叙事詩に恋う

第4話 風信子


『皆様、新千歳空港に着陸致しました。ただいまの時刻は午後12時35分、気温は摂氏26度でございます。安全のためベルト着用サインが消えるまで──……』

突如聞こえてきた機内アナウンスに、エアグルーヴははっと手の甲から顔を上げた。
どうやらうたた寝をしてしまったらしい。視線を下げれば、読みかけの本を持ったままの左手が膝の上に転がっていた。
親指が差し込まれているページに栞を挟み、軽くかぶりを振る。眠気が覚めるにつれ、周囲の静かなざわめきが耳に入ってきた。
すぐ横の窓に視線を滑らせる。小さな窓枠の向こうには、滑走路から飛び立っていく飛行機の姿が見えた。東京へと飛んでいくものだろうか。
「着いたな。我々もそろそろ荷物を──」
言いながら隣に目を向けて、声を止める。そこにはだらしなく背もたれに身体を預け、未だぐっすりと眠り続けるトレーナーの姿があった。最早ぐったりとも表現できる寝姿だ。
思わず深いため息がこぼれる。額に手を当て肩落とし、次いできっと目つきを鋭くした。
「おい、起きろ! そのまま機内に居座るつもりか?」
「へあいっ⁉」
間抜けな声は思いのほか響いた。集まった視線に気付いたトレーナーが縮こまって謝罪する横で、エアグルーヴは再びため息をつくしかなかった。

「まったく……貴様が熟睡してどうする」
「め、面目ない……思ってた以上に座り心地が良くて。いや恐るべしビジネスクラス……」
全然肩凝らなかったわ、と真顔でぶつぶつと呟くトレーナーを半眼になって見つめる。反応が典型的すぎる。
確かに座席もサービスも、それこそ搭乗前のラウンジからしてエコノミークラスとは一線を画する待遇であった。エアグルーヴ自身もあまりの快適さに正直驚いたものだ。
だが、慣れてもらわなければ困るのだ。自分がスターウマ娘となった今、担当にも相応の威厳を備えてもらう必要があるのだから。
受け取ったばかりのスーツケースを引きながら、エアグルーヴは小さく息をつく。
まあしかし、ここは学園でもレース場でもない。多少は目を瞑ってやるべきか。
このところ、休む暇もなく働いていたのは知っている。多忙な理由が、エアグルーヴのためだということも。
──『札幌記念までは、スケジュール管理や情報収集は全部こっちに任せてほしい。エアグルーヴの希望は全部叶えてみせるから。北海道で行きたいところとかあったら言ってね』
当然、その頼みを初めは断った。トレーナーを信用していない、というわけではない。ある程度は自分の手でこなさないと納得できない……といった性分も理由のひとつだが、何より担当に不必要な負担を強いる羽目になる。それは本意ではなかった。
しかし試しに要望を出してみれば、それに沿った内容で予定を組み、欲しい情報を要求すれば想定以上のものをトレーナーは集めてきた。彼女の手腕……というより気迫というか、根性というか執念というか。良い様に表せばその熱意に、最終的にエアグルーヴの方が折れた。結果、札幌記念までだと念を押したうえでその頼みを受け入れ、レース前日の今に至っている。
──全ては調子を取り戻すため、ひいては秋の戦線を万全な体制で臨むために。
それはこちらとて同じ気持ちであるのだ。ゆえに彼女の献身さには、多少なりとも感謝している。
秋のGⅠ。その言葉を思い浮かべた途端よぎった姿に、エアグルーヴはそっと目を伏せる。
(出立の挨拶も、できなかった……)
結局、あれからルドルフとまともに話す機会もなく、合宿所をあとにした。
それどころか今朝は姿すら見つけられなかった。起床した時には既に、隣にはきちんと畳まれた布団しかなかったのだ。
アラームは聞こえなかった。つまり夜通し起きていた可能性もあり得る。
それでもあの方は予定通りにメニューをこなすのだろう。どころか自己管理不足を反省して、より厳しいトレーニングを己に課しかねない。怪我に繋がるような危険な打ち込み方はしないだろうが。
その程度の無茶は平然とやってのけるお方だ。特に人前では不調を隠そうとするひとであるから。
それに、と思う。寮では一人部屋である彼女が、合宿中に気を抜ける時間というのは、果たしてあるのだろうか。
次々と浮かんでくる心配事に、しかし途中でそうなった経緯を思い出して唇を噛んだ。原因が何を言うか。
(そうだ。合宿最終日まで、私は不在となる。その間、会長もゆっくりとお休みになられることだろう……)
そう考えた矢先、杞憂とは別にふつりと湧いてきた感情があった。エアグルーヴは小さく肩を下げる。
ブライアンではないが、面倒くさい。自分が。不満だと思うならせめて誤解を解いてからにしろ。
「あ、ちょっとごめん。電話が」
自分自身に呆れていると、ふいに無機質な電子音が隣から響いた。上着のポケットを押さえたトレーナーが、壁際にあるコインロッカーを指し示す。通行人の邪魔にならぬよう、二人して端に移動すると、彼女は急いでスマホを取り出して耳に当てた。
人間という種族は、ウマ娘と違いこめかみの横に耳がある。故にその動作におかしなところはないのだが、何度見ても不思議な面持ちになるものだ。
こんにちは、とトレーナーがにこやかに挨拶をする。「今着いたところです」、「どちらにいらっしゃいますか」と軽く距離を置いても耳に入ってくる受け応えに、エアグルーヴは訝しげに眉をひそめた。
口振りからして、今から何者かと落ち合う予定なのだろう。だがそのような話、エアグルーヴは一切聞いていない。
「おい……」
「ええ、はい。そうです。ええと、大きいシルバニアみたいな、すごくファンシーな通路を今出たところで……あっ!」
一体誰と話をしているのか。思わず通話中の彼女に声を掛けた、その時だった。
「エアグルーヴ! 久しぶりーっ!」
「は……ぐっ⁉」
明るく弾んだ声が聞こえた。と思った途端、センタープラザの方向から勢いよく何かが突進してきた。
たたらを踏んで何とか持ちこたえると、ころころと楽しげな笑声が耳朶に響いた。
「ふふ、相変わらず良い体幹ねぇ。もう不意打ちでもしっかり踏ん張られちゃうかぁ」
「お、お母様っ……⁉」
忘れるはずもない口調と声音に驚愕しながら、エアグルーヴは寄り抱えるように抱きついてくる身体に躊躇いがちに腕を回す。
「あの、何故こちらに……?」
「えー、だって明日は札幌記念でしょ? 前日入りするって聞いてたから、折角だし会いたくて」
頬ずりをしてくる母に大いに戸惑いながら問いかければ、あっさりとそんな答えが返ってくる。
「でしたら、事前に連絡をくだされば……」
言いかけ、エアグルーヴは口を噤んだ。そして数歩離れた場所で、微笑ましそうにこちらを眺めているトレーナーをぎっと睨みつける。
「貴様、私を謀ったな……! そもそも何故貴様が母の連絡先を知っている!」
「こーら、そんな言い方しない。まるでトレーナーさんが悪いことしてるみたいじゃないの」
「ですが……!」
「いや、いいんですお母さん。エアグルーヴには内密で、とお願いしたのは私ですし」
トレーナーは頬を掻きながらそう言うと、エアグルーヴに視線を向けた。エアグルーヴも母から離れ、正面から彼女の弁明を聞く姿勢を見せる。
「実はね、前にエアグルーヴのお母さんが学園にいらしたときに、連絡先を交換して。たまに近状報告とかしてたの」
「そうなのよー。あんたから定期的に連絡もらってるし、レースは観てるから色々知ってるつもりだったけど……やっぱり間近で見ているひとの話は違うわね~。もう実況さながらの解説でね! ほんといつもありがとうございますー!」
「いやいや、こちらこそ! あの頃のレース界隈の前線に立っていた方から直接お話を伺えるなんて、本当に感激で……あのあとお母さんのレースを理事長からお借りして、気付いたら徹夜で見返してしまいました」
「あら~光栄だわぁ。でも徹夜はダメよ?」
何だこの盛り上がりは。というか全て初耳だ。
担当のプライベートにまで口を挟むつもりは微塵もない。ないが、相手は自分の母親だ。気にして当然ではないか。
母も母で何故自分に知らせてくれなかったのか。いや単に言い忘れていただけなのだろうが。
そもそもこれは自分のプライベートとトレーナーのプライベートのどちらに相当するのだ? とうっかり深みに嵌りかけた手前で我に返る。今はそれについて突きつめている場合ではない。
「……それで、どういった経緯で母が空港に?」
和気あいあいと話している二人に声を掛けると、示し合わせたかのように揃って振り向かれた。だから何故そんなにも仲が良さげなのか。
「あ、うん。きっかけは札幌記念の話をしたとき、エアグルーヴのお母さんからレースを見に行くって返信が来たの。それで、だったら前日にお会いできませんか? って私が話を持ち掛けて」
「そうそう。どうせならサプライズで! ってのも一緒にね。我ながらよく耐えたわ~。何度口が滑りそうになったことか!」
「滑らなくて何よりでした」
きゃっきゃっと心底楽しそうに笑い合う二人が、両手を重ねたままこちらを向く。
「とまあ、そんなわけでお呼びしちゃいました☆」
「お呼ばれしちゃいましたー☆」
「よしわかった貴様は今すぐお母様から手を離し速やかにそこに直れ」
「や、やっぱり?」
「やだもう照れちゃってこの子は~」
「照れているわけではありません!」
断じて。というかスケジュール管理や手続き諸々も自分で行うと進言したのはそれか。その企みのせいか。いっときでも感謝したこちらの気持ちを返せ。
「ほーら、立ち話はこれくらいにして、さっさと移動しましょ」
トレーナーにさらに詰め寄ろうとして、しかしその前に母に片腕を掴まれる。
「あの、お母様、一体どちらに──」
「近場に美味しいお店を見つけてねぇ。あんたが帰ってきたときに一緒に寄ろうと思ってたのよ」
「今日はありがとうございます。お仕事の都合までつけていただいて……」
「いいのよぉ。可愛い愛娘のためだもの。本当にトレーナーさんは一緒じゃなくていいの?」
「はい。私は先に宿のチェックインを済ませておきますから。時間は気にせず、親子水入らずで過ごしてきてください」
エアグルーヴをよそに話がとんとん拍子で進んでいく。どうやら拒否権はないらしい。というより母を相手に自分が断れないことを逆手に取られた。
あとで覚えていろ。鋭く睨みつけると、トレーナーは笑顔を引き攣らせた。
彼女は大きく息を吐く。ため息をつきたいのはこちらの方だと悪態をつきかけたその時、トレーナーは顔を上げて正面からエアグルーヴを見た。
「エアグルーヴ」
真剣な声色で彼女は名を呼んだ。先ほどまでの後ろめたさなど感じない、真摯な眼差しがそこにあった。
どこか既視感を覚える顔つきで、トレーナーは続ける。
「騙すようなことをしてごめんなさい。でも、今のあなたには必要なことだと思ったから」
迷いのない、力強い響きだ。そしてその口調が記憶の琴線に触れた。
そうだ、あの時。自分がスズカの走りに気圧され、己を見失いそうになっていた時の。
「ちゃんと自分と向き合ってきて」
そうして言葉で背を押され、はりきる母に半ば引き連れられる形で空港をあとにした。


◆  ◆  ◆



『無事送り出してきました』

おにぎりを食べていると、スマホの通知音を共にそんな手短な一言が届いた。
よかった。トーク画面に表示された文字を見て、一安心する。ちなみにその前に自分が送ったメッセージは『挨拶できずにごめんね。どうだった?』である。
返信を打つ前に再びぽこんとスマホが鳴る。

『そっちは何か聞き出せました?』
『まだ。午後に期待』
『仕事が遅いですね』
『流石に無理には聞き出せないよ』
『わかってます。八つ当たりです。すみません』

若干刺々しい文面のあと、すぐに謝罪が帰ってきた。後輩の潔さと素直さに感心と好感を覚えながら、怒っているわけでもなかったので『気にしないで』と返す。
きっと何よりも、彼女は自分自身のことを一番不甲斐ないと思っているのだろう。それだけ担当のことが大切なのだ。彼女に限らず、トレーナーの誰しもが。

『彼女もまだ落ち込んでいますか?』
『うん。合宿中に元気になったらいいんだけど、多分無理かな』
『先輩のそうやって全部正直に口にするところどうかと思いますよ』

質問に答えたらそんなツッコミが返ってきた。だって本当のことだし。見栄を張っても仕方ない。
じゃあ何て答えよう。率直に言うのはダメだと言われた手前、どう返していいか悩む。
そんなことを考えているうちに、ぽこんと電子音が鳴った。画面を見れば、続けて彼女からメッセージが来ていた。

『お互い、早く立ち直ってくれるといいですね』

こちらを気遣う言葉に、自然と笑みが浮かんだ。『そうだね』と打ったあと、少し考えて『健闘を祈ってます』と添える。返ってきたのはスペシャルウィークがお礼を言っている、可愛らしいスタンプだった。
それを見てから画面を閉じ、残りのおにぎりを平らげる。応援をもらった。彼女たちも頑張っているのだ。自分も頑張らないと。
無理だとは言ったが、何とかしたい気持ちはもちろんある。十二分にある。メンタルも支えてこその”杖”だろう。周りにかなり助けられている自覚はあるけれども。
「もう少し浮上してくれればなぁ……」
そうしたら、ほんのちょっとくらいは打ち明けてくれそうな気もするのだが。
如何せん相手は未だ拒否の構えだ。取り付く島もない。周りが荒波では、船を寄せることだってできないのだ。
落ち込んでいていても表に出さず、さらにはトレーニングまで完璧にこなすところは流石であるが。器用に不器用とはこのことだなぁなどとつい埒もないことを考える。
「おい」
「はい?」
どうしようかなとうんうんと唸っていると、唐突に呼び掛けられた。
「……え?」
反射的に返事をして振り返ると、何故かサンタばりに大きな袋を持ったナリタブライアンがそこに佇んでいた。



「はぁーい、ルドルフちゃん、お好きなのをどうぞ」
そう言って、マルゼンスキーは持っていた袋を逆さまにした。宿の備え付けのテーブルが、瞬く間に見たことのない菓子で埋め尽くされていく。
午前中のトレーニング後、問答無用で連れてこられたマルゼンスキーたちの部屋で、ルドルフは目の前に散りばめられた菓子の数々をぽかんと見つめていた。
「ヨーグルでしょ、都こんぶでしょ、きなこ棒にすずカステラに、べっこう飴にココアシガレットにその他諸々! あたしのおススメはね~、よっちゃん♪」
マルゼンスキーはイカの帽子を被ったキャラクターが描かれた、赤と白のパッケージを指さす。言われるままに手に取り、何となしに裏側も見る。袋越しの感触は、何というか平たい。
「よくこれほど集めてきたな。私の知らない品ばかりだ」
「ふふん、でっしょ~! あたしはいつでも時代の最先端にアンテナ張ってるんだから!」
座ったまま胸を張ったマルゼンスキーは、しかしすぐに「なんちって」と舌を出した。
「実はさっきね、スペちゃんたちと屋台のおじさまのお手伝いをしてたのよ。そしたらお礼に、こんなにお菓子をいただいちゃったの! ナウなヤングにバカウケのラインナップよ!」
つまり人気商品ということだろうか。相変わらず彼女の使う言葉は少々難解だ。
私もまだまだ学ぶべきことが多いな、と菓子を見つめ、はたと部屋を見回した。
「そういえば、ミスターシービーはいないのか? 一昨日は大いに笑ってくれたものだから、てっきりまたからかわれるのかと覚悟してきたのだが」
「やーね、あたしはそんな性悪オンナじゃないわよぉ。確かにあの時のルドルフってば、すんごい顔してたけど」
手を振りながらからからと笑う友に、ルドルフは苦笑いをこぼす。それほどまで酷い顔をしていたのか。

一昨日の晩のことだ。エアグルーヴに問いかけた、あの夜。
部屋から出て行ったあと、とにかく人目につかないところを探して歩いた。数分ほど彷徨ってから、就寝時間直前のこの時刻なら何処でもひと気はないだろうことに気付いた。
それからロビーへふらりと向かっていた時のことだ。マルゼンスキーにばったり出くわし、有無を言わさず彼女の部屋へと連行された。
そして部屋に入った直後、自分の顔を見たミスターシービーが突然腹を抱えて笑い転げたのだ。
『ごめんごめん。キミがあんまりにも面白……いや珍しい顔をしてるからさ。これはきっと楽しい話だって思ったら、ワクワクしてきちゃって』
とは彼女の言い分である。慰めにもなっていないうえに慰める気すら全くない。元から期待などしていなかったが、不満も苛立ちも全て通り越して呆れ果てたものだ。

無論そのような失礼千万を働いた相手に自分の胸の内を打ち明けるはずもなく、ルドルフは予備の布団を引っ張り出してそのまま寝た。思いのほかよく眠れたが、彼女のおかげとはあまり言いたくない。
ゆえに今日もその件でまた絡まれるのかと思ったのだが、マルゼンスキーの反応を見るにそうではないらしい。
「それがね、トレーニング中に思い出し笑いしてすっ転んじゃったみたいで。今は保健の先生にお世話になってるト・コ・ロ」
「……へぇ……」
「うふふ、今ザマァミロって思ったでしょ?」
「ご想像にお任せするよ」
さらりと流せば、笑声と共に「久々のライオンちゃんねぇ」と彼女は呟く。そう称されるのは随分と久方ぶりだ。
今でも自分をそう呼ぶのは彼女と、現在手当て中らしいミスターシービーくらいだろう。ブライアンあたりは本能的に察知しているようであるが。
「それで? 一昨日はどうしてあんなに落ち込んでたのよ?」
『ココアシガレット』と表記された紺色の箱から細い棒状の菓子を取り出しながら、マルゼンスキーはふいに切り込んできた。
驚きはない。部屋に招かれた時点で、その可能性は頭にあった。
「それは……」
「まっ、どーせエアグルーヴちゃんのことなんでしょうけど」
どう返すべきか答えあぐねているうちにまんまと言い当てられ、ルドルフは弾かれるように顔を上げた。
「何故それを……」
「モロバレよぉ。絵にかいたような優等生のあなたが、就寝時間ギリギリに廊下でおセンチになってるのよ? あんなの、エアグルーヴちゃんと何かあったーって、言ってるようなものじゃない」
菓子を口にくわえたまま彼女はやれやれと首を振った。その姿が何故だか妙に様になって見える。
ルドルフは一拍ほど呆けて、それから片手で顔を覆った。確かにひどく気落ちしてはいたが、一目でわかるほどあからさまだったのか。
参ったなと内心で呟く。顔に浮かんでいるのはおそらく苦笑いだろう。
これだけ見抜かれていては、流石に白状しないわけにはいかない。
「……合宿前に、エアグルーヴと併走したんだ。その時に怖がらせてしまったらしい」
自分と走るのが恐ろしいかと、そう問いかけた時。彼女の表情は、明らかに怯えの色を見せた。
またやってしまったのだ。そう思った。やはり希望的観測だったのだと。
もしかしたら天皇賞(秋)を取り止めたのも、ルドルフが出走することが決まっていたからかもしれない。そう思うと、胸の奥に重石を沈められたような心地にまでなった。
「……それ、直接聞いちゃったりしたの?」
「ああ……何かまずかっただろうか?」
「んん……そりゃ本人に聞くのは悪くないし、マズいってわけじゃないけど……」
歯切れの悪い言い方に顔から片手を外して視線を上げる。何と言おうか答えかねていたマルゼンスキーは、やがてがっくりと肩を落とした。
「あなたって斬られなくてもいい刃にも、自分から斬られにいくわよねぇ……実は痛いのが好きなの? クセになっちゃった?」
「ふむ……? 痛みには多少強い方だが……」
「そういうことじゃないわよもぉ~」
脱力するようにテーブルに顔を押し付けるマルゼンスキーを怪訝に見つめる。ならばどういうことだろう。
そもそもエアグルーヴの話をしていたわけなのだが。そう考えた途端、一昨日の彼女が脳裏によぎる。つきりと痛んだ心臓には気付かないふりをして、ルドルフはなあ、とマルゼンスキーに問いかける。
「マルゼンスキー。君は自分が原因で走りを辞めた……または辞めそうになった者に対して、何をしてやれると思う?」
眼前の彼女の耳がぴくりと動いた。次いでテーブルから顔を上げ、胡乱な眼差しでルドルフを見つめた。がりり、と彼女の口の動きと共にそんな音が聞こえてきた。
「……ねえルドルフ、あなた今ものすごく傲慢なこと言ってるって自覚ある?」
「もちろんだ。だからこそ同じ場所に立つ君に尋ねた」
「あらやだ、盛大なイヤミね」
「そういうつもりでは……」
「なーんて、うそぴょん。わかってるわよ。ほんと真面目ちゃんなんだから」
頬杖をついて彼女はくすくすと笑い、お詫びだと言ってココアシガレットを渡される。
口に運ぶと、何とも不思議な味がした。予想していたほど甘くはなかったうえに、ほのかにハッカの香りがする。
「どうもできないわよ。だってあたしたちは、結局は走ることしかできないもの」
目を白黒させて菓子を食べるルドルフを可笑しそうに眺めていたマルゼンスキーは、テーブルに散った菓子を眺めながらおもむろに答えた。
「そんなこと、あなただってとっく昔にわかってるでしょう?」
「……そうだな」
我々は走りで、各々の理想を示す。ターフを駆けることは楽しいと、駆け抜けた先には幸福があるのだと、それらを証明するための脚だ。
しかし、そうであるが故に、それ以外を示せない。そして自分たちの走りに何を感じるかは、当然ながら個人によって異なるのだ。
彼女たちが抱いたものを、自分たちがどうこうできるものではない。だからこそマルゼンスキーは傲慢だと指摘したのだ。
だが、とルドルフは目を伏せる。
(どうすることもできない。立ち上がってくれるのを待つしかない。そう、理解はしているつもりであったのだが……)
ふと、向かいから小さな笑い声が聞こえた。視線を上げると、青々とした芝生の色をした瞳が、楽しそうな色を宿して自分を見つめていた。
「でも、それでもどうにかできないかって考えちゃう相手ってワケね。あなたにとってのエアグルーヴちゃんは」
「う、む……そうなる、のかな?」
「ズコーッ! ちょっとそこは疑問形なの?」
「いや……」
大袈裟に呆れ返るマルゼンスキーからルドルフは目を逸らす。
多分、そうなのだと思う。彼女の言う通り。だが何故そう思うのだろうか。
才華爛発(さいからんぱつ)な右腕であるから。互いに果てなき理想を抱く同志だから。"女帝"の名に相応しい走りでレースを魅せる彼女に、足を止めてほしくはないから。
そのどれもが正解のようで、しかしどれもに齟齬があるような気がしてならない。
よく、わからない。根本にあるはずの理由が、あまりにも不明瞭だ。
「……まあいいわ。その続きは、助っ人ちゃんにでも話しなさい」
「助っ人?」
「そう。あたしはこれから、スペちゃんたちとランチする約束してるし……それに、」
マルゼンスキーは立ち上がり、そのまま腰を折るように屈んでルドルフを見下ろした。
「あたしには本当に弱いところなんて、絶対に見せてくれないでしょ、皇帝さんは」
彼女の唇が、不敵に弧を描く。ぱちぱちとまばたきを繰り返していたルドルフは、やがて苦笑いをこぼして頷いた。
「怪物の君に弱みなど見せたら、頭から丸呑みにされそうだからね」
「ふふ、あたしも同じ。あなたに背後でも取られたら、そのままぶっすりと串刺しにされちゃいそうだもの」
そのような軽口を叩きあってから、互いに笑い合った。
信頼していないわけではない。寧ろ彼女は、自分が気兼ねなく話せる数少ない友人だ。
だが、同時に絶対に負けたくないライバルでもある。だからこそ弱い自分など見せたくはない。
おそらくマルゼンスキーも同様だろう。例え見透かされていたとしても、見栄を張っていたい。相手の虚勢を見抜いたとしても、そのうえで敢えて見ないふりを自分たちはするのだ。
「おい、入るぞ」
ふと、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「ブライアン?」
慣れ親しんだその声に、ルドルフは首を傾げる。助っ人とは彼女のことなのだろうか。
しかし何故。腑に落ちない面持ちで扉が開くのを待つと、ブライアンが何かが入った大袋を担いでいることに気付く。
「ブライアン、それは?」
「お前の担当だ」
「は?」
学園の寮と同じく、割り振られた部屋一帯は生徒以外入室禁止である。これは不法侵入に相当するのでは。
なるほどだから袋に詰めて連れてきたのか。いやそういう問題ではなく。
「ありがとね、ブライアンちゃん!」
「頼まれた仕事をしたまでだ。さっさと行くぞ。私はスタミナ丼が食いたい」
「がってん承知の助! 今日はお姉さんのおごりよ!」
彼女にしては珍しい。そう思った矢先に交わされた会話に、思わず二人を交互に見てしまった。
昼食でブライアンを釣ったのか。釣られるブライアンもブライアンだ。が、
(もしや、これは私のせいか……?)
自分も視察の際、同行を渋る彼女を好物で釣ることが多い。それが原因でよくない癖をつけてしまっただろうか。しまった。姉のビワハヤヒデに詫びを入れがてら相談すべきか。
「はいルドルフ、あたしからの真心よ。受け取って♪」
「ほらよ」
「え、いや、あの、マルゼンスキー?」
訳も分からないままトレーナー入りの袋を渡され、ルドルフは戸惑いを露わにマルゼンスキーを見た。しかし彼女は気に留める様子もなく、いつもの明るい笑顔を浮かべて手を振られる。
「それじゃあね、ルドルフ。そのお菓子は二人で食べちゃっていいから。バイビー!」
そうしてブライアンと共に部屋を出て行ってしまった。
突拍子もない展開に唖然としていたルドルフは、抱えた袋がもそりと動いたことで我に返った。慌てて降ろし袋の口を開けると、見慣れた人間が顔を引き攣らせて正座していた。
「……トレーナー君……」
「ふ、不可抗力です……」
「……うん、それは見ればわかるかな」
両手を上げて降伏のポーズを取った己のトレーナーに、ルドルフは乾いた笑みをこぼした。


袋詰めにされていたトレーナーに、とりあえずいきなり誰かが来てもすぐに隠れられるようにと押し入れ近くに座らせ、テーブルもそこに移動させた。
マルゼンスキーの置いていった菓子を見るなり「うわ懐かしい」と目を輝かせた彼女に、ルドルフは疑問符を浮かべる。マルゼンスキーが言っていた台詞とは真逆な気がするが。過去の人気商品が、巡り巡って現在で流行りだしたのだろうか。
「ところで、トレーナー君は何故ここに?」
「お昼食べてるところをナリタブライアンに拉致られました」
「いや、そういうことではなく……マルゼンスキーに何か頼まれたのではないのか?」
「ううん、何も。問答無用だった」
「それは……すまないことをしたね」
「はは……ウマ娘相手に力じゃ絶対勝てないしね。私もルドルフと話したかったし、ある意味丁度よかったよ。あ、これ美味しいよ」
すずカステラの袋を開け、そのままルドルフの前に滑らせてトレーナーは言う。袋の中には、丸い鈴の形をした小さな焼き菓子がころころと詰まっていた。
砂糖がまぶされたそれを指先で摘まんで口に運ぶ。素朴で美味しいが、見た目通り甘さに特化した味だ。そして口の中の水分をかなり持っていかれる。
飲み物が欲しくなるな、と思った矢先にペットボトルを差し出された。ミネラルウォーター、ということは彼女のものだろう。未開封のそれを、僅かに逡巡してからありがたく受け取る。
「マルゼンスキーとは色々話せた?」
「……まあ、そうだな。少しは気が晴れたよ」
「そっか、よかった。……けど、まだもやもやしてる顔だね」
朗らかな口調のままトレーナーは言った。やはり気付かれるか。ルドルフは眉を下げながら頭を傾ける。
「相変わらず君は鋭いな……」
「これでも貴方のトレーナーだから。あ、言いたくないことを、無理に訊くつもりはないよ。ただ……」
彼女は途中で言葉を切った。僅かに躊躇うように目を伏せたかと思うと、意を決したようにルドルフに向き直る。
「前に教えてくれた”ルナ”って名前。ルドルフからその名前に戻ったら、少しは吐き出せる?」
問われた内容は意外なものであった。ルドルフはきょとんと目をしばたかせ、それから顎に指を添える。
「どうだろう。やったことなどないから……」
つまりは素の自分に戻れ、ということなのだろう。”ルナ”という名は、幼い頃に呼ばれていたルドルフの幼名だ。
シンボリルドルフという魂に刻まれた名も、今なお追いかけている夢も理想も背負っていなかった、あの頃の自分に。
眉を寄せて悩んでいると、向かいからあっさりとした声が耳に届く。
「じゃあ試しにやってみよう。はい切り替え。今は皇帝の肩書きも生徒会長の肩書きもない、ひとりのウマ娘です」
「……トレーナー君、それは無茶ぶりというものではないか?」
「大丈夫、ルドルフならできるよ」
ルドルフは微苦笑を浮かべた。何とも根拠の感じられない自信だ。
これを信頼と捉えていいものか、少々判断しかねる。それとも期待の方だろうか。
「……実践躬行(じっせんきゅうこう)、か。君ができるというのなら、やらないわけにはいかないな」
「そうそう。じゃあ早速チャレンジだ」
トレーナーはへらりと笑い、緑色の四角い菓子が綺麗に並んだ容器を開けた。一体何の菓子だろう、あれは。見た目はグミにもガムにも見えるが。
気になりつつも、ルドルフは静かに瞼を閉じる。
ゆっくりと呼吸をひとつ、ふたつ。己が背負う理想を、肩書きを、少しずつ外していくようなイメージを描いてみる。
今この場には、自分とトレーナーしかいない。あの日と同じく。共に三日月を見上げて、自分の幼名を打ち明けた時のように。
大丈夫。彼女なら信頼できる。彼女になら預けられる。泰然自若の仮面を外した、自分自身を。
(……ん?)
ふ、と。妙な違和感を覚えた。けれど指先が軽く掠めた程度のそれは、すぐに霧散して跡形もなくなってしまう。
「ルドルフ、どうかしたの?」
「あ、いや……すまない。いつの間にか沈思黙考してしまったようだ」
トレーナーの気遣う声に軽く首を振り、改めて仕切り直す。消えてしまったものを追及していても仕方がない。きっかけがあればいずれ思い出すだろう。
「……エアグルーヴに、どうにも距離を置かれているという話は以前したね?」
「うん。並走した頃から避けられてるって言ってたね」
「ああ。実はその件で一昨日、エアグルーヴに──……」
事のあらましを、ルドルフはぽつりぽつりと語る。一向に戻らない距離感に痺れを切らしてしまったこと。エアグルーヴを問い詰めてしまったこと。結果的に彼女を怯えさせてしまったこと。
そして、ルドルフと共に走ることを恐れているのが根本の原因だと知った。
「恐れてる、ねぇ……」
思案するようにトレーナーが呟く。何か物言いたげな顔つきであったが、それ以上口を開く気配はなかった。
ちらと様子を窺いつつ、ルドルフは続ける。
「仕方がない、と思う半面、何とかできないものか、とも思う。……いいや、何とかしたいという気持ちの方が強いな」
彼女の恐怖を取り除きたい。距離を置く以外の方法で。
「恐怖や絶望を突きつけた側が、相手にできることなどない。それを理解しているはずだったのだが……納得ができない、というべきか」
「諦めたくない?」
「……いや、」
諦めたくない、というより。
「諦めてはいけない、と。そう思っているらしい」
何とも曖昧な台詞が口からこぼれ落ちて、思わず自嘲する。
「正直なところ、よくわからないんだ。何故こんなことを思うのか。何故他の者たちと同じように、エアグルーヴのことも割り切れないのか……それがわからない」
否、これまでの生徒らだって割り切って見送ったわけでない。けれど、仕方のないことだと飲み込むことはできた。
それが今は、割り切ったふりすらできない。腹の底でじたばたと足掻いている己がいる。
──彼女だけは嫌だ、と。
それは一体、何故だろう。
「そうくるか……」
「トレーナー君?」
伏せていた目を上げれば、トレーナーが頭を抱えていた。
グミを刺した楊枝がこめかみに刺さりそうだ。危ないぞと注意すると、彼女は頭を垂れたままグミを食べた。
「何か気付いたことでも?」
「いや、うーん……」
もごもごと口を動かしながら器用に呻く彼女に問うが、言葉を濁される。ついでに四角いグミを容器ごと差し出された。
トレーナーの反応が気になりつつも、興味があった菓子を口に運ぶ。リンゴ風味のそれは、何とも言い表し難い食感だった。
「これは……グミ、か? それとも餅だろうか……?」
「名前は青りんご餅だね。微妙な食感だよねぇ。これがクセになって昔はよく食べてたよ」
餅なのか。餅。よくこのような菓子を考えついた者がいたものだ。
原材料は何なのだろうかと考えていると、「ルドルフが悩んでることだけど」と彼女は口火を切った。耳をぴっと立てて言葉を待つ。
「エアグルーヴにもそうやって、今の気持ちをそのまま伝えればいいんじゃないかな」
「……こんな、支離滅裂な思考を?」
「そう。言いたいことがバラバラでも、もしかしたら格好悪くても」
掲示された提案に疑問の声を上げれば、彼女はさらりとそう返してきた。
「多分だけど、貴方たちに足りないのは言葉だと思う」
「……そう、か?」
「うん」
初めて受けた指摘に思わず首を傾げるが、トレーナーは迷いもなく肯定する。
「そりゃ報連相はばっちりだよ。ルドルフもエアグルーヴも、大人顔負けなくらいしっかりしてるし。でもさ、本当に言いたいこと、知りたいことは、あんまり言わない気がするから」
虚を突かれた気分だった。目を丸くしたルドルフに、彼女は少しだけ困ったように笑う。
「言葉が足りないっていうのはそういうこと。もちろん、私から見たらの話だけど」
「なるほど……」
そうかもしれない。少なくとも、ルドルフには心当たりがある。
本音を隠す、とは少し異なる。品行方正にして、温厚篤実(おんこうとくじつ)──そうであることを常に心掛けているがゆえの難点。
良き先導者として、情けない姿も、弱気になっている己も見せたくない。他者に晒してはならない。そのような思考が根付いているから。
そしておそらく、全てのウマ娘の理想たれと己に課している、エアグルーヴも。
しかし、とルドルフは瞼を伏せる。
「……トレーナー君の言いたいことは理解した。だが……もう少し、自分で考えたい」
信頼するトレーナーに助言を受け、一理あると納得してもなお、踏ん切りがつかない。
自分でもよくわからぬまま口にしても、上滑りの言葉にしかならないのではないか。そんな気がしてならない。
直感のままに行動するというのは、やはり苦手だった。
「そっか……わかった。ルドルフがそう言うなら」
「すまないな。折角君が進言してくれたというのに」
「ううん。寧ろ変に口出ししちゃってごめん」
「いいや。おかげで少しは整理できたよ」
「それだったらよかった。煮詰まりそうだったらまた話してね。いつだって聞くからさ」
「ああ……ありがとう、トレーナー君」
礼を言って微笑めば、彼女は少し安心したように肩の力を抜いた。
「じゃあ、午後も頑張ろうか。明日は早めに切り上げるようにメニュー組んであるしね」
そうだな、と頷いて立ち上がる。残りの菓子は置いていっても構わないだろう。くれると言ってくれたが、元々はマルゼンスキーがもらったものだ。残りは彼女が食べた方が、きっと屋台の店主も喜ぶ。
「さて、それでは君を送ろう。また隠れてもらうようだが、かまわないかな」
「うん、ありが……ちょっと待った」
「ん?」
「何で大袋広げようとしてるの?」
「だから君を送ろうと」
「いやダメだよ⁉」
「何故だい? 来るときはこれで身を隠していただろう?」
「違う気にするとこそこじゃない……!」
再び頭を抱えたトレーナーが、ルドルフじゃ目立つから誰も彼も手伝おうとするからそしたら事案発生になるからと諭されてしまい、ルドルフはその鬼気迫る勢いに気圧されるようにして仕方なく袋を下ろした。
一度、担いでみたかったのだが。俵のように。
その心を見透かされたのか、ゴールドシップが近くにいるときならやっていいからと不可思議な妥協案を掲示された。それに頷きつつ、後ろ髪を引かれる思いでマルゼンスキーに連絡を取ったのだった。





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