もしもの物語-12-



今でも時折、思い出す。
誰にも語ることのできない、少し、ほんの少しだけ、前のこと。

晴れやかな青空、清々しいほどに澄みきった空気。
けれど胸の内は正反対なほど曇っていて…泣きだしてしまいたい衝動を、必死で堪えていた。

―――ライラ、君も一緒に来ないか?
ひどく穏やかな声と共に、差し出された白い手のひら。
紋章が輝く黒い手袋を外したその手が抱えていたのは、ひとつの夢の終わりと、そしてひとつの夢の始まり。

何故あの時、その手を握らなかったのだろう。
何故あれから気にかけて、かの地に訪れなかったのだろう。
心配だった。謝りたかった。感謝したかった。話したかった。
その想いすら、焼き払ったわけではなかったのに。

私のせい。
世界に災いが降りかかったのは。
私のせい。
友が、取り返しのつかない事になってしまったのは。
だから、己が胸に固く誓う。
もう二度と、同じ過ちはおかさないと―――――


◇   ◆   ◇   ◆


遺跡の至る所に、陽炎が激しく立ちのぼる。
多くは薄暗く、埃が舞っている場所であるはずの古代の遺跡は、寧ろ宿の灯りとは比べものにならないほどの強烈な光と熱さが充満していた。
室内の壁の至る所に赤い結晶が張りつき、ぽっかりと空いた中央から漏れ出る赤い光に照らされている。中央が淡い黄色に輝く様は、まるで炎がそのまま結晶化したようだ。
元は白であっただろう煤けた壁を見回しながら、スレイ達は蒸し風呂のような熱さが満ちる遺跡、イグレインを探索していた。
「しっかし、ここが試練の神殿なんてすごい偶然だよね?」
パタパタと首元のスカーフをあおぎながら、ロゼは忙しなく辺りを見渡す。彼女は幼い時に風の傭兵団――現セキレイの羽に拾われ、物心がついた時から様々な場所を旅してきた。しかし、これ程暑いと感じた場所は初めてだった。
比喩でも誇張でもなく、まさに灼熱地獄とはこのことだと思った。
「ワタシは納得。あちこちに赤(せき)精鉱(せいこう)があったから」
気だるげに歩きながら、エドナがぽつりと呟く。聞き慣れない単語に首を捻っていると、そうか、と納得したような少年の声が頭に響いてきて、ロゼはびくっと肩を竦ませる。
そうだった。今アリーシャには、エドナに代わってミクリオが入っているのだ。
彼らが中から語りかけてくることにも段々と慣れてきてはいたが、多少の心の準備はしておかないと未だ心臓に悪い。
『赤精鉱は、強力な火の天響術が発動した後に生成される鉱物だものな』
何とか平静を取り戻して、ふぅん、と曖昧な相槌を打つ。ちらと視線を泳がせて、手身近にあった赤い水晶のような六角柱の鉱石を軽く指で叩く。
こんな宝石のように綺麗な石が、天響術の影響で生まれるというのか。
つくづく天族という存在は摩訶不思議だ。
「強力…ライラの術みたいな?」
両手を後頭部で組みながら、自分達の一歩前を歩く女性に視線を投げる。
間近で彼ら天族の天響術というとんでも技を見てきたが、浄化の炎を操れるだけあってライラの術が仲間内の天族で最も強いとロゼは感じている。火を操れる、というのもあるが、この中で強力な天響術を扱うといったら彼女だろう。
視線の先にいるライラは、しかしその問い掛けにいいえ、と首を振る。
「私程度の炎では、赤精鉱はつくれませんわ」
毛先にいくにつれて紅を染めたような色合いになっている長い銀の髪が、その動きに合わせて舞うように揺れる。
『つまり、ライラ以上の術を使うヤツがいるかもってことか…』
「手強い敵がいるってことだな。上等だ」
ミクリオの言葉にデゼルが続く。にやりと好戦的な笑みさえ浮かべて闘争心が滲ませる彼に、エドナが油断してると火傷(やけど)じゃすまないかもよ、と落ち着いた様子で指摘する。
「これだけ至る所に赤精鉱があるのです。並大抵の相手ではありませんわ」
ライラも旧友の言葉に同意を示して口を開く。
「……どれ程だと?」
「所々にある巨大な赤精鉱から察すると、おそらく火山の爆発レベルです」
「か、火山の爆発ですか!?」
予想を遥かに超えた力に、アリーシャは思わず絶句する。
実際に火山が噴火したところを見たことはない。だが、アリーシャが生まれる以前、北の大国との戦争を停戦状態にまで追い込んだ程の天災だと聞いている。
それ程の天響術が、かつてここで使われたということか。
「…ふん、試練の神殿と名乗るだけのことはありそうだな」
一度は言葉を失ったデゼルだが、すぐに気を取り戻して闘志をみなぎらせた。
アツいわね、と呆れ気味に零したエドナに、ライラはこちらを振り向かないまま頼もしいですわ、とデゼルに賛同した。
「引くわけには、いきませんから」
そう言って、美しい銀髪を揺らしながら、仲間達を先導するようにひとり前へと進んでいった。


「…ライラ、大丈夫かな?」
ライラから少し距離を置いて、スレイが心配そうに小さく呟く。
彼女から、普段の物腰柔らかな雰囲気が消えている。
アリーシャもスレイの言葉に頷き、気遣わしげな面持ちでライラを見つめる。
「どこか張り詰めているというか、気負っているような…そんな空気が伝わって来る」
「うん…あんなライラ、初めて見るよ」
とはいえ、まだ輿入れしてから間もない月日しか共にはいないのだが。
けれど、いつもなら仲間達を見守るように後ろからついてきてくれる彼女が、火の試練神殿とはいえ率先して先陣を切るのは珍しい。
ロゼも、後ろに組んでいた手を戻しながら確かに、と同意する。
「あれだけ大好きなアルマジロにも食いついてこなかったし」
「…それって、ファイアーボールのこと?」
「そうそれ。赤マジロ!」
ぱちん、と指を鳴らして明るく略称を付ける少女に、スレイ達は苦笑いする。
だが、彼女の言っていることは同意見だ。マルマリストを自称するライラが、いつもアルマジロ種を見つける度に殊更詳しく解説しはじめる姿を何度も見てきた。
なのに、火の玉と化して特攻してきたその憑魔と遭遇しても、彼女は真剣な表情を崩さないまま紙葉を彼らに飛ばしていたのだ。
それを指摘するのもはばかれるほど、緊迫した空気を発して。
「ライラの力になれること、何かないのかな…」
先へと進む主神の後ろ姿に、スレイは憂いの色を乗せた眼差しを送る。こういう時、ライラだったらどんな言葉をかけてくれていただろうか。
何だか、導師になってからの方が無力感に打ちひしがれてばかりな気がする。
「ま、考えても仕方ないんじゃない?」
一体どうすればいいのか。段々と気が沈みはじめた頃、そんなさっぱりとした声音が聞こえてきた。
顔を向ければ、そこには赤髪の少女があっけらかんとした顔でゆっくりと歩を進めていた。
「仕方ないとは…ライラ様を、このまま放っておけと言うのか?」
その言葉に、アリーシャは声量を抑えた声で怒りを滲ませる。それは少しばかり冷たすぎはしないか。
しかし、ロゼは彼女の問いを違う違う、否定を示す。
「ライラが自分から話すつもりないなら、あたしたちが悩んでても意味ないっていうか」
訝しげに眉をひそめる少女に、アリーシャはどう?と問い返す。
「人には相談できない悩みとかさ。そういうのない?」
ロゼの問いに、アリーシャはあっと声を上げる。その反応を見た赤髪の少女は、でしょ?と話を続ける。
「だったら、ライラが言ってくれるまで待ってようよってこと」
にっと笑ってそう告げたロゼに、アリーシャは込み上げてきた怒りをおさめて、気まずそうな顔で目を伏せる。
「そう、か…」
彼女は決して、ライラのことを見捨てろと言っている訳ではな かった。
早とちりをしてしまった情けなさと恥ずかしさで、思わず顔を伏せる。けれど、一拍の間を置いてから顔を上げて、もう一度ロゼを見つめ直す。
「誤解をしてしまって、すまない」
バツが悪そうな顔で謝るアリーシャに、ロゼは気にしてないよと笑って返した。
「あたしってどうも言葉が足らないみたいでさ。だからアリーシャみたいに時々お客さん怒らせちゃって、エギーユ達にどやされるのよ。『お前の言い方はド直球過ぎる!』って」
耳にタコなのだろう。心底飽き飽きだと言わんばかりに肩を竦めるロゼに、すまなそうにしていたアリーシャは小さく笑う。
「だからさ、今回はおあいこってことで」
淡く微笑む少女に、ロゼもにやりと口の端を上げてそう言い添える。
その言葉にアリーシャは虚をつかれたようにまばたきをして、 それから安堵したように目を細めて頷いた。
二人のやり取りを微笑ましく眺めていたスレイは、しかしふいに深緑の瞳を悲しく揺らめかせる。
「……言ってくれないのは、オレが頼りないからもあるのかな?」
自分が未熟だから、話してくれないのだろうか。
悔しげに俯いたスレイに、ロゼは再び表情を引き締めてそれも違う、と強い口調で断言した。
「スレイがどうとかじゃなくて、多分ライラは自分で解決しなきゃいけないことだーって思ってるんじゃないかな」
「そう、なのかな…」
「少なくともあたしにはそう見えるよ。それにほら誓約…だっけ?なんかダイエットみたいなこともしてるし」
『誓約とダイエットを同じ扱いにするのはどうなんだ…』
ミクリオの呆れ気味のツッコミに、スレイとアリーシャは少しだけ苦笑いを零す。確かに自戒するという点では同じだが、ダイエットと並べると一気に言葉の意味が軽くなった気がしてくる。
「とにかく、あたしが言いたいことは」
ロゼはきらりと目を光らせながら言葉を切って、半歩下がった状態でスレイに近付く。
「くよくよすんなってこと!」
「いっったぁっ!?」
バシン!!と大きな音が鳴るほど背中を引っ叩かれ、スレイは予想だにしていなかった不意打ちに素っ頓狂な悲鳴を上げる。
あまりの衝撃に前に倒れそうになるのを咄嗟に踏み出して何とか留まっていると、背後からちょっと強すぎたか、という声が耳に届いた。ちょっとどころじゃない。全然ちょっとじゃない。
「スレイさん!?」
その情けない声に、今まで前を向いていたライラが驚いたように振り向いた。そこで仲間達から距離が開いていたことにようやく気付いたらしい彼女は、慌ててぱたぱたとスレイ達の元へ戻る。
心配そうに瞳を揺らすライラに、スレイは大丈夫、と痛みにやや顔を引き攣らせながら笑う。
「ロゼが思いっきり背中叩いてきたから、びっくりして…」
若干恨めしげな視線をロゼに送るが、まったく堪えた様子もなくごめんごめん、とあまり悪いと思ってなさそうな軽い謝罪が返ってきた。
「スレイがなよってたから、一発気合入れようと思ってさ。ライラもやる?」
「こ、心遣いだけで充分ですわ」
にこにこと愛想のいい笑みを浮かべながらぶんぶんと物騒に肩を回す少女に、ライラはそろりと一歩後ろに下がって丁重な断りを入れる。
「フン、女の一発でよろめくとは、まだまだだな」
『いや、ロゼの一発は普通に吹っ飛ぶから…』
「ミボなんて押されただけで無様に転がっていたものね」
にやりと皮肉交じりの笑みを浮かべたデゼルにミクリオがツッコむと、エドナもデゼルと同じような表情を浮かべてそう言った。
小さな少女の入れてきた横やりに少年はひくりと言葉を詰まらせ、しかし懸命に平静を取り繕う。その時点で充分に面白がられていることに気付くのは、いつになることだろう。
『…エドナなら、壁の向こうまで飛ばされてただろうな』
「その前にかわすわね。未熟でひよわなミボと違って」
『くっ!スレイだって殴られて昏倒したほどの力だぞ!』
「だ、大丈夫です!もしもの時は私がミクリオ様をお守りします!」
彼らの会話に口を挟み、凛々しくそう宣言したアリーシャの少しずれた返答に、エドナに言い募っていたミクリオはがっくりと肩を落とした。確かに彼女は頼もしいが、違う、そういうことじゃない。
『…アリーシャ、気持ちはありがたいんだけど、フォローになってないよ…』
「え…あっも、申し訳ありません!ミクリオ様をお守りするなど、私にはおこがましいですよね…」
『いやそうじゃなくて――――』
「そうだ、そもそも姫さんがこいつの攻撃を受け止めきれるかわからんぞ」
『そういう問題でもない!』
「ちょっと!あたしを筋肉バカみたいに言うなっての!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎはじめた彼らを、スレイはぱたぱたと手で顔を仰ぎながら傍観する。
「…みんな、元気だなぁ」
おかげで先程まで感じていた暗い気持ちも吹き飛んでしまった。だが、立っているだけで汗が噴きだしてくるというのに、この熱気の中で言い争いでもしたら喉まで嗄れてしまいそうだ。
かくいうスレイも神殿に入るなりミクリオやアリーシャと興奮気味に遺跡談議を繰り広げていたのだが、今この場にはお前が言うなと指摘する者は残念ながらいなかった。
少しの間仲間達の騒がしいやり取りを楽しんでから緩んだ頬を引き締めて、ライラの様子をちらりと窺う。
会話に入らずにいた彼女は、やはり思い詰めた様子で下を向いていた。
「……ライラ、どうしたの?」
声をかけるか否か迷って、声をかける方を選んだスレイは、できるだけ普段の声色を意識してライラに話しかける。
するとライラは、意識が別の場所へ飛んでいたことがはっきりとわかるほど肩を跳ねさせて顔を上げた。
「は、はい、何でしょうか?」
「あ、えっと…」
慌てて笑顔を取り繕う彼女に、スレイはもう一度同じ問いを繰り返そうとして、やめる。
自分が頼りないのであれ、ライラ自身が気負っているのであれ、今は尋ねても無理をさせてしまうのかもしれない。
「ううん。秘力の試練、頑張らないとなって」
だから軽く首を振って、代わりにそう言って笑う。
フォートン枢機卿を凌(しの)ぐ力を…災禍の顕主に対抗できうる力を手にすれば、導師を待ち続けていた彼女もきっと、少しは安心して頼ってきてくれるかもしれない。
いつだって自分達を陰ながら、まるで陽光のような暖かさでそっと背中を支えて、見守ってくれる。
自分だって、そんなライラの力になりたいのだ。
「…そうですわね。必ず、秘力を手に入れましょう」
それを聞いたライラは一瞬目を見開いて、それからぐっと胸の前で拳を作ってしっかりと頷いた。


◇   ◆   ◇   ◆


台座に浄化の炎で火を灯して、扉やドラゴンを模した像の仕掛けを解いていくうちに、神殿内は益々熱さを増していった。
渦巻く熱気に全身を叩きつけられながら少しだけ視線を下にずらせば、粘度のある形を持った炎が獲物を狙う猛獣の如くうごめいていた。
真紅と金色に交互に代わるマグマの海は、まるで生命の鳴動のようで、照りつける熱とは裏腹にうすら寒くなる。
「火の神殿…あつすぎ…」
鈴を鳴らしたような可愛らしい声音が、とうとう苛立ち混じりの愚痴を零しはじめた。彼女のトレードマークである大きな傘も、足元で煮えたぎる溶岩に対してはあまり効果がないようだ。兄のお古だというエドナが吐くにしては大きいのブーツも、今は熱がこもる一方なのではないだろうか。
「マジあつ…服脱ぎたい…」
げんなりとした様子でロゼもエドナに続く。
先程、この熱さの中であれだけ大騒ぎしたのだ。疲れて当然だろう。
「なっ…!お前、本当にやるんじゃないぞ!」
それを聞き逃すはずのない人物は、案の定ロゼの台詞に絶句して勢いよく食いついてきた。
「え〜…上着も?」
「駄目だ、みっともねぇ!」
親か。そんなツッコミがこの場にいる全員の頭によぎる。しかしそれを指摘する気力も体力もあまりない。
それはロゼも同じようで、いつもより大分覇気のない声音でデゼルと言い合っていた。
「アリーシャ……は、そんなに暑くなさそうだね」
とめどなく湧いてくる汗を拭いながら、もう一人の少女に大丈夫かと声を掛けようとして、スレイは目を瞬かせた。
長槍を抱えるように携えて歩いていたアリーシャは、予想外に涼しげな表情をしていた。彼女自身も戸惑っているようで、困ったように眉尻を下げてこくんと頷く。
「そうなんだ。自分でも不思議なほど、暑さを感じない」
彼女が歩いた拍子に、カツンと無機質な金属音が耳に届く。
腕と足だけとはいえ、アリーシャは仲間内で唯一鎧を身につけている。鎧の耐熱性の有無はともかく、自分達に比べて熱がこもりやすいのではないかと思っていた。
そう思っていたのだが、寧ろ彼女が一番平然としている。
「ミクリオのおかげかな?」
視線を彼女に向けたまま、スレイは親友に問い掛ける。彼は水の天族だからという安直な理由での質問は、頭の中でいや、と本人自身から否定された。
『特にこれといって、何かしてる訳じゃないが…』
ミクリオ自身も怪訝そうな声色で呟く。姿が見えなくても、顎に指を添えて真剣に物思いにふける友の姿が容易に想像できた。
『なら、相性がいいのかもね』
「……エドナ、いつの間にオレの中に…」
『マグマあつい歩くのメンドい』
知らぬ間に中に入りこんでいた少女に驚いて頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、即行かつぞんざいな答えが返ってきた。
スレイは乾いた笑い声をもらしながら、なるほどね…と相槌を打つ。
そういえば、器の中に入っていれば雨風は凌げるようなことを以前に言っていた気がする。普段は特に気にならないが、こういう時はちょっと羨ましい。暑いだけならまだいいが、肌を焼かんばかりに照りつける溶岩の熱波はスレイでも辟易していた。
けれど、今はそれよりももっと興味が湧くこと聞いた。
「相性って、属性の?」
「人にも、属性や相性というものがあるのですか?」
スレイに続いて、アリーシャも同じような疑問を口にする。
人間にも属性がある。それは今まで聞いたことのない話だった。
『別に不思議な事じゃないわ。属性は万物に宿るものよ。魚は水、鳥は風って感じでね。人間だって同じよ』
「そうなんだ…」
自分は、天族のように火を生み出すことも風を操ることもできない。それは人間からしてみれば当然のことであるが、幼い頃はミクリオやイズチの皆とのそんな違いが不思議で不満で、どうしようもなく悲しかった時期があった。
それでも彼らは分け隔てなく接してくれたから、今はただの種族の違いとして受け止めることができている。
だから、何となくそれをたやすく覆された気分になって、スレイは呆けたように己の両手を見つめた。
『まぁ、人間は天族や動物に比べて色々と混ざってるから、何の属性とは言えないけど。ただ、得手不得手は確実に存在するわ』
『それが相性ってわけか』
そう、とエドナがミクリオの言葉を肯定する。
確かに、エドナの言う通り、考えてみれば当然のことなのかもしれない。人だって、自然の一部だ。
『気付いていないようだから言っておくけど、ミボが入ってからこの子、一度も倒れていないのよ』
そういえばそうだ。スレイは思わずアリーシャをまじまじと見つめる。彼女自身も今気付いたようで、大きな瞳をさらに見開いて驚いていた。
「ですがそれは、エドナ様がずっと入ってくださっていたからでは…」
『それもあるけど、ワタシの主な力は地の属性。同じ霊力とはいえ、属性が異なるものが流れ込んでくれば身体が何かしら抵抗してもおかしくはないはずよ』
「そっか…言われてみれば、確かにそうだよな」
頷きながら、スレイはなるほどと納得する。
今の今まで知らなかった事実だが、自分達にも天族と同じように属性が宿っているのだとしたら、得意も苦手も人それぞれにあるのも道理だ。
(……ん?)
ということは、つまり―――――
『アリーシャは、水属性の霊力が身体に通りやすいのかもね』
さらりと、さり気ない口調でエドナがそう言った。
『…そう、なのか…』
『あら、何を喜んでるのかしら?』
少しの間を置いて小さくそう零したミクリオに、エドナが愉快さを隠す事もなくそう問い掛けた。
『なっ、み、妙な言いがかりはよせ!』
「私も嬉しいです。相性がいい属性がミクリオ様と同じなんて、とても光栄です!」
『あ、いや、その……僕の方こそ――――』
『そう、そんなにアリーシャと相性が良いのが嬉しいのね』
『その言い方はやめろっ!』
敢えて意味深に思わせるような言い回しを使っただろうエドナに、ミクリオは激しく抗議する。
しかしその程度でエドナが黙るはずもなく、寧ろ一層楽しげに年下の少年をからかう。
『ムッツリミクリオ。略してムッツリオね』
『うるさい!というか名前より長くなってるじゃないかそれ!?』
『ならムミ』
『なら、じゃない!』
「え、エドナ様…ミクリオ様も落ち着いて…」
突然というか相変わらずというか、いつものように言い争いへと発展した二人を止めようと、アリーシャは狼狽しながら声をかける。
ただでさえエドナは先程の騒ぎで疲れ切っていたのに、また体力を消耗してしまうのではないだろうか。
「スレイ、君からもお二人に…」
おさまる気配のない口論に困り果てたアリーシャは、スレイにも口添えしてもらおうと視線を向ける。
だが、エドナが中にいるはずの彼は、呆然とした様子で立ちすくんでいた。
「スレイ…?」
アリーシャは目をしばたかせる。この盛大な口喧嘩が聞こえていないのだろうか。
不安になって、彼の顔を下から覗くように見つめてもう一度呼び掛ける。
すると、ようやく気付いたスレイは目の前にいたアリーシャの顔を見つめて数度まばたきをして、それからへっ!?と素っ頓狂な声を上げて勢いよく身体を仰け反らせた。
あまりの驚きように、アリーシャも思わずぎょっとして姿勢を元に戻す。
「ご、ごめん、何?」
「い、いや…呼んでも反応がなかったから、心配になってしまって…」
あからさまに慌てふためくスレイに、躊躇いがちに返答する。
「う、うん、大丈夫。ちょっとぼーっとしちゃってただけ」
両手を振って上擦ずりながら笑う少年に、アリーシャは気遣わしげな表情を向ける。確かに、顔が明らかに赤い。熱中症だろうか。
『平気か?まぁこの熱さじゃ、流石にまいるか…』
いつの間に口論が終わっていたのか、彼を案じるミクリオの言葉に、アリーシャも更に眉尻を下げて心配そうにスレイを見る。
しかし当の本人は困ったように笑って大丈夫だよ、ともう一度繰り返した。
『怪しいな。スレイはいつも変に溜めこむから』
「本当に大丈夫か?辛いなら我慢せずに言ってほしい」
身長差ゆえに自然と上目遣いで顔色を窺われて、スレイは妙にざわつく鼓動に戸惑いながらも本当に、と笑顔を見せる。
「ちょっとぼんやりしてただけだからさ。それに試練に挑戦する前にバテちゃってたら、秘力なんてもらえないだろうし」
「だが…」
「スレイー!ここ、あんたの力がないと開かないみたい」
しかし唐突に聞こえてきたロゼの呼び掛けに、スレイは内心で胸を撫で下ろした。広い遺跡を見回し、揺らめく熱気のその先に視線を向ければ、大きな扉の前でロゼとライラが佇んでいた。
デゼルがいない所を見るに、ロゼに入っているのだろう。風でも操っているのだろうか。
「あ、うん!今行く!」
未だ納得しきれていない表情のアリーシャに行こう、と声を掛ける。ロゼ達の元へ早足で向かうと、少しの間を置いて、靴が床を蹴る無機質な音が聞こえた。
アリーシャがついてくる気配を背中に感じながら、スレイは小さく息を吐いた。
誤魔化したつもりはなかったが、どこか後ろめたい気分が湧いてきて己の頬をぽりぽりと掻く。
(なんか…もやもやする…)
まるで胸の奥に大きな重石を唐突に投げ入れられたような、あまり心地が良いとは言えない感覚。
エドナの話を聞いていたら、何の前触れもなく重たくて苦い感覚が込み上げてきて、今も奥底で燻っている。
重たいような、息苦しいような。けれどその理由はよくわかってない。それにさっき、アリーシャに声を掛けられるまで、自分は一体何を考えていたのだろうか。
「何だろう、これ…?」
無意識にぽつりと独り言を呟いて、胸の辺りをさする。
何かがあるのに掴めない。まるで靄のようだ。
これまでに感じたことのない気分に、スレイはしきりに首を傾げるが、再びロゼに早くと呼ばれて開かずの扉へと急いだのだった。


◇   ◆   ◇   ◆


ごうごうと唸りを上げて、マグマが躍る。飛び上がった溶岩が偶然岩肌に当たり、じゅっと大きな音と煙を上げて壁を焦がす。
まるで、何かを封じ込めるために作られた閉鎖空間。天響術が施された仕掛けを解き、地下へと移動する床から下りて辿り着いた部屋を見た瞬間、そんな感想を抱いた。
原初の火を生み出し、世界の始まりと終わりの時に出現するといわれている火の五大神、ムスヒの神殿。
その最奥にいたのは、ムスヒに使える護法天族(ごほうてんぞく)だと自身を称した、エクセオという名の天族だった。
「…契約の刻印(こくいん)?」
燃え盛る灼熱の炎を刀身に纏った己の儀礼剣に目を眇めながら、スレイは目前に佇む存在に同じ言葉を繰り返す。
甲冑を纏い、ドラゴンを彫り込んだ盾に赤銅色の両刃剣を持った天族は、どこか皮肉げな声音で簡単なこと、と牙がぞろりと生え揃った口を開いた。
「その炎で自分か、火の契約天族の顔を焼けばよい」
力の試練は合格だと、そう言った直後に告げられた秘力を宿す契約方法に、その場にいた全員が絶句し凍りついた。

「案ずるな、死にはしない」
導師の力量を推し量るため、憑魔に化けた天族は大したことではない、と言外に告げる。
「そう言う問題じゃないだろう!?」
その声に、いち早く我に返ったミクリオは眉を吊り上げてエクセオに言い募った。
力を求める代わりに、自分か仲間を傷付ける。それがスレイにとってどれほどに酷なことか知っている。それをやれと言うのか。
だが、エクセオは感情の見えない無機質な声音でお前たちが望んだ結果だ、と若き天族の言葉を一蹴する。
蛇に似た瞳で上から見下ろされ、その威圧感にミクリオは思わず言葉を詰まらせた。背後にいる仲間達も、武器を構えたまま微動だにできない。
エクセオはふん、と鼻を鳴らし、唖然と炎に包まれた儀礼剣を凝視する導師に再びその眼光を向ける。
「答えよ導師!汝は、その炎を何物に向け、何物を消滅せんとす!」
地鳴りのような低い声を張り上げて、溶岩を固めたような赤黒い羽を広げたエクセオは気迫を込めてスレイに言い放った。
「オレ、は…」
その声をどこか遠くで聞いているような錯覚を覚えながら、スレイは無意識に呟く。
この剣で、自分かライラのどちらかの顔を焼く。それが秘力を宿すための契約の刻印。
炎やマグマの熱のせいだけではない汗が、こめかみから流れ落ちる。
ライラを傷付けるなんてもっての他だ。この剣は、仲間に向けるために握ったものじゃない。
憑魔を浄化するために、夢を叶えるために、人と天族を救うために、祭壇から剣を抜いた。
――――けれど。
スレイは苦しげに目を細めて、ぐっと奥歯を噛み締める。
けれど、ここで秘力を諦めてしまったら、自分はいつまでも皆の力になれない、無力な導師のままだ。
力がないから、従士契約の反動でアリーシャを傷付け、皆を困らせてしまった。
力がないから、災禍の顕主にも枢機卿にも、鎮めるどころか対峙することもできなかった。
ルナールに襲われたマイセンのことも、霊峰で風の天族に殺された、憑魔化した名も知らない天族のことも。
みんな、みんな、自分が非力だったから。
ごくりと生唾を飲み込んで、己の儀礼剣を見つめる。
死にはしないと、エクセオは言った。ひどい火傷を負うだろうが、その代償に火の秘力が手に入る。

――――力が欲しい

強大な憑魔に対抗する力。誰かを護ることのできる力。
何者にも負けない、そんな力が。
「オレは――――」
その力が、自分の身一つで手に入るのなら。
苦渋の顔で刀身を見つめていたスレイは、やがて力の限り剣の柄を握りしめて、近付くムスヒの炎に覚悟を決めてきつく目を瞑った。


「――――いけません!スレイさん!!」
だが、その刹那。
悲鳴じみた声が鮮明に耳に届き、顔に近付けていた儀礼剣が強い力で引き止められた。


◇   ◆   ◇   ◆


ずっと、後悔していた。
ずっと、己を責めていた。

災厄の時代がはじまったこと。
大切な友を失ったこと。
私のせい。そう幾度となく自身を糾弾し、けれどもう現実は変わることはないのだと悲嘆にくれ、打ちひしがれる。
そのような詮ないことを、ずっと繰り返していた。
今ここにいるのは、罪滅ぼしのためなのかもしれない。
取り返しがつかなくなったことを、償いたいという願い。
もしかしたら赦してほしいとも、心のどこかで思っていたことも否定はしきれない。
けど、決してそれだけではない気持ちが、今はある。

―――オレは『導師』になる!この身を君の器として捧げ、宿命を背負う!
終わることのない自己断罪の輪を、なんてことはないように断ち切って救いあげてくれたのは、人と天族が共に暮らす世界を夢だと語った、ひとりの少年だった。

だから、もう。
同じことは繰り返さないと。
同じ罪を二度と、犯さないと。

今度こそ、重い宿命を背負うその心を、命にかえても支えてみせる。
そう改めて、己に誓ったのだ。

なのに、この状況は何だ。

導師の使命が災禍の顕主を浄化することならば、主神の使命はなんだ。
自分は何のためにここにいる。何の為にもう一度、導師と契約を交わしたのだ。
――――少なくとも今、この時のためではないのか。

そう思い至った時には、ライラは大きく湧き上がった衝動のままに、スレイが持つ炎の剣に手を伸ばしていた。




「――――っ、ぁあああっ!!」
己の意思とは無関係に、神殿内に響き渡るほどの絶叫が喉を震わせた。
じゅうう…と肉の焼ける音と鼻につく臭いがする。それが自分から出ているものだと、気付いたのは両手を無数の針で突き刺されたかのような激痛が走ってからだった。
「ライラっ?!」
「お願いです!」
近くで、裏返るほどひどく動揺した少年の声が聞こえた。それから剣を引こうとする力。
けれどライラは、離すまいと更に灼熱の刃を握りしめて、涙を湛えた緑玉の瞳をスレイに向け、彼の言葉を遮った。
「ひとりで全部、背負おうとしないでくださいっ…!」
脳裏に、在りし日の青年の姿が甦る。
同じ目的を持ち、共に大陸を巡り、けれどいつの間にか、耐えきれないほどの孤独と重圧に苛まれてしまっていた、ひとりの青年。
「その強さは、必ずあなたを傷付けてしまいます…!きっとまた……」
己の言った言葉が刃となって、胸に突き刺さる。
孤独の強さは、諸刃(もろは)の剣(つるぎ)だ。
その強大な剣は、いつしか誰にも頼らず、頼ることもできず、夢を諦めさせるほどに持ち主の心を折ってしまう。きっと、また――――。
「私は…もう同じ過ちは…っ…」
誰よりも傍にいながら、青年が使命という鎖に雁字搦めにされ、強く輝いていた純粋な想いが折れてしまうまで気付くことができなかった。
ずっと隣にいたのに、独りにしてしまった。
もう自分はそんな過ちを、二度と犯したくはない。
消え入りそうな声で呟いて、けれどなお言葉を連ねようとする己を戒めるように唇を噛んで、無理矢理閉じる。それ以上は、口にしてはいけない。自分の過ちを吐露することは、他ならぬ自分自身が誓約で縛ってしまったのだから。
意識が飛びそうになるほどの痛みと、胸の奥から込み上げてくるやるせなさで視界が滲む。
はらはらと、両の瞳から涙が溢れた。陶磁器のように白い頬から滑り落ちた透明な雫は赤銅(しゃくどう)色(いろ)の床にぽたぽたとしみ込んで、しかしすぐさま室内の熱で蒸発する。
導師の旅は、孤独との戦いだ。
だが、自ら孤独を手にする旅では、決してない。
「ライラ…」
ふいに、押さえていた剣の抵抗がなくなった。ずしりと重みの増した剣を、咄嗟に力を込めて支えようとして――――両腕を掴む優しい手が、それを阻んだ。
焼けただれて皮膚が剥がれかけた無残な手から、刃のない剣が音を立てて床に落ちる。
「…ごめん。オレらしくなかったね」
呼吸一つ分の静寂のあと、穏やかな声音がぽつりと頭上から聞こえた。
その言葉に、ライラははっと勢いよく顔を上げる。上を向いた先には、力強い笑みを浮かべたスレイの顔。
「ひとりじゃ何もできないけど、ライラ達がいてくれる。秘力がなくても、オレには皆がいるんだ」
「…っ、スレイさん…!」
涙に濡れた頬のまま、ライラは込み上げる喜びのままに微笑みを浮かべる。
それは自身と契約した時に見た、深緑の双眸に眩しいほどの輝きを宿した、導師の顔だった。
ライラ、とスレイはもう一度名を呼んだ。彼の意図を感じ取ったライラは、それに応えて強く頷く。
「『フォエス=メイマ』!」
ライラの真名を呼び、火の衣を身に纏う。スレイを中心に聖なる炎が燃え上がり、その熱風が周囲に立ち上る陽炎をかき消した。
「オレが焼くのは――――」
ぐ、と身を低くして巨大な両刃剣を斜め下に構える。刀身から湧きあがる赤い炎が、目が焼けそうになるほどの光を放つ白炎に変わる。
瞬間、全身からとめどなく溢れ出る力に、ライラは目を見開く。
まさか、この力は――――
「こんなことを誰かに強いる、穢れだ!!」
スレイは床を大剣で擦りながらエクセオへ迫り、己が意志を乗せた咆哮と共に左下から右上へその大剣を一閃する。
剣から放たれた灼熱の業火はまるで大蛇のように大きくうねり、エクセオの纏っていた甲冑や盾にからみついて炭化させる。
そのきらめく炎はやがて彼自身をも包み込み、その全てを焼き尽くしたのだった。


◇   ◆   ◇   ◆

「ミクリオ〜、ごめんってば〜」
抜けるような青空の下で、スレイは弱りきった声音で何度もミクリオに謝る。
「やだね。あと少しで僕は消し炭になるところだったんだぞ」
両手を合わせて拝むような態勢で謝ってくる親友を、ミクリオは目を眇めて拒否の言葉を投げつけた。
羽を思わせるような二つに分かれた水色のミクリオのマントが吹き抜ける風に膨らむように広がる。
陽光に照らされたそのマントは、下の部分を見ると確かに焦げ跡が目立っていた。
「だからごめんて…そんなに吹っ飛ぶとは思わなかったんだよ〜」
この通り!と心の底から申し訳なさそうに謝罪するスレイをしばらく睨みつけていたミクリオは、肩を落として小さく息をはく。
先程まで圧倒される程の気迫で秘力の試練を乗り越えた彼と同一人物とは、正直とても思えない。いつものスレイだ。
「そもそも、何でいきなり突き飛ばしたりなんかしたんだ?」
ミクリオは怒りをおさめて問い掛ける。
スレイに謝り続けられながらも頭の中で原因を探っていたのだが、まったくわからなかったのだ。理由もわからず謝られても許すに許せないというか、腑に落ちない。
あのときはアリーシャと二人で話していた。ただそれだけだったはずだ。
「それは、ミクリオの手が…」
「手?」
「顔に…」
「顔?」
まったく要領の得ない返答に、しかし当の本人も自身の発言がよくわかっていない様子で。
「……何でだろう?」
「……何の理由もなく突き飛ばされた挙句死にかけたのか、僕は」
聞きたいのはこっちだと、そう思わざるを得ない疑問符に、ミクリオは半眼になった。
「あ、いや!…えっ、と……ホントごめんなさい!」
がばりと勢いよく頭を下げるスレイに、ミクリオは心底呆れかえった顔で溜め息をついた。

その様子を楽しそうに眺めていたアリーシャは、彼らのやりとりに耳を傾けながら小さく笑う。
「アリーシャ、やけに嬉しそうじゃん」
「そう、だろうか…」
「口元、笑ってる」
そうロゼに指摘され、思わず唇に手を当てて、それから苦笑いを零す。本当だ。思っていた以上に、口の端が上がっている。
「…うん、そうだね。スレイが秘力を手に入れたこともだけど、エクセオ様のお力添えで、私も天族の方々をようやく見ることができたから…」
頬を指で掻きながらはにかんだ笑みを浮かべて、アリーシャはスレイのことを見つめる。

―――エクセオさんは、従士の力が強くなる方法って知らないかな?
秘力が欲しければ顔を焼けという、代償の大きい契約。その真相は、エクセオ自身が考えた作り話であった。
どうやら戦いが終わった後も試練は続いていたようで、スレイとライラの放った炎から姿を変えて現れた彼自身が、あれは導師の心を試すための試練だったのだと語っていた。
その心の試練を見事合格し火の秘力を手に入れた後、スレイは護法天族に対してそう尋ねたのだ。
彼の問いにアリーシャは驚き戸惑ったが、しかしすぐに気を取り直し、意を決した顔でスレイの横に立ち、エクセオが佇んでいるであろう場所に向かって敬意を表して跪いた。
自身のこと、守りたい国のこと、叶えたい夢、導師の支えになりたいことと、その反動。
そして今もしその方法がわからないままでも、可能性がなくならない限りは諦めないと、強い意志を込めてそう伝えた。
しばらくの間、膝をついたまま前方を見据えていると、やがて朗らかな低い笑声と共に一時的なものなら、という答えが返ってきた。
―――目と、その護符の代わりくらいにはなろう
導師並の力を直接与える事はできないが、元から備わっている力を補助することはできる。そう言って、スレイを介して授けられたものは、火の加護が宿った赤精鉱の小さな欠片だった。

陽光に透き通るような輝きを見せる、美しい緋炎の石を手の平に乗せて、柔らかに目を細める。
本格的にスレイの言っていたお守り袋が必要になりそうだ。
「でもさ、見えるようにはなったけど、自分からは触れないんでしょ?それって何か逆に不便じゃない?」
ひょっこりと自身の肩越しからその石をまじまじと見ていたロゼが、ふいにそんな疑問を零す。率直な彼女の問い掛けに、そうかもしれない、とアリーシャは苦笑する。
エクセオの話によると、今のアリーシャは”天族は見えるが触れることはできない”、という状態らしい。ひとつの属性に偏り過ぎると、今後はそれを受ける人の身体に異変が生じる可能性があるため、それ以上の加護を授けることは危険だとも。
「だが、エクセオ様からはそれ以上の希望をいただいた。夢が夢で終わらない可能性を」
他の試練神殿の護法天族からも加護を授かれば更に力を補ってくれると、エクセオは言っていた。ならばこれから先、スレイ達と共に秘力の試練を巡っていけば、いつかはスレイの負担にならずに従士契約を結ぶことができるかもしれない。
「だから、この石の加護が枷となるか力となるかは、きっとこれからの私次第だ」
一歩一歩と、微々たるものではあるかもしれないが、前へと進んでいる。少なくとも前進することを諦めなければ、その先に求めていたものがある。
その事実と実感が、何よりも嬉しかった。
力に満ちた眼差しを向けるアリーシャに、ロゼはどこか安心した様子でそっか、と明るく笑う。
「で?アリーシャは、スレイがミクリオを突き飛ばした理由についてどう思う?」
けれど一転、悪戯をしでかす子供のような表情をしたロゼは、にやりとした笑みを浮かべて尋ねてきた。
いきなり方向転換したその問いに、アリーシャは目を瞬かせる。
「それは…何故なのだろうな」
「は?」
言葉になりきれなかった疑問符がロゼの口から漏れでるが、隣の少女はそれに気付かずに難しい顔で顎に手を添える。
小さな赤精鉱を手にした瞬間、ぱっとすぐそばにミクリオが現れた。本当に見えるようになったと、感動のあまり思わず彼に触れようとしたが、しかしそれは叶わなかった。だから逆に触れてみて欲しいと、頼んだだけだったのだが。
「あの時はミクリオ様が床から落ちかけて、それどころではなかったから…スレイ自身も未だわからないようだし…」
アリーシャはそのまま過去の出来事まで思考が遡り、ぶつぶつと独り言を呟き続ける。
一時的に硬直していたロゼは、彼女が物思いにふけっている間に立ち直り、そして半眼になって呆れ返った。
「……エドナ」
「言いたいことはわかるし概ね同感よ」
「ロゼ?エドナ様?」
彼女らの言葉に現実に戻ったアリーシャは、色素の異なる青い瞳を半分ほど伏せて同じ表情でじーっと見つめてくる二人に、疑問符をいくつも浮かべるしかなかった。


「導師殿!」
ペンドラゴに向かう前に挨拶をしてこようと、ゴドジン村の出入り口付近までスランジを捜しながら歩いていると、捜していた本人が自分達を見つけてくれた。
心配してくれていたのだろう。スレイ達の姿を見るなりほっと表情を和ませて歩み寄ってきたスランジに、スレイは朗らかな笑顔を見せる。
「試練は、なんとかなったよ。きっとこれで、枢機卿の穢れに対抗できる」
「その顔を見てすぐにわかりました。よくぞご無事で…」
そう言って軽く礼をしたスランジは、ふと悲しそうに眉を下げて私が言えた義理ではありませんが、と話を続ける。
「昔のフォートンは、誰より責任感が強く、熱心な信徒でした。その彼女が、なぜ…?」
未だに信じられないと、肩を落として消沈するスランジに、ロゼは複雑そうな顔をしたままぽつりと言葉を零す。
「人の心と穢れ……難しいね」
「そうだな…」
彼女の小さな呟きに、アリーシャも村長を見つめながら同意する。
スレイもアリーシャと同じように頷いて、神妙な顔で空を見上げる。
盗み、病、貧しさ、不安、恨み、怒り。これまで様々な人の、様々な理由で生み出される穢れを見てきた。
穢れは人から生み出されるもの。そしてそれはきっと、心から生み出されるもの。
「いつかわかるといいんだけど。心を救う方法が」
雲の浮かぶ青い景色を振り仰ぎながら、何気なくそう呟く。
彼の言葉を聞いたアリーシャとロゼは、軽く目を見開いて彼を凝視した。
空から視線を戻したスレイは、彼女らが驚いていることに逆に面食らい、あれ?と戸惑ったような声を上げた。
「え、オレ、何か変なこと言った?」
二人を交互に見て心底狼狽えるスレイに、少女らはぱちぱちと目をしばたかせる。
しばしまばたきを繰り返していた彼女達は、徐々に口の端を吊り上げ、耐えきれないとばかりに同時に小さく吹き出した。
「んーん、何でも!」
「ただ、スレイらしいなと思っただけだよ」
二人はそう言って、くすくすと笑い続ける。そんなアリーシャとロゼを、スレイはしきりに首を傾げて不思議そうに見つめていた。

その姿をそっと後ろから彼らを見守っていたライラは、穏やかな表情でふわりと笑う。まるで皆を包み込む春の日射しのような、柔らかな笑みで。

―――ライラといったか?誓約で浄化の炎を手にしたのだな
いつもの賑やかさを取り戻した仲間達を微笑ましく眺めていたとき、ふいにエクセオからそう話しかけられた。
―――大変な覚悟をしたのだろう。一体どれほどのものを失った?
長い間、ここでムスヒの力を護り続けていた彼の問いに、けれどライラはふ、と目を細めて、ゆっくりと首を振った。
何も、と呟いた薄紅の唇が、弧を描いて上を向く。

――――スレイさんは、失くしたもの以上のものを、与えてくださる方ですから

「…あなたなら、きっと」
あの時と同じような笑みが、口元に刷かれる。
誰に聞こえるでもなかった小さな囁きは、ライラの胸の内だけに響き、乾燥した土の香りと共に風に運ばれていったのだった。





「さぁ、慢心せずに邁進しましょう!」
「おお!ライラがいつもの調子に戻った!」
「うん、いつもの楽しいライラだ!」
「いつもの素敵なライラ様ですね!」
「まぁ…いつもの生き生きとしたライラだね」
「この滑り気味のダジャレ具合…いつもの調子に戻ったようね」
「エドナさんの辛辣ぶりもいつも通りですわね!」
「あ〜、昨日の宿で慣れない気を遣ったからさくさくの甘いパルミエが 食べたいわ〜」
「は、はい!ただいま!」
「……………」
「…デゼル」
「…何だ」
「乗り遅れたからってそんな落ち込むなって!ドンマイ!」
「違ぇ!敢えて乗らなかったんだ!」
「デゼルさん、私はいつだって受け止めますよ!バッチこいです!」
「うるせぇ!違うっつってんだろうが!」





[戻る]