必死にこらえて、何とか口の端を上げる程度におさめていた。あきらかにニヤついた顔になっているが、もうこれは仕方ない。これ以上は無理だ。限界だ。腹筋が死ぬ。
それでも堪えきれなかった笑いがくくっ、と口からもれだした。口元を覆うように顎をさすって、誤魔化すためにしっかし、と呟く。
「ちゃっかり夕食に誘って、次の約束取り付けてるあたりは流石としか言いようがねぇ」
「あ、やっぱりそういうことで?」
どうやら独り言が隣に聞こえてしまったらしい。目敏く聞きつけたビッグスが、自分と似たような笑みを浮かべてグラディオラスを横目で見た。
「いや〜あんな風に口説くお人は初めてなんで、勘繰りすぎかと思ったんですが……旦那が教えたんです?」
「いや?オレはただ、ナンパが無理ならお前の専門分野で考えたらどうだ?って言っただけだ」
「専門分野ってのは?」
「軍師だ」
グラディオラスの言葉に、ビッグスは納得するようにぽんと手をたたく。そういえばルシスの基地はこの王子一行に尽く潰されたのだ。報告によれば、いつの間にか深部にまで侵入されて電波塔を破壊されたのだとか。
「ははぁ、それでああなったと」
感心するように言って、グラディオラスと同じようにぶっと吹き出した。
「本当、あなた方見てると面白いですわ」
「ははっ、違いねぇ」
肩を揺らしながらそう思ったことを口にすると、グラディオラスが屈託なく豪快に笑って同意した。
こっちの旦那は手慣れてそうだなぁとやや下世話なことを考えつつ、ふと横にいる相棒がいつにもまして険しい顔をしていることに気付いた。
「どうしたよ、ウェッジ?」
「何だ?あんたもアラネアのこと狙ってたのか?」
重ねて投げかけられた問いに、ウェッジは難しい顔のまま違う、ときっぱりと否定してから口を開く。
「なんというか、わざわざ遠回りしているようにしか見えないんだが…」
肝心な部分を隠して誤解を生んでいるというか、鈍いのか隠すのが上手いのか妙なところですれ違っているというか。
要は直球でいけば済む話だろうと、器用なのか不器用なのかわからない男女を見つめて首を傾げる。
「何だ、そんなことか」
拍子抜けしたようなグラディオラスの声に、ウェッジは思わず腕を組んだまま顔を向けた。
「そこが面白れぇんじゃねぇか。あたたかく見守ってやろうぜ。なぁ?」
「いや本当その通りで。うちらのお嬢はそう簡単に渡せないってな」
大の男が意地悪く笑う顔をお互い突き合わせ、また声を上げて笑う。
彼らの発言にウェッジは何も言えずに固まっていると、ふいにプロンプトが自分達三人の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
おそらく夕食のことだろう。大きく腕を振る青年に、グラディオラスがわかったと手を上げてビッグスと並んで歩きだす。
「…………苦労するな」
そっとため息と共に呟かれたウェッジの言葉は、誰に聞かれるでもなく訓練場の地面に落ちていった。




あとがき
はじめて書いたイグアラ話。以前お見かけした手合せをするイグアラの竜騎士VS軍師っぷりにすさまじく萌えさせていただきまして、自分でも書いてみたらとんでもなく別の方向にいってしまいましtおかしいなブチ切れるアラネアさんとあくどく笑うイグニスが見たかったはずなのに…。
イグニスって素で相手を口説くような台詞を言うけどいざ口説くとなると不器用に器用な事しそうだなと思います。
10年の間にイグニスとアラネアがちょっとした師弟関係になってたら萌えるなと思います。師弟大好きです師弟。



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