おおかみと赤ずきん 小さなこども






――――遠くに見えたのは、揺れる赤色



ふと目を閉じればまどろんでしまいそうになるうららかな春の陽気が、鳶色の背に降り注ぐ。木々の隙間を縫ってきたそれは、剛毛に包まれた身体を装飾するかのように、しかしきらびやかな宝石よりもやさしい光を放ってきらきらとまだらに輝かせる。風になりそこねた僅かな気流が運んできた蕾が開き始めた花々のほの甘い香りに少しだけ切れ長の瞳を細めながら、狼は気に入りの巨樹の傍で森の景色を見つめながら座っていた。
あれから狼は、特に変わりない日々を過ごしていた。日が昇れば目を覚まし欠伸と伸びをひとつして、ぶらりと森の中をいつのまにか無意識の内にできてしまったルートを辿って散歩し、昼間は木の下で寝転がり日が沈めば辺りに異常がないか一通り見回って眠りにつく。時々腹が減っては空腹を満たすために狩りを行い、それでも不思議と警戒心を示さない動物達を呆れながらも特に何もせずに眺める。それがここ数年で定着した呑気で気ままでかつてない程平和な狼の生活だった。今まで放浪してきた所は、険しい山は環境が容赦なく牙をむき、穏やかな草原や森は人間が銃を片手に彼を追う、そんなどこかしらに殺伐とした部分があり気を抜こうものなら即座に命を失う、そんな場所が多かった。狼はその度に耐え、または立ち向かい、または新たな住処を求め去っていった。そんな日々が嘘であったかのように、この森での暮らしは平穏だった。
あの時、小さな子供が迷い込んだ出来事でさえ、非日常だったのだと思わせるには充分な程に。
「―――あった!!」
だから、まさかがさりと大きな音を立てこれまた大きな声を上げて元気よく現れるとは、思いもよらなかった。
「なっ…!?」
何であの子供がここにいる。あまりの驚きに声を上げそうになり、慌てて口を噤む。しかしその声を目敏く聴きつけた幼子は、そこにいるのね、と鈴のような声音を弾ませた。
「あの時のおおかみでしょう?」
何故ばれた。あの子は自分の声音を知らない筈だ。にもかかわらず子供は狼だと断言した。
「ねぇ、出てきてよ。木の向こう側にいるの、わかってるんだから」
尻尾が見えるから。
反射的に尻尾を巻いた。あ、隠れた。少しだけ残念そうな声が聞こえた。
―――そういうことかよ。
狼は自身の尻尾を忌々しげに睨めつけた。そんな間の抜けたことをしているとは露知らず、幼子は木の幹に隠れた獣に話しかけた。
「あのね、あの時お礼、言ってなかったなって。助けてくれてありがとう」
笑みを含ませた感謝の言葉に、狼は目を皿にようにして固まった。あれほど恐がっていたのに、剣呑な眼差しを向けていたのに。この子は誰とも知れない、最早人ですらない猛獣に礼を述べに、それもひとりでわざわざ街道から外れた森の奥地へと訪れたというのか。…………親はそれに対して何も言わなかったのか。いやそれよりも彼女は森に行くことを伝えているのだろうか。伝えていなかったとしたらどれほど無謀な事をやらかしているということをわかっているのだろうか待て伝えていないからここにいるのではないのか。もし自分に子供がいたとして――子供が既に人間ではないがまぁ親と子という関係と心情はそれほど変わりはしないだろう――泥だらけで草をくっつけて所々擦りむいて泣いた跡がはっきりとわかる何とも痛々しい状態で森から帰ってきた子をひと月と置かずまた遊びに行かせるだろうか。否行かせる訳がない首根っこ掴んででも引き留めるつまりこの子供は現在進行形で無謀な事をやらかしているのかそうか――――何やってやがる。
あまりに予想だにしていなかった事態に、狼は激しく動揺しながらも自身の持ちうる思考回路をフルに活用して結論を導き出した。バカかこいつは。
そう呟きそうになるのを、狼はぐっと堪えた。経験上、人語を人に向けて話して良いことがあった試しがない。
面白い子供だと思った。だが、まさかけろっとした顔して再びやってくるとは。
「ねぇ、何で隠れてるの?」
―――お前がいるからだよ。
「大丈夫よ。もうあなたのことこわくないから」
―――そういう問題じゃねぇ。
「あ、それとも恥ずかしがり屋さんなの?」
―――そういうことでもねぇよ。
矢継ぎ早に言葉を浴びせる幼子に、心の中で返答する。勿論彼女には一切届いていない。むぅ、と木の向こうから不機嫌そうな唸り声が聞こえた。
「何で返事しないのよー!」
「――――……」
世間一般的な常識から見て普通狼が話せる訳がない。今まで人間が驚き腰を抜かす様を幾度となく見てきたから、それが人にとって当たり前の知識かと思っていたのだが…子供となると話は別なのだろうか。本気で言葉を失っていた狼だったが、それを無視しているのだと捉えたらしく少女はもう!と力一杯地面を踏みつけて(見えなくても音が聞こえてきた)いきり立った。
「話しかけられたら返事する!質問されたら答える!おおかみだって同じでしょ!」
びしっと腕を伸ばしてこちらに向けて指さしている様が容易に浮かんだ。
「…………」
正論だ。正論ではある。しかし狼同士にも礼儀や挨拶はあるがそれが人と同じかというとまず言語からして全くもって違う訳で。
こいつどうしよう。狼は頭を抱えたくなった。
このまま何も返答しなければ、飽きるか怒るかして去ってくれないだろうか。それとも話せば満足するだろうか。いやそれは危険だ。だとするとやはりだんまりを決め込むしかない。
脳内で沈黙続行、と結論付けた刹那、土を踏む音が耳朶に響いた。しかもこちらに近付いてきており、狼は腰を上げて足音とは反対方向に歩き出した。木を半周する頃には狼が避けて動いていることにあちらも気付いたようで、今度は足を速めて逆方向に歩いてきた。狼もそれに合わせて速足に木の幹に沿って歩く。5周ほどした頃だろうか。最早鬼ごっこの如く全力疾走していた幼子が足を止め、ぜぃぜぃと息を切らして声を荒らげた。
「何っ…でにげるの、よ!!」
「…………………」
寧ろ何で逃げないと思っているのかその根拠を是非とも聞きたいものである。
行動も言動も訳がわからない。これが人の子供というやつなのか。半眼になって巨樹の幹を見つめた。正確にはその向こう側にいる子供を。数分が経ち、ようやく息を整えた彼女はわかった、と怒気を含んだ声で呟く。
「私、メイコっていうの。次来る時までに覚えなさいよ!」
そしてそう啖呵を切った。挙動が予想外すぎていちいち思考が止まる。次があるのか次が。
ふん、と鼻を鳴らして森の外へと駆け出していった赤い頭巾とワンピースを見に纏った幼子の後ろ姿を、狼は呆然と見送るしかなかった。


それからというもの、メイコという子供は度々この森を訪れるようになった。初めはそこにいるにもかかわらず、何度語りかけても無言を貫き通す狼が大層不満で、いつも癇癪を起して帰っていった。毎度続くものだから、いい加減かまわなけりゃいいのにと心の底から思っていたが、やがて狼が口を開かないことにも姿を現さないことにも慣れたのか憤って言及してこなくなった。
「こんにちは!」
草むらをかき分けてとたとたと近寄ってきて、木の向こう側から挨拶をして最近こんなことがあっただの町にはこんなものがあるだの他愛のないことを一方的に話しかけてきて、森が橙色に染まりかけた頃に帰っていく。初めはのどかに惰眠を貪っていた時間に甲高い声であれやこれやとさして興味もないことを話されて正直煩わしかった。例えば、彼女の家は町一番のパン屋だとか、町には牛や馬や羊といった動物が沢山いるんだとか、森の向こうにある街は綺麗な装飾品や沢山の人でごった返していて歩きにくいだとか、そんなことを話され続けた。狼は来る度に眉間にしわを寄せて少女を幹越しに視線を投げつけて、それでも移動することはせずにまぁ暇つぶしにはなるかといった体でいつも彼女の話を聞いていた。しかし、いつしかそれが小さな楽しみになってきて、メイコが面白そうに、誇らしげに語る町のことや彼女の生活が気になって時折森の外れにある切り立った丘から彼女の暮らす町を眺めるようになった。そんな日々が、いつの間にか彼にとって日常の一部と化していた。
そのことにふと気付いたとき、狼は目を瞬かせ諦めたように苦笑した。人間と関わったっていいことなど一度もなかった。けれど、メイコと過ごす時間は心地が良い。それは自身の中に生まれた、紛れもない事実だった。









あとがき
おてんばめーちゃん。子供の頃って大抵怖いもの知らずで冒険して色々知っていったなぁと思います。


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