ダイア―先生の一日

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6.00 am 自室にて。

鳥のさえずりが聞こえる。頬に降りかかる冷えた空気に、エミリーは瞼を震わせた。
「んん……」
もぞりと布団の中で身じろぎ、ゆっくりと身を起こす。起き上がった途端、夜着の隙間から冷気が滑り込んできて、エミリーは無意識に首を竦ませた。
乾いた瞼を潤すようにぱしぱしとまばたきを繰り返してから、頭を小さく振って正面を見つめる。ぼんやりとしていた視界が徐々に明瞭になり、向かいのデスクに焦点が合う。経年により趣のある褐色に染まったオークの机は、寝る直前まで書いていた日記とペンが共に置かれていた。
「今日の予定は……」
午前中にゲームが一回、午後に二回。どちらも昼の前後に集中している。
空いている時間で薬品と医療品の在庫を確認して、必要であれば発注をかける。そういえば傷薬と包帯がなくなりそうだった。今日で切らさなければいいが。
「そろそろ皆のカルテも整理したいわね」
机の引き出しにしまったまま放置している紙の束を思い出しながら、前に落ちてきた髪を耳にかけてベッドの縁に腰掛ける。
部屋に用意されたベッドは抜群に寝心地がいいが、エミリーにはそこそこ大きい。重心を後ろに下げつつ、足を膝からつま先まで限界まで伸ばしてやっと床につくくらいなのだ。今日もそうして、きっちりと揃ったスリッパに何とか足を入れてフローリングに降り立つ。
窓際まで移動し、肌触りのいい群青のカーテンを開けると、穏やかな陽射しが室内に降り注いだ。夏よりも柔らかみを帯びた、秋らしい陽光だ。
近くにある庭木に、先ほどの歌声の主だろう小さな鳥がちょこんと枝に止まっていた。視線を向けた途端、ぴちち、とひと鳴きして飛び立っていった小鳥に、エミリーは自然と目を細める。
「いい天気。布団を干したら気持ちよさそう」
深く考えずに呟いたそれは、なかなか良い案に思えた。
こんなに晴れた日だ。お日様の匂いとぬくもりを目一杯ため込んだ布団は、夜にはこれ以上ない安らぎを与えてくれることだろう。
「朝食の時に、エマたちにも声をかけてみようかしら」
どうせならシーツもまとめて洗ってしまいたい。衛生的にもその方がいい。
そうと決まればさっさと身支度を整えてしまおう。エミリーはひとつ息をつき、洗面用の深皿に水差しを傾ける。
夜の空気で冷え切った水をすくって顔を洗えば、ぼんやりとまとわりついていた眠気もすっかり吹き飛んでいった。


8.00 am 朝が早いいつものメンバーと共に朝食。食べ終えたらそれぞれの予定へ。



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9.30 am 洗濯室にて。

「センセ〜」
お湯をはった洗濯槽でシーツを洗っていると、食堂の方から自分を探す声が聞こえてきた。
エミリーは顔を上げ、こっちよ、と洗濯室から声を張り上げる。すると、どたどたと大きな足音がこちらに近付いてきた。
「いたいた。って何だ、もう洗濯してんのか?」
角から現れた大柄な男は、エミリーたちを見つけた途端に意外そうに目を丸くする。そんな彼に、エミリーはタオルで手を拭きながら苦笑いをこぼす。
「声をかけてみたら、ほとんど全員分になってしまったの。早くしないと今日中に乾かなそうだったから」
「ウィリアム、あんたも暇なら手伝いなさいよ」
横からひょっこりと顔を出してそう言ったのはマーサだった。軍服の袖を捲り上げて洗濯槽に手を入れる彼女に、ウィリアムと呼ばれた男は得意げに親指で己を指す。
「オレはこれからまたゲームなんだよ。オレのタックルは頼りになるからな。いつだって引っ張りダコだぜ」
「よく言うわ。こないだミスって壁に激突してたくせに」
「あれはたまたまだ、たまたま!つーか、お前も次は出るんじゃなかったか?」
「えっ、うそ、もうそんな時間?」
彼の言葉にあっと声を上げ、マーサは慌てて手を拭いポケットから腕時計を取り出す。時計の時刻を見た途端、彼女はしまったと言わんばかりに眉間にしわを寄せた。
「うわ、本当……ごめん、エミリー、エマ、それからフィオナも。途中だけど抜けるわ」
「気にしないで。とても助かったわ」
申し訳なさそうに手を合わせるマーサに、エマとフィオナも手を止めて彼女の方を向いた。
「マーサちゃん、ファイトなの!」
「健闘を祈ってるわ」
二人の激励に応えるように彼女は唇を吊り上げると、勝ってくるわ、と強気に宣言して小走りに駆けていった。
「それで、ウィリアム君は怪我でもしたのかしら?」
自分達と同様にマーサを見送っていたウィリアムに改めて声をかけると、彼は苦笑いを浮かべながらああ、と右手を出した。
「ハンターに殴られて吹っ飛ばされたとき、ヘンに受け身をとっちまったみたいでさ」
「そう……ちょっと診せてちょうだい」
確認をとってからよく日に焼けた手を取る。きっと先ほどのゲームもずっと走り回っていたのだろう。汗ばんだ手のひらに触れ、軽く動かしながら触診する。
手首を軽く回し、手のひらを外側に向けた瞬間に強張るのが伝わってきた。痛いかと聞くと、そっちにひねると痛みがある、と彼は顔をしかめた。
「軽い捻挫のようね。とりあえずテーピングで固定しましょう」
「頼んだ、先生」
手を離し、エミリーはエマたちの方を振り返る。
「エマ、フィオナ、少しだけ任せてもいいかしら?」
「もちろんなの。ウィリアムさん、お大事になの」
「おう、ありがとな」
「いってらっしゃい。洗濯が終わったらどうすればいい?」
「脱水機にかけてから籠に入れて、裏庭まで運んでくれると助かるわ。使用人の方も、よろしくお願いします」
二人に声をかけ、それから彼女らの奥で作業をしている初老の男性に声をかける。彼は洗濯槽から視線を外すと、無言でエミリーに頷いてみせた。
彼は初めからこの荘園にいた住人で、ここに雇われている使用人の一人だった。彼らの仕事はエミリーたちが使っている私室以外の掃除や、食事の用意や給仕、おそらく書庫の整理や生活用品の仕入れも行っているのだろう。頼めば今のように洗濯なども手伝ってくれる。
まったく口を開かないため名前も素性も不明だが、黙々と仕事をこなす彼らに随分と助けられているのは確かだった。
「じゃあ、行きましょうか」
ウィリアムに声をかけ、エミリーは洗濯室をあとにする。食堂へ向かう途中で左に曲がり、エミリーの自室の奥にある扉まで歩いていく。ドアを開けると、消毒液の匂いがつんと鼻を刺激した。
「そこに座っていて」
丸椅子に腰かけさせ、エミリーは棚からテーピングテープを取り出して彼の向かいに座った。白いテープを引き伸ばし、手首から手のひらにかけて巻いていく。
「はい、ひとまずこれで大丈夫。ゲームが終わったら、氷水を入れた皮袋で手首を冷やして、氷が解けるまではそのままにしていて」
「ああ、わかった」
手を軽く開閉し、満足そうに頷いたウィリアムは、エミリーを見てにかりと歯を見せて笑う。
「サンキュな、先生。今はゲームがあって無理だけど、シーツを干すときは他のヤツらも引っ張ってきて手伝うからよ」
「まぁ、ありがとう。とても助かるわ」
屈託ない笑顔と言葉に、エミリーは微笑んで感謝を述べた。ゲームも頑張ってね、と続けて言えば、彼はおう!と声を上げた。
手を振りながら部屋を出ていくウィリアムを見送ってから、エミリーは机の引き出しから一枚の白紙を取り出す。彼の負傷箇所とその度合い、対処などを紙面に綴り新たなカルテを一枚作り上げる。
ひと通り書き終えたところで、再びドアの向こうが騒がしくなった。
「ほーら、そんなに暴れないの!」
「嫌だと言っているでしょう!離してちょうだいっ!」
声音と口調で誰だか特定したエミリーは、また彼女ね、と苦笑いをこぼす。薬や医療器具の匂いが大の苦手であるが、ナワーブやウィリアムに次いで負傷が多く、よくここに連行されてくるのだ。
甲高い叫び声の押し問答がしばらく続いて、やがて静かなノックの音が響く。どうぞと促せば、ドアの向こうから桃色の帽子をかぶった可愛らしい女性が現れ、半ば引き摺られるようにして、彼女同様目の冴えるような顔立ちをした女性が中に入ってきた。
エミリーは鼻にしわを寄せて嫌悪をあらわにするウィラに、困ったように微笑みながら彼女に声をかける。
「いらっしゃい、ナイエルさん。できるだけ早く済ませますから、薬の匂いは少しだけ我慢してくださる?」


10.30 am 洗濯と怪我人の救護。発注・カルテの整理は午後に回す。


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14.30 pm 裏庭にて。


ドアを押して外に出ると、急に強い風が吹き抜けてきた。
エミリーは青い上着に腕を引っ込めて身を竦ませ、突風をやり過ごしてからゆっくりと目を開く。
細い小川が流れる裏庭に、真っ白なシーツがずらりと並ぶ姿にほっと安堵する。昼過ぎから風が強くなってきたため心配していたが、どうやら飛ばされずにすんだようだ。
「おかげで全部乾いたみたいね。雨が降らなくてよかった」
特に秋や春は、突然のスコールに見舞われたりすることがあるのだ。今日は運がいい。
シーツに触れれば、さらりと気持ちのいい肌触りがした。よく乾いているシーツに目を細め、物干し竿の横に置いてある籠に仕舞っていく。布団は手伝いにきてくれたウィリアム達が、シーツを干すついでに中へと運んでくれたので随分と楽だ。
「運がいいといえば、最後のゲームは本当に幸運だったわ」
エミリーは先のゲームを思い返す。午後の二戦目のことだ。
相手はピエロで、四人のうち三人が脱出に成功したあとのことだ。ゲートからやや距離のある場所で、最後の一人であるエミリーは見つかってしまったのだ。
けれど偶然その近くにハッチがあり、地下へと飛び込んで全員で脱出することができた。久しぶりの完全勝利に皆喜んだが、エミリーの脱出は本当に運に恵まれた結果だった。
「ああいう時のために、地下室の位置も覚えておいた方がいいわね……」
もっとも追いかけられているときは無我夢中のため、覚えていたとしても思い出せるかは別の話だが。
誰が作ったのか、ここで使われている機械の技術レベルは世間の数十歩以上先を行っており、特にゲームに使用される機器は今までに見たこともないようなものばかりだ。
例えばゲームに利用される暗号機は、ゲームがリセットされるたびに位置が変わる。だが、それは魔術などといった類のものではなく、普段は特定の位置の地下に埋まっているものが、ゲームごとに無作為に数台現れるような仕掛けになっているのだ。
どんな仕組みで動いているのかは想像もつかないが、魔術ではなく一定の法則で出現しているのなら、こちらにも打つ手はある。
またトレイシーに位置を割り出してもらおう。機械に関わることは、彼女に教えてもらうに限る。
「今はゲーム中のはずよね。夕食の前にでも頼んでみようかしら……わっ」
突然、先ほどの突風がまた吹きすさんだ。髪を引っ張られる感覚に急いで押さえるが、間に合わずヘアピンごと帽子が飛んでいく。
「あ……!」
慌てて後を追おうと顔を上げ、ふと頭上に影がかかった。曇ってきたのだろうかと思って空を見上げたエミリーは、そこにあった信じられない光景に目を疑った。
いわし雲が忙しなく泳ぐ青い空。涼やかな秋の上空から、何故か大きな布団がこちらめがけて落ちてきているではないか。
「ま、待って……っ!」
無理だ、受け止めきれない。勢いよく迫ってくる巨大かつ厚手の寝具に勝てるわけがない。
「──っ!……?」
エミリーはせめてもと腕をかざして顔を背けるが、予想していた衝撃はやってこなかった。影は濃くなったまま、けれど重みはない。
おそるおそる目を開ければ、白い布団が目の前で揺れていた。何がどうなっているのだと混乱していると、くすりと軽い笑声が耳に届いた。
「間一髪でしたね」
「シャ、ビアンさん?」
「ええ、こんにちは、えみりー」
驚いたまま上を向けば、白と黒の面差しがこちらを見下ろして楽しげに微笑んでいた。どうしてここに、と思っていると、彼は布団を掴んだ手で人差し指を立てた。
「天気がいいので、美智子さん方と布団を干していたんです。ですが、今の突風で飛ばされてしまって」
布団の壁の横から指し示された方向に目を向けると、隣にあるハンターの館のベランダにシーツや布団が何枚も干されているのが見えた。どうやらぽっかりと隙間の空いている場所から、これが飛んできたらしい。
「ありがとうございます。下敷きになるかと……」
胸に手を当てて息を吐くと、彼はそれはよかった、と目を細めていた。
「そうだ、先ほどゲーム中に足を負傷してしまいまして。よければあとで診ていただけますか?」
そう告げられ、エミリーは振り向いて彼の顔から足へと視線を下げる。
見ると、右腿の辺りの服が擦り切れ、穴の空いた部分から血の滲んだ包帯が見えていた。服の破け方からして、何かに引っかかって相当な強さで引っ張られたようだ。
「出血が止まっていない……かなり深そうですね。どうなさったんですか?」
「ジェットコースター、でしたか?あれに巻き込まれました」
「巻き込……」
さらりと何てことないように告げられた話に、その場面をうっかり想像してしまったエミリーは言葉を失った。
月の河公園という遊園施設を模した庭の、ゲート前にある乗り物のことだ。どんな巻き込まれ方をしたのかはわからないが、それでも深いとはいえ骨折も欠損もせずにすんだのは不幸中の幸いだろう。もしくは流石ハンターといったところか。
「今は医療キットも持っていませんし、ここでこの度合いの怪我を治療するのは難しいですね……。後ほど、私の元へ来ていただけますか?」
「元よりそのつもりです。あなたを見かけたのも偶然ですから──、」
ふいに謝必安の表情から笑みが消えた。鋭く視線を巡らせる彼に、どうしたのかと問いかける前にさっと膝をついて布団をかぶせられた。必然的に薄い胸板に抱き寄せられる形になる。
「ちょっと……」
「静かに」
誰か来ます。
その言葉にエミリーは身を強張らせた。まもなく薄暗闇の向こうからガチャ、とドアノブを回す音が聞こえてきた。
早鐘を打つ心臓を片手で押さえ、息を潜める。謝必安の手が布団越しに背に添えられるのを感じた。
「……何でハンターがこんなところにいる?」
(この声……サベダーさんだわ)
警戒心を露わにした冷たい声音に、エミリーは温かい布団にくるまれたまま、やってきた人物を特定する。
ナワーブ・サベダー。両腕に小手を巻き、フードのついた緑の上着を羽織っている傭兵だ。男性にしては小柄な外見と戦慣れした身のこなしから、おそらく精鋭揃いのグルカ兵だと当たりをつけている。
どうしましょう。エミリーはそっと息を呑む。彼の勘の鋭さは、ゲーム中に何度も目にしていた。
「布団がここまで飛ばされてしまいまいてね。すぐにお暇しますよ」
謝必安が答えたあと、ばさ、と布がはためく音がした。傘を開いた音だ。
このまま傘で瞬間移動するつもりなのだ。離れないように背を押され、それが最善だと判断したエミリーも遠慮がちに胸元の服を掴む。

「──なぁ」
けれど移動する直前になって、ナワーブが声をかけてきた。
「あんた、ダイア―先生を知らないか?」
不意を突かれて落とされた自身の名に、エミリーは目の前の白い服を強く握りしめた。
身を隠したことによって視界が遮られていることが、今さらどうしようもなく不安になる。今、ナワーブの視線は、どこに注がれているのだろうか。謝必安か、それとも。
「さて、どなたのことでしょう?生憎とサバイバーの名前は覚えていないもので」
「女の医者だ。いつも白い帽子をかぶってる」
彼の言葉に、はっと何の重みもない頭部に意識を向ける。
そうだ、先ほど飛ばされた帽子が。それにシーツを取り込んでいる途中だった。
「……ああ、あの医生のことですか。そういえば、先ほどまでここにいましたね。私の姿を見た途端、どこかへ行ってしまいましたが。それがどうかしましたか?」
張り詰めた空気に息が詰まる。どくどくと鳴り響く心音が聞こえてしまわないか、少しでも冷静であれば聞こえるはずがないと、簡単に一蹴できることがわからずに怯える。
どうか気付かないで、とエミリーは祈るような気持ちで固く目を瞑った。
「……いや、ただ聞きたかっただけだ。もういい」
気の遠くなるほど長く感じた沈黙のあと、耳に届いたのは適当に放り投げたような気のない返答だった。
ばさりと大きく布を揺らす音が聞こえてくる。残りのシーツを回収しているのだろう。荒っぽい衣擦れの音が、さっさと行けと言わんばかりだ。
「そうですか、では」
謝必安も同じように感じ取ったのか、一言そう告げて布団ごとエミリーをさりげなく抱えなおした。次いで水が滴る音がして間もなく、薄暗かった視界が更に闇に染まる。
奇妙な浮遊感を数秒ほど味わい、再び身体に重さが戻ってくる。頭上から、ふぅと息をつく音が聞こえた。
「危ないところでしたね……大丈夫ですか?」
抱えられたまま、エミリーはええ、と布団の中から小さく返事をする。それを聞き取った謝必安は、そうですか、と布越しに頭を撫でてきた。
その手に緊張の糸が緩んでいくのを感じながら、やはり子供と勘違いされているのではないだろうかと余裕を取り戻した片隅で半眼になる。
「緊急だったので、ハンター館に移動しました。すぐにサバイバーの館へお送りします」
「ありがとうございます。でしたら医務室に行っていただけると……」
しかし、またしても誰かがこちらへ近付いてくる音が聞こえ、二人して息を潜める。
「何だって私がこんなことを……」
「だって、あんさん以外みんな出払うてるんやもん。たまには自分で身の回りのことをするのもええものやで」
今の声は。不満げな男の声音と宥めるように返す女性の声に、エミリーは目をしばたかせた。
ばたん、とベランダの窓が開く音がした。あら、と淑やかな女性の声音が驚いたように声を発する。
「白無常はん、布団をしまってくれとったん?」
「あ、いえ、先程の風で飛ばされていたので……」
「まぁまぁ、わざわざ取ってきてくれたんやなあ。おおきに。やっぱり白無常はんは紳士どすなぁ」
「おい、それは私への当てつけか?」
「そう思うちゅうことは、自分に心当たりがあるちゅうこと違います?」
不機嫌そうな男の言葉を軽々と流していく声を黙して聞いていると、背後から布団を引っ張られた。あっ、と謝必安が声を上げたのと同時に、ずるりと頭からかぶっていた布団が外れた。
「…………えっと……」
謝必安に抱きかかえられたまま、エミリーは目の前の人形のように美しい顔を見て固まる。
猫のような黒曜の瞳が、ひとつ、ふたつ、ゆっくりとまばたきをする様を間近で捉える。
「白無常はん、あんさん……」
「誤解です」
「君、いくらなんでも白昼堂々誘拐するのはどうかと思うよ」
「ジョゼフさん、面白半分に場をかき乱すのはやめてください」
──……どうしましょう。
自分を囲んで会話を繰り広げるハンターたちに、エミリーはもう一度同じ言葉を胸中で呟く羽目になったのだった。


15.00 pm 途中、アクシデントにより一時ハンターの館へ。その後発注リストの作成。



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23.00 pm 医務室にて

ふと顔上げ、デスクの上に置いておいた懐中時計を見て、エミリーはしまったと額に手を当てた。
「いけない、また夕食を食べ損ねてしまったわ……」
エマが一緒に食べようと誘ってくれたのだが、どうしても片付けておきたい仕事があったために断ったことを思い出す。
こんなことならあの時一緒に夕食を摂ればよかった。と、毎度反省するのだが、気付けば同じことを繰り返している。いい加減直さないと、と思うのもいつものことだ。
仕方ない、とエミリーは立ち上がり、燭台を手にとって医務室を後にする。
食堂に向かい、右手の扉を開ける。誰もいない調理場を勝手知ったる足取りで進み、冷蔵庫からいくつかの野菜とハムを一切れ、それからひと欠片のバターを拝借する。
何気なく横のかまどに目を向けると、コンロの上に小さな鍋がぽつんと置いてあった。いつもは綺麗に片づけてあるのに、と物珍しさに近付いてみると、一枚の紙が鍋の蓋に挟まれていた。
その紙に自身の名前を見つけ、首を傾げながら手に取って文字を目で追い──エミリーはまぁ、と目を見開いた。
「エマったら……」

『エマ・ウッズ様より、エミリー・ダイアー様に夕食のスープを一食分残しておくようにと言付かりました。どうぞ、温めてお召し上がりください』

かしこまった文字で書かれた手紙の内容に、エミリーは喜色を滲ませて口元を緩めた。
「明日、エマに会ったらお礼を言わないと」
彼女の気遣いに感謝し、エミリーはその言葉に甘えてコンロに火をつける。
スープを温めているうちに調理台に向かい、紙に包まれたイギリスパンを一枚スライスしてバターを塗り、その上に具材を全て乗せて挟み込んだ。
湯気の立つコンソメスープを器にすくい、トレイに夜食と燭台を載せて医務室へ戻る。
静まり返った廊下を歩き、医務室のドアを開け──刹那、エミリーの心臓は一瞬にして凍り付いた。
「ひっ──!」
がちゃん、と皿がぶつかり合い、トレイが揺れた拍子に両手から滑り落ちる。だが、落ちるよりも先に大きな手のひらが下からトレイを支え、パンもスープも無残な状態にならずに済んだ。
驚愕に身を固めるエミリーを覗き込むようにして、白黒の顔が不思議そうにまばたきを繰り返していた。
「大丈夫ですか?」
「……っ、そう思うなら、来るときは事前におっしゃってください」
自分の手からひょいとトレイを持ち上げた謝必安に、エミリーはドアを閉めてから大きなため息をこぼす。
「今回はあなたが来るように言ったのでは」
「そうですけど、そうではなくて……」
深夜に、しかもほんの少し部屋を空けた隙に、いつの間にか長身の男が暗闇の中に無言で佇んでいたら誰だって恐ろしいに決まっている。瞬間的な恐怖はゲーム時を大きく上回るほどだ。
その辺の常識がないのだろうか。これまでの口振りから、どうやら元は自分と同じ人間であったのだろうと推測していたのだが。それとも百年を超える歳月が、感覚を鈍らせてしまったのか。
しかし驚かせた当の本人はどこ吹く風で、「随分と遅い夕食ですね。夜食ですか?」などと呑気に言っている。
その様子に、エミリーは諦めて肩を落とした。多分、言っても無駄だ。
「……足の怪我ですね。そこのベッドに座ってください。すぐに診察しますから」
丸椅子では小さいだろうと思い、横にあるベッドを指し示すと、彼は机に食事を置きながらこちらを見た。
「食べ終わってからでもかまいませんよ」
彼の提案にエミリーはいえ、と首を横に振る。やむを得ずとはいえ、半日以上放置してしまった傷の具合が気になる。あのあと謝必安は美智子や写真家との会話を体よく切ってエミリーを医務室に送り、すぐに戻っていったのだ。
「あなたの怪我の処置が先です。あれから熱などは出ていませんか?」
「ええ。出血がなかなか止まらなかったので、何度か包帯は取り替えましたが」
謝必安は右足に巻かれた包帯を解いていく。大腿部の真ん中あたりにあった傷は、深い擦り傷の周りに痣ができていたが、既に出血は止まってかさぶたができていた。
「棘や、何かの破片などが入った覚えはありますか?」
「覚えている限りではないです。傷口を洗った際も、特に何も」
「よかった。異物が入ったまま傷が塞がると大変ですから。少し失礼しますね」
一言断り、エミリーは黒い模様の刻まれた青白い腿に触れる。無駄な気遣いかもしれないが、できるだけ痛みのないように処置を施していく。
ふと、唐突に昔の記憶が脳裏によぎった。甦る思い出に、エミリーは俯いたまま自嘲気味に笑った。
(……皮肉なものね)
家族の反対を押し切り、やっとの思いで開業した頃よりも、罪を犯した今の方が、こうでありたいと夢見ていた医師の仕事ができている。老若男女どころか、人か人外かの垣根すら越えて。
──けれど。
「……終わりました。今までの経過から考えると、今回は完治するまでに三日ほどかかるかと思います。それまでは患部を清潔に保ってください」
「謝謝。湖景村や聖心病院に当たらないことを祈ります」
おどけるようにそう言って、謝必安は傘を手に取る。しかし立ち上がりはせず、にこにことこちらに笑みを向ける。
「……まだ何か?」
「いえ、あなたが食事をとっている間、少しお話できればと思いまして」
何となく予想していた答えに、エミリーは額に手を当てた。
「できれば、一人で静かに食べたいのですが……」
「騒がしくはしませんよ。食事の邪魔をするつもりはありません」
一人で、の部分を綺麗にスルーされた。直球で行った方が早いだろうか。以前より遠慮のなくなってきた思考に気付かずにエミリーは口を開き、けれど謝必安の方が先に声を発した。
「それに、それを食べ終わったらもうお休みになられた方がいい。身体がもちませんよ」
宥めるような口調で返された言葉に、エミリーは意外そうに彼を見つめた。謝必安は穏やかに微笑み、大切な黒傘を抱えなおす。
「しかし、私がいては食べづらい、というのであれば致し方ないですね。また今度、お茶でもご一緒しましょう」
そう言ってようやくベッドから立ち上がる。呆気にとられたエミリーを尻目に、彼は傘を静かに開いた。
「あの、……お気遣い、ありがとうございます」
硬直から解かれたエミリーは、慌てて一歩踏み出して礼を言う。傘から降る白い雨の奥で、謝必安はにこりと笑みを浮かべ「"晩安"」という言葉を残して去っていった。
「……おやすみなさい、かしら?」
彼の発した言葉に、エミリーは小首をかしげてそう呟く。時々別れの挨拶に掛けられる発音が気になって、彼から借りた辞書で調べたのはつい最近だ。いくつか出てきた意味のうち、これまでに聞いたタイミングと時間を考えると寝る前の挨拶で合っていそうだ。
彼が消えた場所に向かっておやすみなさい、と遅れて返してから、エミリーは机に置かれた食事を見つめた。
椅子に腰かけると、細かな野菜が浮かぶスープから漂う湯気が、香りと共にほわりと顔に当たった。

──けれど、陰に隠れて治療しているのは、結局昔と同じだ。

「ずっと、秘密にしているわけにもいかない」
ハンターのことも治療していることを。もう隠しておくのは限界だ。
遅かれ早かれ誰かに見つかってしまう。今日のように。
隠し事は猜疑心を生み、数多の噂を呼び寄せて事実とはかけ離れた誤解を時に生じさせる。エミリーが抱えたこの秘密は、それに発展する可能性が非常に高い。
(……いいえ、それもあるけれど、そうではないわ)
スプーンを手に取り、やさしい香りのするスープを一口すくう。飲み込めば、身体を内側から温めてくれる熱に、強張っていた目元がわずかに解けた。
ふぅ、と息をつき、エミリーは瞳に力強い光を灯して前を見据える。

明日、みんなに打ち明けよう。包み隠さず、自分の思いを含めて、すべて。

──私は、間違ったことはしていない。それが最善だと思うから、そうしているだけ。
ならば堂々としていればいい。あの時の弱くて臆病な自分に、もう戻るつもりはないのだ。

エミリーは再び食事に目を向け、黙々と食べはじめた。そうと決まれば、謝必安の言う通り今日は早く寝てしまおう。お腹を満たして干したての布団にくるまれば、明日の英気を養ってくれる。
話を聞いて、仲間たちがどう思うかはわからない。
けれどどちらに転ぼうとも、治療することをやめるつもりはない。それだけははっきりしていた。

伸ばされた手を取ること、病に苦しむひとに手を差し伸べること。
そうして、ひとりでも多くの人を救うこと。
それこそ、もう語る資格もなく、闇に逃げてもなお心の奥で輝き続けていた、エミリーが目指す”医師”という存在なのだ。


0.30 am 就寝。



あとがき
軽率に日常生活編書こうと思ったわけですが19世紀〜20世紀あたりの文化水準調べるのにすごく時間がかかって誰だ先生の一日を書こうって思い立ったヤツ!!自分だよ!!!って頭爆発させてました。でも昔の人達の生活の環境や工夫を知れて面白かったです。
そもそも公式の時間軸自体がわりとふんわりしてるみたいですよね。ふんわりというか、ざっくり100年の範囲内で設定を起こしてそうというか。それはそれで想像の幅が広がって楽しいです。ざっくりざっくり。



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