もしもの物語-9-



「広場の正面から階段上がったとこ。ギリオーヌって宿屋があるんだ」
昔に世話になった宿がある。ペンドラゴの巨大な門をくぐり抜けてから、ロゼはそう言った。
背中に手を添えて支えていたアリーシャをスレイに任せて、彼女が先頭に立ち石造りの街を小走りに駆ける。
通り過ぎたその横顔に、ちらりと懐かしさと寂しさをはらんだ色を浮かべているのを見て、スレイは思わずデゼルに目を向けた。彼は相変わらず無言のままだったが、ロゼに続いて走るその背中に肌を刺すような怒りを感じて、スレイは深刻な面持ちで彼らの後を追った。
何か、あったのだろう。このペンドラゴの街で、あまりよくない出来事が。
「スレイ、行くぞ」
「…うん。アリーシャ、もう少しだから」
彼らから視線を外して、先程のロゼと同じように軽く手の平で背を支えながらアリーシャに声を掛けると、彼女は申し訳なさそうにすまない、と零してから頷いた。
流石にあの広大な牧耕地で倒れては危険だと、アリーシャから出たエドナと並んで柄の違う傘を差す少女を見ながら、スレイは顔を険しくする。
肌は白さを通り越して蒼白になっている。先程よりも調子が悪そうだ。
とめどなく降り注ぐ雨の中、ペンドラゴの街を見上げる。巨大な要塞の中に街が飲み込まれたような、もしくはその石造りの床から街が生えてきたかのような、そう思わせるほどの統一感をもった街並みだった。
水の都と謳われるレディレイクは思わず見惚れる壮麗で華やかな印象を受けたが、同じ都でもペンドラゴは息を呑むほど厳格で荘厳さに満ちている。見ているだけで身が引き締まりそうな雰囲気を醸し出していた。
けれど、皇都でありながら人はまばらだ。それに僅かながら外に出ている者は、皆一様に表情が暗い。
雨のせいなのだろう。それに穢れも、ラストンベルよりも遥かに濃い。
前髪から雫がぽたぽたと垂れる。いくつかが目に入りそうになって、眉をしかめながら手の甲で水気を払った。
「……うん?」
払った右手に、何か纏わりつくような気配を感じて、思わずまじまじと己の手を見つめた。
一瞬で消えてしまったそれは、どこかで感じた覚えのあるものだと思ったのだが。
「スレイ、あれは…!」
何だろうと記憶を掘り起こしていると、突如アリーシャの切迫した声音が耳朶に響いた。えっ、と彼女の指し示す方向に目をやって、大きく目を見開く。
そこには、鎧を身に纏い剣と盾を構えたトカゲの形をした憑魔と、自分達にペンドラゴへ来てほしいと頼みごとをしたセルゲイ達の姿があった。
「セルゲイさんたちが…!」
急いで左右対称に造られた階段を駆け上がると、セルゲイが両刃剣を憑魔に振り下ろしたところだった。薄暗い市街に、金属のぶつかり合う音が響く。
数秒ほど拮抗していた力は、セルゲイが憑魔の剣を絡め取り上に弾いたことで崩れた。
「―――ぐぁっ…!」
よろめいた憑魔の隙をついて、彼の刃が横に一閃する。腹部に傷を負った憑魔は不利と悟ったのか、舌打ちをひとつして高い城壁の上へと跳び上がってそのまま街の中へと消え去っていった。
流石はローランスの騎士団長というべきか。憑魔でさえ、ああも簡単に退けてしまうとは。
スレイは彼らに近付き、セルゲイさんと呼び掛けた。気付いた男は憑魔が逃げた先から視線を外し、部下の兵士に後を追うように指示を飛ばすと、その顔をスレイ達に向けた。
「スレイ殿、遠路はるばるすまない」
「さっきのは…」
憑魔が跳び去った壁の上を、雨を遮りながら振り仰ぐ。スレイの問いに、セルゲイは再び険しい顔をして枢機卿の配下だ、と答えた。
「捕らえようとしたのだが、ただ者ではなかった」
セルゲイの太い眉根に皺が寄る。それはそうだろう。セルゲイ達から見たら人間にしか見えないが、あれは穢れにより人から変化した憑魔だ。
「枢機卿の配下が憑魔になってるとは…」
顎に手を添えてミクリオが上を睨んでいると、憑魔を追い掛けていた兵士達が重い足取りで市街地から戻ってきた。
そのうちの一人が、セルゲイに向かって申し訳ありません、と頭を下げる。
「教会神殿に逃げ込まれました」
兵士のその報告に、ライラも確信を得て事実のようですわね、と緑玉の瞳に厳しさを浮かべる。
「おそらく奴は連絡係だと思――――」
セルゲイの声が不自然に途切れ、奇妙に仰け反った姿勢で固まった。兵士たちは驚くも、何よりも彼自身が誰よりも驚愕したようだ。細い目を限界まで見開いて、唖然と周囲を見回していた。
しかし、全容が見えていたスレイ達は、一様に引き攣った笑みを浮かべる。
「雨寒いんですけど。長話迷惑なんですけど」
前に突き出していた傘を広げ、己より二回り以上大きい体躯の背後、苛立ちを隠しもせずにエドナがそうまくし立てた。
彼女がセルゲイの腰の上辺りに武器である傘を突き入れたのだ。鎧の隙間をついて、骨のない柔らかな箇所を攻撃するあたり容赦がない。
「こっちは病人連れてるのよ。さっさと屋根のある所に――――」
声が届かないにも関わらず、エドナは尚も不満を言い募り―――だがその直後、エドナが言葉を連ねる途中でばしゃっと水の跳ねる音が彼女の声を遮った。
水飛沫をすぐ傍で捉えたスレイは、反射的に顔をその方向に向ける。
そして、雨の音すら消えるほどに、頭の中が何もかも白くなった。
「あ……」
下へと視線を落とした深緑の双眸に、雨によりなおさら重い印象を与える石床とは違った、淡い色彩が映る。白に、桃色、それから鈍色の銀。さらに視線をずらして見れば、金に近い薄茶の髪。
そして力なく閉じられた瞼に、ようやく現実に戻ってきた脳がスレイに驚愕と衝撃をもたらし、それは叫びとなって飛び出した。
「アリーシャっ!」
目前で倒れた少女を急いで抱き起こす。水たまりに浸った身体は、ぞっとするほど冷たい。
スレイは狼狽しながら何度も名を呼んでみるが、彼女は意識を失ったまま苦しげに呼吸を繰り返すだけだった。
遅れて我に返った仲間達は、すぐにアリーシャの許へ駆け寄って天響術をかける。
「とにかく宿!詳しい話はそれからにして」
「わ、わかった。急いで手配しよう」
アリーシャの額に手を当てて眉をしかめたロゼがセルゲイに向かって声を張り上げる。それを聞いたセルゲイは、部下を下がらせて宿屋へと駆けていった。


◇   ◆   ◇   ◆


苦しい。寒い。震えが止まらない。
ねっとりとしたものが喉に絡みついているような息苦しさに、アリーシャは小さく呻く。自分で吐いた吐息がひどく冷たかった。
ゆっくりと浮上しはじめた意識を手繰り寄せて、自分が気を失ったことに思い至る。そこまで無理をしたつもりはなかったのに、と思いながら、また迷惑を掛けてしまったと、曖昧な頭に罪悪感がじわじわと湧きあがってくる。自分の体調管理すらままならない自分が情けなかった。
「……?」
ふと、ぼそぼそとした声が耳に入ってきた。そこでやっと近くに誰かがいることに気付く。
柔らかな感触を背に感じながら、寝起き特有の反響するような音をなんとか言葉として捉えようと、閉じた瞼を持ち上げる。
滲む視界に木製の天井が浮かび上がる。ぼんやりとそれを見つめていると、人の動く気配あった。
目だけを動かして探ると、すぐ傍で黒いジャケットと薄桃のフードが見えた。そして、少し離れた場所にふたつの気配。
姿は見えないが、穏やかな女性の声と落ち着いた男性の低い声に、誰がいるのかすぐにわかった。
先程の声は、奥の二人が話し込んでいるもののようだった。
「デゼルさん、これでよろしいのですか?」
「見せてみろ。……ああ、これでいい」
何の話をしているのだろう。それに、ここには居ないスレイ達は一体どこに。
起き上がろうとして、しかし思った以上に力の入らない身体にただ身じろいだだけに終わる。その拍子に呻いた声が届いたのか、傍にいた赤髪がくるっと揺れて快活そうな少女の顔が見えた。
「あ、アリーシャ起きた?」
「……ここは…」
段々と鮮明になってきた視界に見慣れない一室が飛び込んできて、アリーシャは思わず問い掛けた。彼女の問いに、ロゼは宿屋だと答える。名前はギリオーヌと言うらしい。ペンドラゴに入った際にロゼが口にしていた宿の名だ。
もう一度、今度はいつも以上に力を入れて身体を起こす。ロゼが咄嗟に支えてくれたおかげで、なんとか起き上がることに成功したアリーシャはほっと息を吐く。
「丸一日寝てたんだけど…まだ調子悪そうだね」
「…そう、みたい…」
喉を締め付ける圧迫感を押しのけて、ぼんやりとしたままそれだけ呟いて頷く。己の身体であるのに、どこもかしこも思い通りに動かなかった。
ふいに、額に柔らかな感触が当たる。ひたりと当てられたそれは、ロゼが腕を伸ばして触れた手の平だった。
「熱はないか…。ね、アリーシャ。体調ヘンって思ったのってどこから?あの麦畑辺り?」
「…多分」
ロゼの言葉に、アリーシャは再びこくりと頷く。
パルバレイ牧耕地に入った辺りから、どこか違和感があった。胸の奥が燻るような、ざわりとした心地の悪い感覚。初めは雨に打たれて冷えたからだろうと思っていた。
けれど、前に進むごとに胸を塞ぐような重圧は強くなっていった。ペンドラゴに入った辺りからは尚のこと酷くなてきて、身体が不調を訴えてきたのだ。
途切れ途切れにそう告げると、ロゼは徐々に深い青の瞳に険しさを滲ませて、デゼルとライラがいるだろう方向に視線を向けた。
「デゼル、あんたの言ったこと、合ってるかもしんない」
彼女の言葉に、だろうなと低い声が答えた。話の前後が見えず、アリーシャは怪訝に首を傾げる。
「…っ、う……」
突如襲ってきた眩暈に額を押さえる。浅くなる呼吸をどうにか抑えようと、無意識に息をつめた。心配そうにこちらを見つめるロゼに、大丈夫だと声を掛けることもできない。
目の前が歪むほどの衝動がようやくおさまった頃、すぐ傍でアリーシャさん、と静かに名を呼ぶ声が聞こえた。俯けていた頭を上げると、す、と目の前に細長い上質の紙が一枚浮いていた。
「受け取ってください」
いきなり目の前に現れたそれに目をしばたかせていると、ライラがそう促してきた。戸惑いながらも、彼女の武器でもあるそれを素直に受け取る。
「―――――、え…?」
ほのかに花の香がかおる紙葉を手にした途端、あれほど身体を苛んでいた不調が一瞬で消えていった。喉を圧迫されているかのような息苦しさも、鉛のような身体の重さも。
まるで何かに吸い取られたかのようで、アリーシャは見開いた瞳で持っている紙を凝視する。
「その紙にはホーリィボトルの液を染み込ませてある。楽になっただろう」
声のする方向に目をやれば、細長い白い瓶が宙に浮いていた。
おそらくそこにデゼルがいるのだろう。アリーシャは言葉が出ずに、ただしきりに頷いた。
「ホーリィボトルは獣だけじゃない。憑魔にも効果がある」
「へーそうなんだ。よく野営するときにまいてたけど、あれって憑魔除けにもなってたんだ」
それは初耳だったと、感心したように頷いているロゼの横で自分も驚く。
商人や荷馬車など、戦う術のない者が獣の襲撃を避けたいときに、獣避けとしてホーリィボトルを使うのが常識だった。だが、そんなごく一般的に手に入る代物ゆえか、憑魔にも効くとは思いもしなかった。
アリーシャは感動に近い思いでその紙葉を見つめて、ふとある可能性に思い至る。
僅かに紅潮した頬を瞬時にさぁっと青くさせて、いてもたってもいられず恐る恐るデゼルに尋ねた。
「それは、私が憑魔になりかかって…」
「違う」
だったらこの紙に触れても苦しむだけだと、即座に返ってきた否定の言葉にアリーシャはほっと胸を撫で下ろした。
しかし、それはそれで疑問が残る。ならば何故、この紙葉が自分に効いているのだろうか。
『アナタが穢れかかっていたからよ』
訝しげな雰囲気を感じ取ったのだろう。頭の中から声が響いた。
「正確には穢されていたんだ。この雨のせいでな」
「スレイさんが気付いたんです。この雨は何か変だと…」
ライラの憂いを帯びた瞳が、窓の向こうを見遣る。日が暮れたペンドラゴの街は、日中よりもさらに鬱屈とした雰囲気を醸し出して、雨音を響かせている。

―――どうも水の気が扱いにくいと思った…。アリーシャは多分、この雨のせいで倒れたんだ

彼女からこの雨と同じ穢れを感じる。スレイに雨に違和感があると言われて、気を研ぎ澄ませたミクリオは険しい表情でそう言った。
皆が皆、街に辿り着くまで気付かなかったのは、穢れの濃さが違っていたせいだ。凱旋草海で降り始めた雨が、ペンドラゴに向かうにつれ、穢れの濃さが増していったのだろう。
水の天族であるミクリオでさえ感覚を鈍らせるほど、徐々に変化していっていたのだという。
ここまで穢れていて気付かなかったなんて…と、天族としてはまだまだ年若い少年は大層悔しがっていた。
「理由はわからんが、これがただの雨というわけじゃないということは確かだ」
言葉少なに語るデゼルに、アリーシャは目を伏せておずおずと口を開く。
「…私が雨によって穢れてしまったのは、霊応力が低いからなのでしょうか…」
雨は当然ではあるが、全員に降りかかっていた。にもかかわらず、倒れたのは自分だけだ。
ならばと思って尋ねると、今度は自身の中に入っている少女からやや呆れ混じりの声で違うと返された。
『器になった反動よ。アナタの霊応力は確実に上がっているわ。けれど、その分穢れの影響を受けやすくなっているんですって。そうなんでしょう?』
「ああ。七つまでは神の子というだろう。あれと同じ理屈だと俺は考えている」
その言葉はどこかで聞いた気がする。確か、歳が七を超えるまでは身体が非常に弱く、すぐにこの世から離れて天に還ってしまうからだとか、そんな意味合いだった気がする。
あれと同じということは、小さな子供が身体を壊しやすいのは、穢れの影響も一因している、ということだろうか。
なるほど、と納得したようにライラ達が呟いているところを聞くと、どちらかというと天族側の知識なのかもしれない。隣にいるロゼは、訳がわからないと言わんばかりに人一倍難しい顔して首を傾げている。
「しっかしデゼルって本当博識だね〜。どこでそんな情報仕入れてくるの?」
「……昔、知り合いに同じことを試した奴がいてな。そいつから聞いた」
「へぇー、デゼルにもそんな仲間がいるんだ」
帽子を目深に被ってそう返したデゼルに、ロゼは特に疑いもせず納得する。しかし、その発言にデゼルの口元がぴくりと動いてへの字に曲がった。
「……おい、それはどういう意味だ」
「え、だって見た目怖いし。無口だし無愛想だし。あたしが小さかったら絶対泣く」
彼女の歯に衣着せぬ物言いに、反論するかに思われたデゼルはぐっと言葉に詰まった。言った本人も予想外だったらしく、ロゼもきょとんと意外そうに目をまたたかせる。
妙に空いてしまった間のあと、デゼルは誤魔化すように溜め息をつくと、どこか諦めた声音でスレイ達を呼んでくると部屋から出ていってしまった。
「ありゃ、怒らせちゃったかな…」
さては図星だったか、と少女は独りごちる。
そうなのかもしれない。ロゼが天族を拒んだ原因が自分にあると、出会った時に言っていたのだ。
幼いロゼを怖がらせ、トラウマを植え付けてしまった瞬間を想像して、アリーシャは苦笑する。だからこうして面と向かって見えるようになっても、あまり話しかけようとしないのだろうか。
「アリーシャ、もう平気だよね?ちょっとあいつに謝ってくるわ」
「あ、あぁ…」
自身の背から手を離したロゼは、そのまま彼を追いかけていった。その後ろ姿を、事情を知っているアリーシャ達は複雑そうな表情を浮かべて見送る。
「アリーシャ!」
「スレイ、宿の中を走るな!」
デゼルとロゼが行ってからそう時間も経たないうちに、威勢のいい声が開いたドアの音と共に聞こえてきた。軽く息を弾ませているところを見ると、本当に急いで来てくれたのだろうことが見て取れた。
「ああ。デゼル様のおかげで、すっかり良くなったよ」
焦燥が残る彼らを安心させるように微笑むと、スレイとミクリオもほっと顔を綻ばせてこちらに近付いてきた。
ベッドに座るアリーシャの傍に寄り、スレイはふいに屈んで彼女と目線を合わせる。いきなり近距離に現れた少年の顔に怯んで思わず身を引きかけると、額をあたたかな手の平が触れた。
ロゼのものに比べて一回りほど大きな手の平は、タコやまめができているせいか表面がかたい。その感触に、アリーシャは無意識に目を細める。
ここ最近、よくこの手を繋いでいるからだろうか。触れられた個所から、張っていた気が緩むような安心感が灯火のように胸の奥に広がった。
しばらくそうしていたスレイは、熱はないみたいだね、と安堵したように笑った。けれどすぐにその顔に真剣味を帯びさせて、やや声を潜めて口を開く。
「あのあと、騎士団塔ってところでセルゲイさんと話したんだ。それで明日、教会神殿に行くことになった」
「先程騎士団が取り逃がしたのは、枢機卿の配下なのだろう?警戒されてはいないだろうか?」
「警戒は元からだから、気にする必要はないってロゼが。それにオレの目的は元々、その教会神殿を見ることだしさ」
後ろめたいことなんてない。断言するスレイに、アリーシャは目をしばたかせてからそうかと小さく笑う。先程のロゼにも思ったが、スレイ達のその裏表のない真っ直ぐさにはいつも感心してしまう。
「わかった。明日だな」
心持ち表情を引き締めて、力強く頷く。それでも少しだけ口元が上がってしまったのは、ローランス教会の総本山をこの目で見ることができることに、心がうずいてしてしまったからだ。
アリーシャが生まれる前から、ローランスとは決して友好とは言えない関係であった。だから自分も、実際に教会神殿に入るのは初めてなのだ。スレイには負けるが、遺跡探索に夢を抱いているものとして不謹慎ではあるが胸が躍るのも確かだった。
彼女の返事を聞いたスレイは、しかしふいに表情を翳らせる。
その変化に気付いたアリーシャは戸惑いながら彼の様子を窺っていると、予想外にもごめん、と小さな謝罪の言葉が落ちてきた。
「スレイ…?」
「その…アリーシャが無茶しなきゃいけないの、オレがまだまだ未熟なせいだろ?だから…」
思いもよらぬ言葉に、アリーシャは目を見開く。何故、そんなことを。頭で考えるよりも先に口が開いて違う、と否定した。
「スレイ、それは違う。君のせいじゃない」
今の状況は、それこそ自分の力が足りないせいだ。スレイだけじゃない。仲間達にも負担を強いている。
けど、申し訳ないと、情けないと思いながらもそれに甘んじているのは、彼らと旅をすることを諦めたくないからだ。
夏に茂る葉に似た色の瞳を悲しそうに曇らせたスレイに向けて、穏やかな、それでいて真摯な表情で彼に語り掛ける。
「マーリンドで、君は私に言ってくれただろう?自分も諦めないから、私も諦めるな、と。私はそれを貫いているだけだよ」
言ってから、なんと我が儘なことだろうと、自分でも思う。
だが、スレイはそんな自分の我が儘を、笑顔で受け入れてくれた。アリーシャのしたいことをすればいいと言ってくれた。
「私は、スレイが諦めない限り、君の従士になることを諦めるつもりはない」
そう言ってのけることができるのも全て、スレイのおかげなのだ。仕方がないと諦めていた道を、何てことのないように指し示してくれた優しさに、自分は報いたい。
ふと、ついさっきまで己の額に触れていた手が目に入った。アリーシャはそっとその腕を取って、両手で包み込むように触れる。
ぱちぱちと目をしばたかせるスレイに、だから、と言葉を紡ぐ。
「だからまだ、君の傍にいさせてくれないか?」
きゅっとそのあたたかい手を握って、ぽかんと口を開く少年のことをじっと見つめた。
色のついたガラスで揺れる灯に合わせて、部屋の明暗もちろちろと揺れる。きっと普段は旅の疲れを癒してくれるものだろうそれは、外の雨のせいかどこか寂しいものを感じさせた。
「……スレイ?」
何の返答もないことに、アリーシャは徐々に焦りはじめる。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。流石に我を通しすぎだったかもしれない。
知らず、少年の手を握り込んだ両の手に力がこもる。
呆けたように固まっていたスレイは、呼吸数回分を数えたところでやっと我に返り、視線を泳がせてからええっと…と呟いた。
「……その、オレさ、セルゲイさんに言われたんだ。『妹思いの良い兄だな』って」
「セルゲイ殿に…?」
妹とは、ラストンベルでの検問の際、自分たちの正体を隠すために与えられたアリーシャの役だ。ちなみに自分のことをスレイの妹だと言ったのはロゼである。
そして脚本家であるライラによって脚色され、曰く、妻に一目惚れをして着の身着のまま飛び出していった兄の身を案じ、これまた勢いよく家を飛び出してお嬢様という肩書きを捨て騎士の出で立ちに身を包み、日々の鍛錬で培った槍術で最愛の兄とその妻を守るために旅に同行しているという、二人揃ってものすごく猪突猛進な兄妹だった。
幸か不幸か、その三文芝居をセルゲイは信じた。そして話を聞いていると、今もまだ信じているらしい。
策略渦巻く上層部の世界に多少なりとも関わっているのにもかかわらず、大変純粋な方だといっそのこと感服する。
驚くアリーシャを横目に、あらぬ方向を向いたままスレイは照れくさそうに頬を掻いた。
「でもさ、それ聞いた時に思ったんだ。やっぱオレは良い兄にはなれないかもって。だってさ、本当だったら無理しちゃいけないって言わなきゃなのに、アリーシャについてきてほしいって思ってるんだ」
困ったように眉尻を下げて、兄失格だよねと苦笑したスレイを、アリーシャは目を大きく見開いて見つめる。
「あ、アリーシャのことはもちろん大切だよ。大事な友達だし、危ない目に遭ってると思うとすごく心配だし」
だからさ、と気恥ずかしげな笑みを向けて、スレイは告げる。
「アリーシャが一緒にいたいって言ってくれて、正直言うとすっごく嬉しいって思っちゃった」
その笑顔と言葉に、アリーシャは思わず彼を見上げたまま息を呑んだ。
スレイの嘘偽りのない言葉が徐々に胸の奥に浸透していくのを感じる。それにつれて、顔に熱が集まっていくのもわかった。
熱くなる頬と共に身体も硬直する。しかし、固まった四肢はすぐに力が抜けはじめて、脱力した身体のままに目の前の両手にこてんと顔を伏せた。
「君という人は……」
「えっ、あれ?どうしたの、アリーシャ?」
オレ変なこと言った?と狼狽える声が頭上から降ってきて、アリーシャは笑うのを堪えていた口元をふ、と緩ませた。額を三つの手に押しあてながら、いや、と緩く首を振る。
「私も、妹失格みたいだ」
照れくさい。くすぐったい。けれど、嬉しい。
スレイのことだから深い意味はないだろうが、それだけに大事だと思ってくれているのも、心配してくれているのも彼の素直な気持ちなのだとそのまま受け取ることができる。
こんこんと湧き水のように込み上げる歓喜に、堪え切れずに笑みを零す。
どうやら自分は、どうしたって守られるだけの存在では満足できないようだ。
ゆっくりと表を上げたアリーシャは、困ったような、それでいて嬉しそうな感情を含ませて笑う。それを見たスレイもつられて、同じような表情で笑った。

『ワタシの目の前で兄妹について語るなんていい度胸ね』

しかし、突如アリーシャから聞こえてきたうんざりしたような少女の高い声に、二人して跳び跳ねる勢いで身体を震わせた。
「まったく…見てられないよ…」
呆れた声が背後から落とされる。スレイが振り向くと、親友が心底まいったと言わんばかりに額に手を当ててがっくりと肩を落としていた。心なしか、普段は青白い程の頬が僅かに赤みを帯びているように思う。
その後ろでは、ライラが広げた紙葉を口元に寄せて微笑ましそうに自分達を眺めていた。
気付いた途端、何となく居心地が悪くなって、スレイは苦笑しながら頭に片手を回す。目の前にいるアリーシャは彼らの姿が見えないためか、気付くことなくエドナに対して必死に弁明していた。
兄のことで辛いことを思い出させてしまっただろうかとスレイも様子を窺ったが、頭から響く彼女の声はもういつものからかうそれになっていた。
それほど気にしていないようで、小さく安堵の息をつく。
『……もういいわ。それよりお腹空いたんだけど』
それに気付いたらしい。エドナはアリーシャをいじり倒すことを止めたかと思うと、彼女から出てきてスレイのことを半眼で睨めつけた。
余計なお世話、ということだろうか。苦笑いしながら、心の中で小さくごめんと謝る。
少し離れて彼らを見守っていたライラが、静かに傍に来てアリーシャの名を呼んだ。唐突に話を切られてきょとんとしていた少女は、彼女の呼び掛けに慌ててはいと答える。
「その紙葉は、大体一日程度は効果がもつそうですわ。また明日、新しいのを作っておきますね」
「ライラ様…ありがとうございます」
膝の上に乗せていた紙を大切そうに右手で触れて、アリーシャはライラがいるだろう場所に向けて頭を下げる。
人間が作ったものでも、天族が自身の霊力を注ぎこめば人間には見えなくなくなり、逆に見えるようにすることも可能だという。
ライラからもらったこの紙葉から穏やかな温もりを感じるのは、彼女の霊力が注ぎこまれているからなのかもしれない。
「さ、行こう。もうロゼたちは待ちくたびれてるんじゃないか?」
スレイの肩をぽんと叩いて、ミクリオが部屋の扉へと向かう。部屋の壁に立てかけてある時計を見遣って、もうこんな時間なのかとスレイは驚いた。
「っ!早くしないとドラゴ鍋のおかわりがなくなってしまいますわ!」
「昨日あれだけ食べたのに今日もおかわりするつもりなのか…」
突然はっとして切羽詰まった声で愕然と言ったライラに、ミクリオはげんなりした様子で呟く。
確かに名物だし味も本当に美味だったが、昨夜の女性陣の脅威の食べっぷりで、今日もさらに食べるつもりなのか。
「そんなに食が細いからミボはヒョロいのよ」
「ちゃんと出た食事の分は食べてるんだから普通だろ!君たちの食べる量が異常なんだ」
「あら、普通でその体格なら、尚更もっと食べた方がいいんじゃないの」
「別に、そんな無理してまで食べなくても……」
「だからスレイより背が――」
「関係ない!!」
一方的な口喧嘩をしながら出ていくミクリオとエドナの後ろを、ライラがくすくすと笑いながらついていく。
「オレたちも行こっか」
「ああ。……正直言うと、もうお腹がぺこぺこだったんだ」
恥ずかしそうに笑いながら立ち上がったアリーシャに、実はオレも、と笑いかける。安心したせいか、さっきから空腹感が襲ってきて腹の虫が鳴ってしまいそうだった。
廊下を歩いていると、横からかさりと乾いた音がした。何気なく目を向けると、アリーシャがライラから受け取った紙葉を丁寧に折りたたんでいるところだった。
白い手の平に収まった紙を見て、そうだ、とスレイは声を上げた。いいことを思いついた。
「今度お守り袋作ってあげるよ。それに入れてれば、きっと失くさないよ」
「お守り袋?」
「うん。これくらいの小さな袋。イズチだとそれに加護を掛けて、魔除けとか願掛けにしてるんだ」
そう言って人差し指と親指で小さな四角を作る。自分の手を興味深げに見つめるアリーシャに、スレイは更に詳しく説明をした。
使う生地には沢山の色や柄があること、口を紐で閉じるときは特別な結び方をすること、その結び方にも意味があることなど、スレイが知る限りの知識を披露すれば、アリーシャは驚きと感心の入り混じった相槌を打つ。
「あ…だが、特殊な結び方だと、自分で結べるかどうか…」
「それくらいオレが教えてあげるよ。ちょっと難しいけど、アリーシャが覚えるまでちゃんと付き合うからさ」
それを聞くや否や、アリーシャは勢いよく顔を上げて、透き通った翡翠の瞳を期待にぱっと輝かせた。
宿のランプに照らされた少女の、花が咲いたようなその笑顔に、スレイは思わず見とれてしまった。
「本当か、スレイ!是非とも教えてほしい!」
彼女の弾んだ声音にはっとして、嬉しそうに両手を組んだ彼女に向かってうん、と頷いた。遅れて湧いてきたくすぐったいような感情に、自然と口の端が上がる。
「どうせなら一緒に作る?お守り自体は簡単に作れるからさ」
頬を紅潮させてこくこくと頷くアリーシャに、どんな色がいい?と問いかける。顎に指を添えて真剣な表情で悩む少女を見つめながら、自分も何色にしようかなと頭の中に色を並べ立てる。そういえば、何を祈願するかも考えなければ。
これも後でアリーシャと相談しようと決めながら、スレイは浮き立つ心のままに楽しそうに微笑んだ。



◇   ◆   ◇   ◆

薄暗い闇の中、雨音だけが鼓膜を揺らす。
ざあざあと雨の音が響く。降り注ぐ雫が、街の石畳に落ち、その下に広がる大地へと染み込んでいく、その音さえ捉えられそうだ。

巨大な黒耀の輝きを放つ石碑に祈りを捧げながら、女は静かに雨の奏でる音を聞きいっていた。
ついにハイランドとの間にあった、危うい均衡が崩れた。あの戦争を火種に、両国は領地を巡り、争い始めるのも時間の問題だ。
静かに瞼を上げ、小さく溜め息を吐く。
また、民が傷付き、苦しむ。ペンドラゴ周辺はともかく、ローランスは決して豊かな国土ではない。戦争が長引けば、貧しさに飢える村も現れることだろう。
それだけは回避しなければならない。この国を、故郷の二の舞にはさせたくはない。
何とかしなければ。ローランスの王はまだ幼い。頼られることはあっても、頼ることはできない。
己だけが頼りなのだ。

私がローランスの民を導かなければ。
私が和平の道を切り開かなければ。

ざわりと、周囲の空気が震える。
渦巻くような流れに、陽炎のような何かがゆらりと揺れた。
それはおぞましく蠢き、歓喜に打ち震えるような音を鳴らす。

私だけが唯一、民を救えるのだから。

「枢機卿」
ふいに背後から、扉を叩く音が聞こえた。祈りを中断して入るように促せば、そこには肩に傷を負った男の姿があった。
「申し訳ありません。返り討ちに、あいました…」
そう報告した男は、剣を持ったまま悔しそうに打ち震えている。俯く彼に静かに近付いて、そっと負傷していない側の肩に触れる。
「いいえ、貴方はよく健闘なさいました。さぞ疲れたことでしょう。今は傷を癒しなさい」
驚いて顔を上げた男に向けて穏やかに微笑むと、感極まった様子でもう一度謝罪を繰り返す。
彼に労いの言葉を掛けながら、鎧に身を包んだ偉丈夫のことを思い浮かべる。
騎士団の長を務めるだけあって、やはり腕は確かなようだ。彼の切られた傷痕が何よりの証拠だった。
「それと、もうひとつご報告が」
あの騎士団の処遇をどうするか思案していると、気を引き締め直した男が再び口を開く。
彼が話した内容に、僅かに目を見開き、そうしてゆっくりと目を細めた。
わかりましたと答えて、今日はもう休むように促す。恭しく頭を下げた男が音を立てずに扉を締めてから、また石碑へと身体を向ける。
紅を引いた唇に、うっそりとした微笑みが浮かぶ。
ああ、やはり己の宿命は、この国を導くことなのだ。そうでなければ、この運命的な偶然は何なのだろうか。
ゆらりと、黒い欠片が浮かび上がる。まるで女を中心とするかのように、それが波紋の如く波打った。
天族がいれば、その正体に気付いたことだろう。その欠片は彼らにとって毒であり、異形に変えてしまう恐ろしいものなのだから。
だが幸か不幸か、ここには誰も、天族はいなかった。
「これも、神のお導きでしょうか…」


導師が、来る。




「早速だがスレイ、作り方を教えてほしい!」
「もう!?や、まだ材料もないし…」
「なら、今から買いに―――」
「わわわ、アリーシャ待って!今の時間もうお店空いてないから!」
「そ、そうか…。すまない、天族の方の文化と聞いたら、いてもたってもいられなくなってしまって…」
「あはは…焦らなくても、一緒にいればいつでも教えられるからさ。布とかも、ちゃんとアリーシャが気に入ったのを選ぼうよ」
「…ああ、そうだな。その時は、スレイも共に選んでくれないだろうか?」
「もちろん!選ぶのも楽しいよ、きっと」
「おーい純心培養天然二人―。早くしないと二人のご飯ライラが食べちゃうよー」
「純心培養?」
「天然?」
「ろ、ロゼさん!私そんなに欲張って食べませんわ!」
「…おい、その目の前の盛りに盛った皿は俺の錯覚か?錯覚なのか?」
「僕にも見えるけど…」
「いいからさっさとなさい。鍋が冷めるまでに座らないと、本当に一口も食べさせないわよ」
「「い、今行きますっ!」」





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