とある診療所の噂


荷台に人や物を乗せた馬車の列が、がらがらと大きな車輪を回して横を通り過ぎていく。空は晴れ。大通りの人たちの足取りも、馬の足取りも軽い。
蒸し暑さはいつの間にかどこかにいって、街には涼しい風がそよそよと吹いている。秋の始まり。来月には楽しいハロウィンがやってくる季節だ。
「っ……、もぉぉぉ、この時間馬車多すぎ!」
大通りを挟むようにしてずらりと並ぶ家のひとつから出てきた私は、馬車が上げていった砂ぼこりに咳き込みながら愚痴をこぼした。はぁとため息をついて、ポケットからペンと折りたたんだ紙を取り出す。
開いた紙には人の名前と住所が走り書きの文字で書かれている。昨日の夜、私が書いた配達リストだ。
「えーっと、今のでスミスさんところの配達が終わって……」
リストの下から三番目にある名前に線を引く。朝から配達に回って半日。よれよれの線が引かれていない名前はあと二つだけになっていた。
よし、とリストを眺めながら達成感に笑みを浮かべる。終わりが見えてきた仕事に、心はもうおしまいモードだ。今日はこのあとに楽しみが待っているからなおさらだ。ふふ、と自然と笑ってしまう口元を紙で隠す。
最後まで気を抜くな、とお父さんからいつも言われるけれど、これはちょっと仕方ない。いつもより早く休めるのを喜ばない人なんて、仕事が好きで好きでたまらないような人だけだ。
よいしょ、と重たい大きなカバンとぺしゃんこになったリュックを背負いなおす。
学校を卒業してから、毎日毎日同じことばかりの繰り返し。お父さんの営んでいる雑貨屋の配達や在庫の確認。高等部の学校なんて夢の世界。
配達をして、空いた時間で内職をして、月々にもらえるちょっとのおこづかいで時々友達と遊びながら、夜は工場から帰ってくるお母さんと姉さんを待つ。
「こんにちはー!ウィルソン雑貨です!」

これは、そんなどこにでもある平凡で変わらない日々を過ごす私が、とても不思議な出来事に巻き込まれたときの話だ。


◆  ◆  ◆


馬車や市場で騒がしい大通りの一角。十字路の角にある、優しいミント色をした建物の前で立ち止まる。
『エミリー・ダイアー診療所』。白い看板に書かれた綺麗な黒い文字を見上げて、肩にかけたカバンの紐を握りながらドアを引いた。
「それじゃあ、お大事に──あら、ルーシーさん、こんにちは」
「エミリー先生!こんにちは」
からん、とベルの音を鳴らせて中に入ると、会いたかった人がすぐ目の前に現れた。今日は良い日だ。
この人はエミリー・ダイアー先生。看板の名前通り、この診療所のお医者さんだ。住んでいても時々道に迷いそうなほど大きなこの街でも、たった一人しかいないのだという、女のお医者さん。
ちょうど患者さんを見送るところだったらしい。先生と私の真ん中には、七つか八つくらいの女の子がぽつんと立っていた。
ひとりで来てるなんて偉いな、なんて思いながら横に移動する。けど、その子がすごく不安そうな顔をしているのに気付いて思わず足を止めた。
大丈夫?と声を掛けるより早く、女の子は手を伸ばして先生の白衣をぎゅっと握る。
「せんせい……ママ、ほんとに元気になる?」
ぽとりとこぼした言葉にあっと声を上げそうになって、私は慌てて口を塞いだ。
そうか、調子が悪いのはこの子じゃなくて、お母さんか。
今にも泣きだしそうな顔をして、それでもぐっと頑張って我慢している。そんな子にかける言葉なんて私にはわからなくて、でもこのままじゃ泣いちゃう、と焦るりだけが大きくなる。
「大丈夫。このお薬を飲めば、きっと良くなるから」
その時、エミリー先生がその子の前にしゃがみこんで、白衣を包んでいた手をそっと両手で包み込んだ。
「明日になっても元気がなかったら、また来てちょうだい。今度は先生があなたのお家に行くわ」
ゆっくりと落ち着かせるように先生は語りかける。その話し方と先生の笑顔に安心したのか、女の子はほっとしたように身体の力を抜いた。
「……うん、わかった」
「先生が言ったことは、ちゃんと覚えているかしら?」
「ちょっとでもいいからごはんを食べてもらって、それからおくすりを一つぶ飲んでもらう」
「その通り。偉いわ」
頭を撫でられて、女の子は涙をためたまま、けれど恥ずかしそうにじんわりと笑う。先生の言葉に勇気づけられたのか、片手に抱えていた紙袋を大事そうに両手で抱えてから、その子はお母さんのためにドアの向こうへと小走りに駆けていった。
「先生、すごいですね……泣きそうな子を、一瞬で元気にさせちゃうなんて」
ため息をつきながら呟くと、エミリー先生は困ったような笑みをこぼした。
「私の力じゃないわ。少し背中を押してあげただけだもの。すごいのはあの子の方」
そう言って、先生は立ち上がってドアを見つめる。私もつられてチョコレート色の扉に顔を向ける。
「ちゃんと家に帰れるといいのだけれど……私も一緒についていった方がよかったかしら?」
「大丈夫ですよ。あの子の家は向かいのアパートですから。私のご近所さん」
頬に手を当てて心配する先生に、朗らかな声がかかった。振り返れば、私と同じ赤毛をエミリー先生と同じようにきっちりとまとめた女の人が、受付のカウンター越しに私たちを見ていた。
「レベッカさん。こんにちは」
「こんにちは、ルーシー。いつもご苦労さま」
私の背負うリュックとカバンを見て、レベッカさんはそう声をかけてくれた。私が雑貨屋の配達員であることは、ここにいる人達はみんな知っている。他の看護婦さんとも、もうすっかり仲良しだ。
「それにしても、よくあの子の説明だけで何の疾患かわかりましたね。『お腹が痛いから薬をちょうだい』って、それだけだったのに」
レベッカさんが不思議そうに尋ねると、先生はああ、とこぼして小さく微笑んだ。
「あの子のお母様は、よく生理痛に悩まされているから。私に言えばわかるからって言っていたし、痛みがひどくて薬を頼んだんだなってわかったの」
その説明に、私とレベッカさんはあぁ〜、と納得して声を上げた。女の人だからこその悩みだ。自分の時を思い出して、早く薬が効きますように、と祈る。せめて来るのは年に一回くらいにしてほしいと思うのは私だけじゃないはずだ。
「ダイアー先生、バイタルチェック終わりました」
「わかったわ、今行きます」
待合室の奥、いつもエミリー先生がいる診察室から別の看護婦さんが顔を出した。先生はそれに頷いて、それからさっきの微笑みのまま私の方を向いた。
「ルーシーさんは、今日は診察もかしら?そろそろ薬がなくなる頃だったと思うのだけれど」
「あ、はい。そうなんです。明後日の分でなくなるから、またもらいたくて」
何でわかったんだろうと驚きながら答えると、エミリー先生は正解だったわね、とちょっとだけ嬉しそうにまた目を細めた。
「後で診させてもらうわ。次の患者さんの診察が終わったら呼ぶから、もう少し待っていて」
「わかりました。じゃあその間に納品済ませちゃいますね」
頼もしく見えるように少しだけ胸を逸らして、カバンをぽんと叩いてみせる。エミリー先生はくすりと笑って、ありがとう、と言ってから診察室の方へと向かっていった。
「……やっぱりステキだなぁ」
白衣の後ろ姿を見送りながら、ほう、とため息をつく。優しくて仕事もできてキレイで、憧れはどんどん大きくなっていく。
「あら、素敵なのは先生だけ?」
「レベッカさんもステキですよ!一番がエミリー先生なだけで」
「正直すぎるわよ、もう」
カウンターから身を乗り出し、おでこをつんとつつかれる。鼻にしわを寄せて怒った顔をしたレベッカさんは、だけどころりと表情を変えた。
「まぁ私も同じだけどね。エミリー先生がいなかったら、こんなに仕事が楽しい思うことも、やりがいを感じこともなかったし」
診察室に向ける横顔は、天気のいい日にお出かけする人みたいに清々しい。いいな、と思う。そんな風に働けるレベッカさんが本当にステキだし、本当にうらやましい。
「さて、ではこちらへどうぞ、小さな雑貨屋さん。今なら物品庫にクレアがいるはずよ」
少しだけかしこまったような話し方で、レベッカさんは待合室の奥を手で示す。その言い方と動きが何だかおかしくて、私は笑いながらはーい、と先にある廊下へと向かった。



「……はい、これで全部です」
「ええ、どれも全部揃っているわ。ありがとう」
テーブルの上に並べられた品物を見渡して、看護婦のクレアさんがサインを書きながらおっとりとした口調でOKをくれる。丈夫なだけが取り柄の古びたカバンはすっかり軽い。これで今日の配達は完了だ。
「こちらこそ!うちは小さいから、定期的に注文がもらえてすごくありがたいって、お父さんも言ってました」
「あらあら、お上手ねぇ。こっちだってとても助かってるわ。値段も安いし、品物もいいし、何より可愛いルーシーちゃんがいつもしっかり届けてくれるしね」
両手を合わせてにこにこと褒めてくれるクレアさんに、私は嬉しくなってえへへ、と頬をかいて照れる。
「ルーシーちゃんはこのあと診察だったわよね。じゃあその間にお茶はいかが?今日はダイアー先生特製のクッキー付きよ」
「いただきます!」
クレアさんの提案に私は一瞬で飛びついた。午後の配達がない日の、家族にも内緒の特別な時間。しかも先生の手作りクッキーなんて、今日はすごくラッキーだ。
物品庫から出て、すぐ横の階段を上って休憩室に移動する。ドアを開けばフローリングがあり、四人用のテーブルにはガラス製のクッキージャーに色んな種類のクッキーが詰め込まれていた。
プレーンにココアにチェック柄、真ん中にジャムが入った、ブローチみたいなクッキーもある。時々食べる機会があるけど、本当にいつもすごい。
クレアさんがお茶の準備をしているうちに、カバンとリュックを降ろして椅子に座る。ジャーのそばの小皿には、クッキーを取り分けて食べた跡が残っていた。
「お待たせー。今日はアールグレイよ」
ガラスの蓋を開けて何枚出そうかと悩んでいると、クレアさんがポットとカップをトレイに乗せて戻ってきた。
「十分くらいはお茶にできるかしら?」
クレアさんが白いカップに紅茶を注ぐ。すぐにふわりと茶葉の香りが漂ってきて、私は身を乗り出したまま息を吸い込んだ。
「いい匂い……クレアさん淹れてくれるお茶、本当に美味しくて好きです」
私側にあったカップを引き寄せ、綺麗な赤茶色をじっくりと眺めてからそうっとすする。紅茶の中にふわりとオレンジっぽいフルーツの香りと味が口に広がって、私はほっと息をついた。
私が、たまに出る店の廃棄品で淹れるものとは全然違う。何で渋くならないんだろう。
「ふふ、ありがとう。紅茶はね、ダイアー先生に淹れ方を教えてもらったの」
「エミリー先生に?」
「ええ。流石イギリスの方よねぇ。淹れ方から茶葉の種類まで、すごく詳しく知ってらっしゃるの」
「へぇ〜……」
いいな。私も教えてもらいたい。お願いしたらOKしてくれるかな。今日の診察のときにちょっと話してみよう。
よし、と頷いてから、ふとまばたきをした。
「あれ、エミリー先生ってイギリス人なんですか?」
尋ねながら、イギリスってどこだっけ?と頭の中でぼんやりとした地図を広げる。
真ん中にアメリカ大陸があって、その右側にアフリカとヨーロッパが多分あって……確か、そこら辺の小さな島だった気がする。何となくヘビみたいな形の。
海を渡らなきゃ行けないような場所だ。そんな遠くからここに来ていることに驚いていると、クレアさんはそうみたいよ、とクッキーを数枚取り出した。
「きっと色んな苦労があったんじゃないかしら。それくらい女性医師って、本当に珍しいのよ。お医者さん自体、誰でもなれるわけではないし」
小皿に出したクッキーを一枚とって、クレアさんは細長い目をもっと細くして微笑んだ。
「だから、それでも医師の道を貫いているダイアー先生を、ここにいる全員が尊敬しているの」
その笑顔がすごくきらきらしていて、私はまたいいなぁ、と羨ましくなる。でも、私だって同じ気持ちだ。
「私も、エミリー先生のことすっごく尊敬してます」
「ね?本当にすごい人よねぇ。あの噂だって信じたくなっちゃうもの」
「あ、もしかしてあれですか?先生は神様の御使いだっていう」
その言葉にぱっと閃いて聞くと、クレアさんはそうそれ、とチェック柄のクッキーを挟んだ指先を振った。
私も直接聞いたわけじゃない。姉さんが工場の誰かから聞いた話だ。
エミリー先生は、神様が私たちのために遣わしたひとで、だから先生には神様の加護がついているんだって。だから天使のように優しくて、そんな優しい先生に私たちは惹きつけられてしまうんだって。
「私、それが本当でも驚かないです」
「私も私も」
二人してうんうんと頷く。
だってそれくらい好きになっちゃうんだ。初めてここに来たときから、この人なら安心できるってすぐに思った。それって考えてみるととてもすごいことで、そんなすごいことができてしまう先生ならって、その噂に納得してしまう。
「でも、その噂の出所ってどこなんでしょうね?ルーシーちゃんは知ってる?」
「私も知らないです。ここに通ってる患者さんの誰かなのかなって思ってるんですけど」
「そうよねぇ……一体誰が言い始めたのかしら?」
小皿の一番上に乗ってるジャムクッキーを取って口に入れる。さく、と軽い音がして甘酸っぱいイチゴジャムとクッキーのさくさく感が絶品だ。
何枚でも食べられちゃいそう、と顔を綻ばせていると、ドアをノックする音が響いた。
「ルーシー、いる?」
「あ、はい」
ドアが開くと、ちょっと困った顔をしたレベッカさんが入ってきた。
「あー、ルーシー、ごめんね。あなたを診るの、もうしばらくかかりそうなの」
「それは大丈夫ですけど……具合の悪い人が来たんですか?」
「ううん、急患じゃなくて……」
「もしかして、またあの人?」
クレアさんの言葉に、レベッカさんはドアに寄りかかりながらそう、とため息をついた。
「えっと、あの人って一体……」
気になって聞くと、クレアさんとレベッカさんはちらりと顔を見合せて、それから嫌な臭いを嗅いだときのような表情で私を見た。
「この頃ね、この診療所を土地ごと売ってくれないかって、しつこく押しかけてくる人がいるのよ」


◆  ◆  ◆


「ですから、その件は何度もお断りさせていただいて……」
「わかっています。ですがどうしても諦めきれないのですよ、エミリーさん」
深緑色の帽子に同じ色のスーツ。見るからに高そうな革の靴。腕にかけてるコートも手触りがよさそうだ。
患者さん用の丸椅子に座って、向かいの先生に迫る金髪男。姿勢はよくて言葉遣いも丁寧だけど、背中越しにちらちらと見える横顔が。
「うっさんくさ……」
「ルーシーちゃん、声に出てるわ」
「だってあんなあからさまな営業スマイル……絶対私の方が上手に笑える自信ある。ていうかエミリー先生に近すぎじゃないですかあれ?先生がかわいそう」
「バレるから静かにしなさい。全面的に同意するけど」
廊下から覗き見る私の頭をレベッカさんがぽんぽんと撫でる。それで少しだけ落ち着いたけど、それ以上にもやもやとした気持ちが胸の奥から湧いてくる。
「何なんですか、あの人」
レベッカさんたちの方を向き、ぐっと声を小さくして尋ねる。土地を売ってほしいって話だったから、きっと商人なんだろう。けど先生があんなに困ってるのだ。ろくな営業じゃない。クッキーも一枚しか食べられなかったし。
つっけんどんな言い方になってしまった私に、それでも二人は気分を悪くすることなく答えてくれた。
「メトロポリタン美術館があるじゃない?その裏手にあるデパートの、オーナーのご子息の方だそうよ」
白くて立派でお城みたいな美術館がぱっと頭に浮かぶ。ここに住んでいる人たちなら誰だって知っている大きな美術館だ。
そしてクレアさんの言う通り、美術館のあるセントラルパークの外側には、確かに大きなデパートがある。
友達と一緒に興味本位で入ったことがあるけど、私たちのおこづかいじゃ買えるものなんてほとんどないような場所だった。いわゆるお金持ちな人向けのデパートだ。
「そんな人がどうしてここに?」
「この診療所を買い取って、カフェにしたいんだって。ここは人通りが多いからって」
肩を竦めてそう言ったレベッカさんの説明に、私はこれ以上ないくらい目を見開いた。
「なっ……そんなの絶対ダメですっ!」
「ちょっ……!」
小声で喋ることなんてすっかり頭から吹き飛んで、思わず声を張り上げて叫んでしまった。慌ててレベッカさんが私の口を塞いだけど、もう遅かった。後ろからコツコツと、ナースシューズでは鳴らない靴音が聞こえてくる。
「盗み聞きとは感心しないな」
一見穏やかそうな低い声に、しまったと思いながら恐る恐る振り返る。背中しか見えていなかった金髪男が、まるで仮面をつけてるみたいな作り笑いで私を見下ろしていた。
「申し訳ありません。そろそろ話が終わる頃かと思いまして」
クレアさんの謝罪に、男はふん、と鼻で笑う。目が笑っていない、下手くそな営業スマイル。近くで見るともっとよくわかる。
「エミリーさん、看護婦の教育がなっていないのではないですか?患者の個人情報を扱う方がこうでは困ります」
いやみったらしい口調でやれやれと首を振る金髪にむっとして顔をしかめる。レベッカさんもいつもより刺々しい声で反論する。
「そもそもあなたは患者ではないでしょ。しかも診療時間中に上がり込んできて……」
「ここの診療所は患者によって終わる時刻が変わるだろう。私は忙しい身でね。しかし、敬語も使えないとは……やはり私の提案を呑んだ方がよろしいのでは?」
「それは先程も言いましたが……」
「何に不満があるというのですか?あなたも、ここにいる看護婦も全員、中心部にある大病院に斡旋すると言っているのに」
頭が一瞬で真っ白になった。
大病院に斡旋。それはつまり、エミリー先生もクレアさんもレベッカさんや他の看護師さんたちがここからいなくなっちゃうってことで。
先生たちがいなくなったら、この診療所は。
「ダメ!この診療所をなくさないで!」
金髪男に詰め寄って叫ぶ。勢いあまって腕を掴んで、けれど虫でも叩き落とすみたいに払われた。よろめいた私をレベッカさんが慌てて支えてくれた。
「君は部外者だろう?大人の問題に口出しするんじゃない」
「沢山の人がエミリー先生のことを頼りにしてるんです。ここがなくなったらみんな困ります!」
「話が通じないのか?これだから高等教育を受けていない人間は……」
話が通じないのはどっちだ。そう言い返しそうになって、けれどその前に金髪男は向きを変えてエミリー先生を見た。
「あなたのためを思って言っているのですよ、エミリーさん。こんな小さな個人診療所よりも、大病院の方がよほどあなたの力を振るえるはずです。知名度も桁違いに上がることでしょう」
金髪男の言葉に、私はかっと頭に血がのぼる。私を支えるレベッカさんからも、隣にいるクレアさんからも怒っている気配が伝わってくる。この人、いやコイツ、エミリー先生のことまで馬鹿にして。
でもここで怒りに任せて怒鳴ってしまったら、また教育がなんだのかんだの文句をいってくるに違いない。怒って暴れて、それでエミリー先生にまで迷惑をかけてしまうのは嫌だ。そう思うと何も言えなくなった。
金髪男だけが言いたい放題なのが悔しい。お金儲けのために、ここをなくそうとしているこんなヤツに。
ぎゅっと唇を噛んで、せめてと睨みつける。そんな反抗を気にも留められないまま、男は不合格な笑顔で先生に近付いた。
「この私が推薦するのです。相応のポストは用意しますよ。あなたのことですから、きっとかのナイチンゲールのように『白衣の天使』と称されるように──」
「やめて」
唐突に、場の空気が凍り付いた。聞いたこともないような鋭く冷たい声に、私たちはぴたりと固まった。
「え……?」
呟いたのは私なのか金髪男なのか、どっちかわからないまま先生に目を向ける。今の声は。
「あ……申し訳ありません。私には恐れ多い呼び名だったもので……」
けれど恐る恐る見てみた先生はいつもの声色に戻っていて、本当に申し訳なさそうな顔をして胸の前で手を重ねていた。そこには、さっきのようなぞっとするほどの冷たさは全然感じられない。
「何度もお答えしていますが、私は大病院に移る気も、ここをあなたにお売りする気もありません。ご厚意を無下にしてしまうこと、大変申し訳なく思いますが、どうかお引き取りください」
石になっている私たちをよそに、エミリー先生は金髪男に深々と頭を下げた。マナーのお手本のような、とても綺麗なお辞儀だった。
私と同じように呆気に取られていたらしい金髪男は、動揺したのを隠すように帽子に触れながら咳ばらいをする。
「そうですか……いや、残念です。あなたはもっと聡明な方かと思っていましたが……」
「身に余るお言葉をいただき、嬉しく思います。ですが私はただ、救いを求めてやってきた患者の手を取り、真摯に向き合っていきたいと、そう思っているだけのしがない医者です」
捨て台詞みたいな言葉にも、先生はお辞儀をしたまま穏やかに、真っ直ぐに意思を伝えて返す。
その先生の反応が面白くなかったらしい。金髪男はやっとハリボテみたいな笑顔を不機嫌そうにゆがめて、失礼する、と外へと出ていったのだった。
「……先生!大丈夫ですか?」
馬車の音が遠のいてからエミリー先生に飛びつく。抱くつく勢いで駆け寄ると、先生はびっくりしたようにぱちぱちとまばたきをしていた。
「え、ええ……それよりルーシーさんは怪我はない?」
「私は全然!何なんですかアイツ!レベッカさんありがとうございます!」
「いーえ。まったく……二度と来んなっての」
「いい加減営業妨害よねぇ……訴えられないかしら?」
「クレア、それは無理だと思うから、お願いだから実行はしないでちょうだいね?」
男がいなくなって我慢してた不満を口々にこぼすと、エミリー先生が苦笑して私たちを宥めた。
「三人とも落ち着いて。今日のところは帰ってくださったのだから、それでよしとしましょう?」
そのうえ一番大変な思いをしている先生にそんな風に言われてしまったら、私たちは頷くしかない。先生は優しすぎるんじゃないだろうか。愚痴のひとつもこぼさない先生が心配になってくる。
おさまりきらない気持ちのやり場に困って、もう一度金髪男がいた場所を睨みつける。と、その時に椅子の横に立てかけてある傘が目についた。
「あ、あの人忘れ物してますよ。大きな黒い傘」
あんな偉そうにしていたのにカッコ悪い。きっとあの傘ももの値打ちものなのだろう。柄の先端についた赤い宝石みたいなのがいかにも高そうだ。
「え?」
「捨ててよし」
「了解です!」
「ち、ちょっと待って。捨てるのはもちろんダメだけど、あの人は傘なんて持ってきていなかったわ」
「え、じゃああれは……」
指差した方に顔を向けて、私は目を丸くした。さっき見た傘がない。
「あ、あれ?椅子のとこにあったはずなのに……」
私じゃ両手で抱えて持たないといけないような大きくて長い傘が。頭を振ってからまた同じ場所を見ても、あるのは形の違う二つの椅子だけだ。
「見間違いだったのかな……?」
「……そうね、私の椅子が黒いから、そう見えたのかもしれないわ」
そう言われてみるとそんな気がする。ひざ掛け部分が傘に見えたのかも。頭に血がのぼりすぎたみたいで少し反省する。
エミリー先生は診察室の中に入っていく。ちょうど傘が見えたところの前で一度立ち止まって、それから先生用の椅子の前で振り返る。
「お待たせしてしまってごめんなさい。ルーシーさん、こちらへどうぞ」
聞き慣れた先生の台詞に、やっといつもの診療所に戻ってきた気がした。先生のその言葉を聞いただけで、金髪男のせいで悪くなっていた空気がさらさらと浄化されていく。
私はほっとして力を抜いて、先生の待つ診察室へと入っていった。


◆  ◆  ◆


この日、私が夜に外に出ていたのは、本当にたまたまだった。

ガチャ、と大門の横についている小さな出入り口を開け、守衛さんにお疲れ様です、と会釈をして外に出る。
「んんっ……、うぇー……やっぱり工場の空気はダメだなぁ。薬飲んでてもこれだもん」
かしゃんかしゃんと響く機械の音がまだ聞こえる気がして、私は追い立てられるような気分で織物工場を後にする。
私は軽い喘息があってあまり近づかないけど、今日はお母さんと姉さんの夜食を届ける日だったのだ。いつもならお父さんが届けるのお弁当は、仕事が忙しくて手が空かなそうだったから私が行くことにした。
「心配してるの無視して出てっちゃったから、早く帰らないと」
でないと私が帰ってくるまで玄関で待ってる。明日も早いんだから寝てればいいのに、絶対起きてるんだ。
涼しいと寒いの間くらいの気温の中を、私はぽつぽつと並ぶ街灯を頼りに歩いていく。あれほど人でいっぱいだった大通りは、もうすっかり静まり返っていた。
夜の空をにっこりと笑顔にしている三日月を見上げて、私は今日あったことを思い出してため息をついた。
「エミリー先生、大丈夫かな……」
あの名前も知らない金髪男がいなくなったあと、私も診察を受けて薬をもらって帰った。あれからも何もなかっただろうか。
巻き込んでしまってごめんなさいね、と困ったように微笑んでいたエミリー先生が頭から離れない。心配しない方が無理だ。
あんな悪徳商人みたいなヤツが先生の診療所を狙っているなんて。しかもみんなを追い出してから開くのは、どこにだって作れるようなカフェだ。バカじゃないの?とどれだけ言いたかったか。
「あーもう、思い出しただけでイライラしてきた。ほんとムカつく!」
頬を膨らませてダンッと地面に足を叩きつける。商売は思いやりだっていうお父さんの考えとは正反対だ。好きじゃない。そもそも態度も性格悪そうな顔も嫌いだけど。
踏みつけるように石畳を歩いて、けれどそのうちに怒りよりもまた不安が押し寄せてきて歩幅が小さくなる。
「本当に、なくなっちゃったらどうしよう……」
そんなの嫌だ。なくなってほしくない。エミリー先生たちが大病院に行ってしまうのもダメだ。
レベッカさんがしつこく来てるって言っていた。今日は諦めて帰ってくれたけど、きっとまた来るんじゃないだろうか。先生の仕事も看護婦さんの都合も、患者さんの体調だって気にしないで、今日みたいに割り込んで、先生に迫って……すごく迷惑な話だ。
「……あれ?」
そんなことを思いながら歩いていたから、気付けば帰り道から逸れて、診療所のある通りに足を向けていた。
やってしまった、と私はがっくりと肩を落とす。帰りが予定より遅くなるのが決まってしまった。
お父さんに絶対心配かける。というか叱られる。もしかしたら夜は外に出させてくれなくなるかもしれない。うわーどう説得しよう。
どこかから犬の遠吠えが聞こえる。まるで凹む私を笑っているみたいだ。
「……うん?」
ふと、何か視界の端で動いた気がして反射的に目を向ける。大通りのちょうど曲がり角。動いているものが人影だと気付いて、近くのダストボックスの影に隠れる。
ここら辺の不良が何か悪さをしようとしているのだろうか。からまれたくないから、こっそりと顔を覗かせて様子を伺う。
人影は二人。けっこう大きい。街角の家の前で何やら話しているみたいだった。
「……って、あそこって診療所じゃ……え?」
人影は、そのまま狭い路地へとするりと入っていく。私は物陰からゆっくりと出てきてその場所をじっと見つめる。人影はそのまま路地から出てこない。
あの路地は確か行き止まりのはずだ。向こう側には出られない。
あんな所で何するつもりなんだろう。不思議に思って首を傾げて――はっと息を呑んだ。
路地の方には、裏口がある。そこからゴミを出しに行く看護婦さんを、私は見たことがあった。
「もしかして……」
浮かんだ予想に、ぞっと鳥肌が立った。どうしよう。どうしよう。
キョロキョロと慌てて辺りを見回す。誰もいない。あの人影もまだ出てこない。
ここにいるのは私だけ。警察を呼ぼうか。でもここからちょっと遠い。その間に診療所に何かあったら。
「……そんなの、絶対いやだ」
思い返せば本当に無茶な考えだった。けれどその時の私には、それしか方法がないと思って必死だったのだ。
震える手を握りしめて、私は覚悟を決めて診療所を睨むように見上げた。



室内は不気味なほど静かで、いつもの診療所とはまったく別の場所みたいだった。小さい頃に戻ったみたいに、夜の怖さが足元から這い上がってくる。
緊張で発作が出そうになって、私はその場で何度か深呼吸をする。どくどくと耳元で鳴っていた心臓がゆっくりと元に戻るまでそれを続けて、落ち着いてからぐっと気合を入れて前を向く。電気のついていない廊下は、暗闇の中に何かがいそうで気味が悪かった。
裏口の扉は、やっぱり開いていた。人影もいなかった。
私のいやな予想は、どうやら当たってしまったみたいだった。
「どこ行ったんだろう……」
あの金髪男の仕業なら、先生や診療所にとってよくないことをするはずだ。患者さんを不安にさせたり、信頼を失わせたりするような、そんなこと。
考えろ。私は雑貨屋の娘だ。商売人ならどうすれば損をする?仕入れた商品が売れないこと。お客さんがつかないこと。他の店の方が安かったり、良い品物だったりしてもそうだ。
そこは診療所だって同じはず。患者さんが来なかったら、続けられない。そしてそうなるように細工をするとしたら、人か物。ここをカフェにするつもりなら、人じゃなくて物に何かする可能性が高い。
(物品に薬品……それから患者さんのカルテ……)
裏口は物品庫のある廊下に繋がっていた。向かって右側にあるドアに、私は足音を殺して耳をくっつける。
物音ひとつしない。どうやらここにはいないらしい。私はほっと息をはく。
(受付の中に書類の棚があるから、このまま進んで……薬品てどこに置いてあるんだろ……っ?)
歩きながら考え事をしていたせいで足元をよく見ていなかった。コツン、とつま先に何かが当たって私は飛び上がった。悲鳴を上げそうになる口を両手で塞いで壁に背中を張り付く。
どうか気付かれませんように、気付かれませんように。そう祈って目だけを動かして、人影も声も聞こえてこないことに止めてた息をゆっくりと息を吐く。こんなの心臓がいくつあっても足りない。
「な、なに……」
胸元の服をぎゅっと掴みながらおそるおそるぶつかった何かを凝視して、私はえっと小さく声を上げた。
「これ、今日見た変な傘じゃ……?」
私の身体の半分以上もある大きな黒い傘。金髪男の座っていた椅子の横に立てかけてあったと思ったら、消えてしまった。
(何でこんなとこに?)
よく見ると外国の文字が書かれた細長い古びた紙が貼られている。暗い廊下の壁に寄りかかっているのも相まってすごく不気味だった。
私の見間違いだったんじゃなかったんだろうか。だってエミリー先生やレベッカさんたちがこんな傘を持ってるとは思えない。あの人影の誰かが持ってきたんだろうか。
私は思わず何歩か後ろに下がる。じっとそれを見つめるが、特に何かが起こるわけじゃない。
おずおずと下がった歩数分を前に出て傘の前で立ち止まり、私は何度目かの深呼吸をする。それから、その大きな傘の柄を取った。
(お、おもい……)
ずしりとした重みが両手にかかる。私の持っている傘の何倍も重い。まるで剣を持っているみたいだ。
けど、何も持っていないよりマシだ。きっとこれで思いっきり殴ったら痛いに違いない。そう思うと少しだけ勇気が湧いてきた。
よし、と気合を入れ直して、私は細い廊下をまた歩き出した──その時だった。
「おい」
後ろから聞こえた低い男の人の声に、私はびくりと肩を震わせる。無我夢中で手に持った傘を振り回して、けれど簡単に受け止められてしまった。
「あっ!」
そのままぐいと引かれて床に転がる。その拍子に傘が手から離れて、ごとりと廊下の隅に落ちた。
「何だぁ、ガキか?」
「どうした?」
別の男の人の声が耳に届く。顔を見ようとして、けれど突然視界が真っ暗になる。口も何かの布で塞がれ、手首を大きな手に掴まれて身動きが取れなくなった。
「んー!」
「静かにしろ。じゃねぇと殺す」
恐ろしい声が恐ろしい言葉をはいて、手首をきつく握りしめられる。痛みで叫びそうになっても、くぐもった呻き声しか出なかった。
「何でこんなとこにガキがいる?」
「ここに入るのを見られたんだろうよ。クソ、余計な仕事を増やしやがって」
髪をわし掴みにされて床に擦りつけられる。怖い。苦しい。布が邪魔をしてうまく呼吸ができない。
「仕方ねぇ。こいつを飲ませて川に沈めるか」
あからさまに苛立った声に、頭の上からもう一人の声が静かに囁いた。その言葉に私は固まり、私と捕まえている男の人はあ?と疑問の声を上げた。
「旦那にもらった毒か?」
「ああ、即効性のな。水の中に落としときゃ多少はごまかせるだろ」
全身がすぅ、と凍り付いていくような錯覚を起こす。男の人の声は淡々としていて、だからこそ本気だと直感でわかってしまった。
「──っ!」
「おっと。暴れんじゃねぇ」
「そのまま押さえてろ。先に飲ませて黙らせる」
足をばたつかせてもがく。上から何かがのしかかる。大人の体重が背中に思い切りかかって息が詰まった。苦しい。死んじゃう。
からから、と軽い音がする。瓶の蓋を開けている音だ。
上を向かせろ。冷たい声に頭を押さえつけていた手が髪を引っ張る。喉がのけぞった。
カチ、と何かが鳴って、それが近づいてくる。それが口の中に入ったら、私は死ぬ。殺される。何もわからないまま、誰にも見つからないまま犯人にされて。
(いやだ……いやだイヤだイヤだっ!)
いやだ。嫌だ。助けて。いやだ。死にたくない。
誰か、誰か──!

「……ん?──なぁっ?」
突然、男の人の一人が驚いたような声を上げた。さっきまでの小声とは違った音量に私を押さえている男がおい!と慌てたように注意をする。
けれど聞こえなかったのか、悲鳴を上げた人はごと、と何かを落として私の横を走っていってしまった。
「おい、一体何が──あ……」
その次に聞こえたのは絶叫だった。それと同時に腕の拘束と身体の重みがなくなって、私は急いで目と口に覆われた布を外した。
「ゲホっげほっ!うぇ……」
私は背中を丸めたまま大きく深呼吸をする。胸を手で押さえながら息を吸っては吐いて、苦しさが治まるまで繰り返す。
いつも通りに呼吸ができるようになったところで、やっと全身の力を抜いた。
「た、助かったぁ……」
本当に怖かった。初めて死ぬんだって思った。心臓のばくばくがまだ治まらない。あんなに怖いとは思わなかった。
今さら涙が出てきて、私はごしごしと服の袖で拭う。
「……でも、何でいきなり──、」
逃げたんだろうと、振り向いてものすごく後悔した。
「ひっ……!」
悪魔がいた。私のすぐ後ろに、絶対に人ではない何かがいた。
枝みたいな足から伸びた背はとても高い。見たことのない服に、床につきそうなほどの長いみつあみ。自分を見下ろす紫色の瞳は、暗がりの中で妖しく光っている。
人の形をした何か。人なのに、人じゃない。だって、うっすらと見える顔や首の色が。
悲鳴も出せないくらい怖くて、逃げなきゃと思うのに足がすくんで動けない。折角助かったと思ったのに、もっと恐ろしいものがくるなんて。
今度こそ無理だ。お父さんやお母さんの顔がちらついて、私はぎゅっと祈るように胸の前で両手を握りしめて目をつむった。
「……謝必安?」
けれどふいに、ゆったりとした声音が廊下に響いた。その声に悪魔は振り返り、私は廊下の奥を見る。
「エ──、」
「エミリー」
私が声を掛けるより早く、悪魔が先生の名前を呼んだ。逃げてと助けてがぐるぐると回っていた頭に突然優しい響きが入ってきて、私は一瞬焦りや恐怖を忘れた。
(え、ええ……?)
「すみません、起こしてしまいましたか?」
混乱している私をよそに、ひょろりと細長悪魔はさっと私から離れていって、ワンピースタイプのパジャマを着た先生を軽々と抱き上げる。抱き上げられた先生は眠そうな瞼をぱちりとまたたいて、それから甘えるようにそのひとの首筋に顔をうずめた。
「ふふ、都合のいい夢ね……あなたが、こんなところにいるなんて」
「エミリー……ええ、私も会えて嬉しいです」
先生の名前を呟いて、シャビアンと呼ばれた悪魔は抱き上げたまま先生の身体をぎゅっと抱きしめた。まるで大切で大切で仕方がない宝物に触るかのように優しく。
(う、わぁ……)
何だか見てはいけないものを見てしまった気がして、私は思わず床に視線を向けた。今度は別の意味で心臓がどきどきする。
「しかし、夜が明けるにはまだ早いです。もう一度お休みになられてはいかがですか?」
「……あなたは、また眠れないの?」
「いいえ、今日はたまたまです。私ももう寝ますよ」
はちみつみたいなとろりとした声にちらりと目を向ければ、ぽんぽん、とあやすように先生の背中をゆっくりと撫でる大きな手のひらが見えた。エミリー先生も、いつもの穏やかで大人な表情とは全然違う、まるで小さい子どもみたいに安心しきった顔をして、うつらうつらとしていた。
「さぁ、寝室に戻りましょう。明日もまたゲームがあるのですから。あなたが負傷者を診なくては、たちまち荘園内は怪我人だらけになってしまいます」
「ええ……そうね……そうしたら、またみんなを治して、あげなくちゃ……」
私にはわからない会話をしているうちに、先生は完全に目を閉じて眠ってしまった。ぎゅっと首の後ろに回っていた腕から力が抜けて、だらんと白い背中に垂れる。
不思議な状況に、どうしていいかわからず立ち尽くす。全然頭がついていかない。
ふいに後ろを向いていた顔がこっちを見た。思わず肩を跳ねさせて固まっていると、背中に回していた腕を動かしてしぃ、と長い指を口元に当てた。
私は慌てながら両手で口を覆ってこくこくと頷く。そのひとはうっすらと微笑んで、それから静かに階段を上っていった。
「……えー……っと……?」
暗い廊下にひとり取り残された私は、目を白黒させながら首を傾げた。夜の怖さなんて、すっかりどこかに飛んでいってしまった。
何が何だかわからない。まるで種も仕掛けもないマジックショーを見たみたいだ。
悪魔だと思った何かは、エミリー先生の知っているひとで。多分先生の味方で、二人の会話はとても優しくて。まるで……まるで、恋人同士みたいで。
(恋人、なのかな……?)
でも、相手は人じゃない。けれど私のことを守ってくれた。
そこまで考えてあっとひとつの答えが思い浮かぶ。それと同時に足音もなく白いひとが階段からするりと現した。
「お待たせいたしました。家まで送ります」
軽くお辞儀をしながら、そのひとは私に言う。右手には大きな黒い傘があって、やっと私はこの傘の持ち主を知る。細いけれどうんと高い身長に圧されて思わず足を一歩引くと、ああ、とそのひとは何か納得したように声をこぼした。
「本当にただ送るだけですから。取って食いやしませんよ」
「でも……誰もいなかったら、さっきの人たちがまた……」
「そちらも大丈夫です。もう二度と来ることはありません」
にぃ、と唇を吊り上げる姿に、思わずひっと身体を縮こませた。さっきと全然違う、悪人みたいな笑顔ですごく怖い。私に向けた顔じゃないとはいえ、こんな顔で見つめられたらそりゃ慌てて逃げたくなる、と妙に納得する。
私が怯えているのに気付いたらしく、失礼、と顔を戻してそのひとは穏やかに言った。
「あなたはエミリーを、彼女の居場所を守ろうとしてくれたのでしょう?そんな方を助けこそすれ、陥れるようなことはしません」
宝石みたいな紫色の瞳がやわらかく細められる。まだ怖いけれど、その言葉が嘘じゃないことだけはわかった。そうじゃなかったら、あんな風にエミリー先生を抱っこしない。
「あ、あのっ」
勇気を振り絞って声をかけると、白いひとはみつあみを揺らして首を傾げた。白と黒の肌が継ぎ接ぎになっている顔は、よく見るとびっくりするほど綺麗だった。
圧倒されそうになりながら、けれどそれが裏付けのひとつな気がして、私は浮かんだ予想を口にする。
「あなたは、エミリー先生を護っている神様ですか」
「は?」
「噂があるんです。先生は神様の御使いだって。だからそうなのかなって……」
綺麗な顔が目を見開いてぱちぱちと私を見下ろす。それから、口元に手を持っていっておかしそうにくつくつと笑い出した。
「ち、違いましたか?」
「いえ……そんな噂が出回っているとは、露とも思っていなかったもので……彼が聞いたら何と言うでしょう」
「彼……?」
「ふふ、こちらの話です」
普通の人間みたいな反応に、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ親しみが湧く。
「確かに、ここより遥か遠方には我々を信仰する存在はいますが、あなたの知っているような崇高な神ではありませんよ」
だからあまり知らない方がいい。そう言って先生を二階へ運んだ時と同じく、口の前で人差し指を立てる。
「さぁ、家に送り届けましょう。あなたに何かあれば、エミリーが悲しみますから」
「先生が?」
「患者の幸せを思って治療すること。それが彼女の目指す信条なのだそうです」
思いもよらないところでエミリー先生の気持ちを知る。先生がそんな風に思って治療してくれていたなんて、どうしよう泣きそうだ。何でそんなに優しくなれるんだろう。
「それと、今夜のことはどうかご内密に。この件はじきに片付きますから、成り行きを見守っていてください」
「……え?えっ?」
感激している最中にそんな話を聞いて、どういうことだろうと見上げた途端、いきなりバケツをひっくり返したような白い水が降ってきた。
反射的にぎゅっと目をつむって息を止める。ぱしゃん、と水の音がしたと同時に足元が不安定になって、私はさらに身を固くする。
ふよふよと水の中を潜っているような奇妙な感覚に包まれていると、ふいにそれがなくなって足の裏に地面の感触がした。
「へ……ってわ、私の家……?」
あの一瞬で?何で?神様だから?
周りを見回して間違いなく自分の家の前にいることに混乱していると、家のドアが開いた。ルーシーっ!と叫ぶように名前を呼ばれ、あまりの大きさに耳を塞いだ。
そうして、私を心配してちょうど家を飛び出してきたお父さんに、時計の短針が数字一つ分移動するまで思いっきり怒られたのだった。


◆  ◆  ◆


「こんにちはー、ウィルソン雑貨です」
人の賑わう大通り。朝のばたばたとした商人や職人の動きが、ちょうどひと段落した昼下がり。
私はずっしりと詰まったリュックとカバンを背負って、ミント色をした診療所のドアを開けた。ベルを鳴らして入って先にはあたたかな雰囲気の待合室。その横の受付から、こんにちは、とほんわりとした挨拶が聞こえてきた。
「ルーシーちゃん、ありがとう。急な注文でごめんなさいね。重たかったでしょう?」
「いいえ!紙やペンはいつも在庫で持ってますから。それにこれくらい余裕です」
ぐっとカバンを掛けていない方の腕でガッツポーズを作ってみせる。クレアさんは頼もしいわねぇ、と笑ってくれた。
「夜中に猫ちゃんが入ってきちゃったみたいで……午前中はみんなで大掃除だったの」
「そう、だったんですね……お疲れ様です」
そういうことになってるんだ。言われてみると、診療所の中はいつもより消毒液の匂いが強い気がした。
「鞄の方は持つわ。一緒に行きましょう」
「あ、ありがとうございます……あっ!」
クレアさんがカウンターから出てきた丁度その時だ。診察室に続く廊下から出てきた人影を見て、私は声を上げた。
「本当にありがとうございました。何とお礼を言ったらいいか……」
「せんせー、ママを治してくれてありがとう!」
「ふふ、あなたがお薬をママに届けてくれたおかげよ。薬が効いてよかった。また同じものを出しておきますから、なくなった際はいらしてください」
先生の言葉に、女の人ははい、とお辞儀をした。女の人の傍には、あの時の女の子がにこにこと嬉しそうに笑っている。どうやらあの子のお母さんみたいだ。
お礼を言いながら手を繋いで帰っていく親子を微笑ましく見送っていると、ルーシーさん、と声を掛けられた。
「今日はありがとう。昨日の今日でごめんなさいね。いつも助かるわ」
「そんな……えっと、猫ちゃんが入っちゃったそうですね?」
「ええ。戸締りを忘れていたみたいね。うっかりしていたわ」
頬に片手を当てて、いやね、と困ったようにエミリー先生は笑う。昨日のことは覚えてないのだろうか。先生、すぐに眠っちゃったし。
(うーん……覚えてないなら、聞いちゃダメだよね……)
昨日の夜のこと。診療所の方はあれから何もなくて安心したけど、先生は神様がきたことを知らないままなんだ。
(あんなに嬉しそうだったのに……)
ぼんやりと暗い廊下で、静かに抱きあっていた先生と神様を思い出す。
それなのに、会ったことを覚えていないまま、なんて。それは何だか、悲しい。
でも神様から内緒にって言われてるし、だけど本当にこのままでいいのだろうか。
「そうだ、ルーシーさんが来たら、渡そうと思っていたものがあるの」
「私に?」
「ええ。こちらに来てもらえる?」
そう言って診察室に入っていく先生についていくと、机の引き出しから小さな紙袋を取り出して、どうぞ、と言いながら私に渡した。
「これって?」
「クッキーよ。クレアが、昨日は結局ほとんど食べられなくて、残念がってたと言っていたから」
昨日と今日のお詫びに、ね?と先生は両手を合わせる。
漂ってくるバターと芳ばしい匂いに、私はぱぁっと顔を明るくして先生を見る。
「先生……!ありがとうございます!」
「いいえ、喜んでもらえてよかったわ」
かさりと中を開ければ、チェック柄の四角いクッキーが白い紙に包まれて並んで入っていた。
「あ……」
「どうかした?」
「あ、いえ、何でもないんですけど……」
私は交互に並ぶ白と黒になっているクッキーをじっと見つめる。それからぐっと意気込んで顔を上げた。
「エミリー先生、昨日はいい夢を見れましたか?」
「夢?」
突然そう問いかけた私に、先生は不思議そうに首を傾げた。けれどすぐに何かに気付いてはっと目を見開いた
「ルーシーさん……あなた、もしかして」
「先生」
先生が問いかける前に、私は人差し指を一本立てて、口の前に持っていく。神様みたいにカッコよくできないから、代わりに大丈夫ですと伝わるように、にーっと笑いながら。
先生は私の仕草で言いたいことを察してくれた。一度止まって、尋ねようとしたこととは別の言葉を口にする。
「いえ……そうね。とても素敵な夢を見たわ」
心配そうに眉を下げていた顔が照れたように微笑む。ちょっとだけ顔を赤くして笑う先生を、かわいいなって思ったのは秘密だ。
ふと、何となく視線を感じて首を回す。そして目に留まったものを見て、思わず苦笑いをこぼしてしまった。

エミリー先生の診療所には、とある噂がある。
先生は神様に愛されている人で、私たちを救うために現れた御使いなんだって。そして加護を受けている先生は、その神様に護られているんだって。

その噂があながち間違いじゃないことを、私はもう知っている。
違うのは、私たちが知っている神様とは別の神様で、先生も神様のことを大切に思っているのを誰も知らない、ということだけだ。
(……いつか、)
いつか、先生と神様が一緒にいて、笑いあう日が来ますように。先生がこれからも幸せでありますように。

「ルーシーちゃーん?」
「あ、はーい、今行きます!先生、それじゃあ」
「ええ。……ありがとう、ルーシーさん」
お礼を言う先生に目一杯の笑顔を見せて、重いリュックを背負ってクレアさんの元へ向かう。
そんな未来が訪れることを願って、私は小さく十字を切る。
先生の診察室の手前には、まるで先生を守るように、あの大きな黒い傘が佇んでいた。


◆  ◆  ◆


静謐さをたたえた夜闇が、しんしんと室内に降り積もる。通りの街灯は消え、野犬の遠吠えも聞こえなくなっていた。
平穏さを取り戻した夜。寝室に鎮座する寝具には、栗色の髪を解いた女性が静かに眠っていた。
触り心地の良さそうな布団の中で規則正しい寝息を立てる。夜目が効く自分には、穏やかに眠るその顔(かんばせ)までよく見えた。
寝具の傍にあった丸椅子に座り、謝必安は長い足を余らせながらその寝顔を飽くことなく見つめていた。
「おかえり」
ふいに水音が耳朶を震わせ、親友の帰りを知らせる。ちらりと視線を向ければ、黒い水の中からざぶんと人影が現れたところだった。
「ああ……魂を戻していたのか?」
「さっきまでね。中途半端に吸っていたから、途中で起きてきて驚いた」
「……それは、」
「大丈夫。夢だと勘違いしてくれた。それよりそちらの首尾は?」
「それこそ無論だ」
ふん、と鼻を鳴らす彼に、流石は無咎だ、と謝必安は微笑む。黒い装束を纏った范無咎は満更でもなさそうに片頬を上げ、それから謝必安に問いかける。
「あいつはどうする?流石にもう見過ごせんだろう」
「近日、イギリスに向かうそうだ。その時に乗じればいいさ。泥酔して船から落ちたことにできるしね」
「……まぁ、そうか。今回でしばらく様子を見るだろうしな」
「ふふ、心配かい?」
からかい混じりに尋ねると、謝必安とよく似た黒い顔はぐっと言葉を詰まらせた。傘ごと腕を組んで、ふいとそっぽを向いてしまう。
「……危なっかしいからな、こいつは」
「素直じゃないなぁ」
「うるさい」
それが照れ隠しだと知っている謝必安は、ただ楽しげにくすくすと笑うだけだ。笑うな、と飛んできた文句に手を上げ、笑みを噛み殺してから再び女性を見つめた。
腕を伸ばし、指の背でそっと頬に触れる。じわりと伝わるあたたかな体温が、懐かしさを呼び覚まして胸をきぅと締め付ける。
「あなたがこちらへ来るのは、まだ先なのでしょうね」
エミリー。声に出したら今度こそ完全に起こしてしまいそうで、謝必安は口の中だけでその名を丁寧に転がす。
本当は、今すぐにでも彼女を手のうちに収めてしまいたい。この場で魂を吸い取ってしまえば簡単だ。あとは閻魔を説き伏せるだけでいい。
けれど、彼女はまだ生きたいと思っている。生きて、為したいことがあるのだと。
「平穏に暮らしたいと言っていたのは、どこのどいつだったか」
腰を曲げて寝顔を呆れたように見下ろす范無咎に、謝必安は小さく笑声を立てる。
「でも、彼女らしい。自分の信念を貫く彼女だから、僕は惹かれたんだ」
君もそうだろう?そんな視線を送るが、返答はない。ただ、不愛想な顔にある金の双眸はひたすらに優しさで満ちていた。
「毎回目を盗んで様子を見に来ているこちらの身にもなってほしいものだがな」
「無咎の道なき道を見つける才能にはいつも感服するよ」
「ぽんぽんと言い訳を生み出してさも正論のように語るお前の口の上手さには負ける」
軽口を叩きあえることに、楽しさと共に喜びが胸に広がる。自然と顔がほころんだ。同時に、それが彼女とはできないことに一抹の寂しさを覚える。荘園にいるときは逆であった。
どちらも知ってしまった謝必安には、片方を選ぶという選択肢はとうに消えていた。
さらりと前髪を払い、額に手を乗せたまま顔を近づける。あたたかい吐息を感じながら、やわらかな唇に掠めるように自分の唇を重ね、おや、と目を開いた。けれど謝必安はただ目を細めただけに留まる。
彼女がやや苦しそうにん、と息をもらしたところで、謝必安はようやくゆっくりと離れた。
「無咎は?」
「……俺はいい」
「我慢はよくないよ」
じっと見つめる。無言を貫いていた范無咎は、やがて観念したようにがりがりと頭を掻き、それから首を伸ばして額にそっと口付ける。触れたのは謝必安と違い一瞬で、代わりに彼は枕に広がる髪を撫でた。
「そう頻繁に面倒ごとを起こすなよ」
「それは無理だろうね」
「……無理か」
「どちらかといえば、巻き込まれているのは彼女の方だ」
「ぐっ」
確かに、と范無咎は唸る。
「運の悪い女だな……」
「今更だろう。あの荘園に招かれた一人なんだから」
謝必安は組んでいた足をほどき、立ち上がる。
そろそろ時間切れだ。抜け出していたことに気付かれてしまったら、二度とここへは来れなくなる。そうなるのは御免だ。
「また会いましょう。あなたが私たちを忘れない限り、あなたに限りない幸運と加護を」
そして。
范無咎の傍に並び立ち、謝必安は口唇を吊り上げる。綺麗な藤色の双眸は甘露のように甘く細められ、しかし妖しく底光りする。
「いつか、あなたを迎えにあがります」
あなたを手に入れることができるのならば、今を耐え忍ぶことなど些細なことだ。
謝必安はばさりと傘を開く。范無咎もヒュン、と傘を上に投げると、雨を受け止まるはずのそれから白と黒の水が降り注ぐ。
ざぶん、と水に飲まれる音が響いた頃には、既に二人の異形の姿も、床にできた水たまりも跡形もなく消えていた。
微かに音を立てていた水音もやがて止み、室内は再びしんと夜のしじまに包まれる。

彼らが去ってから、その場に残された女性は閉じていた瞼を上げた。
ゆっくりとベッドから身を起こし、緩慢な動作で指先を持ち上げる。爪がきれいに整えられた丸い指先で頬に、髪に、それから額と唇に触れていく。
ひやりとした、けれど確かに感じたぬくもり。彼ら特有の体温に触れたのだという感覚が残っている。
触れた指先をもう片方の手で包み込み、ベッドの横にぽつんと佇んでいる丸椅子を見つめた。長い足を持て余しながら座って、その一歩後ろに佇んでいただろう二人を脳裏に思い描いて、次いで浮かんだのは苦笑いだった。
途中、謝必安の唇が不思議そうに動き、それから笑みをかたどったのを感じ取っていた。きっと彼は自分が狸寝入りをしていたのに気付いたはずだ。范無咎の方はどうかわからないが。
自分と直接会うことはできない事情があるのだろう。こちらの世界にルールがあるように、彼らの世界にも厳守すべき規則があるのかもしれない。
折り曲げた膝の上に、おもむろに頬を乗せる。脳が薄い唇の感触を辿って、勝手に記憶の奥底へ深く刻みつけていく。
自分は先刻起きてきたのだと、謝必安は言っていた。覚えがないが、夢を見た。優しく包み込まれるような感覚は、どうやら現実のものであったらしい。なぜ目を覚まさなかったのだろうと、胸の中心に落ちた悔しさがじわりと滲む。
そう考えている自分が何とも滑稽で、苦笑いは深まるばかりだ。こんな風になるつもりはなかったのに。やはり自分は、どこか詰めが甘いのだろう。
「……忘れないわ」
忘れられるわけがない。忘れようとも思わない。こんなことをされては、なおさら。
部屋は澄んだ闇に包まれている。静寂さえ拾い上げそうなほどの夜に、普段は感じることのない淋しさが喉まで込み上げる。
侵食する切なさを堪えようと、膝に頬を付けたまま瞼を閉じる。冷えた空気を肺を満たして、けれど灯ってしまった火種は小さいながらも消えてはくれない。
どうやら自然と鎮まるのを待つしかないらしい。エミリーは早々に観念して、ゆっくりと息を吐き出す。
そうしてしばらく背中を丸めた体勢でいた彼女は、シーツに埋めていた顔をおもむろに上げた。
「そうね。私が生きたいと思っている間は、利用させてもらうわ。私の目的のために、あなたたちのことを」
神から直々に与えられる幸運だ。使わない手はない。非常識には非常識をぶつけるのが最善手だ。
栗色の双眸は強かに、固い意思を宿して虚空に告げる。
それは忘れぬことの宣言であり、自身に向けての誓いでもあり、彼らへの謝罪と感謝でもあり。
そして、何より。
だから、とエミリーは彼らが消えていっただろう場所を見つめる。すっかり覚めてしまった目をまたとろりと溶かし、形のいい唇にふうわりと柔らかな笑みを刷く。
「私が死んだそのときは、好きにしてちょうだい」
どうせ罪に濡れたこの身が落ちるのは地獄だ。ならばせめて、今際に迎えに来てくれるのは彼らであってほしい。
強欲だと自覚した願いを抱く彼女は、そうして不穏でありながら深い愛しさに彩られた想いを紡いだ。
ことん、と。それに応えるように棚の小物が倒れた。ドアも窓も締め切ってる部屋に、軽く些細な物音は大きく鼓膜を震わせた。
言質はとったと、まるでそう念を押されたようだ。エミリーは少女のように顔を綻ばせ、鈴の音のような笑声をこぼして笑み崩れたのだった。

ねぇ、知ってる?あの診療所の不思議な噂。
あの診療所が人気なのは、異国の神様があの人を見守っているからなんだって。

あとがき
脱出したあと先生がまた診療所を立ち上げて、それが人気だったらその陰には異国の白と黒の神様がいたらいいなっていうもしもともしもを掛け合わせた果てしないもしもです。先生に関する公式からの答えが来る前に書きたかったんだ…。
白黒無常の元ネタを調べてるうちに謝必安は金運の神様で、対して范無咎は自分に会ったらしぬ的なのが書かれていた帽子を被っているらしくて、そういうことなら謝必安の恩恵を受けた代償として、范無咎に地獄に送られるとかそんなことだったらさらにおいしいなと。そのまま先生嫁入りしてください。

そういえばベラドンナは昔から治療薬として用いられていたらしいですね。だからエミリーも詳しかったんですね。ちなみに電気治療にも使われるそうでりさ…りでぃ…ってひとりで頭抱えてました。



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